平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

継体天皇と物集女車塚古墳

2010年11月30日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 越でのヲホド王は尾張連草香の娘・目子媛や近江の三尾角折君の妹・稚子媛などを娶って勢力の拡大に努めた。 目子媛の父・尾張連草香の墓は東海最大規模の前方後円墳・断夫山古墳とみられ、その勢力の大きさが推測され、 目子媛が安閑天皇、宣化天皇を生んでいることからも、東海の豪族の力が朝廷に食い込んでいたことがわかる。 ヲホド王が樟葉宮にはいるに際して河内の豪族・河内馬飼首荒籠は大いに役割を果たした。 このとき大和政権を代表して大伴金村は天子の鏡と剣を奉った。 また、巨勢男人や物部鹿火は支持している。 ヲホド王が樟葉宮、筒城宮に遷ってから妃に選定したのは、息長真手王の、娘・真積郎女、茨田連子望の娘・関媛、三尾君堅楲の娘・倭媛、和爾臣河内の娘・荑媛、根王の娘・広媛などがいる。 ヲドホ王が倭媛との間にもうけたのが椀子王で、三国公の祖となった人物である。  こうして各地の豪族と縁をもって勢力拡大をはかった代表が、尾張連草香であるが、宇治 木幡の二子塚古墳もその例である。 この二子塚古墳のような例が西山城の乙訓郡の物集女郷にある。 物集女(もずめ と読む)の地は河内の百舌鳥から土師氏の一派が移住してきた土地である。 この土地に物集女車塚古墳があり、継体勢力に加担した豪族の墓と推測される。 ある学者は尾張氏の同族である六人氏、石作氏を被葬者としてあげているが、 継体天皇が弟国宮に移るときに大きく力をかした豪族であろう。  筒城宮から弟国宮に遷都したのは、弟国が丹波や秦氏の本拠地である葛野に近いことと、尾張系の豪族が多く住んでいたからと思われる。

大原野の西山山麓、向日市物集女町にある物集女車塚古墳

 

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日下部といえば市辺王の舎人

2010年11月29日 | 大和王朝期

 万葉集の第一首を詠んだ雄略天皇は天皇候補としてのライバルであった市辺王を謀殺した。 市辺王は履中天皇の皇子、雄略天皇は履中の弟・允恭天皇の皇子である。 市辺王は市辺押磐皇子ともいい、播磨国風土記では市辺天皇命とあるから世間では天皇扱いをしていたようである。 市辺王は近江の蚊屋野へ狩りに誘われて謀殺されたあと、二人の皇子も身の危険をおぼえて大和から脱出することとなる。 二人の皇子はオケ王(後の仁賢天皇)とヲケ王(後の顕宗天皇)である。 二人は大和から淀川の樟葉(玖須婆)で河を渡り、丹波を通って余社郡に行って難を逃れた。 このときに二人のお伴をしたのが余社郡の豪族であり舎人の日下部連使主と子の吾田彦である。 つまり大和北部が彦坐王、狭穂彦以来、丹波と深い関係を持っていた証拠でもある。 日下部連使主、つまり日下部氏は謎に満ちた氏族とされ、日下部首(日下部連とは同じ祖先伝承) の祖は水江浦嶋子といい、浦島太郎伝説で知られる。

  日下部連使主と子の吾田彦は二皇子を余社郡から播磨国の赤石郡の縮見へ移した。 どういう理由があったのか、ここで日下部連使主は自殺をし(全ての証拠を隠匿するために自らの命をも絶ったとも、老齢の自分が足手まといになることを恐れて首を吊ったとも言われている)、子の吾田彦は後々まで二皇子に仕えたことは日本書紀に記載ある。 二皇子が縮見屯倉をあずかる忍海部細目の家で身分を隠して牛馬を飼う牧として働いていた。 しかしその家に新室を祝う宴があったときに、二皇子も踊りや歌を披露したところ、その振る舞いに品があったことなどで、播磨国司をしていた伊予来目部小楯が二皇子であることを見抜いた。 これを市辺王と同母妹の飯豊青皇女に報告し、天皇として迎え入れられたという。 このとき縮見の里の高野宮にいた二皇子は山部小楯を使として賀毛の国造許麻の娘・根日女に求婚した。 ところが二皇子はお互いに譲り合って結婚には至らず、根日女は死んでしまったという。 そこで二皇子は小楯に命じて「朝日夕日の隠れぬ地に墓を造り、その骨を納め、玉をもって墓を飾れ」墓を造らせた。 これが玉丘で、その村を玉野というようになった。

