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王仁氏と宮主宅媛と屯倉

2010年10月17日 | 奈良・飛鳥時代
 王辰禰を祖とする氏族に葛井氏というのがあり、元々は白猪氏といった。 720年(記紀が編纂された頃)にその姓を賜り改めた。 この豪族は吉備国の白猪屯倉(大和政権の直轄地のこと)との結びつきが強かった。 大和政権は各地の豪族の支配領域を取って、これを拡大することで支配力を示していた。 蘇我氏が台頭した6世紀以降にこの屯倉制度が拡大している。 蘇我氏が関与した屯倉で知られているのは、白猪屯倉、児島屯倉、海部屯倉である。 蘇我稲目、穂積磐弓臣は屯倉の設置のために吉備に派遣され、葛城山田直瑞子を田令(屯倉経営の管理者のこと)に任命している。 面白いことに現在の倉敷市には三宅という姓の人が非常に多いらしく、それは児島屯倉に起因する。 葛城山田直瑞子という人物は葛城国造をつとめた葛城地方の豪族の出身で稲目の側近であったと思われる。 こののち、屯倉で塩田をはじめとする耕作が盛んになるとともに、課役をとりたてることを目的に戸籍制度が始まる。 記紀には、課役を免れるために籍に漏れる耕作者が非常に多くなり、 これを取り締まった胆津(戸籍を作成した人物でもある) は、その功により白猪氏の姓を賜り、屯倉の田令に任命されて、葛城山田直瑞子の副官になったことが記されている。 つまり戸籍制度という記録の集大成とも言える作業には、王仁氏を祖とする葛井氏などが蘇我氏のもとで官僚的な役割を果たして、屯倉の管理、戸籍の編纂、船舶の税徴収、史書編纂などを担ったのである。 
 
 さて、百済から渡来した王仁系の学者氏族が、応神天皇の頃から大和で活躍するようになったのは、神功皇后が朝鮮半島を制圧して、優秀な氏族を大和に連れ帰ったためと思われる。 そして神功皇后の子・応神天皇は、その氏族から菟道稚郎子の学問の師を選んだり、その氏族(もっと調査が必要)である宮主宅媛を妃としたりしている。 また、応神天皇の子である仁徳天皇は小緪媛という宮主宅媛の妹にあたる女性を妃にしている。(小緪媛も応神天皇妃であり、仁徳天皇は小緪媛の娘・菟道稚郎女皇女を妃としているという説もある) この姉妹の父は和珥氏の日蝕使主といい、和珥氏はもちろん和爾氏ともいい、王仁氏族です。  応神、仁徳に始まり、履中、反正天皇陵は羽曳野市の古市古墳群に集中し、屯倉制度に大きな影響を与えた王仁氏族の本拠地が羽曳野であることから、 蘇我氏が台頭した6世紀以前の仁徳天皇の時代から、すでに屯倉の制度のようなものが朝鮮半島から渡来した氏族により徐々にはじめられていたとしか思えません。 ついでにですが、仁徳の子・反正天皇の皇后に津野媛、妃に弟媛という女性がおり、その姉妹の父は大宅臣木事といい、この人も屯倉制度の起源に関わるような臣姓であります。 因みにこの頃は起源3世紀から4世紀ですから、蘇我氏台頭時期の200年前のことになります。

 さらに付け加えると、応神、仁徳天皇陵が日本で最大の古墳でなければならなかった理由というのは、屯倉という所有地にこだわった氏族の意図が働いていると想像するのは私だけでしょうか。 

                         日本最長の仁徳陵、日本最大容積の応神陵の基本設計を実施したのは王仁氏、というのが私の説

  
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