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桓武天皇の異母兄・開成皇子の墓

2018年12月30日 | 天皇・皇后陵

 2007/12/28、ここ開成皇子の御陵墓を目指したが断念。今回は二回目の訪問挑戦です。開成皇子724-781年は、奈良時代の僧で父は光仁天皇、母は不明。つまり桓武天皇とは13歳違いの異母兄になります。摂津国勝尾寺の開基と伝えられ、765年宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒した。両師の発願した大般若経書写の遺志をつぎ、八幡大菩薩の加護を受けて6年の歳月をかけて完成させたという。勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺(勝尾寺)と号したという。 781年に58歳で没。

天武天皇631-686   軽皇子(42代文武天皇) 683-707
 ┣ 草壁皇子662-689 ━┛  ┃ 
持統天皇41代645-703      ┃ 
蘇我娼子娘            ┃
  ┣武智麻呂(南家)680-737 ┃ 
  ┃   ┣ 豊成704-765    ┃ 
  ┃  ┃   ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信           
  ┃  ┃     -796  -808 ┃
  ┃   ┣ 乙麻呂         ┃
  ┃   ┃   ┗是公      ┃ 
  ┃  ┃     ┗ 吉子,雄友┃ 
  ┃  ┃ 大伴犬養娘-764 ┃         多治比真宗769-813 
  ┃  ┃  ┣ 刷雄?-?   ┃             ┃是公娘・吉子 -807    
  ┃   ┣ 仲麻呂706-764  ┃後に恵美押勝  ┃┣ 伊予親王
  ┃ 貞姫  ┣ 真従,真先 ┃         ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
  ┃     房前娘・袁比良女┃         ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
  ┣房前(北家)681-737   ┃元正の内臣  ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃      和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃        ┣山部王(桓武天皇)737-806  
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂    ┃右大臣     ┃ ┃           
  ┃  ┗ 鳥養   ┗ 冬嗣 ┃       ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)  
  ┃       ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察  ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃       ┗葛野麻呂 ┃-818      ┣ 早良親王(大伴家持派)  
  ┣宇合ウマカイ(式家)694-737 ┃        ┃
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃        ┃? 
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃         ┃┣ 開成皇子724-781(勝尾寺開基)
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃      白壁王(49光仁天皇)709-781        
  ┃   ┃ 阿部古美奈     ┃       ┣ 他部親王          
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)   
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┗朝原内親王779-817(平城妃)    
  ┃  ┃  ┗ 旅子        ┃ ┣ 井上内親王717-775      
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王          
  ┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反       
  ┃       ┃ ┣ 薬子-810 ┃ ┃    塩焼王 大伴家持 坂上苅田麻呂  
  ┃       ┃ ┗ 仲成     ┃ ┃          
  ┃       ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃          
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744   
  ┃┣麻呂(京家)695-737  ┃ ┃     
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃   701-756     
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45代聖武天皇)   
  ┃┃  ┣ 藤原宮子-754 ━┛ ┣ 基皇太子727-728  
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
藤原不比等 659-720          ┃ 吉備真備 玄坊 行基を重用
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733                  
        ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用) 
     ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757    
      ┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737     
      ┣ 牟漏女王       
     美努王 
   栗隅王┛ 
  大俣王┛ 
難波皇子┛

勝尾寺

本堂

二階堂

 

開成皇子墓への遊歩道 2018年の台風による倒木が酷い

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佐賀-2 都紀女加王墓

2018年11月20日 | 天皇・皇后陵

 佐賀県吉野ケ里遺跡の東側2kmほどのところにあるのが、ここ都紀女加王墓。古墳は前方後円墳で墳丘長は49mらしい。この一帯の丘陵地は目達原古墳群と呼ばれている。「国造本紀」では、第13代成務天皇の世に息長公同祖の稚沼毛二俣命孫の都紀女加を国造に定めるとある。従って都紀女加は第20代安康天皇・第21代雄略天皇の従兄弟にあたる。

          高城入姫命(仲姫命同母姉)                            
           ┣額田大中彦皇子                                   
           ┣大山守皇子                                   
           ┣去来真稚皇子                                  
           ┃                                  春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    ┃  宮主宅媛                 ┣橘仲皇女 
   葛城高額媛     ┃ ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
   ┣神功皇后170-269 ┃  ┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃     ┃ ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛  ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 麛坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┣ 飯豊青皇女(記紀) 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
           応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
           ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
   開化天皇┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
    ┣和気王┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃
    鸇比売  ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰┛   ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰    ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┃       ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃吉備臣┃┏━┃━┛       ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰  ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
 ┗巨勢小柄宿禰  ┗葛城蟻臣  ┣忍坂大中姫      
   ┃              ┗荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ)
   ┗□-□-巨勢男人-529
        ┣胡人-巨勢徳太-658-巨勢黒磨
        ┣紗手媛 (安閑天皇妃)
        ┗香香有媛(安閑天皇妃)

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安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)

2018年11月19日 | 天皇・皇后陵

 ここは山口県下関市豊田町大字地吉(豊田湖の畔)、安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)である。今まで安徳天皇御陵墓参考地は四国の二か所(横倉山など)を含めて何か所か行っている。壇ノ浦の戦いで安徳天皇は入水したが、実は身代わりが使われたのかもしれない。源氏方による平家追討の手が伸びることは、当然平家方にとって予想できたはず。ならば、壇ノ浦の船上に身代わりの帝を乗せ、それが発覚した際に備え、源氏方を混乱させるべく、さらに複数の身代わりを立てていたとも考えられる。