                                             日本書紀での縮見は現在 志染という地名になって存在します

     

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小野小町終焉の地・井手

2010年11月28日 | 平安時代

 小野小町終焉の地は、丹後本町・五十河、秋田、山口など全国各地に散在しています。 「冷泉家記」によると、「小野69歳井手寺に於いて死す」 とあり、また「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」 と記されており、古来「大妹塚」と称されてきた井手の「小町塚」は中でも信憑性のあるものとされています。 世に伝えられる晩年の零落のの姿は、絶世の美人であったがゆえに語られた伝説で、歌枕として数多くの歌に詠まれるここ井手の里で、山吹の咲きこぼれる玉川堤を散策しながら、穏やかな余生を過ごしたとも云われています。

     

 平安の歌人・小野小町は、出羽の国福富の荘桐木田の地で、郡司の小野良真の娘として生まれました。 たいそう美しい娘で13歳にして都へのぼり 都の風習や教養を身につけ、 その後20年程宮中に仕えたといいます。 容姿の美しさや才能の優れていることなど、 多くの女官中並ぶものがないといわれ、 数々の逸話や伝説を残し、晩年は、世を避け、 香を焚きながら自像を刻み92歳で世を去りました。 「小町」というのは天皇の妻のうち更衣に与えられた名であったと考えられ、小野小町という名は当時の有力貴族小野氏出身の更衣だったことを示しています。このことから9世紀中頃に小野氏から宮仕えし活躍していた「小野吉子」が小町の本名ではないかと推測されています。 小野小町は当時、仁明天皇に仕えていました。そして思い焦がれていたと推測されています。しかし、小町は更衣という身分ではありながら天皇の寵愛はそれほど受けていなかったようです。 850年、仁明天皇は41歳でこの世を去りました。その後、小町は宮仕えを辞し里に戻り、再婚などもしなかったようです。小町の歌には他の男のプロポーズの歌への返答歌もあるのですがどれもやんわりと断っています。それなのに、浮名の噂を流されたりして、その時の嘆きの歌が次です。

うきことを 忍ぶるあめの 下にして 我が濡れ衣は ほせど乾かず

花の色は うつりにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに

 これは、日本初の勅撰「古今集」に挿入された詠歌で、時代の思潮をしっかり残します。 また。古今集の巻頭を飾った夢の歌三首が次のものです。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

いとせめて恋しき時はむば玉の夜の衣を返してぞ着る

 全部で18首が入る「古今集」は醍醐天皇の勅命によって905年に奏覧されたもので、小野小町はその100年ほど前に生きた女性です。 600年に聖徳太子が遣わした遣隋使以来、中国が隋から唐に変遷するなかで、日本の唐文化の輸入に政策に大改革が起こります。 その発端は、醍醐天皇と父・宇多上皇が登用していた菅原道真が時の摂関家・藤原時平の政略により大宰府に左遷されることに始まります。右大臣にまで登りつめた唐国派の道真が失脚することにより政府方針に大変革を及ぼしたのです。 それは894年の遣唐使の廃止です。 これを機に歴史に顕れたのが紀貫之で、「古今集」を編纂し漢文学にかわって仮名文学「土佐日記」を著したのです。そしてこの歴史の転換期に六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・大友黒主)の唯一の女性として登場した歌人こそ小野小町でした。 小町は小野篁の子・良真を父に持つと云われており、小町と贈答歌を交わしたのは仁明天皇に出仕していた安倍清行・小野真樹・文屋康秀らで、830年頃に生まれ850年頃宮廷にかかわったと思われます。 そして仁明天皇の更衣・小野吉子が小町であったのではないかという説が自然となっているそうです。 

               伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807       ┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王     伊勢継子┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣-
 ┃           ┃┃  ┣58光孝天皇830-887時康親王
 ┃           ┃┃  ┃┃  ┃       ┏藤原時平871-909
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    ┗藤原穏子885-954中宮(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947(女御)┣康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┣慶子内親王┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃-899┗周子┣常明親王 ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃藤原時平871-909 ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣保志890-936  ┃(和泉式部┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣褒子(宇多女御)┃  奉仕)┣-
 ┣源貞姫810-880 ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣仁善子-946  ┃  冷泉天皇
 ┃(布勢氏)   ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃廉子女王┣煕子女王-950
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃    ┣慶頼王920-925
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王903-923(第二皇子 醍醐皇太子)
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝   
 ┃(当麻)┣明子 ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王903-927(第一皇子),宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(更衣 源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┃(広井氏)   ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子-915┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃       ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┃(上毛野氏)  ┃  ┃┃   ┃ ┃┣重明親王-954┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┣源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘      ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
 ┣源勤824-┣源昇┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
 ┃(大原氏)┗源湛┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
 ┣源鎮824-881  ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子965-1049
 ┣基子内親王-831┃  ┃┃   ┃   愛宮  ┣頼宗、能信、寛子
 ┣基良親王-831 ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長966-1028
 ┣忠良親王-876 ┃  ┃┃   ┃ ┣源雅信  ┣彰子、頼通、教通
 ┃(百済系)    ┃  ┃┃   ┃ ┃ ┣源倫子964-1053  
 ┣仁子内親王-889┃  ┃┃   ┃ ┃穆子 藤原温子 菅原衍子 橘義子 源貞子 
 ┃(大原氏)    ┃  ┃┃   ┃時平娘    ┃
 ┣源常812-854  ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇)867-931
 ┣源明814-853  ┃  ┃┣ 簡子内親王-914  ┣雅明親王,行明親王,載明親王
 ┃(飯高氏)    ┃  ┃┣ 綏子内親王-925 藤原褒子?-?(時平娘 元良親王と恋愛)
 ┣源清(秋篠氏) ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┣宗子内親王-854┃  ┃               藤原長良802-856┣-
 ┃(高階氏)    ┣正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
 ┣源寛813-876  ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
 ┃(安部氏)   ┣正子内親王┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
 ┣源生821-872 橘嘉智子┣恒世┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
 ┃(笠氏)           ┣恒貞┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
 ┣源安822-853   淳和天皇  ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
 ┃(粟田氏)                ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 ┣純子内親王-863       藤原順子(冬嗣・妹)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
 ┗斉子内親王-853                伴氏娘 ┗源厳子
  (文屋氏)

