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蘇我氏が欽明朝の平穏を生んだ

2010年10月13日 | 奈良・飛鳥時代
 継体天王の崩御後、安閑・宣化朝と欽明朝の並立状態が続いたが、欽明天皇側が勝利した。 安閑・宣化には大伴氏・物部氏が推し、欽明には蘇我氏が推した。 結局欽明天皇側が勝利したから蘇我稲目が躍進したのである。 継体天皇は近江北部に出身であることから大和に入るのに20年を要している。 極めて遠い奔流の王族出身であったから、即位に反発する大和勢力が大和入りを許さなかった。 その勢力が葛城氏であり、蘇我氏・平群氏・巨勢氏がその傘下にいた。 一方大伴氏・物部氏などの大和盆地東部にいた豪族たちは継体天皇を支持していた。 ただ、かつて威勢を誇った葛城氏も5世紀後半には雄略天皇の軍勢に敗れてからはその力を失っていた。 しかし5世紀末に葛城の血を引く飯豊皇女・顕宗・仁賢が王位を継承したのに伴って、一時的に葛城氏も復権を遂げたが、その後は資料にでてこない。 6世紀の初頭に葛城氏にかわって台頭してきたのが蘇我氏で、崇峻の時代に葛城鳥奈羅の名がでてくるが、もはや蘇我馬子の配下である。 

 葛城氏は継体天皇にたいして反支持の姿勢を見せていたが、蘇我氏は継体の大和定着に積極的に支援した。 継体が大和定着を果たして置いた宮は磐余玉穂宮で、現在の桜井市であるから当時最大の豪族だった大伴氏の本拠に近い。 ところが、継体の皇子・安閑の宮は勾金橋宮といい、蘇我氏の本拠に近い。また、宣化の場合は檜隅盧入野宮で、蘇我氏の配下にいた東漢氏の本拠地である。 つまり継体一族を大伴氏と蘇我氏が受け入れているのである。 継体を受け入れなかった葛城の末裔・蘇我氏が受け入れ方向に転換した。 葛城の衰退と蘇我氏の台頭が中央豪族の一本化を実現し、継体の大和定着を実現し、政権の安定をもはかった。 蘇我稲目がいきなり大臣に任ぜられたのはこの功績によるものであると推測される。 欽明天皇と蘇我稲目の姻戚関係は、こうしたなかから成立したが、稲目だけではなく、欽明天皇にとっても有効であった。 雄略天皇が亡くなって以来、王権には多くの混乱が続いていたから、蘇我氏と組みことによって安定した実力を回復したことでもわかる。

                        葛城氏の祖・武内宿禰の墓と云われている葛城地方最大の巣山古墳
                       足元の悪い中、堀の淵を歩いて古墳の中央部へ近づこうと頑張りましたが、堀に落ちそうなのでギブアップ

  
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蘇我氏を再考

2010年10月12日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我蝦夷・入鹿が葬られた翌日、皇極天皇は弟に譲位し、孝徳天皇が即位した。 当初皇極の譲位の意志は息子の中大兄皇子にあったが、兄の古人大兄、叔父の軽皇子を差し置いて即位するのは良くないと助言した。 軽皇子は古人兄王の即位を勧めたが、古人兄王が固辞したのである。 中大兄皇子は皇太子となり、左大臣には安倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられることで大化の改新政権が発足した。 大化の改新で新政権が目指したものは何なのか、日本書紀に記された改新がどこまで史実に忠実に描かれているのかをめぐって、長く議論が繰り広げられたが、この改新により後に律令国家体制につながっていくことは事実である。 しかし、ここで蘇我氏の歴史は終わったわけではなく、この豪族は改新の後も大和政権の雄族として活躍した。 右大臣・蘇我倉山田石川麻呂である。 しかし改新の4年後、謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれたが、実際には中大兄皇子による謀略があったとされる。 後、蘇我赤兄は天智天皇に重用されて左大臣になるが、壬申の乱では近江方についたために配流となる。 その後、天武期には氏名を石川氏に改めるが次第に衰退して、藤原氏の台頭とともにいれかわり朝廷の中心から遠ざかっていった。 