 壇ノ浦の合戦後、源義経は沿岸の漁師を動員して、三種の神器・水没した神剣<天叢雲剣>を探していた。沢江浦の漁師が底引き網を曳いていると、安徳天皇の御尊骸が網にかかって発見されたという。潮の流れが速かったのか、関門海峡から一旦西の響灘(日本海)へ流れ、その後対馬海流に乗り、大津郡三隅町沢江浦(現在の長門市)の漁師の網に、亡骸が掛かったという。御尊骸と網を棺に移して運んでいた地に「御籠立場」がある。南方の人里離れた丘に御尊骸を埋葬したのが現在の「安徳天皇西市御陵墓」なのだという。源平合戦の最終戦となる壇ノ浦の戦いの前、平氏方の戦力は、平知盛を大将とし、松浦党、山鹿秀遠らの軍勢を併せ約500艘といわれている。これに対し、源氏方は義経を総大将として、水軍では伊予水軍、熊野水軍、阿波水軍、讃岐水軍などが加勢して840艘に及び、さらには陸上の門司海岸に源範頼軍が3万もの大軍を構え布陣していた。文字通り平家方にとっては背水の陣であるが、実態はその前の屋島の戦いで制海権を失い、既に勝負は見えていたはずである。この段階で、なおも安徳天皇を奉じて戦いに臨んだのである。

 

御陵墓前から見た豊田湖

 前方50メートルの湖底より古刀が出土し、安徳天皇の御尊骸の御衣の穢れを洗い清めたとの記載がある。ダムができる昭和55年(1980)ごろまで湖底には70軒の集落があり、「先帝祭り」という神事が行われてきたという。

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西園寺姞子・粟田山陵

2018年07月17日 | 天皇・皇后陵

 西園寺姞子1225-1292の父は太政大臣・西園寺実氏、母は四条貞子で四条天皇の乳母である。18才の時に後嵯峨天皇(23才)の即位を受けて女御となると、二か月後には中宮となる。19才で久仁親王(後深草天皇)を生み生後2ヵ月で立太子させる。ほかには、 綜子内親王(1247-1269)、 恒仁親王(1249-1305亀山天皇)、雅尊親王(1254-1256)、恒尊親王、貞良親王、理子内親王(亀山天皇皇女)、西園寺嬉子(亀山中宮・今出川院)等がいる。後嵯峨天皇が4歳の後深草天皇に譲位して上皇となると、「大宮院」の称号を与えられた。

 後嵯峨法皇が1272年に崩御すると西園寺姞子は出家。法皇の遺産は彼女と円助法親王が受け継ぐこととなる。具体的な選任は鎌倉幕府に一任されたが、困惑した幕府は姞子に一任・・。これに対して姞子は亀山上皇を推挙したため幕府はそれに従った。これに対して亀山上皇の兄である後深草上皇が反発して円助法親王と亀山上皇の策動を疑い、鎌倉幕府に対して自分の子への皇位継承を要望した。こういった経緯から、これが後深草天皇の持明院統北朝と亀山天皇の大覚寺統南朝の両統迭立の発端となる。 

                    三条治子(西御方)            
              足利尊氏1305-1358    ┣伏見宮治仁王 ②1370-1417
               ┣足利頼子 源資子 ┣伏見宮貞成親王③1372-1456
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮①)1351-1416    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇1377-1433
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王
 ┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃    藤原仲子1339-1427
 ┃  ┃  ┃┣尊園親王1298-1356   ┣尊道親王1332-1403
 ┃  ┃  ┃三善衡子     正親町実明女
 ┃  ┃  ┗━━━━┓
 ┃藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃        藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                                          ┃
                  伊岐致遠女                               ┃
    源懿子1116-1143   ┣79六条天皇1164-1176                       ┃
       ┣78二条天皇1143-1165                               ┃
 ┏77後白河1127-1192      更衣尾張局                            ┃
74鳥羽    ┃                    ┣道覚親王1204-1250 藤原立子(東一条院)  ┃
 ┣覚快法┃親王1134-1181        ┃   修明門院藤原重子┣85仲恭天皇1218-1234┃
  紀家子 ┣80代高倉天皇1161-1181┃     ┣84順徳天皇1197-1242     ┃
   平滋子┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239             ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇1196-1231    ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃┣87四条天皇1231-1242 ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇┛
       ┃ ┃  ┃藤原竴子1209-1233   ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
      ┃ ┃ ┃持明院基家┛                       ┣宗尊親王    ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┃1242-1274   ┃
          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)   平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃
 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃平時仲女 
 ┃┣慈道親王1282-1341 
 ┃┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                  不明 
 ┃┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)        ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-         阿野廉子1301-1359  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇1343-1394
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇1347-1424       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王1300-1326┃
            ┃      ┣邦省親王1302-1375┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
            ┃ ┃             ┃┃┣恒性皇子
     藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362   ┃┃┣護良親王1308-1335         
               ┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
 ┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
 ┣左大臣公衡1264-1315            ┃┣宗良親王1311-1385  
 ┣太政大臣兼季1281-1339            ┃二条為子
 ┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
 ┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮)     ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322              ┗遊義院一条局

粟田山陵は南禅寺の境内にあり、水路閣も人気のスポット

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第6代・孝安天皇の玉手丘上陵

2016年09月16日 | 天皇・皇后陵

 孝安天皇陵は孝昭天皇陵の東に1.5kmのところ玉出に位置し日本武尊命陵のすぐ北側にある。 後陵は小高い山の上にあり車ですぐ近くまで行ったものの御陵の前まで行く元気がなくなっていたため今回は断念。 孝昭天皇の皇子として生まれた日本足彦国押人尊は皇太子となった15年後に孝昭天皇が崩御すると、孝安天皇として即位し都を室の秋津嶋宮に移した。後に押媛命(兄の天足彦国押人命の娘)を皇后とし大日本根子彦太瓊尊(後の孝霊天皇) 、大吉備諸進命を産んだ。事績はなし。

