古墳時代中期5世紀末に築造された円墳で、千人塚、かんす塚とも呼ばれている。直径約45m、2段築成で埴輪を備える。葺石は確認されていない。墳丘の周りを2重の堀がめぐる。墳頂部にある組合式の箱式石棺から出土した銅鏡や勾玉は東京国立博物館に収蔵されている。


古墳時代中期5世紀末に築造された円墳で、千人塚、かんす塚とも呼ばれている。直径約45m、2段築成で埴輪を備える。葺石は確認されていない。墳丘の周りを2重の堀がめぐる。墳頂部にある組合式の箱式石棺から出土した銅鏡や勾玉は東京国立博物館に収蔵されている。


香川県・善通寺の近辺は約400基もの古墳が確認されている。中でも有岡古墳群は、首長の墓と考えられる古墳が集まっていて、国の指定史跡になっている。その有岡古墳群の中央部に位置しているのが、王墓山古墳。6世紀半ばにつくられた王墓山古墳は、全長46mの前方後円墳。横穴式石室を持ち、大和政権が配下に入った地方豪族に渡したという金銅製冠帽や銀象嵌を施した鉄刀が出土している。



平城京の一角に左大臣・長屋王676-729の邸宅があり、その跡地から無数の木簡が出土した。その木簡から長屋王の妹とみられる竹野女王に送られたとみられるさまざまな食材の木簡が発見された。竹野女王、まさに丹波にゆかりのある女性であり、ここからも丹波の食材が一級品であったことが伺える。丹波は機内では播磨、近江についで農業の盛んなところであったことが和名抄に記載の田の面積からわかる。天皇が即位後はじめて新穀を天照大神に供える儀式が大嘗祭であり、この祭りで用いる新穀を栽培する国の筆頭が近江、二番目が丹波と備中であったという。その昔、天照大神の朝夕の御食の神にした等由気大神が丹波にあり、伊勢の山田村に移したという。 そこが伊勢神宮の外宮であり、豊受大神として祀られているのである。考えてみると現在の丹波は米だけではなく、大豆、小豆、松茸、猪肉、栗など多くの食材で有名な産地であり、当時と何らかわっていないのかもしれない。
長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡
竹野皇子二取米三升○余女 竹野王子進米一升大津/甥万呂/ 竹野王子御所進粥米二升受老

この時代をさかのぼること約300年、但馬国を支配していた覇者がいた。彼の墓と云われるのが和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中にある茶すり山古墳という畿内随一の大型円墳である。直径約90m、高さ約18mの円墳で、2段に築成されていたと考えられる。墳頂には東西約36m、南北約30mの楕円形の広い平坦面があり、円筒埴輪が並べられていた。



墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が並んでいる。調査の結果、ヤマト政権と強く結びついた首長の墓であることが確認されている。棺内から多量の副葬品が出土、盤龍鏡をはじめとした銅鏡4面、畿内以外からの出土は極めて珍しい三角板革綴襟付短甲を含む2組の甲冑類、ほかにも、1埋葬施設からは刀剣類や鉄鏃など多量の武器が出土しており、ここに葬られた人物が相当な武力を持って、この地域を治めていた人であったことが想像される。


火雨塚古墳は白浜町瀬戸の熊野三所神社の境内にあり、御船山東側山麓の平坦地に築造された直径8m・高さ2mの円墳である。 江戸時代にすでに盗掘にあい、封土もかなり流出している。入口は東南に開口し、羨道と玄室からなる横穴式石室で築造方法は板状岩石を積み上げ、天井には二枚の板石を置いている。また、石室内には長さ120cm・幅 42cm・高さ39cmの組み合わせ式石棺を置いている。築造年代は出土遺物や様式からみて古墳時代の後期と考えられる。



9月のシルバーウイークに訪れたのは塩谷古墳群。京丹波町にある群集墳が整備されて公園になっているだけではなく、京都縦貫高速道路のサービスエリアとしても整備されているから驚いた。普通であれば誰も寄り付かない古墳群のはずなのに、SAで休憩する家族連れで一杯である。古墳マニアにとっては何とも迷惑な話である。ここは小高い丘の上に築かれた円墳群で、5世紀末頃~6世紀前半に築造された直径8~15.5mの円墳12基が確認されており、最高所に位置する5号墳から出土した襲(おすい)をかぶった二体の巫女埴輪は京都府の有形文化財に指定されているらしい。今となっては現代的な公園で、二匹のわんこの散歩にも絶好の場所でした。