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平安末期の勇者・以仁王が眠る高倉神社

2010年11月27日 | 平安時代

 久しぶりに平安時代のネタとして登場するのは、前々から行って見たいと思っていた以仁王の陵墓です。 平安時代の末期といえば、もちろん源平の合戦になります。 後白河天皇の皇子として生まれながら、親王宣下をうけることなく、王に甘んじていた鬱憤が20歳代後半に一気に吹き出ることとなります。  以仁王1151-1180は、後白河天皇と藤原季成の娘・成子の第三皇子で、「以仁王の令旨」を出して源氏に平家打倒の挙兵を促した事で知られる。 兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされており、同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。  八条院子内親王の猶子となり、幼少から英才の誉れが高く、皇位継承争いにおいても有力候補であったが、異母弟憲仁親王 (後の高倉天皇) の生母である平滋子の妨害に遭って阻止され、後に皇位継承の可能性は消滅した。  1179年の平氏のクーデタにより後白河法皇が幽閉され、ついに平家討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平家追討の「令旨」を全国の源氏に発した。 源頼政の挙兵の動機は、平宗盛が頼政の嫡男の仲綱から仲綱の愛馬である「木の下」を 権力を笠に無理やり奪い取り、しかも、馬のなを「木の下」から「仲綱」にかえて虐めたことにあるという。 この話の真意はわからないが、源氏にとってはこのうえもない屈辱であったことは確かである。   この決起は以仁王から源頼政に はたらきかけたものなのか、源頼政から以仁王にはたらきかけたものなのかは、諸説あっ てよくわからないが、1180年4月、平家追討の令旨は発せられ、このときの使者が熊野に隠れ住んでいた源行家である。   また王自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに 翌月、計画が平氏方に漏れた。 これは令旨が田辺にいた熊野別当湛増の耳に入って計画が露見したことによる。  結局以仁王は皇族籍を剥奪され、後白河法皇の配慮により土佐配流が決まったが、以仁王はすでに園城寺 (以仁王に味方したことにより後に平重衡らの兵によって焼き討ちに遭っている) に逃れている。 当時の園城寺(別名 三井寺)の長官は円恵法親王、つまり以仁王のひとつ違いの弟である。  また、源頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入って以仁王と合流したが、園城寺と対立していた比叡山延暦寺の協力を得ることができず、南都の仏教勢力を頼ることに決めた。 源頼政が宇治で防戦(世に言う橋合戦)している間に ( 頼政は平等院についたところで平知盛らに追撃され、宇治川を挟んでの合戦の末頼政は討死した)  以仁王は南都の興福寺へ向かい出発したが、南山城の加幡河原で平家・家人の藤原景高・藤原忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて矢に当たって討たれた。

                高倉神社内にある以仁王の陵墓 今現在も以仁王の無念は絶えることなく祀られているようです

                         高倉神社境内には見事な白馬が祭られていて、木の下を思い出す

  

   藤原成子-1177   
    ┣ 式子内親王1149-1201斎院                 
    ┣ 守覚法親王1150-1202                 
    ┃        藤原友実娘                     
    ┣ 以仁王1151-1180(┣源頼政1104-1180と挙兵)              
    ┣ 円恵法親王  源仲政?-?
    ┃(1152-1184三井寺長官)      
    ┃1078-1162 ┏(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)              
    ┃  忠実┳藤原忠通1097-1164  ┃雑子女:常盤御前1138-?         
    ┃    ┃  ┣基実1143-1166 ┃     ┣今若1153-1203
    ┃    ┃  ┣基房1145-1231 ┃     ┣乙若1155-1181
    ┃    ┃  ┗兼実1149-1207 ┃     ┣牛若1159-1189
    ┃    ┗藤原頼長1120-1156  ┃    源義朝1123-1160     
    ┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃     
    ┃サネヨシ実能┳幸子        ┃    
    ┃  教長┃徳大寺     76近衛天皇1139-1155      
    ┃    ┗公能右大臣     ┃                  
    ┃        ┣藤原実定  ┃     
    ┃        ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)       
    ┃        ┣ 娘    ┃  
    ┃     藤原豪子 ┗一条能保┃   藤原忠隆1102-1150          
    ┃┏藤原経宗1119-1189      ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣                  
    ┃┗源懿子1116- ┏━━━━━━━┛ ┣ 公子                    
    ┃ ┃  1143 ┃ 伊岐致遠女   ┣勧修寺光頼           
待賢門院┃ ┃     ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)   
  ┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母               
  ┃ ┃ ┃     ┃   
  ┃ ┃ ┃    女朱内親王1141-1176    
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
74代┃   ┃     ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局) ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃        
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女        
      ┃   ┣-  ┣範子内親王1177-1210斎院              
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    
      ┃              ┃  ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
      ┃              ┃ 藤原殖子(七条院)          
  藤原祐子┃           ┣言仁トキヒト親王(81代安徳天皇1178-1185)
     ┣滋子1142-1176 平清盛 ┃ 
     ┃(建春門院)   ┃  ┃ 
  平時信         ┣徳子1155-1214(建礼門院)
    ┣時子1126-1185  ┛                      
    ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
    ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                  
  藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
             ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
             ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
             ┣ゆかり姫                  
           師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)