  

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第5代・孝昭天皇の掖上博多山上陵

2016年09月10日 | 天皇・皇后陵

 孝昭天皇陵は近鉄御所駅の近く国道沿いに位置しますのですぐに見つけることが出来ます。 懿徳天皇陵の皇子として生まれた観松彦香殖稲尊は18歳で皇太子となり12年後の懿徳天皇崩御に際に孝昭天皇として即位した。 都を掖上池心宮に移し、世襲足姫を皇后とし天足彦国押人命、 日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)を産む。事績はまったくない。

 

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第4代・懿徳天皇の畝傍山南繊沙渓上陵

2016年09月07日 | 天皇・皇后陵

 懿徳天皇陵も安寧天皇陵と同じくは神武天皇陵の西側、畝傍山を隔ててすぐのところにあります。安寧天皇の第二子として生まれた大日本彦耜友尊は16歳で皇太子となり、27年後に安寧が崩御すると懿徳天皇として即位した。都を軽の曲峡宮に移し同年息石耳命の娘にあたる天豊津媛命を皇后に立て観松彦香殖稲尊(後の孝昭天皇)、武石彦奇友背命(天豊津媛命ともいう)を産んだ。第3代安寧天皇と同じく事績はなし。 

 

 

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第3代・安寧天皇の畝傍山西南御陰井上陵

2016年09月04日 | 天皇・皇后陵

 安寧天皇陵は神武天皇陵の西側、畝傍山を隔ててすぐのところにあります。 綏靖天皇が即位した年に五十鈴依媛命を皇后に立て、磯津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)を産み21歳の時に皇太子となる。8年後に綏靖天皇が崩御すると磯津彦玉手看尊が即位して安寧天皇となる。都を葛城の高丘宮から浮穴宮に移したという。即位3年後に事代主神の孫・鴨王の娘・渟名底中媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を皇后とし息石耳命(おきそみみのみこと)と日本彦耜友尊(やまとひこすきとものみこと(後の懿徳天皇),磯城津彦命(しきつひこのみこと)を産む。記紀には事績に関する記載はない。

 

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第2代・綏靖天皇の桃花鳥田丘上陵

2016年09月03日 | 天皇・皇后陵

 桃花鳥田丘上陵とは第二代綏靖天皇の陵であり、奈良県橿原市にある塚山古墳(径16mの円墳)に比定されている。 神武天皇を父とする三兄弟の末皇子である綏靖天皇は、2人の弟を殺し皇位を奪おうという野心を持った異母兄で長兄の手研耳命の謀を事前に知り、すぐ上の兄である神八井耳命と共に先手をうって手研耳命を殺そうします。その際武器を持って先に部屋に入ったにもかかわらず恐れをなして長兄を殺す事ができなかった神八井耳命に代わって手を下したのが綏靖天皇でした。神八井耳命はこれを恥じ弟の方が皇位にふさわしいと述べてその地位を譲ります。 後に五十鈴依姫を立てて皇后(天皇の母方の叔母)とし、磯城津彦玉手看天皇(即位して安寧天皇となる)を生んでいる。

     ┏  玉櫛媛(溝橛媛)               
 溝橛耳神 ┣   五十鈴依媛命   渟名底仲媛命┏天豊津媛命
      ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛┗━━━━┓ ┣息石耳命┣5孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)
      ┃(富登多々良須々岐比売命) ┃ ┣4懿徳天皇(大日本彦耜友尊)┃┃┃
         大物主命  ┣ 神八井耳命   ┃ ┃             ┃┃大井媛
 天照大神 (事代主神)┃ ┗・・太安万侶 ┃ ┣磯城津彦命        ┃┃
    ┣大国主┛    ┣ 日子八井命   ┣3安寧天皇(磯城彦玉手看尊)  ┃┃ 
      ┣加夜臣奈留美┣ 2綏靖天皇(渟名川耳尊)  ━┓┏━━━━━━━┛┃
 スサノオノミコト   ┣ 岐須耳命    ┃ ┃      ┃┃      渟名城津媛
   鵜葺草葺不合命┣ 吾平津媛    ┛糸織姫   ┃┃
              ┣1神武天皇(磐余彦)         x ┃
              ┣五瀬命,稲飯命,三毛入野命      ┃┃
            玉依姫命┣ 手研耳命          ━┛┃
                 吾平津姫(日向)            ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ 長髄彦(ナガスネヒコ)         埴安媛(河内青玉繋娘)
 ┃       ┏押媛命                 ┣武埴安彦命
 ┃        ┃  ┣大吉備諸進命                ┃伊香色謎命
  ┣天足彦国押人命┣7孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)┃┣彦太忍信命(武内宿禰の祖父)
  ┣6孝安天皇(日本足彦国押人尊)┃     ┣8孝元天皇(大日本根子彦国牽尊)
 世襲足媛  ┃┃        ┃   細媛命┣大彦命
        ┃長媛  ┏━━━━┛      ┣9開花天皇(稚日本根子彦大日日尊)
       五十坂媛 ┃           ┣迹迹姫命┃┃┣彦湯産隅命
            ┣倭迹稚屋姫命 欝色謎命(出石心命孫┃┃竹野媛
            ┣倭迹迹姫命                ┃姥津姫━彦巫王 
            ┣吉備津彦命           ┣10崇神天皇(御間城入彦)
           欝色謎命(倭国香媛)       伊香色謎命

 