ここは有年考古館の庭、中山11号墳が移設されて復元されている。ところでこの考古館はスペースは狭くて小さいもののかなり充実していて橿原考古学研究所からも見学者がくるほどである。今回はほんの少しの古墳を紹介したが、立派な古墳群がまわりに数多く点在しており、今後も現地に足を運んでみよう。そして有年考古館の設立者は松岡秀夫(1904-1985)は、有年村で眼科医を勤めるかたわら、郷土史家として活動し発掘調査などを行ったという。その時の出土品が数多く考古館に展示されている。またそのときに使ったカメラも展示されていた。Canon-FX 東京オリンピックの年くらいに発売された名機で、FXとは一眼レフ(Flex) から来ている。当時の初任給は1万円くらいだろうから、Canon-FXが6万円というのは今で言えば100万円くらいに相当する。


木虎谷古墳群は、赤穂市有年原の原小学校裏一帯に広がり15基分布するらしいが、その中の2号墳が1号墳の東50mの民家裏の竹林中にある。全長9.5mの両袖式大型石室が開口しており、玄室長5.3m、幅2.2m、高さ2.4mの規模で厚さ0.45mの巨大な石蓋をはめ込んだ石棺がある。


有年原・田中遺跡で見つかった2基の墓は弥生時代後期、約1900年前のもので、1号墳丘墓には陸橋部と突出部がある。古墳時代に発達した前方後円墳は、この弥生時代の墳丘墓が発達したものと考えられる。また周溝からは飾られた壷とその器台が見つかった。これは埴輪の先祖となる吉備地域特有の土器の祖形と考えられる。有年原・田中遺跡における墓の形と祭祀方法には後世の前方後円墳と共通する点が多く、墓の始まりとしての価値は極めて大きい。ここの文化財を管理している赤穂市教育委員会のパンフレットより抜粋。



有年は「うね」と読む。兵庫県赤穂市の北側に位置する有年には数多くの古墳群が存在し、なかでも整備されて有年原田中史跡公園の中にあるのが有年原田中1号墳。



一風変わった権現古墳は福山にある。古墳ロードを散策すると権現神社が見つかり、説明板と社があるのですが、どこが古墳なんだ?その神社の社がある丘全体が古墳になっていて、社が石室の上に立っているという変わった古墳です。石室は露出されていて、風化は激しいものでした。


福山駅から北西に10kmほど離れたところに古墳群があり、福山古墳ロードとして整備されているところがある。その中のひとつが宝塚古墳と呼ばれるもの。誰の墓なのかといった情報は全くわからず、古墳の横に立てられた説明板しか頼るところはない。石室が露出していて内部まで見ることができるという意味では私には価値あり。墳丘は単純な円墳と呼ばれる一番多数を占める古墳形式である。墳丘の径が15mで高さ3mという規模で、土が盛られて造られ、1500年あまりの年月の風雪に耐えながら自然崩壊したものである。墳丘の周囲には周濠があり、埋葬施設は片袖型横穴式石室というもの。出土したのは鉄刀、轡などだという。古代においてこの備後は、吉備地域からすると辺境の地域ではあるものの、その文化圏の一翼をにない畿内文化圏に飲み込まれる古墳時代後期にいたるまで畿内の文化圏に対抗しうる一大文化圏であった。尚、この古墳の築造は古墳時代の後期にあたる6世紀後半ごろと推定される。