 話を蘇我氏の出自に戻してみる。 蘇我氏の渡来系説が学会だけではなく古代史ファンのなかでも広まった時期がある。 これは蘇我氏の逆賊観とうまく融合したところにあるらしい。 蘇我氏は渡来人で天皇への忠誠心が薄かったから、天皇をないがしろにしてとってかわろうとした、というのである。 もうひとつ蝦夷、入鹿は本当の名前ではなく大化の改新以降に逆賊ゆえにつけられた差別的な蔑称であるとする説がある。 しかし古代の資料からは、鴨君蝦夷、河内連入鹿など動物に由来する名前は多くあり、動物の生命力にあやかろうとする命名であり蔑視に値するものではない。  そこで蘇我氏渡来人説を外すと、この氏の発祥の地としては大和国高市郡曽我説、葛城説、河内国石川郡説がある。 祖・武内宿禰の子・宗我石川は河内国石川に生まれ、石川の名とした。 そして宗我の大家を賜り宗我宿禰の姓を賜った。 その後朝臣の姓を賜り、石川朝臣を子孫の姓とした。 蘇我氏発祥の地は石川で後の大和の曽我に移住したとの伝承が注目された。 しかし蘇我氏が河内の石川に拠点をもったのは7世紀以降であり、本拠地ではない。 

 一般に蘇我氏や葛城氏といった臣姓を名乗る豪族は、自らの本拠地の地名を氏として名乗る原則があるという。 すると蘇我氏の本拠地は大和国曾我となる。 6世紀前半以降は蘇我氏の本拠地と考えてよいが、それ以前はどうか。 それ以前については葛城氏であった説がある。 葛城氏は5世紀には最大の勢力を誇った豪族である。 雄略天皇と戦って以降衰退した後、その支族であった蘇我氏が次第に勢力を伸ばしたという。 その論拠は推古紀と皇極紀にあるという。 蘇我馬子が葛城は私の本拠であるといっており、聖徳太子伝では馬子のことを蘇我葛木臣としてでてくる。 蘇我馬子の母はだれなのか?については不明である。 最近、馬子の母は葛城氏であるとする説がでてきたらしい。 これは葛城は馬子の本拠であると記している推古紀からきている。 当時長子は母の実家で生まれて育った。すると葛城は蘇我氏全体ではなく、馬子一人のの本拠になる。 しかし皇極紀では、蘇我蝦夷が自氏の祖廟を葛城高宮に立てたという記事からすれば、葛城は馬子ひとりの故郷ではないとなる。 したがって馬子の母は葛城氏出身とするには無理がある。 また蘇我氏が葛城氏との関わりを強調するのは、蘇我氏が圧倒的な地位を確立てから記された推古紀、皇極紀であることは見逃せない。 つまり5世紀に最大の豪族であった葛城氏の末裔であることを蘇我氏は強調することで、権勢のよりどころを名族の末裔であるところに求めたのかもしれない。