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初代・神武天皇の畝傍山東北陵

2016年09月02日 | 天皇・皇后陵

 最近歴史ネタ掲載をさぼっていますので神話の時代・紀元前700年の頃の話から復習。 オオクニヌシは八尋の鰐に化けて三島の玉櫛媛に通って生ませたのがタタリスキ媛という。容姿麗しい乙女・玉櫛媛が川で大便をしていたときに、丹塗り矢に化けたオオクニヌシは彼女のホト(陰部)に突き刺さったというのです。日本書紀ではすっきり結婚したと記しているらしいが、古事記では生々しい限りです。そして矢を持ち帰って置いていたら、矢が麗しい男になり結婚して生まれたのが富登多々良須々岐比売命です。 

 神日本磐余彦尊(即位後に神武天皇)が日向にいた頃に隼人系の吾平津姫(アヒラツヒメ)を妃にして手研耳命(タギシミミノミコト)を産んだ。 その後、大船団で大和入りをして、畝傍山東南の橿原に橿原宮を造る。 その後何故か大阪北東部の三島出身の富登多々良須々岐比売命を正妃とした。大和の橿原宮に落ち着いたのであるから、大和の豪族の女を妃にしてもよさそうであるが謎…。 イワレ彦の首脳である大久米(久米直の祖)の勧めで富登多々良須々岐比売命を妃にしたらしいが、理由は先ほどの陰部に突き刺さった矢の話を持ち出して「神の子」ということである。  「丹塗り矢がホト(陰部)に突き刺さって富登多々良須々岐比売命が産まれた」に関して、福岡市の早良平野に拾六町ツイジ遺跡があり、鏃に陰部を彫った遺物が出ているらしい。また早良平野に昔、多田羅村があったり、流れる川が多田羅川だったりすることから記紀だけの伝承ではなさそうである。 イワレ彦は富登多々良須々岐比売命との間に渟名川耳尊をもうけたが、日向の手研耳命との間に対立が生じ、手研耳命は殺され綏靖天皇が誕生したのである。

 さて神武天皇を遡っていくと、父は鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)、その父は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、その父は日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)となり、この3人のことを「日向三代」と云う。また、日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)の父は天忍穂耳命(アメノオシホミミ)といって天照大神の子になります。素戔男尊が天照大神の勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)と結婚します。 

 アシナツチ(出雲の斐井川)
  ┣稲田姫神(イナダヒメノカミ)  八岐大蛇の生贄になる寸前にスサノオノミコトに助けられる
 テナツチ ┃(来訪神に仕える巫女)草薙剣をアマテラスに献上 倭姫→ヤマトタケル→尾張熱田神宮
        ┗━┓-        後に須賀に宮殿を造営 出雲の支配者となる。
      ┃  ┣建御名方タケミナカタ(出雲国譲に反対 諏訪湖に追放)⇔タケミカヅチ
      ┃  ┃事代主神(天武の守護神)
伊邪那岐命 ┃  ┃武神フツヌシ 高倉下献上の霊剣が神格化
    ┣ヒルコ  ┣大国主神(オオナムヂ→アシハラノシコオ→ウツシクニタマ→オオクニヌシノミコト大穴牟遅神)
    ┣アハシマ ┃オオムナヂ :異母兄弟神(八十神)に仕える少年神→ヤガミヒメ(因幡国)を得る     
    ┃   ┃  ┃アシハラノシコオ:八十神を逃れて冥府王・スセリヒメと結婚
    ┃   ┃  ┣島根美保神社の神 
    ┃   ┃高志(糸魚川付近)の巫女・沼河比売ヌナカワヒメと結婚
    ┣素戔鳴尊(スサノオノミコト)冥府,天照大神により高天原を追放後出雲国へ天降る
    ┃     ┣スセリヒメ(地下冥府の王)
    ┃     ┃   ┣  
    ┃     ┃アシハラノシコオ(ヤガミヒメ・キサガイヒメ・ウムガイヒメの霊力をもらう)→オオクニヌシ
   ┃     ┃ (カムムスヒの御子神・クスナビコナとともに出雲国を完成させる)
   ┃     ┗イソタケル(スサノヲと共に新羅へ渡る)   
  ┣天照大神 ━━┓(アマテラスオオミカミ) 太陽の神
  ┃(高天の原)   ┃八咫鏡を授ける ニニギノミコト(日向可愛山陵)
  ┃          ┃(垂仁期に倭姫伊勢へ祀)↓┣火闌降命ホスソリ(海幸彦)隼人始祖
  ┃スサノヲノミコト    ┃ ↓      日向の襲┣彦火火出見命(山幸彦)高屋山上陵
  ┃ ┣大年神   ┃ ↓      (高千穂)┃ ┣鵜草葺不合命(吾平山上陵)
  ┃ ┣ウカノミタマ稲荷┃ ↓         ↓┃┏豊玉姫┣神武天皇(四男)
  ┃┏神大市比売神┃ ↓        空国┃┣玉 依 姫
  ┣大山祇神━━  ┃ ↓(オオヤマツミ) ━┓  ↓┃大綿津見神(日本神話で最初に登場)  
  ┃┃         ┃ ↓      ┃ 吾田┣火明命(尾張連始祖)
  ┃┣四対八神の神┃ ↓      ┣神吾田津姫・コノハナサクヤ姫(端陵)
  ┃鹿屋野比売神  ┃ ↓      ┗姉・磐長姫・コノハナチル姫(醜い為送り返される)
  ┃        ┃ ↓          ┣
  ┃        ┃ ↓       八島士奴美神(スサノヲの子)
  ┃        ┃石凝姥に作らせる 西都原古墳群・メサホ塚古墳がコノハナサクヤ姫陵? 
  ┃          ┃ ┣紀伊の日前神(天香山の銅で鋳造)
  ┃          ┃ ┗伊勢大神
  ┣月弓尊       ┃(ツキユミノミコト)  月の神 五穀の起源
  ┣大宜都比売神 ┃(オオゲツヒメノカミ) 五穀の神 保食神 豊受姫命 
    ┣迦具土神   ┃(カグツチノカミ)火神 母の陰部を焼焦がし誕生。十拳剣にて死す
 伊邪那美命    ┃
 (根堅洲国)    ┃甕襲ミカソの犬・足往が八坂瓊ヤサカニ勾玉を垂仁に献上→石上神社
          ┃  
┏━━━━━━━━━┛
┗┓ 
 ┣天穂日命(アメノホヒ)出雲の祖。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。
 ┃         出雲平定の為にアマテラスに派遣されるがオオクニヌシに寝返る
 ┣ネアマツヒコネ  萬幡豊秋津師比売命(高木神の娘) 
 ┣イクツヒコネ   ┣天火明命(アメノホアカリ)
 ┣クマノクスビ     ┣瓊瓊杵尊(ニニギノミコト) 
 ┃         ┃ ┣火遠理命(山幸彦) 
 ┃         ┃木之花サクヤビメ ┣鵜葺草葺不合命 
 ┃         ┃        豊玉姫
 ┣天忍穂耳命(アメノオシホミミ)スサノオガアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男
 ┣建甕槌命 (タケミカヅチノミコト)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┃           磐筒女(イワツツヒメ)の子
 ┃           出雲・稲佐浜でコトシロヌシと闘争
 ┣布都御魂神 (フツノミタマノカミ)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┣菊理姫神 (ククリヒメノカミ)伊邪那岐命・伊邪那美命が喧嘩をしたときに調停する白山の神、農耕神
 ┗天宇受売神(アメノウズメノカミ)巫女の元祖 岩戸では陰部もあらわに踊ります サルタヒコの妻伝承あり

