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石川眞妃さん

2010年10月10日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika

















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石川眞妃さん

2010年10月10日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika













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石川眞妃さん

2010年10月10日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika













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石川眞妃さん

2010年10月10日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika











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石川眞妃さん 梅田にて

2010年10月10日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika

雨だと覚悟していた10月10日は暑いくらいの快晴、繰り出したのは大阪・梅田周辺
ロケ撮影のモデルは石川眞妃さんです。スタジオ撮影のときに、次回は是非屋外で、と思っておりました。















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石川眞妃さん

2010年10月10日 | 石川眞妃 一条麗 上田穂菜美 Mika

初めての大阪・西梅田近辺でのロケ。 主役は石川眞妃さんです。
彼女、以前に梅田に来たことがあるそうで、その時の目的はオーディション。
数十人の応募の中から合格したのは一人、彼女は残念ながら・・であったそうです。



















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皇極天皇の即位と山背大兄王一族の滅亡

2010年10月10日 | 奈良・飛鳥時代

 舒明天皇が崩御すると皇后の宝皇女が皇位を継ぎ、皇極天皇として即位しのは何故か。 後継者としての候補者が多く、後の争いを避けたためと思われる。 舒明天皇の皇子・古人大兄皇子、中大兄皇子、山背大兄王らが後継者候補である。 皇極は暫定的に立てられたもので、生前の譲位が前提であった。 舒明天皇が蘇我馬子の娘・法提郎女との間に設けた古人大兄皇子が最有力候補であった。 中大兄皇子も皇極天皇が生んだ皇子であるだけに強いが、即位時にはまだ16歳と若い。 また、先に好機を逃した山背大兄王は厩戸皇子の子であるから二世王ということになり、出自では劣るが上宮王家が所有する大きな財産がある。 こうした状況から危機を回避するために皇極が即位したのであるが、後継者争うが起こることは目に見えていて、翌年すぐに悲劇は起こったのである。

        蘇我氏の血を引く舒明天皇の母・糠手姫皇女(厩戸皇子とは従兄妹)も陵内の押坂墓に眠るところに蘇我氏の権勢が伺える 

                         

 変動があったのは皇位だけではなく、大臣の座も蝦夷から入鹿に交代して、蝦夷以上の政治を執るようになっている。 蝦夷が病のために朝廷にでなくなっていたから実質的には入鹿に譲られたとみてよい。 皇極2年に入鹿は巨勢徳太臣、倭馬飼首らを率いて斑鳩に住む山背大兄王の一族を襲撃したのである。(皇極元年) 目的は馬子の娘を入れている古人大兄皇子の擁立にある。 襲撃の結果、山背大兄王とその一族は自殺してすべて滅んだ。 蘇我蝦夷は、「やつらの舞」という天子のみが許される特権を、祖廟を建てたときに実施するほどの専横ぶりであったが、入鹿による山背大兄王一族襲撃の知らせを聞いたときには、愚かで大変暴虐なことをした、と激怒したという。 実は入鹿による襲撃の原因となったのは、蝦夷による越権行為であり、「やつらの舞」だけではなく、多くの部曲を集めて双墓を予め建てていたこともひとつである。 双墓のひとつ大墓は蝦夷のもので、小墓のほうは入鹿の墓であり、この双墓を陵と呼ばせていた。 しかもこの造成に上宮の乳部の民を使ったのがいけなかった。 上宮の乳部の民とは亡き厩戸皇子の養育のために設けられた部民であり、これを横取りされたとして厩戸皇子の娘・上宮大娘姫王(舂米女王)は蘇我氏を恨み憤慨したのである。 そしてこの翌年に入鹿は山背大兄王一族を襲撃したのである。

 さて、この山背大兄王一族滅亡の原因となった蝦夷・入鹿の双墓であるが、奈良・巨勢にある水泥塚古墳・水泥南古墳がそれである。 この地には巨勢寺跡など蘇我氏ゆかりのものが数多くあり、この秋には絶対に訪れようと思っている。 

