■ロシアは共産党(世界初)に支配されていた
共産党の指導者・レーニンが掲げる世界革命論とは?
・打倒世界の資本家 労働者・農民を救済するというもの
・打倒の実行部隊は? ----各国の共産党
・司令部はモスクワ ----コミンテルン:共産主義インターナショナル
■相対するのが西側で、日本とドイツを利用してソ連に攻め込ませた
・日本とドイツの共通点は?
・植民地が無い
・独裁体制
・軍事力強大
・日独防共協定(反ソ連、反共産主義):反コミンテルン協定
■日独に挟まれた地形のソ連は、スターリンの主導で日独の弱体化を考える
・日本⇔米 戦争に誘導する
・独 ⇔英 戦争に誘導する
■ソ連共産党が日米開戦に誘導した方法とは?
▲スパイ工作
・ソ連工作員ゾルゲはナチスに入党@1930年代前半
・その後ゾルゲは新聞記者として上海特派員となる
ゾルゲ ----ソ連共産党のスパイ
・上海にて朝日新聞記者・尾崎秀実と出会う@1930年代前半
尾崎秀実----共産主義者
・中国侵攻によって、非ソ連侵攻を画策
・日尾崎秀実は日本政府・近衛内閣に潜入@1937
中国情勢の専門家であったことが理由
▲近衛文麿内閣とは?
・近衛文麿は公家 :近衛家
・マルクスを学ぶ@京都大学・河上肇@1911
京都大学は1年で中退
・この頃、東大・京大のエリートには共産主義者が多かった
戦前は共産党員は排除されたが、共産主義は容認
ソ連共産主義は自由・平等と世界は思っていた
実は虐殺を隠蔽していたが、映画などで幸福を宣伝
尾崎秀実:共産主義に染まり、蒋介石批判・反中国
風見章 :共産主義に染まり、内閣官房となる@1937
マルクス共産党宣言翻訳@長野時代
▲中国共産党によるテロ事件多発
・日本人(民間人・軍人)に対する虐殺
通州事件など多数@1937-7-29
盧溝橋事件@1937-7-7
・日中戦争へと突入する
ソ連共産党スターリンの思惑通りとも言える
▲アメリカ・ルーズベルト政権はというと
・民主党
・側近は共産主義者スパイが多い
・日本に突き付けられたハルノート
日本軍無条件撤退要求書
サインしたのは国務長官コーデル・ハル1871-1955
ノートを書いたのは財務次官ハリー・ホワイト1892-1948
ホワイトはソ連共産党のスパイだった
戦後スパイが明るみとなり自殺した
▲無条件撤退を突き付けられた日本
・真珠湾攻撃1941-12-8
喜んだのはスターリン
・マレー半島侵攻1941-12-8
喜んだのはスターリン : 最強の軍事力を持つ日本の脅威から逃れる
北進(ソ連侵攻)ではなく南進(マレー侵攻)
・日本、アメリカに送り込まれたソ連共産党のスパイが仕掛け人
▲日米開戦は不要だった
・アメリカからの禁油石油政策があったが、オランダ領スマトラ島の油田を抑えた
蘭印戦争@1942
スラバヤ沖海戦1942-2-27で英米蘭豪の連合国に快勝(7時間で勝利)
ジャワ沖海戦1942-2-4で米蘭連合軍に快勝(二日で勝利)
英領マレーシア占領1942-2-8上陸、2-15占領達成(シンガポール侵攻の経由地)
英領シンガポール占領1942-2-16(石油・ゴム・錫資源へのアクセスポイント)
・マレー半島、インドネシア攻略で石油確保しているのだから、真珠湾攻撃は不必要だった
▲独ソに於ける日本の立場----1941-6-22~1945
・ヒトラーはソ連の陰謀に気づいた?