      ┏  玉櫛媛(溝橛媛)               
 溝橛耳神 ┣   五十鈴依媛命   渟名底仲媛命┏天豊津媛命
      ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛┗━━━━┓ ┣息石耳命┣5孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)
      ┃(富登多々良須々岐比売命) ┃ ┣4懿徳天皇(大日本彦耜友尊)┃┃┃
 天照大神 事代主神    ┣ 神八井耳命 ┃ ┣磯城津彦命        ┃┃大井媛
    ┣オオクニヌシ┛ ┃      ┣3安寧天皇(磯城彦玉手看尊)  ┃┃ 
      ┣加夜臣奈留美   ┣ 2綏靖天皇(渟名川耳尊)━┓┏━━━━━━━┛┃
 スサノオノミコト       ┣ 岐須耳命  ┃ ┃      ┃┃      渟名城津媛
     鵜葺草葺不合命┣ 吾平津媛  ┛糸織姫   ┃┃
                  ┣1神武天皇(磐余彦)       x ┃
                  ┣五瀬命,稲飯命,三毛入野命    ┃┃
                玉依姫命┣ 手研耳命        ━┛┃
                    吾平津姫(日向)          ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ 長髄彦(ナガスネヒコ)          埴安媛(河内青玉繋娘)
 ┃       ┏押媛命                 ┣武埴安彦命
 ┃        ┃  ┣大吉備諸進命                ┃伊香色謎命
  ┣天足彦国押人命┣7孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)┃┣彦太忍信命(武内宿禰の祖父)
  ┣6孝安天皇(日本足彦国押人尊)┃     ┣8孝元天皇(大日本根子彦国牽尊)
 世襲足媛  ┃┃        ┃   細媛命┣大彦命
        ┃長媛  ┏━━━━┛      ┣9開花天皇(稚日本根子彦大日日尊)
       五十坂媛 ┃           ┣迹迹姫命┃┃┣彦湯産隅命
            ┣倭迹稚屋姫命 欝色謎命(出石心命孫┃┃竹野媛
            ┣倭迹迹姫命                ┃姥津姫━彦巫王 
            ┣吉備津彦命           ┣10崇神天皇(御間城入彦)
           欝色謎命(倭国香媛)       伊香色謎命

畝傍山東北陵

 

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昭和天皇武蔵野陵

2013年09月13日 | 天皇・皇后陵

 今まで紹介してきた多摩陵、多摩東陵、武蔵野東陵に続いて今回紹介するのは武蔵野陵つまり昭和天皇陵である。東京・横浜・鎌倉などは行くことがあっても、なかなかここ多摩陵、武蔵野陵まではこれなかったが、今年の5月に横浜へ行くことがあり、しかも十分に自由時間がとれたために、JR,タクシーと乗り継いで天皇・皇后4-陵を訪れた。実はこれにてすべての天皇陵を訪れ、10年前に立てた予定を制覇することとなった。次は皇后陵制覇であるが、恐らく同時制覇しているのではないかと思うのである。例えば初代神武天皇の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛命であるが、媛蹈鞴五十鈴媛命陵などは存在しない。また、媛蹈鞴五十鈴媛命の墓もしくわ古墳なのではないかとして参考陵扱いされている墓もない。しかし第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命の場合はというと、佐紀盾列古墳群に属するヒシアゲ古墳が磐之媛命陵と治定されていて、これらに類する陵もしくは古墳はすべて訪問した。もしも治定はされていないが、媛蹈鞴五十鈴媛命の墓と思われる古墳があれば、ぜひとも訪れてみたい。ということで皇后陵はすべて制覇していないということで楽しみは先に残しておこう。

