平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

源義経と京都・蹴上

2020年03月14日 | 平安時代

ここは京都蹴上にある義経地蔵。遮那王(義経)と金売吉次が、奥州へ下る途中の松坂(粟田口から山科へ抜ける日ノ岡峠の西の街道沿いは、松並木になっていたため松坂と呼ばれていたという)にさしかかった時、この坂を下りてきた平家の侍、関原与市重治はじめ一党九人がすれ違いざま、水たまりの泥水を蹴りあげ義経の衣装を汚してしまったという。怒った義経は金売吉次が止めるのも聞かず、九人を斬り殺しました。蹴上という地名は、この故事に由来するという伝承がある。日ノ岡峠の東の山科寄り、現在の左京区蹴上の一部は、もと九体町と呼ばれ、斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置したのが町名の由来といわれている。

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大江山・酒呑童子

2019年06月10日 | 平安時代

 丹後半島に向かう途中にあるのが大江山。酒呑童子の鬼退治で有名な山であるから、それに因んだお店がいっぱいある。酒呑童子の一味による被害があまりにも大きく、源頼光が鬼退治に行くこととなり、配下の頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)や友人の藤原保昌ら、総勢五十数名とともに大江山に向かった。山伏の姿になった一行はさまざまな人々の助けを得ながら、一晩の宿を求める振りをして酒呑童子の本拠にはいることに成功した。その晩は酒盛り上がり、深夜、酔って動かなくなった酒呑童子の一味の鬼たちを頼光らは残らず退治した。ただし、茨木童子(酒呑童子の一番の家来)のみは渡辺綱と戦っていたところ、酒呑童子の討たれるのを見てこれはかなわないと退却し、唯一逃げるのに成功したという。

 源頼光は時の権力者・藤原道長966-1028の重臣で源氏の棟梁である。源頼光948-1021の父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘で、妻には伊予守藤原元平娘などがいる。子には頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、満仲の長子として清和源氏の三代目を相続して摂津国多田源氏を束ね、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられて、986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残しているなど親交があったと思われる。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許された後は、受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。 道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

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六条判官・源為義公の墓@7条7本松通り

2019年04月03日 | 平安時代

 源為義(1096~1156)は別称・六条判官、陸奥四郎。源義家の四男として生まれ、白河院に武力を買われ、鳥羽天皇や強訴への武力(北面の武士)となり、1124に検非違使になる。しかし、同じ頃、検非違使になった平氏の忠盛が受領を歴任したのに、為義は官位が上がらない。為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だったと考えられ、白河院の不興を被り無冠となる。一方、藤原忠実は「天下の固めであり受領になる資格がある」と高く評価したという。1146年正月、為義は10年ぶりに還任して、当時としては異例の左衛門大尉となり検非違使への復帰を果たした。   

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京都・白峰神宮

2018年10月16日 | 平安時代

 白峯神宮は、配流されてその地で歿した崇徳天皇・淳仁天皇を祀る。崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で死去した。その後天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵の前に、上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立された。幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、まもなく死去した。子の明治天皇がその意を継ぎ白峯宮を創建した。1873年、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流され、その地で死去した淳仁天皇の神霊を淡路から迎えて合祀した。

 白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)・飛鳥井家の屋敷の跡地である。摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般の守護神とされている。

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琵琶の名手・平経正

2018年10月16日 | 平安時代

 平経正は平清盛の弟・平経盛の嫡男で琵琶の名手として知られ、能でも有名である。経正には弟が二人、一人は経俊、そして末の弟が平敦盛である。経正は幼少の頃より、守覚法親王に仕え、御室仁和寺によく詰めていた。以仁王の令旨が諸国にもたらされ、反平家の機運が一気に盛り上がり、各地で反乱が起こる中、北国で木曾義仲が挙兵した。平家は都維持のため、北国の木曾を打つべく出陣、圧倒的な兵力で北国へと向かった。平経正も出陣したが、合流する軍が遅れたため、経正は家臣数人とともに、竹生島に戦勝祈願に向かった。都玖武須磨神社の神主が琵琶の名手・経正が来ている事を知り、琵琶を弾いてくれるように頼む。経正が琵琶を弾き始めると、その琵琶の音の美しいこと、この世のものとは思えないほどである。その美しい音色に誘われ、白龍が現れ、経正の周りを飛んだ。その姿を見て、誰もがこれから出陣する北国での勝利は間違いないと思い、気持ちよく竹生島から帰っていったという。