・真珠湾攻撃が1941-12-8 :ソ連侵攻をしていない
・マレー半島攻略1941-12-8:北上せずに南下政策→風見章の案
▲終戦の方法
・日本政府はソ連に仲介を依頼している
・近衛文麿はソ連訪問望んだ
・ところが、ヤルタ会談@1945-2でスターリンはルーズベルトと密談
日本侵攻協力密談
ドイツ攻略後(3か月後)に日本侵攻
日本人は密約を公式には知らなかったことになっている
しかし諜報部員・小野寺信は知っていた→密約内容を東京・参謀本部に打電している
ところが、参謀本部の瀬島龍三は打電を握りつぶした
・参謀本部中枢の状況
ソ連に味方するスパイ
米に負けたら資本主義になる----貧富の差拡大は悪
ソ連に負ければ社会主義になる----国民皆平等で良し
かくして参謀本部の瀬島龍三は、満州60万人をソ連に引き渡す約束をした
瀬島龍三1911-2007は戦後、伊藤忠商事会長---ソ連共産党と商売成功
中曾根康弘の顧問など歴任
・鈴木貫太郎内閣(1945-4~1945-8)の考え
米には徹底抗戦
ソ連とは戦わない
日本軍の中国占領地域は毛沢東に譲る
戦後は共産主義中国、ソ連と手を組む
【樋口季一郎1888-1970】
1938-3-8 アムール川流域、シベリア開発のユダヤ人2万人を満州に避難させる
1942 キスカ5200兵(占守島の戦い)の撤退作戦
1945-8-8 ソ連が満州、樺太に侵攻
1945-8-10 占守島、樺太防衛戦
1945-8-15 日本軍武装解除
1945-8-18 占守島の戦い
武装解除せずソ連を撃退
スターリンは北海道占領を諦めた
1945-8-20 真岡郵便電信局事件
太平洋戦争後の樺太で、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件
日本領だった樺太では、日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍との戦闘が継続
真岡郵便局の電話交換手が引き揚げず業務中に、ソ連軍が上陸
女性電話交換手10名が局内で自決を図り、9名が死亡
それ以外に局員・職員からも死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる
東京裁判 スターリンは樋口季一郎を戦犯にとうたが、ユダヤ人コミュニティがこれを阻止
兵庫県加西市鶉野町には鶉野飛行場跡がある。そのすぐちかくに特攻隊員のための練習機が「えん体壕(敵の攻撃から装備を守る施設)」にあるというので早速行ってみた。ここは無蓋えん体壕といって覆いが無いので飛行機などの物資は木の枝などで覆う。設置されている練習機は鹿児島・鹿屋航空基地資料館から移設されたもの。毎年お盆休みの頃には、この地から特攻隊員として知覧に飛び立った若者(白鷺隊として63人が戦死)をしのぶ行事が行われる。敗戦から77年経過し、当時の様子を知るかたりべを探しているようですが、なかなか居ないようです。
今日は6月23日、76年前の6月23日に沖縄戦という組織的な戦闘が終結を迎えた日となっています。しかし未だに沖縄に平和が訪れているわけではない。ここ瀬長島とな関係はないのですが、瀬長亀次郎1907-2001という沖縄の為に戦った政治家が居ます。戦後、米国の統治下に於いて沖縄人民党を組織して抵抗運動を行った人物である。戦後米国は沖縄を永久的な支配地にしようとした。米国は地代の一括払いを提案したが亀次郎は抵抗、かくして亀次郎及び人民党員は逮捕されるが、彼の訴えは沖縄市民に支持される(抵抗民主主義)。沖縄返還後の沖縄人民党は日本共産党と合流。この合流は米国に仕組まれたものであり亀次郎の本意ではなかったように思われる。沖縄の人達は本土復帰によって米国の影響が薄らぐと思ったのだろうか、実際には本土から沖縄に米軍基地が移されていった。すなわち沖縄返還によって益々沖縄の犠牲が増していったと言える。原発とおなじように基地依存経済が存在するのは事実であるが、それだけで片づけることはできない。沖縄の犠牲にまつわる根は深く、基地依存に対する交付金を本土からできるだけ分捕るといった遺恨の念があるという。(東京都立大学 宮台教授談)
沖縄では、戦争で亡くなった人たちの多くの遺骨がまだまだ見つかっていない。そういう状況の中で、遺骨が数多く含む沖縄南部の土砂を使って辺野古の基地を埋め立てようとしているという。政府曰く「業者は遺骨を配慮して埋め立てを行うようにしています」。そんなことはできるはずもなく、業者に責任転嫁する酷い話である。そもそもこれまで76年間に渡って遺骨改修に対する政府の態度そのものも酷い状態であったが。。