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香淳皇后武蔵野東陵

2013年09月06日 | 天皇・皇后陵

久邇宮家出身の女王・良子 父は久邇宮邦彦王、母は12代薩摩藩主・島津忠義の七女俔子で明仁親王(今上天皇)の母でもある。2000年6月に97歳で崩御されたのは記憶に新しい。

昭和天皇の皇后・香淳皇后の陵

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貞明皇后多摩東陵

2013年09月05日 | 天皇・皇后陵

 多摩陵の東にあるのが貞明皇后多摩東陵。もちろん大正天皇の皇后様の陵である。旧名・九条節子さんは、1900年、15歳のときに5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約、結婚した。大正天皇との夫婦仲は大変よく、慣例を打ち破ってまで夫の身辺の世話をしたという。皇子を4人をもうけ、一夫一妻制を確立した。その一人が昭和天皇である。貞明皇后の祖父の祖父・二条宗基の生母は、徳川吉通(徳川家康の来孫)の娘であり、宗基の祖父の祖父・九条道房の生母完子は豊臣秀勝(豊臣秀吉の甥)と江(織田信長の姪)の娘であるから、現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏の血を受け継いでいるのである。

ちょっと遠いのですが、誰もいない閑静な自然いっぱいの場所です。是非どうぞ 以下は一般拝所のような大岩

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大正天皇多摩陵

2013年09月04日 | 天皇・皇后陵

 久しぶりの天皇陵訪問です。これで一箇所を残してすべての天皇陵を訪問したことになります。ここ大正天皇陵の位置は八王子多摩、ここ皇室墓地は貞明皇后陵・昭和天皇・香淳皇后陵と併せて4陵があります。横浜からJRで80分くらい揺られて高尾駅で下車したあと御陵まではタクシーで行き、参道を歩くこと約1kmという工程です。通称多摩御陵の形態は上部2段・下部3段の上円下方墳で、明治天皇の伏見桃山陵が参考になっているようでそっくりです。ところで、大正時代は15年しかないことでわかるように大正天皇は47才で崩御されています。下記の系図でもわかるように明治以降、一夫一婦制を採った天皇で、生来健康には恵まれず、重病を伴って生まれたが、明治天皇の皇后一条美子との間に皇子はおらず、側室の皇子、皇女は相次いで薨去していたために皇太子となった。1919年には食事も困難なほど公務・心労の病状は悪化し、1921年に事実上の退位となり 裕仁親王が摂政に就任。このときの正式発表により病弱な天皇と一般に認識された。

持明院基子-1644
┣堯然親王1602-1661
┃中山親子
┃┣良仁親王(覚深法親王) 櫛笥隆子(逢春門院)
107後陽成天皇        ┣桂宮3穏仁親王  明子女王(好仁親王娘)
 ┣聖興女王 水無瀬氏子  ┣光子内親王     ┣八条宮(桂宮4)長仁親王 
 ┣清子内親王 ┣性承法親王┣有栖川宮2良仁親王(111後西天皇)┏有栖川宮4正仁親王
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680       ┣有栖川宮3幸仁親王
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王(109明正天皇) 清閑寺共子
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙(左大臣)  ━┓1648-1722
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┣近衛熙子1666-1741(天英院)
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃ ┣豊姫1681-1681
 ┃有栖川宮初代 ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)┃ ┣夢月院1699-1699
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王         ┃徳川家宣1662-1712(6代将軍)
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)1607-1678 ┃ ┣家継1709-1716(7代将軍)
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇)   ┃ ┃┣-
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王         ┃ ┃吉子内親王1714-1758         
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)       ┃ ┃       
近衛前子(中和門院)┣常子内親王1642-1702     ━┛お喜世1685-1752(月光院) 
                  ┣堯恕親王1640-1695 高木敦子     
                  ┃五条庸子1660-1683  ┣楽宮喬子1795-1840(浄観院)     
         ┃┣堯延親王1676-1718  ┃  ┏8幟仁親王     鷹司吉子      
         ┃┃松室敦子-1745    ┣7韶仁親王       随願院┣5愛仁      
         ┃┃┣堯恭親王1717-1764┃不明           ┣4孝仁親王      
         ┃┃┃      不明 ┃┣済仁親王        ┃女房むめ
         ┃┃┃ 不明    ┣有栖川6織仁親王   大江磐代┃┣喜久宮
         ┃┃┃ ┣覚仁親王 ┃  幸子女王(承秋門院) ┣閑院宮3美仁親王
         ┃┃┣有栖川宮5職仁親王 ┣秋子内親王    ┃女房りて 
         ┣識仁親王(112霊元天皇) ┃ 讃岐(伊藤一中娘)┃┣深仁親王
 園国子(新広義門院)┃┃ ┣栄子 ┣朝仁親王(113東山天皇) ┣閑院宮2典仁親王┓  
          ┃┃鷹司房子 ┃        ┃   ┃    ┣鏗宮  ┃
          ┃┃新上西門院┣京極文仁親王  ┃   ┃    交野    ┃
          ┃┣寛隆法親王┃ ┣守恕親王  ┃   ┃ 五条寛子    ┃
          ┃愛宕福子  ┃家女房     ┃   ┃ ┣遵仁法親王 ┃
          ┣吉子内親王 ┃        ┃閑院宮┃ ┃小森頼季娘 ┃
         敦子┣-    松木宗子(敬法門院)┣1直仁親王 ┃┣慈仁親王 ┃
            徳川家継1709-1716      ┣慶仁親王(114中御門天皇)┃    
                    櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃        ┃
                             ┣昭仁親王━┓   ┃
                           近衛尚子    ┃   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   ┃
┃姉小路定子(開明門院)       近衛維子(盛化門院)            ┃
┃      ┣遐仁親王(116桃園天皇)  ┣欣子内親王(光格天皇中宮)     ┃  
┗昭仁親王(115桜町天皇)     ┣英仁親王(118後桃園天皇)         ┃  
  ┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院)             ┃        
 二条舎子(青綺門院)                            ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃大中臣祐智女 欣子内親王                  
 ┃ ┣美仁親王   ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)           
 ┗典仁親王    ┣悦仁親王 ┣安仁親王       
  ┣兼仁親王(119光格天皇) ┣慈悲心院宮       九条夙子(英照皇太后)女御1835-1897         
  大江磐代(蓮上院)┣恵仁親王(120仁孝天皇)    ┣順子内親王-富貴宮                 
         勧修寺婧子┃   ┣統仁親王(121孝明天皇)1831-1867    
              ┃正親町雅子(新待賢門院)┣睦仁122明治天皇 ━┓     
              ┣摩尼珠院宮     中山慶子1836-1907典侍 ┃ 
             鷹司祺子(新朔平門院)              ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃一条美子1849-1914昭憲皇太后
┃ ┃園祥子1867-1947典侍
┃ ┃  ┣聡子
┃ ┃  ┣允子
┃ ┃  ┣房子
┃ ┃  ┣昌子
┗明治天皇1852-1912
   ┣嘉仁親王(123大正天皇)1879-1926
 柳原愛子1859-1943 ┣裕仁親王(124昭和天皇)1901-1989
          ┣秩父宮1902-1953 ┣照宮成子内親王1925-1961
          ┣高松宮1905-1987 ┣久宮祐子内親王1927-1928
          ┣三笠宮1915-   ┣孝宮和子内親王1929-1989
    九条節子(貞明皇后)1884-1951  ┣順宮厚子内親王1931-
                   ┣継宮明仁親王1933-  125今上天皇
                   ┃ ┣皇太子徳仁親王1960-
                   ┃ ┃┣愛子内親王2001
                   ┃ ┃小和田雅子
                   ┃ ┣秋篠宮文仁親王1965-
                   ┃ ┃┣眞子、佳子、悠仁 
                   ┃ ┃川嶋紀子
                   ┃ ┣清子
                   ┃美智子皇后1934-
                   ┣義宮正仁親王1935-
                   ┣清宮貴子内親王1939- 
              久邇宮良子(香淳皇后)1903-2000