 龍神が現れる吉事があったにもかかわらず、平家軍は倶利伽羅谷で大敗をきっし、経正も命からがら落ち延びた。都に戻った経正ではあるが、木曾義中の侵攻が都に迫り、平家は都落ちを決定した。経正も一門の皆とともに都を落ちていくが、経正はこの列から離れ、一路御室仁和寺の御所を目指した。この仁和寺御所には自分が幼少の時から苦楽をともにした守覚法親王がいて、経正は最後の別れを言いに舞い戻ったのである。その時、経正は琵琶「青山」を法親王に預かってほしいという。この青山という琵琶は朝廷の御物で、三種の神器同様に扱われるほどの稀代の名器だった。その青山が琵琶の名手で経正があったことから、経正に渡されていたのである。琵琶を愛する経正、龍神が現れるほどきれいに琵琶を弾く心優しい経正は、この貴重な琵琶を戦の中で失うことはできないとして、守覚法親王に預けにきたのである。幼少の頃より経正のことを知る僧行慶は別れを惜しみ、歌のやり取りを経正として、別れを告げる。この行慶が後経正の死地を訪ね、経正の亡霊と会う話が能「経正」である。こうして、経正は心残りなく、都を後にし、その後西海の波を漂い、屋島から一の谷に出陣し、この一の谷で討ち死にした。

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盛岡-5 安倍館遺跡跡

2018年10月16日 | 平安時代

 盛岡市内にある安倍館跡とされる遺構は、「前九年の役」で最後の砦として激戦地となった場所である。盛岡の北西部を治めた安部氏の居館が源氏に攻め込まれ、落ちたことから「前九年の役」が終わった。「前九年の役(1051-1062年)」とは、陸奥の豪族・安倍頼時と貞任・宗任親子らが起こした反乱を、朝廷側の源頼義・義家親子が陸奥守であった藤原登任に代わって平定した戦役である。

 安倍氏は衣川柵に拠点を置く、陸奥土着の蝦夷の有力豪族であった。朝廷側・藤原登任との「鬼切部の戦い(1051)」では、安倍氏側が圧勝する。すると翌年(1052)、源頼義が陸奥守として赴任する。同年、後冷泉天皇の祖母上東門院の病気快癒祈願の為、大赦が行われて安倍氏は罪を赦された。安倍頼良は、この時に源頼義に遠慮して頼時と改名する。源頼義が陸奥守としての任期が終る1056年、阿久利川事件と呼ばれる事件により、朝廷と安倍氏の争いが再燃する。阿久利川事件のとき、源頼義の配下にいた将、藤原経清は安倍氏に帰属したと伝えられている。1057年、源頼義は津軽の安倍富忠らを見方に引き入れる。安倍頼時は、安倍富忠を説得する途中に攻撃を受け戦死し、宗任が安倍頼時の跡を継ぐ。1057年の冬には源頼義が兵を上げ、黄海の戦いが勃発、安倍貞任は源頼義軍に圧勝する。この黄海の戦いで圧勝した安倍氏は衣川以南にも勢力を伸ばす。1062年、源頼義は出羽国の豪族・清原氏の援軍を得ることに成功すると、一気に源頼義・清原氏連合軍が攻め立て、安倍勢は厨川柵に籠城を図るが、兵糧攻めによって陥落し、「前九年の役」は終焉を迎えた。

 天昌寺は盛岡市にあり、厨川柵の擬定地とされ、安倍氏の拠点の中で最北部のものであった。

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奥州藤原氏-10 安倍館遺跡(厨川城跡)

2018年09月27日 | 平安時代

 安倍館遺跡(厨川城跡)は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵跡として伝えられてきた。平安時代の陸奥国の豪族であった安倍氏は、勢力を次第に拡大し、北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として現在の青森県東部から宮城県南部にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。しかし朝廷と次第に対立するようになって、前九年の役(1051年~1062年)が勃発する。安倍一族は朝廷の討伐軍を率いる源頼義の軍勢と戦い、1062年に厨川柵で滅亡した。