▲耳成山
● 藤原宮694-710
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▲畝傍山┃ ▲天香久山
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┃ ▲甘樫丘
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● 天武/持統天皇陵686/703年没
斉明天皇陵661年没 ┃ ●石舞台古墳(蘇我馬子626年没)
牽牛子塚古墳 ● ┃
┃ ●都塚古墳(蘇我稲目570年没)
高松塚古墳●┃
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マルコ山古墳 ● 文武天皇陵707年没
河嶋皇子691年没 ┃
●━━━● 刑部皇子705年没
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束明神古墳●━━━● キトラ古墳(高市皇子696年没)
大津皇子686年没の埋葬予定
岡宮天皇陵●
草壁皇子689年没
大和三山それは耳成山、畝傍山、天香久山といった神聖なる山である。その三山に囲まれた都を天武天皇は持統天皇とともに造ろうと考えた。それが藤原宮である。壬申の乱672年に勝利した大海人皇子が673年に即位して天武天皇となり、679年には吉野宮に赴きある誓いを立てた。天武天皇と持統天皇ともども草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、刑部皇子、芝基皇子ら6人の王子達はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目という序列は天武の治世の間維持された。天武の子・草壁皇子は天智の娘・阿閉皇女(後の元明天皇)と結婚し、同じく大津皇子は山辺皇女を娶り、天智天皇の子・川島皇子は天武の娘・泊瀬部皇女と結婚した。このようにして天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。まさに吉野の盟約に基づいて1000年先までの平和を願っての策であろう。翌翌年の681年、天皇と皇后は律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。また、683年のは有能な大津皇子にも朝政をとらせた。天武天皇が686年5月病気になると、7月には政治を皇后と皇太子に委ね、9月11日に病死した。ちょうどこの頃時を同じくして大津皇子は謀反の罪にとわれ、10月には自害に追い込まれている。吉野の盟約もむなしく、いざ政権争いともなると流血の事態は昔と変わりなく免れることはできないようである。
ところで北斗七星に象徴される皇族の墓であるが、今まで解説した説では686年自害した大津皇子が出てこなかった。これは大津皇子の墓が二上山の山頂に存在するからであるが、そもそも北斗七星を象徴すべく計画しているとしたら、大津皇子の墓も藤原宮近辺に存在するはずである。私はキトラ古墳が大津皇子の墓だと思っている。では二上山はというと、それは持統天皇が大津の怨霊を静めるために、いわば個人的に祀ったもの。高市皇子の墓が束明神古墳、徐々に藤原宮に近づきながら埋葬していき、宮に一番近い場所に持統天皇は埋葬された。
阿部倉梯麻呂
仏教賛成派 ┏ 吉備姫王 ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579 ┃ ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639- ┓
┣ 蘇我堅塩媛?-? ┃ ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
┃ ┃ ┏━━━━━━━━━┛ ┃ 飛鳥宮 ┏漢皇子 ┃
┃ ┣ 桜井皇子 ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
┃ ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628 ┃ ┃板葺宮 (37斉明) ┃
┃ ┃ ┃ 大俣女王┃ ┣ 間人ハシヒト皇女628-665 ┛ ┓
┃ ┃ ┣ 田眼皇女 ┣ 茅渟王 ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
┃ ┃ ┣ 竹田皇子 ┃ ┃ ┣ 十市皇女648-678 ┃┓
┃ ┃ ┣ 尾張皇子 ┃ ┃ 額田王631-689 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
┃ ┃ ┃息長真手王 ┃ ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗広姫 ┃ ┃ ┣ 大友皇子648- ┃┃ ┛
┃ ┃ ┃ ┣押坂彦人皇子 ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
┃ ┃ ┃┏━━┛ ┃ ┃ 十市皇女648-678 ┃┃
┃ ┃ ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641 ┃┃
┃ ┃ ┃┃┃ ┃ ┃ ┣ 古人大兄皇子 622- ┃┃
┃ ┃ ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女 ┗ 倭姫王┃
┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓ ┣ 蚊屋皇子 ┃
┃ ┃宣化 ┃┃┃ ┃ 蚊屋采女 ┃
┃ ┃ ┗┓ ┃┃┃ ┣ 来目皇子 ┃
┃ ┃石姫皇后 ┃┃┃ ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣大伯皇女661-701┣-
┃29欽明天皇509-571 ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686
┃ ┣穴穂部間人皇女-621 ━┛ ┃ ┃ ┣- 長娥子(不比等娘)
┃ ┣穴穂部皇子 ┃ ┃山辺皇女663-686(天智娘) ┃
┃ ┣宅部皇子 ┃ ┃ 御名部皇女(天智娘) ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣ 長屋王
