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謎の豪族・蘇我氏

2010年10月05日 | 奈良・飛鳥時代
 肌寒い季節になると、京都・奈良に行きたくなる。 今年は遷都1300年記念ということで、いよいよ活動開始である。 その前に再び奈良に関する本を購入した。 それは水谷千秋氏著・謎の豪族曽我氏である。 すでにいやというほど蘇我氏に関する本を読んでいるので、恐らく知らないことは書いていないように思うが、ひょっとして・・と思いつつ読むのが楽しい。 奈良・蘇我氏といえばもちろん588年に蘇我馬子によって建てられた日本最古の寺院・飛鳥寺である。 この寺の近くには蘇我入鹿の首塚や飛鳥板葺宮があり、観光客が絶えない。 板葺宮で殺された入鹿の首が飛鳥寺の近くまで飛んできて埋葬したという伝説によって塚が作られた。 この伝説は奈良の談山神社(紅葉の季節には絶景が味わえる藤原氏ゆかりの神社)に行くと、絵巻としてみることができる。 645年、皇極天皇の御前で行われた三韓朝貢の儀式の場で、入鹿は中大兄皇子、中臣鎌足らによって殺された後、大極殿の庭に捨てられて筵がかぶせられた。 大和政権の最高権力者を公式の場で斬殺するという綿密に計画されて実行されたクーデターは成功した。 乙巳の変である。 中大兄皇子、中臣鎌足らの改革派は、飛鳥寺に篭って、来るべき戦に備えていたのである。 

 乙巳の変の後、動向が注目された諸皇子、豪族達はすみやかに飛鳥寺にはいったが、渡来系の東漢氏のみが蘇我蝦夷に従って改革派に抵抗しようとしたが、やがて説得を受けて最後には投降した。 敗北を悟った蘇我蝦夷は甘樫丘の邸宅に火を放って自殺し、これによって蘇我氏本宗家は滅びたのである。 この甘樫丘の蘇我邸宅については、奈良橿原考古学研究所によって、確か200回以上にもわたって発掘調査が行われていたと思う。 私も何年か前に、調査結果報告の見学会が聞かれたので現地へ行ったことがある。 以来、蘇我氏は一貫して逆賊として扱われてきたという。 歴史というものには真実を隠そうとする意図が働くもので、大化の改新を正当化するためには蘇我本宗家を逆賊として描く必要があった。 それを日本書紀に描いたのは藤原不比等である。 しかしながら蘇我氏は日本古代史における最大の豪族であり、大和政権の発展にもっとも大きな貢献をした豪族でもある。 宣化天皇から欽明天皇の時代に大臣を務めた蘇我稲目、その子で敏達・用明・崇峻・推古天皇の時代に大臣として仕えた蘇我馬子、またその子で皇極天皇時代まで仕えた蘇我蝦夷、皇極天皇時代には父をしのぐ権力を得た蘇我入鹿については、古代史には不可欠な蘇我4代なのである。 

 蘇我氏の研究が本格的に行われて飛鳥寺近辺の発掘調査が行われ始めたのは昭和32年のことらしい。 しかし、いまだに蘇我氏の実像は隠れていて見えないところが多いという。 その出自に関しても渡来人説や葛城氏の末裔説などがあり、急速な台頭の理由もはっきりしない。 蘇我馬子と厩戸の皇子・推古天皇との関係についても色々な説がある。 この本では少しでも蘇我氏の実像に迫るということで、いきなりわくわくしてきた。 すこしずつ水谷千秋氏論を紹介していこうと思う。

                         2007/02/11 飛鳥甘樫東麓見学会 蘇我蝦夷の邸宅跡調査結果報告 

  

    
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