 1189年、源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼした。この奥州征伐の勲功により伊豆国から御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。当初、工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、次第により堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれ、1592年の豊臣秀吉による一国一城令によって取り壊されるまで続いたと見られる。ちなみに工藤氏は、奥州征伐による奥州藤原氏滅亡後、源頼朝の命に拠り、一帯の精神的支柱である岩手山を神格化した「岩鷲山大権現」の大宮司となり、安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所を継承した。

天昌寺

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会津 若松-15 皆鶴姫の墓と暦応の碑

2018年07月28日 | 平安時代

 皆鶴姫の解説の前に、平治の乱で平氏敗れた源氏の状況について語らねばならない。源氏方は、頼朝が伊豆へ流され、義経は京都洛北の鞍馬寺に預けられた。この時の名は遮那。成人するに付け平家の追求の手が身辺にも及ぶ様になったので、知人の金売り商人の吉次の手引きで奥州に逃れたのである。途中、1172年名古屋の熱田神宮で元服し、義経と名を改めると平泉の藤原氏を訪ね、1174年に義経は、京都へ戻った。平氏の動向を探っていた義経は、兵法に通じた吉岡・鬼一法眼が所有する兵法書を手に入れようとしたが叶わず、娘の皆鶴姫(母は、藤原成道の側室で皆鶴はその娘、後に皆鶴を連れ吉岡鬼一法眼の後妻となる)に近づき、密かに書き写したという。その時、帽子丸という男子が生まれている。皆鶴姫は、正一位大納言藤原成道卿の側室である桂御前の一人娘、彼女が生まれて直ぐに父である藤原成道卿が亡くなってしまったので、母は皆鶴姫を連れて里に帰りその後、鬼一法眼吉岡憲海と再婚し、姫も鬼一法眼の養女となった。その後義経は、四条の上人正門坊の元に身を寄せていたが、それを訴え出た人があり、上人は捕らえられ義経は奥州へ逃れるのである。皆鶴姫は驚き後を追ったという。1176年、会津若松市柳原に皆鶴姫が2歳の帽子丸を連れて来た時、敵に帽子丸が捕まり沼に投げ入れられ溺死したという。皆鶴姫も18歳で難波池に投じた。その時、義経は報を聞き急ぎ戻り、この池の傍らに皆鶴姫を葬り、墓を築いた。   

暦応の碑の左側には、義経が奥州平泉に下向する際に愛馬を繋いだと伝わる「駒繋石」がある

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鬼一法眼之古跡@京都貴船

2018年07月17日 | 平安時代

 鬼一法眼は、『義経記』に登場する伝説上の人物である。一条堀川に住んだ陰陽師で、『六韜』という兵法の大家、文武の達人とされる。源義経がその娘・皆鶴姫と通じて兵書『六韜』を盗み学んだという伝説で有名である。ここ「鬼一法眼之古跡」は貴船口駅の近くあり、墓所があったとも伝えられている。鬼一法眼は武術家であり、僧侶であり、医者だったとも見受けられる。「法眼和尚位」という僧の位があるし、法眼という医者の称号まである。義経記によると、奥州に下った義経は、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」を学ぼうとやってくる。この書は、坂上田村麻呂が愛読し、奥州の悪路王と呼ばれた人物を倒し、平将門もこの書によって、分身の術を体得したと言われる珍本ですある。また鬼一のことを義経記は以下のように描写している。「京の住まいはガッチリと固め、四方に堀を廻らし水を張って、八の櫓を築いていた。夕方には渡していた橋を外し、朝には門を開かず、人の言ふ事など、まったく意に返さない贅沢で華美な人物だった」 義経は、この人物に六韜三略を写させて欲しいと頼み込むが、断られてしまう。そこで義経は、幸寿前というこの家に仕えている若い女性と仲よくなると、鬼一に姫がいることを聞き出し、この姫に近づき、この本十六巻を三ヶ月ばかりかけて写し把握したという。この書「六韜三略」、あの「玉葉」を書いたことで知られる九条兼実が1181年に正装姿で閲覧したと記されている。所有者は中原師景という人物。

