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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

幕末245 大村益次郎

2019年01月30日 | 幕末

 大村益次郎1824-1869は、幕末期の長州藩医師・兵学者で、長州征討と戊辰戦争では長州藩兵を指揮し、勝利する。事実上の日本陸軍の創始者でもある。大村は山口市鋳銭司村で医者の子として生まれた。1842年、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、22歳の時に、大坂・緒方洪庵の適塾で学び、25歳にして塾頭となっている。当時の適塾には好待遇を掲げて仕官を求める藩がいくつもあった。しかし大村は26歳の時に故郷山口に帰郷し村医者を継いだのである。そんな大村が29歳のときに、四国・宇和島藩の伊達宗城に仕えることになったのである。格別の蘭学好きの藩主・伊達宗城が大村を誘ったとも、自らの意思で蘭学を役立てたいと申し出たとも言われている。この宇和島行きが大村に転機をもたらすこととなる。宇和島藩が大村に求めたのは本業の医学ではなく兵学だった。得意の語学を生かして兵学書の翻訳を任されたのである。

 そんな大村に目を付けたのが江戸幕府である。1853年圧倒的な兵力で迫ってきたペリーになすすべがなく、老中阿部正弘などの幕府首脳部は優秀な兵学者を集め始めていた。1856年、大村32歳の時 洋学研究機関に勤め、翌年には講武所の教授に就任した。そんな大村に誘いをかけたのが長州藩である。当時の長州藩は攘夷を主張し外国と渡り合うためにも西洋兵術知識が必要であった。1863年5月、長州藩が関門海峡を渡る外国船に砲撃を加えたのである。しかし翌月反撃を受けて長州はなすすべもなく、その軍事力に大敗した。かくして大村は長州藩の為に働くことを決めたのである。大村のことを、その風貌から「火吹き達磨」と付けたとも言われる高杉晋作らが、馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手し、大村にその指導を要請する。桂小五郎の推挙により大村は上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。そして大村は西洋兵術書を翻訳しわかりやすく書き改めたが、そこには無駄がなく的確であったという。

 ここで大村は藩の存亡をかけて行った軍制改革とは西洋で主流となっていた散兵戦術。数名で構成された散兵が、指揮官から大目標を受けると、それぞれに分散して自分の判断の元に敵を攻撃することから、少人数で大きな成果を上げることができる。しかし個々の判断とモチベーションが重要となってくる。この頃長州藩は攘夷の報復を受け、禁門の変で敗れたことから朝敵となり、幕府軍は15万の兵で長州藩を包囲したのである。かくして長州藩には幕府に降伏する道しか残されていなかった。藩内は幕府に恭順する一派が政権を握る。結果大村は藩の軍事担当から外された。ところが高杉晋作が奇兵隊を組織して立ち上がり、1865年1月 藩の正規軍を破った。結果長州藩は幕府と戦うこととなる。これを知った幕府は長州征伐を実行することとなる。大村が講じたのは4300丁の照準を装備したミニエー銃の購入と近代的な戦術の導入である。1865年5月毛利敬親は、「兵制は西洋陣法を採用」とした。かくして大村は藩主の命令という切り札を使ったのである。かくして藩士には先祖代々の甲冑を売却させミニエー銃の購入を促した。そして主人は単騎で戦うとし、無用の従卒を従えてはならないとした。長州藩と言えば奇兵隊などの諸隊が有名であるが、家臣団の隊も西洋式になっているところが大きな改革内容なのである。

 この大改革の1年後の1866年、幕府軍は二次長州征伐を号令したとき、大村は実戦指揮を担当しその才能は遺憾なく発揮され、幕府側を撃破し勝利した。大村が幕府と対峙したのは石州口、島根県益田市にある敵の領地を包囲した。正々堂々と姿を見せて戦うのではなく、黒装束姿で賊徒のように奇襲攻撃をしかける戦術に幕府軍は苦しめられたのである。このときに活躍したのは佐久間象山が提唱した砲学に基づいて佐賀藩により開発されたアームストロング砲である。これはライフル式大砲といい、銃身に螺旋状の溝を作ることにより摩擦抵抗を減らし、銃弾が旋回して発射されることにより飛距離と命中率を高めるライフル銃の原理を大砲に応用したもので、開発に尽力したのは佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)である。3か月後には幕府は撤退、わずかに一藩に敗れた幕府の権威は失墜したのである。翌年幕府は崩壊した。ところが、1869年9月大村は京都で襲撃され、全身に六ケ所も深い傷を負い、しばらくして死亡した。