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近衛天皇と安楽寿院南陵

2011年01月21日 | 天皇・皇后陵
 鳥羽上皇が皇后の美福門院・得子のために安楽寿院のなかに建てた新御塔に、近衛天皇は葬られた。 この陵は現在安楽寿院南陵といわれている。 近衛天皇の死が藤原頼長が愛宕山で天狗の目に釘を打ち込むという呪詛によるという噂がたった後 保元の乱が始まる。 

 76代近衛天皇は鳥羽天皇・藤原得子(美福門院)の皇子で、藤原璋子(待賢門院)の皇子・崇徳天皇譲位のあと即位する。 崇徳天皇は妃・藤原聖子との間の重仁親王を即位させたかったが、当時鳥羽上皇には藤原璋子に意がなく、寵愛妃・藤原得子との間に生まれた体仁親王を近衛天皇として幼帝を即位させた。 実は、藤原璋子(待賢門院)は白川法皇から格別な寵愛を受けており、鳥羽上皇は顕仁親王(崇徳)を自分の子であるとは考えていなかった。白川と藤原璋子の間にできた子であろうと・・・・。 こうして崇徳と鳥羽親子の間には確執が生まれており、崇徳は後々幸せ薄い人生を送ることとなるのである。 当時摂関政権を握っていたのが藤原忠実の息子藤原忠通と藤原頼長である。 もちろん外戚関係を築くべく頼長は養女としていた藤原多子を近衛天皇妃として入内させる。また、忠通は藤原伊通・娘の呈子(シメコ)を養女としてむかえており、呈子シメコを近衛天皇妃として入内させる。 話は前後するが、忠通・頼通はお互いに藤原忠実の息子で年齢は25歳はなれていた。忠通は温厚であったが、頼長は悪左腑と呼ばれたように腹黒い一面があった。 父・忠実は政治手腕という意味で、温厚な長男よりも、やり手の次男・頼長をかわいがっていた。 というよりも長男・忠通を毛嫌いしていたのである。 後に父・忠実は長男・忠通を勘当している。 考え方も風貌もまったくの正反対の兄弟に異様な空気が流れていたことは計り知れる。 しかし幼い近衛天皇はというと温厚な兄のほう忠通が好きであった。 政治的には兄・忠通は失脚していくが天皇の信望は集めるのである。  しかし、病弱な近衛天皇は1155年17歳の若さにして崩御される。 そして一気に忠実・忠通親子の独断場が始まろうとした。しかし、それもつかの間・・・近衛天皇崩御で崇徳天皇は息子・重仁親王の即位を望んだが、またしてもその願いは叶わず、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す弟・雅仁親王が77代後白河天皇として即位した。 そして、摂関・藤原忠実、頼長は一気に奈落へと落ちていく。 理由は、近衛天皇崩御が藤原忠実・頼長親子の呪詛によるものであるとの奏上が信西入道より上皇に出されたからである。 これにより親子は法皇から遠ざけられ、参内も拒否された。蘇我・藤原氏が権力の座につくために、過去何度も繰り返されてきた呪詛事件だが、果たして本当かどうかは怪しい。悪左腑を陥れるにはこれで十分であったのだろうか。 近衛天皇御崩御の時には民衆も一様に、崇徳の息子・重仁親王の即位が期待されていた。藤原頼長は、近衛天皇即位により失意にあり世捨て人のように三条西の洞院にひっそりいた崇徳上皇に近づいていた。 しかし即位は後白河天皇であった。藤原得子(美福門院)の希望が大きく影響したのも間違いない。 また、忠通は後白河天皇に接近する。 藤原忠通・頼長兄弟の亀裂に順ずるように、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立もますます深まり、一触即発の緊張状態が続く。そして、やがて両派はそれぞれ武士を集める。 崇徳上皇・藤原頼長・教長方には源為義、源頼賢、源為朝などの源氏親子や、平忠正・長盛親子らが集結した。後白河天皇・藤原忠通・信西入道方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが集結した。このときの兵力は断然天皇方が優勢であったが上皇側は各地の僧兵の集結を期待し強気であった。 ところが、僧兵軍の応援はなく、崇徳上皇側はあえなく源義朝、平清盛率いる天皇側に惨敗する。 当然のことながら、戦犯に問われた上皇側はことごとく処刑されることになるが、これを仕切ったのは後白河側近の信西入道であった。 平清盛は、叔父の忠正から命乞いをされるが、信西の沙汰が変わることはなく、忠正はこの世を惜しんで斬首された。 また、源義朝とて同じである。 実父・為義及び兄弟6人を涙ながらに処刑しなければならなかった。 このときに処せられた者は100人以上に及び、洛三条の河原では幾日にも続いて斬首が行われたという。 そして崇徳上皇の沙汰があった。 思えば不遇の御方である。「お前の父はおれ(鳥羽)ではない。白川である」とののしられ、退位後は次期天皇に息子・重仁親王と思っていたら、鳥羽と美福門院の子・近衛天皇が即位し、近衛天皇譲位の後は、順番で言えば今度こそ重仁親王と思っていたら、後白河・・・。 そして最期は、ある意味藤原頼長の勢いに乗って起こした謀判・保元の乱での惨敗である。 崇徳上皇は髪を下ろして仁和寺にはいったものの、讃岐の国に流された。 その後は讃岐院とも呼ばれ、8年後に不遇の人生を閉じた。