                           葛城氏の本拠地にある馬見古墳群のナガレ山古墳と倉塚古墳

  
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石川眞妃さん

2010年10月11日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika

















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蘇我宗家を潰した中大兄皇子と中臣鎌足

2010年10月11日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我稲目に代わって馬子が権勢を振るうようになった頃30代敏達天皇の崩御で跡継ぎに名を連ねたのが押坂彦人大兄皇子であった。 しかし押坂彦人大兄皇子の母は真手王娘・広姫であり、蘇我氏の血は引いていない。 従って蘇我氏は押坂彦人大兄皇子を推挙することはないから、結果、推古天皇が即位した。 時代は移り、蘇我入鹿の時代になって、蘇我氏の専横に果敢に立ち向かう人物が出現する。 それは平安時代に栄華を誇る藤原氏の祖・中臣鎌足である。 ともに活動できる優れた王族を探し始めていたと日本書紀では記されている。 日本書紀を編纂したのは中臣鎌足の息子藤原不比等であるから、 蘇我氏を潰すために現れた英雄が鎌足ということになる。 鎌足は最初皇極天皇の弟・軽皇子に接近するが、その器量は大事を謀るにあらずとして離れていった。 そして探し当てた有能な皇子というのが中大兄皇子である。 飛鳥寺の西で催された蹴鞠のときに、飛んだ中大兄皇子の靴をとったことで近づき、出会ったという逸話は有名である。 それ以来ともに南淵請安に儒学を学びながら蘇我氏打倒の計画を練り上げたという。 中大兄皇子は鎌足のすすめで、蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(阿閇皇女の母)を娶る。 蘇我本宗家とは折り合いが悪かった奔流の石川麻呂の系統と結びつき、蝦夷・入鹿に対抗するための伏線なのである。 

                                                            蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの山田寺

  

 皇極3年、蝦夷・入鹿は甘樫岡に邸宅を築き、蝦夷の邸宅は上の宮門、入鹿のは谷の宮門と呼び、子供たちのことは王子と呼ばせた。 家の外には城柵を作り、門の外には武器庫を作ったというから相当に厳重な装備をしていたのである。 これは入鹿が斑鳩の山背大兄王一族を襲撃したことから念入りに装備したものである。 その警備の長官が渡来系有力豪族・東漢直駒である。 先に紹介した甘樫岡の発掘調査は、武器庫の様子、排水設備の様子が報告されたものである。 飛鳥板葺宮の大極殿で入鹿誅殺の事件が起きたのは皇極4年6月とされる。 三韓の使者が天皇に調を献上する儀式において、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げている間に中大兄皇子らが斬りかかろうというものである。 入鹿はすでに身の危険を感じていて、いつも剣を離さなかったといわれているが、 三韓貢献の儀式を装ったこのときには、入鹿を騙して剣を外して大極殿に入らせたのである。 席に着くと、皇極天皇、古人大兄臨席のもと、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み、中大兄皇子は宮中の門を閉じさせて、鎌足は弓を引いた。 また、鎌足は海犬養連勝麻呂を通して佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に剣を与えて、一気に斬りかかるように伝えていた。 ところが一向に佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田が斬りかからないことに動揺した蘇我倉山田石川麻呂は声が乱れて手が震えだした。 入鹿の威勢に怖気づいて手が出せない様子を見た中大兄皇子は、いきなり子麻呂とともに入鹿に斬りかかり、首を切り裂くと、その首は宮から飛鳥寺ちかくまで飛んだという。

                         入鹿誅殺の事件が起きた 飛鳥板葺宮の大極殿跡 と 飛鳥寺の隣にある入鹿の首塚

  

 日本書紀ではこの様子を詳細につたえ、同席していた古人大兄の行動にも触れている。 古人大兄は私邸に走って「韓人が鞍作臣を殺した、私の心は痛い」 と言い残すと寝室にはいって門を閉ざしたという。 古人大兄は中大兄皇子とともに舒明天皇の息子ではあるが、中大兄皇子とは違って蘇我氏の血を引き、蝦夷・入鹿から時期天皇に推されていた人物であるから、入鹿とともに殺されても仕方のない立場であった。 入鹿殺害に成功した中大兄皇子らは飛鳥寺に立て篭もって次の戦に備えた。 ところが、諸王子・諸豪族らのほとんどが飛鳥寺に参集して中大兄皇子に従う意思を明らかにした。 甘樫岡の蝦夷は孤立し、蘇我氏に忠誠を尽くそうとしていた東漢氏と高向臣国押は戦の用意をしていた。 中大兄皇子は将軍巨勢徳陀臣を敵陣に送って恭順をさそった。 これに高向臣国押が同意したことにより戦は回避されたが、翌日蝦夷は自宅に火を放って自ら滅んだ。 この日、蝦夷と入鹿は遺体を墓に葬ることが許されて、栄華を誇った蘇我氏本宗家は滅んだのである。 つまり、平安時代に栄華を誇った藤原氏の誕生がここにあったとも云えるのである。   
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