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安達ヶ原黒塚伝説-3 恋衣

2018年06月12日 | 平安時代

 観世寺の近隣にある恋衣地蔵は鬼婆に殺された恋衣という女性を祀ったものとされる。この地蔵の由来は次のように伝わっている。その昔、岩手という女性が京の公家屋敷に乳母として奉公していたが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけなかった。姫を溺愛する岩手は姫を救いたい思いから、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じて、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし妊婦を待った。ある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重で、女が産気づき夫は薬を買いに出かけるという絶好の機会がきた。岩手は出刃包丁で女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。しかし女が身に着けているお守りは、自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。

恋衣夫婦が宿を求める図

恋衣が寝るのを待つ図

恋衣がを殺す図

殺した恋衣が自分の娘だとしって狂気する図

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安達ヶ原黒塚伝説-2 東光坊祐慶

2018年06月12日 | 平安時代

 黒塚横にある観世寺発行の『奥州安達ヶ原黒塚縁起』によれば、鬼婆の伝説は次のように伝わっている。平安初期の726年頃、紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中で日が暮れたため、岩屋に宿をとった。岩屋の老婆は僧を招き入れると、奥の部屋を見ないように言いつけて出て行った。しかし、祐慶が好奇心奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が累々と積み上げられていた。驚いた祐慶は、安達ヶ原の鬼婆の噂を思い出し、岩屋から逃げ出したのである。岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと追いかけて来た。祐慶は荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出し経を唱えると、菩薩像が空へ舞い上がり、破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて鬼婆を仕留めたという。祐慶は阿武隈川のほとりの塚に鬼婆を葬り、その地が「黒塚」と呼ばれるようになった。

累々と積み上げられた白骨死体がに驚く祐慶の図 

東光坊祐慶が懸命に逃げる図

破魔の白真弓矢で鬼婆を仕留めた図

  

阿武隈川のほとりの塚に鬼婆を葬る図

 

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安達ヶ原黒塚伝説-1

2018年06月11日 | 平安時代

 御存じだろうか、福島県二本松市にある安達ヶ原には、鬼婆にまつわる黒塚伝説である。安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという鬼婆として伝えられている。黒塚はこの鬼婆を葬った塚の名で、能、歌舞伎の『奥州安達原』などはこの黒塚の鬼婆伝説に基く。

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平清盛と音戸の瀬戸

2018年05月02日 | 平安時代

 1164年清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手し、竣工まで十ヶ月を要して、さすがの難工事も完成の日戸なった翌、永久元年七月十六日引き潮を見はからって作業が行なわれることになった。この時を期して是が非でも完成させねがならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも、はや、足もとも暗くなりはじめた。今ひと時の陽があればと、さすがに権勢を誇る清盛公もいらだち、遂に立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今や西に沈まんとする真赤な太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。すると不思議なことに日輪はまい戻った。「それ、陽はあるぞ。」と必死の努力により、ついに音戸の瀬戸の開削工事は見事に成就した。ときに清盛公、四十ハ歳であったと伝えられている。この伝説にもとづき、昭和四十ニ年瀬戸内開削八百年を記念して、当時の英姿をゆかりの地、本土側の日迎山高烏山銅像を建立してその偉徳を偲ぶ。

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愛媛切山の安徳天皇仮御陵院の墓

2018年03月28日 | 平安時代

 ここは愛媛県四国中央市金生町、日本最古のアーチダムとして有名な豊稔池アーチダムのさらに山奥にある。源平の戦いの1184年、一の谷の戦いに破れた平氏は安徳天皇を安全な場所にうつそうと阿波の祖谷に隠れ住んだ。しかし、源義経が阿波に潜入したとの噂を聞いてさらに安全な地を求めて1184年の6月にここ切山にやって来たという。その時に安徳天皇につきそって切山にやってきたのは田辺太郎・平清国、真鍋次郎・平清房、参鍋三郎・平清行、間部藤九郎・平清重、伊藤清左衛門国久の5人の武士。5人の武士は1185年正月まで安徳帝をお守りして切山に隠れ住んでいた。しかし、屋島の戦いを前に安徳帝を長門にうつしておくことになり、5人の武士は讃岐の須田の浦まで見送り、その後阿波の田内氏をうとうとしたが逆に破れてしまった。真鍋次郎・平清房は戦死し、他の4士も命からがら切山に逃げ帰り、切山に住みついたと真鍋家に伝わる「田辺家系譜」に書かれ、村人により語り継がれてきたそうです。これが切山の平家伝説である。切山にはその平家伝説にかかわるたくさんの遺跡が残っている。平氏が山口県の壇ノ浦で滅んだことを知った人々が、安徳帝の衣服などを埋めて仮の御陵としたと言われる。