京都三条大橋西詰にある大村益次郎受難の碑

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佐賀-11 世界遺産・三重津海軍所跡

2018年11月30日 | 幕末

 佐賀市中心から少し離れた三重津海軍所跡では、海軍所の歴史、佐賀藩の取り組みなどが紹介されている。ドームシアターでは幕末の海軍所解説がある。ここは、佐賀藩が1858年に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設で、西洋船運用のための教育・訓練機関も兼ね備えていた。国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造したことで知られている。2000年代に入り発掘・文献調査が進められ、2015年には「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産に登録された。1859年には幕府の「長崎海軍伝習所」閉鎖に伴い、長崎海軍伝習所で学ばせていた多くの佐賀藩士の士官教育を継続するためと、所有する西洋船の修理場等が必要となったため、従来からあった施設の範囲と機能を増設した。海軍所では航海、造船、鉄砲等の学科や技術教育が行われたほか、蒸気船・西洋式帆船等の根拠地として蒸気船の修理・製造が行われ、オランダ製の木造帆船である「飛雲丸」や木造スクリュー蒸気船である「電流丸」、木造外輪蒸気船「観光丸」等が運用されていた。佐賀藩士が長崎海軍伝習所で建造した木造帆船「晨風丸」もあった。1865年には国産初の実用蒸気船である「凌風丸」を完成させた。

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佐賀-10 佐賀市の本行寺にある江藤新平墓所

2018年11月30日 | 幕末

 明治6年の政変で失脚した板垣退助は自由民権運動に転じて、言論で政府と戦おうとしたが、江藤新平は武力による反乱を選んだことから、現代では江藤新平の知名度は低い。しかし江藤新平によって、日本歴史上初めて人権が国法上に確認され、日本が人権尊重の国家であることを示した。こうした江藤新平の明治維新への貢献は薩長勢力によって抹殺されたといえる。江藤は信念を持つ司法卿として長州人の汚職事件に注目していた。山城屋事件については西郷の制止にあって断念したが、尾去沢銅山事件は追及をあきらめたわけではなかったが、明治6年の政変によって江藤は司法卿を辞職したため、井上馨は汚職の追及から逃れることができた。

 ちょうどこの頃、故郷の佐賀で新政府に不満を持つ士族が武力発起を画策しているとの知らせを受けて、制止のために佐賀へ帰国した。時を同じくして1874年に起こった不平士族による反乱を佐賀の乱という。その首謀者は江藤新平のように語られるが、実はそうではない。江藤は民選議員設立の建白書に署名している。つまり新政府の改善には国会開設あるのみ・・という建白書に署名した。時系列的には、明治6年の政変の翌年明治7年1月12日に副島種臣邸に同志が集まり愛国公党を結成しその場で建白が話し合われ1月17日に8名署名による建白書は提出された。ゆえに江藤の知らぬところで武装蜂起はなされたのである。これが好機と思った大久保利通は一気に改革を完成させた。

尾去沢銅山事件と山城屋事件

 尾去沢銅山事件とは明治の汚職史に残る事件である。渦中の役人は井上馨、長州人である。井上馨は秋田にある尾去沢銅山の採掘権を持つ村井茂兵衛という豪商に言いがかりをつけて、採掘権を搾り取った。当時の大蔵省のトップだった井上馨は南部藩御用商人・鍵屋こと村井茂兵衛に、債権は新政府が引き継いだ、として奪い取ったのである。そして1872年に銅山を接収した井上は、これを競売にかけると称し実際は出入りの政商・岡田平蔵に実勢価格の33%の額で払下げさせた。まさに私利私欲を満たすための行為である。