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ゴロゴロ山古墳は継体天皇皇子・椀子王墓伝承

2010年11月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 飯岡車塚古墳のすぐ隣にある古墳は、ここ古墳群の中央のほぼ頭頂部に位置し、ゴロゴロ山古墳と呼ばれた径60mの中期の大型円墳(前方後円墳とする説もあるらしい) です。 すこし上っていくと、そこには椀子王古蹟と刻まれた石碑があります。 先に紹介した飯岡車塚古墳が上殖葉王墓であり、ゴロゴロ山古墳は継体天皇皇子・椀子王墓であるとの伝承があるようです。 椀子王は継体天皇と妃・倭媛(三尾君堅の女)との間にうまれた皇子で三国氏の祖にあたる人物です。 

 ところで、この古墳群東にある薬師山古墳(五世紀の径38mの円墳)は欽明天皇皇子桜井皇子の墓、東端の咋岡神社にある古墳は孝元天皇皇子武埴安彦命の墓、さらに東にあるトヅカ古墳(径20mの円墳)は、欽明天皇皇后石姫皇女墓、 先に紹介したチコンジ古墳は継体天皇皇子・菟皇子の墓、チコンジ山古墳の南にある大住南塚古墳(前方後円墳)は継体天皇皇子・耳皇子の墓というように伝承があるようで、この古墳群は再度じっくりと訪れたいと思います。

  

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飯岡車塚古墳は継体天皇皇子・上殖葉王墓

2010年11月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 継体天皇が越から大和入りを成し遂げる前に、筒城宮、樟葉宮、弟国宮と相次いで遷宮を行ったことは前に紹介した。 筒城宮は同志社大学の田辺キャンパス内に跡地として残っている。 この一帯は京田辺市の木津川左岸にあたる一帯で、車で走るときに見つけたのが、飯岡車塚古墳である。 見つけたときには何もわからなかったのであるが、後で調べてみると、この飯岡山一帯には古墳群があって、それらを飯岡車塚古墳群とよんでいることを知った。 つまり、ここに紹介する車塚古墳だけではなく、薬師山古墳、ゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳、トヅカ古墳、東原古墳、横穴古墳とさまざまな古墳の群集地帯であったのである。 その古墳の埋葬者は木津川の水運に関係した一族の墓と考えられているようであるが、継体天皇こそ木津川水運を切り開いた人物であるから、その埋葬者は当然継体天皇に近い人物ということになるのであろうが、詳しいことはわからない。 前知識なく現地にいったものだから、古墳の頭頂部までは上らなかったが、実は墳丘の頭頂部には、上殖葉王墓の石碑があるという。 そこで上殖葉王という人物を調べてみると、宣化天皇(467-539)の皇子にあたる人物で、継体天皇からみると孫になり、多治比氏の祖となった人物になります。 ということは、ここ飯岡車塚古墳群にあるほかの墳丘も、継体天皇を中心とした皇族あるいは豪族の墓である可能性も高いということにあるのでしょうか。 ところで、この古墳、四世紀後半の前方後円墳で、全長90m、後円部径60m、京田辺市内最大の古墳で、すぐ近くにあった「ゴロゴロ山古墳」 というところにも行ったので、そこは次回に紹介することとします。  

              

          春日大娘皇女  
24代仁賢天皇449-498  ┣-
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 大臣:平群真鳥
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)         
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
        ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
        ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
蘇我石川宿禰  ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
┗木満致      ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
 ┗韓子      ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
   ┗高麗    ┗┓   ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇 
    ┗稲目     ┃   ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
     ┣堅塩姫 ┃   ┃┃      ┃     広姫(息長真手王・娘)
     ┣小姉君 ┃   ┃┃刀自古郎女 ┃-623
     ┣巨勢麻呂┃   ┃┃┣山背大兄王┃595-643
     ┗馬子   ┃   ┃┃┣財王   ┃
  当麻倉首比里古 ┃   ┃┣厩戸皇子  ┃574-622
     ┗━━━━┃━ ┃┃伊比古郎女 ┃ 
            ┃   ┃┃┣麻呂子王 ┃
            ┃   ┃用明天皇 ┗━┃┓
            ┃   ┣穴穂部皇子  ┃┣□-□-当麻公広嶋・当麻公広麻呂 
            ┃   ┣宅部皇子   ┃舎人皇女
            ┃ 小姉君(物部系)  ┃
         ┃          ┃
         ┃倭媛(三尾君堅楲)  ┃
         ┃┣赤姫皇女     ┃
         ┃┣椀子皇子(三国氏祖┃ 
        振姫  ┃┣耳皇子 橘仲皇女 ┃(仁顕天皇娘)
         ┣ 第26代継体天皇  ┣石姫皇女
         ┃  (450-531)   ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃   ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃   ┃      ┣上殖葉皇子
         ┃   ┣ 神前皇女  ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┏ 迂斯王 ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┏ □        ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┏ 大郎子      目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)        ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
                            ┃香香有媛(紗手媛の妹)  
                                       宅媛(物部木蓮子大連の女)