   祇園女御・妹兵衛佐局  平完子(清盛六女)            
    ┣清盛1118-1181    ┃平信範娘                   
     ┃┗盛子1156-1179(次女)┃┣近衛家経1184-1238      
    ┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子       
    ┃┣近衛基実1143-1166  ┣近衛家実1179-1242  
    ┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘 
    ┃┃藤原忠隆娘  
    ┃┃  
    ┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)        
    ┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠       
    ┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣          ┣師家
    ┃                        ┣伊子(冬姫:義仲側室)     
    ┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方)   俊子
    ┃┣家盛1120-1149                
    ┃┣頼盛1131-1186     
    ┃┃     ┣仲盛?-?
    ┃┃     ┣光盛1172-1229
    ┃┃     ┣為盛    -1183
    ┃┃     ┣娘
    ┃┣忠重  大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
    ┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)                  
    ┃┃ ┃   ┣-             教盛・娘
    ┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘   藤原成親  ┣-
    ┃┃浜御前              ┣藤原成経-1202丹波少将
    ┃┃                  ┗娘1155-
    ┃┃                     ┣六代(高清)1173-1199
    ┃┃        藤原親盛・娘      ┣姫(夜叉御前)      
?-1121 ┃┃         ┣維盛1157-1184(桜梅少将 那智で入水)            
正盛  ┃┃      高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)            
 ┣忠盛1096-1153        ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死) 
 ┗忠正  ┃-1156       ┃ ┣清経1163-1183 
  ┣長盛┃?-?        ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)   
  ┣忠綱┃?-?         ┃ ┣忠房    -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)  
  ┗正綱┃?-?         ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)  
     ┃          ┃ ┣娘  
     ┃          ┃ ┃┣-  
     ┃          ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)  
     ┃          ┃藤原家成娘経子                     
     ┃          ┃(鳥羽院寵臣)               
     ┃          ┣基盛1139-1162右衛門督                 
         ┣清盛 1118-1181 ┏清宗 ┗行盛-1185壇ノ浦で入水
         ┃┣冷泉局   ┣宗盛1147-1185中納言
     ┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将                    
     ┃           ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党                   
     ┃           ┃ ┣知宗1184-1255                    
     ┃           ┃ ┣知忠1180-1196                    
     ┃           ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕                    
     ┃           ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕                    
     ┃      ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)          
     ┃      ┃ ┣-        
     ┃      ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)         
     ┃      ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守         
     ┃      ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守        
     ┃藤原家範娘? ┣徳子1155-1214建礼門院       
     ┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王       
     ┃ ┣平時忠1127-1189┃         藤原棟子1173-1238北白河院
     ┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234         
     ┃平時信?-1149    ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院           
     ┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇        
     ┃藤原祐子?   ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181          
     ┃      ┃     
     ┃     後白河天皇77代1127-1192     
     ┃清盛側近  平盛国1113-1186               
     ┃       ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六          
     ┃         ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛        
     ┃         ┗盛綱?-?        
     ┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
     ┃      ┣経正    -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
     ┃      ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡) 
     ┃      ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡) 
     ┃        ┣-
     ┃       右大弁時宗・娘       小宰相1165-1184(上西門院の女房)
     ┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水  ┣-
            ┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)         
              ┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))       
            ┣教子?藤原範季妻         
            ┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)  
            ┗仲快1162-1227(中納言律師)