 次は山城屋事件。井上馨と同じ長州人で軍のトップに立った山県有朋は山城屋和助という政商と懇意にしていた。和助は山県と同じ長州の出身で、騎兵隊にも参加していた。しかし軍人から商人に転身して軍需品を扱う御用商人となって大いに利益をあげていた。当時海外の生糸相場が活況となり、山城屋は陸軍の国家予算から15万ドルを借りて、生糸相場で大儲けをするつもりだった。公金を横領するのだから賄賂が発生するのは世の常である。このように金に汚い部分が長州人にはある。ところが大儲けどころか生糸相場が暴落した。その損失は明らかではないが、山城屋と山県の癒着が囁かれ、山県有朋排斥の動きも起こった。前々から長州人の動きを苦々しく思っていた薩摩人は山県を引きずり降ろそうとしたのである。歯止めをかけたのは後に不平士族の長として大反乱を起こすこととなる西郷隆盛であった。これだけ不正の噂がとびかっては政府も放っておけない。法務大臣となった江藤新平の調査によって、山城屋は追い込まれて陸軍省内で割腹自殺をはかったことになっているが、死人に口なし、山県によるトカゲの尻尾きりと考えられる。井上馨はのちに三井財閥の発展に貢献する。

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佐賀-9 大隈重信生誕地と旧宅

2018年11月30日 | 幕末

 文明開化のシンボルが鉄道、その立役者となったのが大隈重信と伊藤博文である。最大の問題は1000億円にもなる資金調達である。これは政府歳入の半分である。これに反対したのは大久保利通である。

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島原-6 キリシタン墓碑

2018年11月21日 | 幕末

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島原-2 江東寺に眠る板倉重昌と原城

2018年11月21日 | 幕末

 板倉重昌は三河国深溝藩主であった。徳川家光に命じられて島原の乱の平定を行うが、原城にたてこもっている一揆勢に苦戦を強いられる。一揆勢を指揮しているのは関ケ原の乱や大阪の陣で生きのこった歴戦の猛者、一揆勢がたてこもった原城もまた難攻不落の城だった。城は三方を有明海にかこまれ、陸側は湿地帯。一揆勢は板塀の影にかくれ、城壁をよじ登ってくる幕府軍を鉄砲で狙いうちにした。さらに援軍にきた肥後の細川氏と肥前国の鍋島氏は、指揮官である板倉の言うことをきいてくれません。そんななか、幕府から老中の松平信綱がやってくるという知らせが板倉の元に届いたのです。これにあせった板倉は強引に原城総攻撃を開始。しかし幕府軍の足並みはそろわず。板倉は弾丸を受けて戦死しました。一揆勢は松平信綱によって平定される。

一揆勢が立てこもった原城

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佐賀-5 副島種臣生誕地

2018年11月20日 | 幕末

 副島種臣1828-1905の父は、佐賀藩士・枝吉南濠。藩校・弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚め、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。父南濠死去後、同藩士の副島利忠の養子となる。1867年、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。1868年、新政府の参与・制度取調局判事となり、1869年に参議、1871年に外務卿となる。 

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佐賀-3 佐賀藩主・鍋島直正の墓

2018年11月20日 | 幕末

 鍋島直正は第10代佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男にあたる。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫である。「佐賀の七賢人」の一人である。1830年、17歳で第10代藩主になった頃の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、財政は破綻状況にあった。かくして藩政改革に乗り出した。役人を5分の1に削減、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校・弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を断行した。

さらに、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。高島秋帆の西洋砲術に多大な関心を寄せ、義兄で支藩武雄藩主の鍋島茂義に先導させてその導入に励んだ。その結果、アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させる。また、当時不治の病であった天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが日本における天然痘の根絶に繋がった。1853年、ペリー来航時に老中の阿部正弘に対して、強く攘夷論を唱え品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。1861年、48歳で隠居し、家督を長男・直大に譲って閑叟と号した。直正が明治維新が始まってから間もなくに世を去ったことも、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなった一因でもある。 

