大村益次郎1824-1869は、幕末期の長州藩医師・兵学者で、長州征討と戊辰戦争では長州藩兵を指揮し、勝利する。事実上の日本陸軍の創始者でもある。大村は山口市鋳銭司村で医者の子として生まれた。1842年、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、22歳の時に、大坂・緒方洪庵の適塾で学び、25歳にして塾頭となっている。当時の適塾には好待遇を掲げて仕官を求める藩がいくつもあった。しかし大村は26歳の時に故郷山口に帰郷し村医者を継いだのである。そんな大村が29歳のときに、四国・宇和島藩の伊達宗城に仕えることになったのである。格別の蘭学好きの藩主・伊達宗城が大村を誘ったとも、自らの意思で蘭学を役立てたいと申し出たとも言われている。この宇和島行きが大村に転機をもたらすこととなる。宇和島藩が大村に求めたのは本業の医学ではなく兵学だった。得意の語学を生かして兵学書の翻訳を任されたのである。
そんな大村に目を付けたのが江戸幕府である。1853年圧倒的な兵力で迫ってきたペリーになすすべがなく、老中阿部正弘などの幕府首脳部は優秀な兵学者を集め始めていた。1856年、大村32歳の時 洋学研究機関に勤め、翌年には講武所の教授に就任した。そんな大村に誘いをかけたのが長州藩である。当時の長州藩は攘夷を主張し外国と渡り合うためにも西洋兵術知識が必要であった。1863年5月、長州藩が関門海峡を渡る外国船に砲撃を加えたのである。しかし翌月反撃を受けて長州はなすすべもなく、その軍事力に大敗した。かくして大村は長州藩の為に働くことを決めたのである。大村のことを、その風貌から「火吹き達磨」と付けたとも言われる高杉晋作らが、馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手し、大村にその指導を要請する。桂小五郎の推挙により大村は上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。そして大村は西洋兵術書を翻訳しわかりやすく書き改めたが、そこには無駄がなく的確であったという。
ここで大村は藩の存亡をかけて行った軍制改革とは西洋で主流となっていた散兵戦術。数名で構成された散兵が、指揮官から大目標を受けると、それぞれに分散して自分の判断の元に敵を攻撃することから、少人数で大きな成果を上げることができる。しかし個々の判断とモチベーションが重要となってくる。この頃長州藩は攘夷の報復を受け、禁門の変で敗れたことから朝敵となり、幕府軍は15万の兵で長州藩を包囲したのである。かくして長州藩には幕府に降伏する道しか残されていなかった。藩内は幕府に恭順する一派が政権を握る。結果大村は藩の軍事担当から外された。ところが高杉晋作が奇兵隊を組織して立ち上がり、1865年1月 藩の正規軍を破った。結果長州藩は幕府と戦うこととなる。これを知った幕府は長州征伐を実行することとなる。大村が講じたのは4300丁の照準を装備したミニエー銃の購入と近代的な戦術の導入である。1865年5月毛利敬親は、「兵制は西洋陣法を採用」とした。かくして大村は藩主の命令という切り札を使ったのである。かくして藩士には先祖代々の甲冑を売却させミニエー銃の購入を促した。そして主人は単騎で戦うとし、無用の従卒を従えてはならないとした。長州藩と言えば奇兵隊などの諸隊が有名であるが、家臣団の隊も西洋式になっているところが大きな改革内容なのである。
この大改革の1年後の1866年、幕府軍は二次長州征伐を号令したとき、大村は実戦指揮を担当しその才能は遺憾なく発揮され、幕府側を撃破し勝利した。大村が幕府と対峙したのは石州口、島根県益田市にある敵の領地を包囲した。正々堂々と姿を見せて戦うのではなく、黒装束姿で賊徒のように奇襲攻撃をしかける戦術に幕府軍は苦しめられたのである。このときに活躍したのは佐久間象山が提唱した砲学に基づいて佐賀藩により開発されたアームストロング砲である。これはライフル式大砲といい、銃身に螺旋状の溝を作ることにより摩擦抵抗を減らし、銃弾が旋回して発射されることにより飛距離と命中率を高めるライフル銃の原理を大砲に応用したもので、開発に尽力したのは佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)である。3か月後には幕府は撤退、わずかに一藩に敗れた幕府の権威は失墜したのである。翌年幕府は崩壊した。ところが、1869年9月大村は京都で襲撃され、全身に六ケ所も深い傷を負い、しばらくして死亡した。
京都三条大橋西詰にある大村益次郎受難の碑


































