 保元の乱で惨敗した上皇側の藤原頼長は、喉を射抜かれ看護されるが、後に舌を噛み切って自害する。 父・忠実は奈良興福寺・禅定院へと逃れるが後に捉えられ処刑される。  源為義・息子は三井寺へいったん隠れるが、後に信西の命により処刑。 清盛の叔父・忠正は命乞いするも、同じく信西の命により三条河原にて民衆にさらされ親子ともども斬首される。 崇徳上皇は剃髪し、弟が門主の仁和寺へ逃れ出家し、讃岐に流され、阿野高遠の手にあずけられ、侍女・佐の局など数少ない女房とともに山里にて心温かいお世話をされたそうです。 その後崇徳の心労を察し、幾度となく都へ便りをだす女房であったが返事はなく・・・。 しかしあるとき、横笛の音を耳にする。 この果てまで、崇徳の御身を思い訪ねてきたものがいた。 阿部麻鳥という都の御所にて水守をしていたお方である。 女房はいわんや、崇徳はどえだけ感涙したか。 交わす言葉もそこそこに、横笛の音にて阿部麻鳥は崇徳を慰めたという。 そしてその後なくなられるまで、だれひとりとして訪問するものはいなかった。

 

   藤原成子-1177   
    ┣ 式子内親王1149-1201斎院                 
    ┣ 守覚法親王1150-1202                 
    ┃        藤原友実娘                     
    ┣ 以仁王1151-1180(┣源頼政1104-1180と挙兵)              
    ┣ 円恵法親王  源仲政?-?
    ┃(1152-1184三井寺長官)      
    ┃1078-1162 ┏(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)              
    ┃  忠実┳藤原忠通1097-1164  ┃雑子女:常盤御前1138-?         
    ┃    ┃  ┣基実1143-1166 ┃     ┣今若1153-1203
    ┃    ┃  ┣基房1145-1231 ┃     ┣乙若1155-1181
    ┃    ┃  ┗兼実1149-1207 ┃     ┣牛若1159-1189
    ┃    ┗藤原頼長1120-1156  ┃    源義朝1123-1160     
    ┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃     
    ┃サネヨシ実能┳幸子        ┃    
    ┃  教長┃徳大寺     76近衛天皇1139-1155      
    ┃    ┗公能右大臣     ┃                  
    ┃        ┣藤原実定  ┃     
    ┃        ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)       
    ┃        ┣ 娘    ┃  
    ┃     藤原豪子 ┗一条能保┃   藤原忠隆1102-1150          
    ┃┏藤原経宗1119-1189      ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣                  
    ┃┗源懿子1116- ┏━━━━━━━┛ ┣ 公子                    
    ┃ ┃  1143 ┃ 伊岐致遠女   ┣勧修寺光頼           
待賢門院┃ ┃     ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)   
  ┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母               
  ┃ ┃ ┃     ┃   
  ┃ ┃ ┃    女朱内親王1141-1176    
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
74代┃   ┃     ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局) ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃        
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女        
      ┃   ┣-  ┣範子内親王1177-1210斎院              
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    
      ┃              ┃  ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
      ┃              ┃ 藤原殖子(七条院)          
  藤原祐子┃           ┣言仁トキヒト親王(81代安徳天皇1178-1185)
     ┣滋子1142-1176 平清盛 ┃ 
     ┃(建春門院)   ┃  ┃ 
  平時信         ┣徳子1155-1214(建礼門院)
    ┣時子1126-1185  ┛                      
    ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
    ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                  
  藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
             ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
             ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
             ┣ゆかり姫                  
           師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)

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