さて、百済から渡来した王仁系の学者氏族が、応神天皇の頃から大和で活躍するようになったのは、神功皇后が朝鮮半島を制圧して、優秀な氏族を大和に連れ帰ったためと思われる。 そして神功皇后の子・応神天皇は、その氏族から菟道稚郎子の学問の師を選んだり、その氏族(もっと調査が必要)である宮主宅媛を妃としたりしている。 また、応神天皇の子である仁徳天皇は小緪媛という宮主宅媛の妹にあたる女性を妃にしている。(小緪媛も応神天皇妃であり、仁徳天皇は小緪媛の娘・菟道稚郎女皇女を妃としているという説もある) この姉妹の父は和珥氏の日蝕使主といい、和珥氏はもちろん和爾氏ともいい、王仁氏族です。 応神、仁徳に始まり、履中、反正天皇陵は羽曳野市の古市古墳群に集中し、屯倉制度に大きな影響を与えた王仁氏族の本拠地が羽曳野であることから、 蘇我氏が台頭した6世紀以前の仁徳天皇の時代から、すでに屯倉の制度のようなものが朝鮮半島から渡来した氏族により徐々にはじめられていたとしか思えません。 ついでにですが、仁徳の子・反正天皇の皇后に津野媛、妃に弟媛という女性がおり、その姉妹の父は大宅臣木事といい、この人も屯倉制度の起源に関わるような臣姓であります。 因みにこの頃は起源3世紀から4世紀ですから、蘇我氏台頭時期の200年前のことになります。
さらに付け加えると、応神、仁徳天皇陵が日本で最大の古墳でなければならなかった理由というのは、屯倉という所有地にこだわった氏族の意図が働いていると想像するのは私だけでしょうか。
日本最長の仁徳陵、日本最大容積の応神陵の基本設計を実施したのは王仁氏、というのが私の説
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