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応天門の変

2017年12月19日 | 平安時代

 国宝・伴大納言絵巻、全3巻全長26mにも及ぶ絵巻には応天門の変の一部始終が描かれている。絵巻の冒頭、各々太刀や弓を手にあわただしく出動しようとする検非違使の役人たちの姿が見える。やがて見えてきたのは大内裏の南門である朱雀門。門をくぐると大群衆。その視線の先には飛び散る火の粉。今まさに朝廷のシンボル応天門が燃え盛っている。正史である日本三大実録には一夜にして応天門と左右の楼閣が焼け落ちたとある。この頃都では咳逆病が蔓延し使者があふれていた。異常気象による不作が続き、富士山が噴火を起こしていた。応天門の炎上はそんな不安に満ちた時代に起こったのである。

 しばらくして政府で二番目に高い地位にある左大臣・源信の屋敷が突如軍勢に包囲された。応天門放火の容疑である。指示したのは右大臣藤原良相と大納言・伴善男。驚いたのは政府の最高位にある太政大臣・藤原良房だった。良相の兄である良房は弟や善男の行動に愕然とし、清和天皇に軽々しく結論をださないように願い出た。源信は陛下に対して大きな功績を立てた臣下です。どうしても罰するというのならまずは年老いた私が罪にふくしましょう。と、清和天皇に進言したのである。赦免の遣いがきて絶望から喜びへと変わる信の屋敷の女たちが絵巻には描かれている。火事の原因はわからず事件は迷宮入りとなる。

 その後都にはしきりにもののけが現れたと三代実録には記されている。朝廷は祈祷を行うが、都を包む不安が収まることはなかった。5か月後、ひとりの下級役人が大納言伴善男とその息子が応天門に放火をしたと訴え出た。善男は全面否定し確たる証拠は見つからなかった。このとき清和天皇に代わって政治を藤原良房が行うという摂政の詔がだされた。かくして事態収拾の全権が良房に委ねられたのである。

 源信は嵯峨天皇の子で臣下に下っていたとはいえ藤原氏をも脅かす大きな一族である。一方大納言・伴善男は名門氏族の大伴氏末流で、積悪の家とされている。大伴氏は神話の時代に天孫降臨の先導を務めたとされる名門、6世紀には天皇を守って軍事権を掌握、壬申の乱では天武天皇を勝利に導き朝廷で確固たる地位を得る。しかし相次ぐ政権争いのなかで暗転する。善男の曾祖父は謀反に加担したとして獄死、祖父・継人は政府要人の暗殺を起こしたとして斬首、善男の父・国道も連座して佐渡に流されている。かくして大伴氏の復権は善男の悲願であった。勉強熱心な善男はどのような質問にも答えたという。そして参議にまで出世した。しかし善男は周囲の人々から悪賢い男とみられていた。時の実力者藤原良房に接近、良房の姉である皇太后に仕えることで大きな信頼を得る。良房の忠実な部下として源信の兄弟達をさしおいて政権No4の大納言となった。こうした背景の中、源信と善男が応天門放火の罪に問われたのである。

 ことの解決を委ねられた良房はどちらを犯人とするのだろうか。藤原良房に対抗する最大は弟の良相である。良房は朝廷の職務からほとんど身を引き、弟の良相に任せていた。良相は次第に力をつけるようになる。すでに60歳を超えていた良房は跡を継ぐ男子に恵まれず、養子しかいなかった。一方良相は後継ぎとなる男子も成人し、天皇に嫁がせた娘も寵愛を受けていた。藤原良相の権勢を誇る出来事がある。応天門放火の17日前、清和天皇が西三条にある良相邸に行幸し、盛大な宴が催されている。近年京都市中京区にある良相邸の発掘調査が行われており、そこから高級輸入陶器が発見されている。弟の力はまさに兄を凌ごうとしていた。平安時代後期の歴史書大鏡裏書には良房と良相の関係を伝える記述がある。藤原良相と伴善男は応天門の炎上後源信を失脚させようと画策し、良房の養子である藤原基経を呼び出した。No.3良相の行動は兄良房を差し置いて次の権力の座を狙おうとする振る舞いであった。

