蘇我氏の配下にいた渡来人には東漢氏・鞍作氏・西文氏らであった。 彼らの多くは漢字を使いこなすことで倭人系の豪族には望めない高度な行政実務能力を発揮できた。 蘇我氏は6世紀以降、さまざまな政策を打ち出していくが、これらは渡来系豪族によって実行されたのである。 なかでも東漢氏は最も強大な勢力を誇った。 東漢氏は5世紀後半頃、朝鮮半島南部の安羅から大和高市郡に移住してきた。 東漢氏は当初大伴氏の配下におり、東漢直掬という人物が大伴室屋大連とともに雄略天皇崩御後の反乱を鎮圧している。 雄略亡き後、吉備稚姫と息子の星川皇子が反乱を起こしたのである。 しかし欽明天皇の頃、大伴金村が対朝鮮外交の失敗により失脚すると、東漢氏は蘇我氏に近づき、その配下となった。 東漢氏は飛鳥寺の建立にもかかわり、山東漢大費直という人が飛鳥寺の建築、土木事業の監督を務めている。 一方、東漢氏は軍事氏族としての一面もあり、馬子の命令で崇峻天皇を殺害した東漢直駒が軍事の総指揮をとった。 東漢氏の本拠は飛鳥の南・檜隈地方で、後に蘇我氏が進出し、飛鳥周辺に多くの邸宅を構えた。 稲目の小墾田の家、向原の家、軽曲殿がそれで、軽曲殿の近くにある見瀬丸山古墳(現在、天武・持統合葬陵)は 稲目の墓とする説が有力になっているらしい。 馬子の代には石川宅、嶋宅が加わったが、これらは東漢氏が開発したものであった。
東漢氏の技術が現在も豊浦寺跡 向原寺跡に見られる