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蘇我氏と仏教

2010年10月19日 | 奈良・飛鳥時代
 欽明天皇のときに仏教は伝来した。 当時の豪族たちは全員反対したなかで、蘇我氏ただひとつだけが仏教を受け入れようとしたと日本書紀には書かれている。 その後、敏達・用明・崇峻天皇の時期も一貫して仏教受容を主張し、これに反対する大伴氏、物部氏と対立した。 対立した要因のひとつとして、天皇の態度に一貫性がなく傍観的であったのである。 それでは何故蘇我氏だけが一貫して受容しようとしたのか。 それは蘇我氏が渡来系の豪族であるという説の根本となっている。 また逆に、実は物部氏は政治的な権力抗争上敵対したものであって物部氏も仏教を受容していたという説もある。 物部氏は前々から海外との交流を活発に行っており、仏教が浸透していった地方を見てみると、河合国の周辺であり、渡来系の豪族を中心としている事実があるというのである。 物部守屋を仏敵とするのは聖徳太子とかかわりの深い四天王寺の縁起にもとづくものとしている。 また、蘇我氏に対抗するために反崇仏派とした政治的な思惑によるものであるとする説である。 そして仏教をめぐる対立も、実は皇位継承に端をほっしたという考え方に近い。 そうすると日本書紀に書かれた崇仏論争は虚構であって物部氏や敏達天皇によりおこなわれた破仏は史実ではないとなる。 物部氏が勢力を誇った現在の八尾市には渋河廃寺があり、廃物論者である 物部の本拠地に飛鳥時代前期の寺院があるのは日本書紀からすれば不可解である。 

 一方天皇側の動きを見てみると、伝来当時の欽明天皇は傍観的な態度を示している。 これは、日本固有の信仰観念に大きな影響を与えるものではない、という判断があった。 しかし敏達天皇の頃になると在来の神々の秩序に悪影響を及ぼすものと考え、破仏を命じた。 そしてその後を継いだ用明・推古天皇の時代では一転して仏教擁護の姿勢になっている。 それは何故か。 用明・推古天皇の母は蘇我氏の母を持ち、仏教に親しむ環境にあった。 しかし宗教が大王の存在基盤を揺るがすものであれば、もっと重要な転換理由があったにちがいない。 元に戻って、敏達天皇は破仏を実施したのであるから、蘇我氏と大王とが全面的に対抗したはずであるが、 実際にはそのような事態には至っていない。  したがって敏達天皇は宗教的な理由から廃物を行ったわけではないと思われる。 先にかいたように、物部氏は積極的に海外交渉に携わっており、排外的な態度をとる保守的な豪族であったとは考えにくい。 百済王が欽明天皇に仏像を贈ったのは、新羅との戦いを有利に導くための外交であり、倭国は百済に援軍を送っている。 この崇仏戦争はもともと百済側からの働きかけによるものであり、欽明天皇が伝来を拒否しなかったのは百済との友好関係を考えてのことでもある。 つまり仏教本来の重要性をわかっての処置ではなかった。

                                   ここ豊浦寺にある難波池に廃仏された

                       
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