沖縄は元々は琉球王国、数多くの島で構成された王国ではあるが、一体感のある状態ではなかったという(柳田国男談) 沖縄本島は、流刑地である宮古島を差別し、八重山諸島の流刑地・波照間を徹底的に差別していたという。本土の人たちが思うほど沖縄は風光明媚では無く、薩摩による支配から言葉、食事ともにバラバラであったようだ。ただ、血縁を重要視する点では沖縄には確固たるものがあった。それは沖縄の墓を見ればよくわかる。それと、本土の日本人はあまり知らないようであるが、沖縄県民は海で泳がない。泳いでいるのは本土からの観光客ばかりである。沖縄人にとっての海は死のイメージがあるからである。沖縄県民の地で穢れているのである。過去30年間で沖縄に於ける米軍基地は1/3に縮小されてきた。その後はというといずれもアメリカンビレッジなどの商業施設に変わり、沖縄らしさは無い。いや、これは沖縄らしい皮肉に満ちているのかもしれない。
米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯
沖縄の島守 内務官僚かく戦えり
日本人が黒船と呼んだペリーの一行が浦賀現れたのは1853年7月8日。艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「サラトガ」、「プリマス」の4隻である。浦賀の前に訪れたのは琉球の那覇。ペリー艦隊は5月17日に上海を出航し、5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊した。ペリーのは武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、シェフの料理を振る舞ったという。
泊港北岸近くに位置する外国人墓地には、中国人、アメリカ人をはじめ、6ヶ国の計22名が葬られている。この墓地で最も古いのは1718年に埋葬された中国人で、長い航海で病死したイギリス人水兵や、ペリー提督の船に同乗していた水兵、カトリック宣教師マシュー・アドネ神父も埋葬されている。外国人墓地は18世紀以後の琉球と諸外国との交流を知る史跡として重要なスポットである。
実は琉球には数多くの船寄港記録がある。恐らく大航海時代から西インド、東インド会社(航路)からの寄港があったものと思われる。徳川が鎖国をしている間に琉球は国際的な王国になっていたのかもしれない。
1797年 イギリスのプロヴィデンス号が宮古島で座礁、那覇寄港。
1816年 イギリスのアルセスト号とライラ号が那覇港に40日停泊。調査・測量目的。
1818年 イギリス商船ブラザース号が那覇入港。貿易を求める。
1821年 オランダ船が2度漂来。食料給付。
1822年 オランダ船漂来。乗船者約40人。船修理。食料や水を給付。
1827年 イギリス船ブロッサム号、那覇入港。太平洋やベーリング海調査の途中。
1831年 イギリス船、那覇港に渡来。食料など給付。
1832年 イギリス船、ロード・アマースト号が那覇港に寄港。商業航路の調査が目的。
1837年 アメリカ商船モリソン号が那覇洋面に投錨。音吉ら日本人漂流民7人が同乗。
因みに小笠原諸島・父島に1830年ペリーは来航し1853年までの23年間の寄港地周辺の土地を購入している。大きさは東京ドーム4個分、目的は石炭の貯蔵地。当時の父島に日本人は居ないし日本でもない。ハワイから入植した様々な人たちが住んでいたという。島の人々はピジン語によって土地の売買契約を結んでいる。小笠原が日本の領土になったのは1861年の江戸幕府の働きかけが発端で、1876年に正式に日本の領土になった。
前田高地の戦闘は4月25日から5月6日まで。米軍に制圧されるまで多くの死傷者を出す激戦地となった。前田高地は日本軍の守備線の中にあり、兵士たちはここを死守せよと軍命を受けていたのです。日本軍は複雑な地下通路を作り、まさに神出鬼没の作戦を行って米軍に徹底抗戦しました。米軍はこの場所をハクソーリッジと名付けました。その意味は「のこぎりのような尾根」で、いかに厳しい場所であったのか、米兵の中には発狂する者がいたほど、厳しい戦闘が繰り返されたのです。