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丹波に深い関わりのある彦巫王

2010年11月24日 | 大和王朝期

 丹波に関係する人物で開花天皇の皇子・彦坐王というのがいる。竹野神社の祭神である。 大和の春日出身の大闇見戸売との間に狭穂姫命、狭穂彦をもうけ、狭穂姫命は垂仁天皇の妃となっているが、兄の狭穂彦の反乱にさいして兄がこもる稲城に入って命を落としている。 この彦坐王の子供が丹波道主王であり、四道将軍のひとりとして丹波を制圧した。彦坐王の末裔として、治田連、軽我孫、鴨県主、日下部氏など多くを輩出していて、日下部氏が最も有力であったとしている。 ここでは日本書紀での記載「彦坐王」としたが、古事記では「日子坐王」 、つまり 「太陽の子であらせられる王」 という意味になることから注目される存在であったとみられる。 日下部氏も「ひのもと」 の意味があったために有力氏族と考えられていたことが伺える。  持統天皇がこよなく愛し、次期天皇に据えるために大津皇子を謀反の罪にまで陥れた息子に草壁皇子がいる。 草壁皇子も日下部皇子の意味があったのだろう。 

    ┏  玉櫛媛(溝橛媛)               
 溝橛耳神 ┣   五十鈴依媛命   渟名底仲媛命┏天豊津媛命
      ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛┗━━━━┓ ┣息石耳命┣5孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)
      ┃(富登多々良須々岐比売命) ┃ ┣4懿徳天皇(大日本彦耜友尊)┃┃┃
         大物主命  ┣ 神八井耳命   ┃ ┃             ┃┃大井媛
 天照大神 (事代主神)┃ ┗・・太安万侶 ┃ ┣磯城津彦命        ┃┃
    ┣大国主┛    ┣ 日子八井命   ┣3安寧天皇(磯城彦玉手看尊)  ┃┃ 
      ┣加夜臣奈留美┣ 2綏靖天皇(渟名川耳尊)  ━┓┏━━━━━━━┛┃
 スサノオノミコト           ┣ 岐須耳命    ┃ ┃      ┃┃      渟名城津媛
   鵜葺草葺不合命┣ 吾平津媛    ┛糸織姫   ┃┃
              ┣1神武天皇(磐余彦)         x ┃
              ┣五瀬命,稲飯命,三毛入野命      ┃┃
            玉依姫命┣ 手研耳命          ━┛┃
                 吾平津姫(日向)            ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ 長髄彦(ナガスネヒコ)              埴安媛(河内青玉繋娘)
 ┃       ┏押媛命                 ┣武埴安彦命
 ┃        ┃  ┣大吉備諸進命                ┃伊香色謎命
  ┣天足彦国押人命┣7孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)┃┣彦太忍信命(武内宿禰の祖父)
  ┣6孝安天皇(日本足彦国押人尊)┃     ┣8孝元天皇(大日本根子彦国牽尊)
 世襲足媛  ┃┃        ┃   細媛命┣大彦命
        ┃長媛  ┏━━━━┛      ┣9開花天皇(稚日本根子彦大日日尊)
       五十坂媛 ┃           ┣迹迹姫命┃┃┣彦湯産隅命
           ┃           ┃    ┃┃┃ ┗大筒木垂根王(山背) 
            ┣倭迹稚屋姫命 欝色謎命(出石心命孫┃┃竹野媛  ┗迦具夜比売
            ┣倭迹迹姫命                ┃┃山代之荏名津比売
                   ┃                  ┃┃ ┣-
           ┃                     ┃┣彦巫王
           ┃                ┃┃ ┣狭穂姫命、狭穂彦
           ┃                ┃┃大闇見戸売(大和の春日出身) 
           ┃                ┃姥津姫(和爾氏) 
            ┣吉備津彦命           ┣10崇神天皇(御間城入彦)
           欝色謎命(倭国香媛)       伊香色謎命

