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久米島守備隊住民虐殺事件

2019年06月26日 | 太平洋戦争

 久米島守備隊住民虐殺事件のことを知る沖縄県民は多い。久米島守備隊の兵曹長は鹿山正(当時32歳)である。1944年、沖縄県の久米島に配属になった鹿山正は、40人ぐらいいた日本海軍守備隊の指揮官として、配属となる。1945年6月26日、久米島にアメリカ軍が上陸した翌日、投降文書を持ってきた仲里村民を、「敵に寝返ったスパイ」として鹿山正が殺害したのである。もちろん一介の下士官・鹿山正には殺害する権利などはなく、海軍刑法・陸軍刑法・国内法違反である。その後、具志川村北原区長ら四家族9人の殺害などを含めて70人以上の住民殺害に関与したことで、「久米島守備隊住民虐殺事件」として、語りづがれることとなる。鹿山正を含む守備隊は、沖縄県警糸満署によって捜査されたが、事件の重大さより連合軍総司令部に送致された。そして「国外に於ける事犯であるため取り上げられない」との回答により、鹿山正らは、戦犯としてまた殺人罪等の刑事責任を問われることはなかったという。戦後30年が経過した頃、鹿山正は殺害の事実を認めるものの、「いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ」という発言を残している。

 戦後戦犯で戦争なのだから仕方ない・・・という言い分なのだろうが、罪なき住民を下士官の判断で殺害することのどこに正義があろうか。また久米島の住民が明らかにスパイであったとしても、軍法会議等の最低限の措置が必要なのである。従って鹿山正を弁護する余地は微塵もない。なのに鹿山正は戦後裁かれることなくのうのうと生きながらえた。鹿山正に関わらず、未だに大本営のトップは何ら謝罪することもなく現在に至っている。恐らくこのような責任は誰にもとられることなく闇に葬られるのだろう。

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沖縄-読谷-13 残波岬

2018年05月21日 | 太平洋戦争

 昭和20年3月、米軍は日本本土侵攻を目指し、ついに沖縄へ上陸。残波岬は、辺り一面米軍の艦船でいっぱいにになるほどだったという。実はこの残波岬に限らず、現在は有数の観光地となっている万座毛も悲惨な戦争を体験している。そしてその戦争は太平洋戦争だけではなく、琉球王が薩摩藩の支配下にあった時代から続いている。今となっては周知のこととなったが、太平洋戦争末期に沖縄住民は究極の選択を余儀なくされた。青酸カリと手りゅう弾による自決である。選択できず、また米兵の捕虜にもなりたくないとの思いで多くの沖縄住民が万座毛や残波岬から飛び降りたという。

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呉・高烏台 砲台跡、兵舎跡

2018年05月18日 | 太平洋戦争

1901年旧陸軍が外国艦船の侵入を防ぐために、標高218mの高烏台に28センチ榴弾砲6門を装備した砲台を築いた。その砲台基礎や弾薬庫の一部と兵舎跡などが、100年以上経った今でも立派な外観を保って残されている。この花崗岩造りの一連の構築物は、旧高烏砲台の跡である。明治十六年第二海軍区鎮府の候補地として呉港があげられ、明治十九年七月軍港設置とともに敵の艦砲射撃に備えて軍港防備の陸上砲台は陸軍において構築することになり、陸軍予算として閣議にあがったが、第一期計画からは除外された。たまたま日清戦争が起こるにいたって、広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って再び砲台構築の議が起り、明治二十九年陸軍の手により砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同三十二年から三ヶ月の歳月を費やして完了した。後になって海軍の所管に移され太平洋戦争においては専ら防空砲台として使用されたが、明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものである。呉市説明板より

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工廠神社(産業神社)@呉

2018年05月06日 | 太平洋戦争

 工廠神社(産業神社)は海上自衛隊潜水艦教育訓練隊(旧海軍工廠本部)の串山公園内にある。境内へ上がる階段の途中にのトーチカ跡がある。

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和歌山加太砲台跡

2018年04月30日 | 太平洋戦争

 大日本帝国陸軍が作った由良要塞は4つの地区に分けられている。友ヶ島地区、淡路島の由良地区、加太・深山地区、鳴門地区で、今回紹介する加太・深山地区の深山砲台は紀州加太にあり、1889年に建設が開始されたため主建材はレンガという佇まいが美しい要塞である。第2次世界大戦中、この休暇村一帯は深山銃砲連隊が大阪湾の入り口を守っていた。由良は古くから瀬戸内海に入る交通上の要地であり、中世からは軍事的な意味から大阪湾の守りの地で、大阪湾に侵入する軍艦を迎え撃つため、合計17箇所に砲台がおかれた。

 


この場所には28cm榴弾砲の砲台が6門編成で置かれていた。砲台は2門ごとに仕切られ、トンネルの通路でつながっていた。現在、砲台はないが、トンネルの通路や地下の弾薬庫などが残っている。ここ深山第一砲台は、32年に正式に由良要塞に編入されてから、昭和20年の終戦時まで使用されていた。以下はレンガ造りの弾薬支庫跡、弾薬支庫である。