鍋島斉直1780-1839 第9代鍋島藩主
  ┣鍋島直孝1809-1860 江戸北町奉行 
 ┣鍋島直永1813-1855 肥前鹿島第8代藩主 
 ┣鍋島茂真1813-1866 肥前鹿島
 ┣鍋島直正1815-1871 第10代鍋島藩主
 ┃┣鍋島直大1846-1921 第11代鍋島藩主
 ┃鍋島茂卿女
 
┣鍋島直賢1834-1859 肥前鹿島藩の第12代藩主

 ┣益子
 ┣竈姫
池田治道(因幡鳥取藩主)の娘

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佐賀-1 佐賀の乱 殉国十三烈士の碑

2018年11月20日 | 幕末

 明治6年の政変で失脚した板垣退助は自由民権運動に転じて、言論で政府と戦おうとしたが、江藤新平は武力による反乱を選んだことから、現代では江藤新平の知名度は低い。しかし江藤新平によって、日本歴史上初めて人権が国法上に確認され、日本が人権尊重の国家であることを示した。こうした江藤新平の明治維新への貢献は薩長勢力によって抹殺されたといえる。江藤は信念を持つ司法卿として長州人の汚職事件に注目していた。山城屋事件については西郷の制止にあって断念したが、尾去沢銅山事件は追及をあきらめたわけではなかったが、明治6年の政変によって江藤は司法卿を辞職したため、井上馨は汚職の追及から逃れることができた。

 ちょうどこの頃、故郷の佐賀で新政府に不満を持つ士族が武力発起を画策しているとの知らせを受けて、制止のために佐賀へ帰国した。時を同じくして1874年に起こった不平士族による反乱を佐賀の乱という。その首謀者は江藤新平のように語られるが、実はそうではない。江藤は民選議員設立の建白書に署名している。つまり新政府の改善には国会開設あるのみ・・という建白書に署名した。時系列的には、明治6年の政変の翌年明治7年1月12日に副島種臣邸に同志が集まり愛国公党を結成しその場で建白が話し合われ1月17日に8名署名による建白書は提出された。ゆえに江藤の知らぬところで武装蜂起はなされたのである。これが好機と思った大久保利通は一気に改革を完成させた。

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萩の街並み

2018年11月19日 | 幕末

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幕末244 萩-萩城跡

2018年11月19日 | 幕末

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幕末243 萩-毛利輝元墓所・天樹院

2018年11月19日 | 幕末

 ここ毛利輝元墓所・天樹院は萩城のすぐ南側に位置する。毛利輝元は、豊臣政権五大老の一人、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった長州藩の藩祖である。毛利家は元就の時代からの敵対勢力の尼子勝久や大友宗麟らに勝利し、旧主家の残党・大内輝弘を退け勢力を拡大していった。1576年、織田信長によって都を追われた将軍・足利義昭が毛利家領内に保護されたとき、義昭は輝元を副将軍に任じている。もともと輝元は信長とは友好関係を保っていたが、石山本願寺が挙兵すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行い、織田氏と対立する。また、上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが将軍家の呼びかけにより信長と敵対した。緒戦の毛利軍は連戦連勝し、第一次木津川口の戦いで毛利水軍は織田水軍を破り大勝利を収めた。

 1578年、上月城の戦いでは、織田方の羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて退却。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立った。しかし、3月に上杉謙信が死去し、11月の第二次木津川口の戦いでは鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北し、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。1580年、羽柴秀吉は三木城開城、別所長治を自害に追い込み、毛利は次第に追い込まれていく。1582年、羽柴秀吉は、毛利氏の忠臣・清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃すると、輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い秀吉と対峙する。攻防戦の最中の1582年6月2日、京都において本能寺の変が発生する。いち早く情報を得た秀吉は、明智光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ和睦する。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。こうして毛利氏は織豊政権との和平路線へと転換することになる。 