                         尾張大海媛
             大物主神(蛇)            ┣ 八坂入彦命
第7代孝霊天皇  ┣ -                    ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
  ┃┃┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与か) 姥津媛命┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
  ┃┃┃ 欝色謎命(伊香色謎命の母)┣彦坐王┃  ┣ 豊鍬入彦命
  ┃┃┣ 吉備津彦      ┣ 9 開化天皇   ┃  ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
  ┃┃┣ 稚武彦命    ┃   ┣10崇神天皇(御間城入彦)
  ┃┃倭国香媛      ┃   伊香色謎命  ┃    ┣ 倭彦命  
  ┃┃              ┣倭迹迹姫命     ┃    ┃  
  ┃┃          ┣大彦命      ┃    ┣ 彦五十狭茅命  
  ┃┣━━━━━━  8孝元天皇┣御間城媛  ┃    ┣ 千千衝倭姫命
  ┃細媛命        ┃┃ ┗武渟川別  ┃    ┣ 五十日鶴彦命  
  ┣彦狭島命       ┃┣彦太忍信命  ┃    ┣ 11垂仁天皇┓  
  ┃           ┃┃(武内宿禰の父)┃ 御間城媛 ┃  ┃
  ┣稚武彦命(吉備の祖)  ┃伊香色謎命     x (大彦命の娘)┣  ┃
  絙某弟             ┣ 武埴安彦命 ━━┛     ┏迦具夜比売┃
            埴安媛  ┣            大筒木垂根王    ┃
       河内青玉繋┛   吾田媛(隼人族)                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
彦坐王
┃┣狭穂彦肥長姫(蛇)             葛城高額姫
┃┗狭穂姫命┃                                     ┣神功皇后170-269
┃ ┣  誉津別   播磨稲日太郎姫-122    垂仁天皇 息長宿禰王┃ 
11代垂仁天皇-69-70            ┣櫛角別王   ┣両道入姫命     ┣15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦            ┣大碓皇子 綺戸辺┣14代仲哀天皇-200 
  ┃ イニシキイリヒコ          ┣小碓尊  (日本武尊)     ┣麛坂王  -201
  ┃               ┃┃┣武卵王(讃岐綾君祖)  ┣忍熊皇子-201
  ┃               ┃┃┣十城別王(伊予別君祖) 大中姫
  ┃               ┃┃吉備穴戸武媛
  ┃               ┃┣稚武彦王(東征同行)
  ┃               ┃弟橘比売
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 
  ┣ 倭姫命   ┣稚足彦尊(13代成務天皇)   ┃     
 ┏日葉酢媛命  ┣五百城入彦  ┃┣和珂奴気王┣神櫛皇子(母:五十河媛 讃岐国造祖)   
 ┣渟葉田瓊入媛┣忍之別皇子  ┃弟財郎女  ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
 ┣真砥野媛   ┣稚倭根子皇子┃       ┣五百野皇女(母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛  ┣大酢別皇子┗吉備郎女    ┣豊国別皇子(母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王   ┣五百城入姫         ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇  ┣五十狭城入彦        ┣日向襲津彦(母:日向髪長大田根)
 ┣ 八坂入彦命 ┣吉備兄彦          ┗豊戸別皇子(母:襲武媛)
尾尾張大海姫┣八坂入媛命
      ┗弟媛

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