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鹿児島-10 特攻基地・万世に保存されている旧日本陸軍98式直接協同偵察機のエンジン

2018年04月24日 | 太平洋戦争
 地上の作戦に直接協力する近距離偵察機で、短距離滑走による離着陸が容易であった。日華事変以来、中国大陸、フィリピン、南方各地において広く活用され、沖縄作戦には特攻機としても使われた。そのエンジン部分が万世特攻平和祈念館に展示されている。
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鹿児島-9 ホタル館 富屋食堂

2018年04月23日 | 太平洋戦争

 ホタルという映画を記念して建てられた石碑である。この映画は高倉健主演の元特攻隊員の苦悩を描いた作品。ホタルというのは、特攻隊員として帰らぬ人となった魂をホタルにたとえたもののよう。富屋食堂の鳥浜トメと特攻隊員とのふれあいから生まれたホタルを映画のタイトルとしたようです。

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鹿児島-8 知覧特攻平和会館

2018年04月15日 | 太平洋戦争

 知覧特攻平和会館は、鹿児島県南九州市知覧町にある第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設である。陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年2月太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。かくして知覧特攻基地が誕生すると振武隊と名付けられた特攻隊が出撃することになった。1945年3月20日付で、陸軍特攻隊の編成が発令される。同時に陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は海軍側の特攻隊として既に動き出していた神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦で一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担うことになる。

一式戦闘機「隼」III型甲

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高知・帝国海軍高知飛行場 掩体壕

2018年03月29日 | 太平洋戦争

 高知県南国市にある高知龍馬空港の前身が、帝国海軍航空隊の高知飛行場である。滑走路の周辺には有蓋掩体壕9基と無蓋掩体壕が32基が建設されていたが、現存しているのは有蓋掩体壕7基だけとなっている。高知飛行場には練習航空隊が配置され、練習機「白菊」が使われていた。1945年戦局が悪化すると、この練習部隊は実戦部隊として前線に動員されることなる。同年3月、練習機「白菊」で『神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊』が編成され、翌4月、連合軍の沖縄上陸を機に発令された菊水作戦に参加した『白菊隊』は、機上練習機「白菊」で特別攻撃に参加。高知航空基地から鹿屋基地や串良基地に進出し、両基地から飛びだった「白菊」のうち26機が敵艦に突入。搭乗員合計52名の搭乗員が散華された。まったく節操のない作戦である。白菊の最高速度は200km/h程度、当時の主流戦闘機の速度が600km/hだから、本当に敵艦に突入できたのかは疑わしい。

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鹿児島-6 幻の特攻基地・万世

2018年03月19日 | 太平洋戦争

 特攻基地と言えば、知覧飛行場が広く知られているが、知覧から西へ約15kmの吹上浜に面する位置に万世飛行場という特攻基地があったことを知る人は少ない。南方戦線の激化にともなって、急遽南さつま市の万世に補助飛行場が造られた。急造のため、滑走路は短く、飛行場の使用期間が約4ヶ月間と短かったこともあり、万世飛行場は世間の人々から見過ごされ、「幻の特攻基地」と言われた。終戦直前の1945年3月から7月までの約4ヶ月間に、特攻機121機が飛び立った。飛行場への空襲などによる被害も合わせると201人の特攻隊員らが戦死した。軍の内部でも秘匿された基地で、戦後、関係書類は処分され、施設も米軍によって取り壊されたため、ほとんど知られてこなかった。1945年3月30日に特攻隊員として出撃するよう命じられた特攻隊員は、わずか1週間後の4月6日に飛び立ち、家族が特攻隊員の死を知ったのは出撃から1年もたってからだったという。しかも出撃地は知らされず、ずっと知覧から飛び立ったと思いこんでいたという。遺族のほとんどは、終戦から約30年たち、旧加世田市から慰霊祭の案内状が届いて、初めて万世飛行場の存在を知ったのである。

 ここ万世特攻平和祈念館は1993年に開館し、1階には1992年に吹上浜より引き揚げられた日本でただ一機の旧海軍『零式水上偵察機』が展示され、2階には若き特攻隊員の遺書・遺品など約700点が展示されている。

外観は憧れの練習機「赤とんぼ」の複葉型を模している

旧海軍『零式水上偵察機』

 

 子犬を抱く少年兵・荒木陸軍伍長はあまりにも有名。撮影場所は知覧ではなく万世飛行場である。彼ら陸軍特別攻撃隊第72振武隊員は1945年3月27日、九九式襲撃機に乗って万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる金武湾の東約50kmの位置でアメリカ軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」に突入したと推測されている。

今は跡形も無い万世補助飛行場滑走路

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鹿児島-5 特攻艇・震洋

2018年03月18日 | 太平洋戦争

 震洋とは、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻特攻艇である。この特攻兵器開発は、1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に始まっていた。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に250kg炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。「震洋」の名称は、特攻部長・大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したものである。震洋と共に運用された陸軍の攻撃艇・マルレもよく知られている。

 ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し物資が不足する中でも量産が可能で、6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていた。訓練中に沈没したり、出撃しても敵艦にたどりつかずに数多くの命が戦わずして失われた。米軍からは「自殺ボート」とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼる。このように長さが僅か5mほどのボートで敵艦に特攻する無謀な作戦が行われていた事実を知る人は少ない。

 

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鹿児島-4 掩体壕

2018年03月16日 | 太平洋戦争

 掩体壕とは、コの字型に土塁を築き、爆弾が近くに落ちた場合でも、その破片及び爆風から飛行機を守るシェルターである。特攻隊は、日本及び満州などで編成され、訓練を積み前進命令が下されると、沖縄に近い南九州及び台湾の飛行場から進出した。昭和20年以降、日本各地は空襲を受けるようになり、特に南九州の飛行場は標的にされた。そのため、特攻隊が知覧に進出すると機体は直ちに掩体壕に格納され、米軍機の目を欺くため松や杉、雑木などの枝を被せて偽装された。

 

写真は沖縄・読谷村にある義烈空挺隊玉砕の地碑と掩体壕

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鹿児島-3 三角兵舎跡

2018年03月15日 | 太平洋戦争

 三角兵舎跡は 空襲を避けるため知覧飛行場から少し離れた松林の中に造られた。半地下式木造のバラック建てで、屋根には偽装用の幼木をのせていた。ここで特攻隊員たちは出撃までの数日間を過ごしたのである。現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑が建てられ、知覧特攻平和会館の隣には復元された三角兵舎が移設されている。

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鹿児島-2 旧陸軍特攻基地・戦闘指揮所跡

2018年03月14日 | 太平洋戦争

 旧陸軍特攻基地「戦闘指揮所」跡の碑。出撃前に特攻隊員はこの戦闘指揮所 前で司令官の訓示を受け、訣別の盃を交わした。そして基地内外の人々が滑走路脇に並び、日の丸や桜の小枝を打ち振って離陸する特攻機を見送った。

 昭和二十年(1945)、ここ知覧から多くの若人が青春の名残りを振り切って、南の空に飛び立って往った。知覧は陸軍の特攻機地のあったところなのである。ここ知覧に陸軍が飛行場を建設して運用をはじめたのが昭和十七年(1942)のことで、大刀洗(たちあらい/福岡県)陸軍飛行学校知覧分教所としてであった。大空にあこがれる少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習仕官らの飛行訓練の場であった。しかし昭和十九年(1944)ともなると戦局は悪化の一途をたどり、十月にはついに海軍は神風特別攻撃隊をフィリピンにおいて編成、特攻の第一陣を出撃させた。陸軍も時を同じくして特攻隊を編成、出撃させた。フィリピンにおける特攻作戦は翌二十年一月まで続けられた。フィリピンにおける戦いで勝利した米軍は四月には沖縄へと殺到した。米軍の沖縄来襲と同時に陸軍では航空総攻撃という名の下に数えきれぬほどの特攻隊を南九州の複数の基地から出撃させ、多くの若者たちを死出の空に送り出したのである。この沖縄に向けての特攻出撃は六月まで続いた。

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鹿児島-1 指宿海軍航空基地

2018年03月13日 | 太平洋戦争

 指宿市東方にある『田良浜』には、指宿海軍航空基地があった。昭和18年から実際に飛行機の発着が行われ,特攻隊として飛び立っていった若者が82名、敵機迎撃によって亡くなった基地隊員が100名以上に及ぶ。「指宿海軍航空基地哀惜の碑」が建立され毎年5月27日の旧海軍記念日には慰霊祭が執り行われている。

 昭和20年2月、米軍が硫黄島の攻略に転じた頃、海軍では戦況の逼迫と燃料の欠乏から練習航空隊の飛行訓練を中止し、予想される沖縄戦に備えて3月に入ると各隊の保有する練習機をもって特攻隊を編成し、特攻訓練を開始した。水上機は北浦空・詫間空の零式水債と九四式水偵の実用練習機を特攻機に転用し、隊員の構成は既に隊付の予備学生十三期生出身者と実用機の訓練を中止して予備学生十四期生・予備生徒・予科練出身者に、これらと出身が同じ偵察員と、3月半ばに偵察の訓練教程を卒業した偵察員が来隊し、ペアが組まれて特攻隊が編成された。水上機特攻の最大の狙いは、指宿基地を中継基地として月明の夜間に乗じて出撃し、沖縄周辺海域に侵攻する米軍艦船、特に輸送船を撃滅して機動部隊の補給を断つことであった。そのために零式水偵は800kg爆弾一発を、九四式水偵は500kg爆弾一発を零式観測機は250kg爆弾一発をそれぞれ搭載し、350浬の飛行実験の結果、重量超過のために片道燃料ならば攻撃可能と断定され出撃を敢行した。

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