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃      亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃          品姫   ┣8治親-9斉房1782-1809  
 
      ┃  ┃      ┃                 登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
 
      ┃  ┃      ┃                   幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳

       ┃  ┃      ┃                                     由美姫
       ┃  ┃      ┃            
 
       ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      

        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
吉川経基    ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
 ┃(藤原南家)┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
 ┣吉川国経  ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625     
 ┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606       
 ┃┣経長     ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃           ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代) 

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幕末242 萩-高杉晋作

2018年11月19日 | 幕末

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幕末241 萩-田中義一

2018年11月19日 | 幕末

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幕末240 萩-木戸孝允旧宅

2018年11月06日 | 幕末

 後に木戸孝允と改名した桂小五郎1833-1877は、長州閥の巨頭である。尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と称せられる。吉田松陰の弟子の中では珍しく上級武士の出身で、高杉晋作と並んで別格の存在であった。幕府側に逮捕されれば池田屋事件で新撰組の拷問を受けた末に斬り殺された同志の古高俊太郎のようになるのは必至の状況にあって、幕府側から常に命を狙われていた小五郎は、敵を決して斬ろうとはせずに果敢に京都で活動し続け、逃げ通したことで名高い。1846年、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門後、江戸三大道場の一つ、斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て塾頭となっている。同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇とともに、練兵館の双璧と称えられた。また、同時期には桃井春蔵の士学館の塾頭を務めた武市半平太や千葉定吉・北辰一刀流剣術道場の塾頭を務めた坂本龍馬も免許皆伝を得ている。塾頭時代には大村藩・鳥居藩・内藤藩などの江戸の藩邸に招かれ剣術指導も行っている。1864年、会津藩お預かり新選組が勤皇の志士を襲撃した池田屋事件では、桂小五郎の到着が早すぎた為に本拠地にもどった間に事件が起こり難を逃れたとも、居合わせたが池田屋の屋根を伝い逃れて対馬屋敷へ帰った云われている。その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権のため久坂玄瑞と活動を続けている。 

 八月十八日の政変、池田屋事件で多くの犠牲を出した長州藩は、桂小五郎や高杉晋作の反対にもかかわらず挙兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちが無実の罪に問われていることを迫った。怯んだ朝廷は一時、京都守護職を会津藩から長州藩に変える所まで行くが、一橋慶喜からの脅しに孝明天皇および公卿たちは劣勢に陥る。中川宮朝彦親王など佐幕派公卿たち長州軍を挑発して長州軍の退去を通告する。武門の名誉を賭けて長州軍先発隊は蛤御門の変(禁門の変)を敢行した。来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺隊は、会津軍を破り禁裏に迫るが薩摩軍に付かれて来島が倒れた後は総崩れとなる。福原越後率いる伏見隊は御所に辿り着けず、に早々と退避する。久坂玄瑞率いる天王山隊は出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、久坂玄瑞は自刃し、残りは天王山方面へ退避させる。桂小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判するが河田は応じず、小五郎は幾松の助けを借りて但馬出石に潜伏する。

 朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときに世話になったのが京都三本木の美人芸者・幾松である。 そして坂本龍馬の尽力により薩摩藩は次第に倒幕色を強めて長州藩(大久保利通、小松帯刀、西郷隆盛)と手を結ぶこととなる(薩長同盟)。このときに長州藩の代表として薩摩と交渉にあたったのが桂小五郎であった。維新後は総裁局顧問として文明開化を推進し、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、憲法改正や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、副総裁の岩倉具視や明治天皇から厚く信頼された。しかし四民平等を志向する木戸孝允に対して武士階級の存続を望み、明治維新という革命を朝鮮に輸出しようとした西郷隆盛と対立するようになり、1877年の西南戦争へ発展する。西郷隆盛が鹿児島征討の任にあたり熊本城を包囲すると、木戸孝允は救援作戦を展開して成功する。しかしかねてから重病化していた病気が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去ったという。愛妻の幾松改め松子夫人は髪をおろして仏門にはいった9年後になくなっている。

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