1945年5月の沖縄。グローヴァー大尉に率いられて、「ハクソー・リッジ」に到着した第77歩兵師団のデズモンドと戦友のスミティら兵士達。先発部隊が6回登って6回撃退された末に壊滅した激戦地である。衛生兵としてわずか一人で重傷の兵士達を助けてゆくのはデズモンド。メルギブソンが監督となり、彼を描いた映画「ハクソー・リッジ」はアカデミー賞を受賞している。
ディーグガマと呼ばれる浦添グスク内の御嶽で、渡嘉敷嶽とも呼びます。ちなみに「渡嘉敷」は浦添の古名だそうです。名前の由来はかつて近くにデイゴの大樹があったことから、ディーグガマと呼ばれるようになったといわれています。なお、ガマは洞穴を意味し、拝所として長い間、使われていました。
愛國知祖之塔は先の大戦に於ける愛知県所縁の南方諸地域戦没者51,000名(うち沖縄戦戦没者2,974名)を合祀した慰霊塔です。当初は昭和37(1962)年に沖縄戦の中でも激戦のひとつとして挙げられる前田の戦いが行われた浦添城跡に愛知県沖縄戦遺族会と愛知県沖縄会の方々の手によって建立されました。その後昭和40(1965)年に愛知県が慰霊塔を譲り受け都道府県別慰霊碑として浦添城跡の隣接地に移転し、周辺の環境整備を行います。その後平成元(1989)年8月に浦添城跡が国の史跡指定を受けて発掘調査が行われることになったため、摩文仁の丘の現区画に移設されることとなり、平成6(1994)年11月に旧慰霊塔の移設と新慰霊塔の建立をされました。
摩文仁の丘に建立された慰霊塔としては最も新しいものであり、新しいだけあって足元には大理石が敷き詰められ、慰霊塔の隣には戦没された方々の場所や人数がわかるように地図が供えられ、愛國地祖之塔を訪れた方ならばその戦没者が永遠に眠る遥か南の彼方に繋がる海の景色に触れることができます。
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王国初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。その後、1620年に、浦添出身の尚寧(しょうねい)王が改修し、王自身もここに葬られました。岸壁に横穴を掘り墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子があります。向かって右側が英祖王、左側が尚寧王の墓といわれています。「ようどれ」とは琉球語の夕凪です。
┏尚宣威②1430-1477
┗尚円王①1415-1476
┣尚真王③1465-1527
┃ ┃ 琉球王国第二尚氏王統の第3代国王
┃ ┗尚清王④1497-1555
┃ ┗尚元王⑤1528-1572
┃ ┗尚永王⑥1559-1589
┃ ┗尚寧王⑦1564-1620
┃ ┗尚豊王⑧1590-1640
┃ ┗□・・・・・□尚泰王⑲1843-1901(最後の琉球国王、ペリーと琉米修好条約を締結1854年)
世添大美御前加那志
中御門
西室(英祖王陵)
東室(尚寧王陵)
伊波普猷は、民俗学者であり、言語学者であり、沖縄ではとても著名な学者で、沖縄学の父として知られている人です。明治9年に那覇市で生まれ、沖縄尋常中学を退学した後、第三高等学校(現在の京都大学)を経て東京大学で言語学を学び、沖縄に帰ってからは、沖縄県立図書館の館長を務める傍ら、沖縄研究資料の収集に尽力しました。学問の領域は、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡り、後に沖縄学として発展しました。
浦添城の伊波普猷の墓から、グスクへ向かう道で、石垣が分断されたところを通る。右側の石垣は戦争で破壊されたものの当時の城壁のラインで、左側が想定されるラインを復元したものらしい。現地案内板を見ると、城壁のラインのどこが想定でどこが確認されているラインかがイラストマップで明記されている。左側の石垣の麓に、陣地壕の跡があるが、日本軍守備隊のもので、浦添城の南側にあるシーマヌウタキと内部で繋がっているのだとか。
浦添市の高台にある浦添城跡。国の史跡にも登録されているこの城跡に敷地内には、多くの壕があります。そのうちの1つ、クチグヮーガマ。落盤の危険があるため、今は中に入ることが出来ないこの壕は沖縄戦当時、多くの周辺住民の避難場所になりました。アメリカ軍の上陸から20日以上たった、4月25日。前田高地に陣取る日本軍を攻撃するため、猛烈な砲撃が始まりました。