 嵯峨源氏・源信は武力も蓄え最も藤原氏にとっては脅威な存在である。また良相も力を蓄えた脅威でもある。伴善男は野心が強く人から嫌われている。だれに罪を負わせるのかが良房に委ねられたといえる。結果伴善男は罪を背負わされて伊豆の国に配せられた。応天門は元々中国の後宮の門の名前から来ているが、平城宮の時代には大伴門と呼ばれて大伴氏が守護をしていた。従って自分の氏族の名前のついた門を放火することは考えにくい。したがって放火犯という意味では伴善男は無罪であったのではなかろうか。善男は事件の2年後の868年流刑地の伊豆で失意のうちに死去した。こののち大伴氏が政治の舞台に上がることはなかった。また放火の疑いをかけられた源信は事件の後屋敷の門を固く閉ざして世間との交わりを絶った。そして869年落馬により死去。嵯峨源氏もまた力を弱めていくのである。右大臣の良相も右大臣の職を辞することを願い出てるもかなわず、事件の翌年867年に病死。騒動の中ただ一人ゆるぎない地位を得た良房は、養子であった基経が関白に就任し、子孫が摂関家として栄華を独占することとなる。伴大納言絵巻の最後は伴善男の思いを推し量って終わっている。絵巻を造らせたのは後白河法皇だという。 

    藤原鎌足━┳ 定 慧
   (中臣) ┣ 不比等━━━━━━━━┓
        ┣ 耳面刀自       ┃
        ┃            ┃
        ┣ 氷上媛 (天武帝女御) ┃
        ┗ 五百重媛(天武帝女御) ┃
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗┳ 武智麻呂[藤原南家祖]━ 仲麻呂(恵美押勝)
   ┣ 房前[藤原北家祖]━┳ 永手
   ┃           ┣ 真楯━ 内麻呂━ 冬嗣━━━━━━━━━━━━━┓
   ┃           ┗ 魚名┳ 鷹取━━ 藤嗣             ┃
   ┃               ┣ 末茂                  ┃
   ┃               ┗ 藤成━━ 豊沢━━ 村雄━━ 秀郷   ┃
   ┣ 宇合[藤原式家祖]━┳ 広嗣                      ┃
   ┣ 麻呂[藤原京家祖] ┣ 清成━ 種継━┳ 仲成             ┃
   ┣ 宮子 (文武帝后)   ┗ 百川     ┗ 薬子             ┃
   ┣ 長峨子 (長屋王妾)                            ┃
   ┣ 光明子 (聖武帝后)                            ┃
   ┗ 多比野 (橘諸兄室)                            ┃
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗┳ 良房(養父)━明子(文徳天皇女御)
   ┗ 長良 ┏ 基経 ┏ 忠平(四男)兄弟を差し置き嫡家を継ぎ、醍醐天皇の元出世━┳ 実頼
      ┣━┃  ┣━┣ 時平(長男)菅原道真を大宰府に左遷する  871-909年   ┣ 師輔━━┳ 伊尹
     乙春 ┃操子女王┣ 兼平(次男)               875-935年   ┗ 師尹  ┣ 兼通
        ┃    ┣ 仲平(三男)姉温子の女官伊勢と恋愛で知られる温厚な方 875-945年   ┣ 兼家━┳ 道隆━┳ 伊周
        ┃    ┣ 頼子(清和天皇女御)                   -936年   ┣ 公季 ┣ 道兼 ┗ 隆家
        ┣ 遠経 ┣ 妹子(清和天皇女御)                 856年-     ┗ 道長━┳ 頼通
        ┣ 高子 ┣ 温子(宇多天皇女御)                 872-907年        ┣ 頼宗
     (清和天皇女御)┗ 穏子(醍醐天皇中宮)第61代朱雀・第62代村上天皇生母。別名五条后 885-954年   ┗ 長家
        ┗ 淑子    おんし
         (尚侍) 

                伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807   伊勢継子┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王      ┃   ┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣
 ┃           ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇830-887
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
           ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
           ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
           ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長
          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子  藤原温子 菅原衍子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子 源貞子 
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
           ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┣ 簡子内親王-914       ┃
           ┃  ┃┣ 綏子内親王-925    藤原褒子(時平娘 元良親王と恋愛)
            ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
            ┃  ┃               藤原長良802-856┣-
          ┣正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
          ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
          ┣正子内親王┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
          橘嘉智子      ┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
                         ┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
                    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
                        ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
                   藤原順子(冬嗣・娘)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
                            伴氏娘 ┗源厳子

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