┃ ┃ ┃ ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王
┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇) ┃ ┃ ┣ 高市皇子654-696 ┓
┣ 小姉君 ┃天武天皇631-686 ┃
┣ 石寸名郎女 ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃
┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す) ┃┃┃┣但馬皇女-708 ┛
┃ ┗ 蘇我倉麻呂 孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
┃ ┃ ┃ ┃┃┣長皇子-715
┃ ┃ ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文屋真人)
┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃┗三諸大原-806
┃ ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780
┃ ┣ 蘇我日向 ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
┃ ┣ 蘇我赤兄623- ┃ ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹)
┃ ┃ ┣常陸娘 ┃ ┃┃ 長屋王
┃ ┃ ┃ ┣山辺皇女 ┃ ┃┃ ┣膳夫王-729
┃ ┃ ┃天智天皇 ┃ ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
┃ ┃ ┗大蕤娘669-724 ┃ ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
┃ ┃ ┣紀皇女 ┃ ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
┃ ┃ ┣田形皇女 ┃ ┃┃ ┣ 氷高皇女 (44元正)
┃ ┃ ┣穂積親王 ┃ ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
┃ ┃ ┃ ┃┗但馬皇女 ┃ ┃┃ 聖武天皇
┃ ┃ 天武天皇┣大嬢 二嬢 ┃ ┣41持統天皇645-703 ┗井上内親王
┃ ┗ 蘇我連子 大伴坂上郎女 ┃ ┣健皇子649-658
┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626 ┣蘇我遠智娘-649
┣ 蘇我蝦夷587-645 ┗姪娘
┃ ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
┃ ┗ 蘇我畝傍
┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
┣ 法提郎女
┣ 刀自古朗女-623
┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏) ┃
┣物部守屋-587 ┃
┣布都姫 ┃
┃ ┣物部鎌足姫大刀自
┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張)
近年注目されているのはキトラ古墳の石室天井に描かれている天文図の中央にある北斗七星である。これは不動の星、古代の天皇が使い始めたものである。それを考慮に入れると皇族、つまり高市皇子が被葬者となる。3年前皇子説を唱える猪熊さんは北斗七星という皇族の象徴と古墳の配置に着目した。聖なるゾーンにある天皇陵とキトラ古墳、他の皇族の墓と思われる古墳を加えるとまさに北斗七星の形になるのである。天皇の座をめぐって争った壬申の乱の後、皇族の人達は1000年先まで平和を誓ったことが日本書紀に記されている。その牽引車は天武天皇と持統天皇で、参加者は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、刑部皇子、芝基皇子ら6人の王子達。(679年、天武天皇は吉野で盟会を行った) 猪熊さんは誓いを立てた天皇とこれらの皇子達が死後の王権のシンボル・北斗七星となって輝き続けることになったという。その配置は次である。猪熊さん本人は少しこじつけのようではあるが、信じたい・・とそのユニークさと信憑性が伺える。
東経135度48分 ↓ の聖域ゾーン
● 藤原宮694-710
┃
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┃
● 天武/持統天皇陵686/703年没
┃
マルコ山古墳 ● 文武天皇陵707年没
河嶋皇子691年没 ┃
●━━━● 刑部皇子705年没
┃
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●━━━● キトラ古墳(高市皇子696年没)
束明神古墳
岡宮天皇陵
草壁皇子689年没
ここでは、キトラ古墳の被葬者は皇族ではあるが、高市皇子ではないという説について触れる。その前に高市皇子はどのような皇子なのか、父は天武天皇、母は尼子娘といって地方の筑紫宗像郡の豪族・胸形徳善の娘である。つまり身分の低い母を持ったために、高市皇子は天武朝においては草壁、大津の二皇子の下にランクされていた。それでも長皇子、弓削皇子の兄弟や舎人皇子、新田部皇子より上にランクされたのは壬申の乱における功績があったと思われる。高市皇子と同じく母が格下豪族出身の刑部皇子はさらに格下であったと考えられる。従って大津皇子が排除され、草壁皇子が薨じたあとは順当にいけば天皇の候補は高市皇子だったはずである。太政大臣という持統天皇の次に高い位にあったことが裏づけである。
しかしながら天皇の道を阻んだのは、草壁皇子、軽皇子に皇位をと考えた持統天皇の思惑と、出世の機会を狙う藤原不比等の暗躍、石上麻呂の関与もあったと思われる。石上麻呂(最高位は左大臣)と藤原不比等(最高位は右大臣)は、高市皇子が即位したら出世は100%ない。不比等が橘三千代を引き込み、持統天皇も合意の上で高市皇子に毒を盛った可能性があるという。高松塚出土の人骨は熟年男性で、砒素が検出されたとある。(砒素は毒薬としてではなく、緑色顔料の成分である可能性も高い)つまり高松塚古墳の被葬者が高市皇子であり、キトラ古墳の被葬者は刑部皇子ということか。