                      不明          阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┣ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子560-587         ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇)554-628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王?-?┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃ 真手王  ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子?-?┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣34舒明天皇(田村皇子)593-641       ┃┃
 ┃ ┃伊比古郎女 ┃┃┃    ┣中津王 ┃ ┣古人大兄皇子-645      ┃┃
 ┃ ┃ ┣麻呂古 ┃┃┃    ┣多良王 ┃法提郎女(馬子の娘)┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化   ┗┃┃┃ ━━┓     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子-587               ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子539-587          ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)553-592  ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君?-?                    ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女?-?                   ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢-628(蝦夷が滅す)     ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂?-?           孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂-649━┓ ┃ ┃┃┣長皇子-715 
 ┃     ┃             ┃ ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文室氏に降下) 
 ┃     ┃             ┃ ┃ ┃┃┃┗大市王 
 ┃     ┣ 蘇我日向?-?             ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699 
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘?-?            ┃  ┃┃         長屋王684-729
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女663-686   ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇626-672    ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王-729
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃   ┃    ┣紀皇女?-?     ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃   ┃    ┣田形皇女674-728  ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 ┃   ┃    ┣穂積親王-715      ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658 紀橡姫    ┣他部親王
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649     ┣難波内親王┣酒下内親王
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘 越君伊羅都売  ┣白壁王(光仁)709-781
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮 ┣ 阿閉皇女 ┣ 施基皇子-716         
   ┃  ┗ 蘇我畝傍          ┣ 御名部皇女┃      ┣春日王703-745  
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)     天智天皇(中大兄皇子)     託基皇女665-751 
   ┣ 法提郎女?-?                 ┣   ┣不比等659-720    ┓
     ┗ 刀自古朗女-623      鏡姫王 車持君與志古娘(安見児) ┃  
       ┣ 山背大兄王595-643    ┗━━┓┣定恵641-        ┣藤原麻呂
         ┣ 財王608-   ┃           中臣鎌子614-669     ┃ 
         ┣ 日置王    ┣ 弓削王622  ┗藤原五百重娘669-695┛
         ┣ 片岡女王   ┃          ┣新田部皇子-735
       厩戸皇子574-622   ┃        天武天皇   ┣塩焼王-764(氷上真人)
         ┃      ┣ 舂米女王         ┃    ┃
         ┃      ┣ 馬屋古女王(第8子)     ┣磯城皇子┗道祖王-757
         ┃ 菩岐岐美郎女-622         ┣忍壁皇子665-705 ┣陽候女王
         ┣ 手嶋女王                  ┣泊瀬部皇女   ┗長野王
      位奈部橘王                 ┣託基皇女┣-
                        宍戸臣大麻呂娘  川島皇子(天智皇子)

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厩戸皇子が天皇になれなかった理由

2010年10月09日 | 奈良・飛鳥時代
 厩戸皇子は日本書紀によると推古29年に、天皇より先立つこと7年で亡くなっている。 厩戸皇子が何故即位できなかったのか、については譲位の慣行が当時はなかった、 皇極天皇の頃になって初めて譲位がなされた、という説がある。 しかしこれは間違いのようで、継体天皇から安閑天皇への譲位や、飯豊皇子から仁賢天皇への譲位は実際にあったともされている。 すると推古天皇が譲位の意思を持っていたのかどうかがポイントとなる。 推古天皇には竹田皇子という息子がいて、皇太子に立てて皇位を譲るつもりであったが、意に反して竹田皇子は数年後に亡くなってしまった。 そこで厩戸皇子を皇太子に立てた。 もともとは譲位を前提とする中継ぎの天皇であったが、竹田皇子の死によって厩戸皇子に譲位する気持ちになれず、 また推古・馬子の政権運営が次第に安定してきたものだから、ますます譲位の気運はなくなり大王としての長期の在位となってしまったというのが真相なのかもしれない。 厩戸皇子が死んだ5年後に蘇我馬子は亡くなった。 日本書紀にはそのときのことを、こう記している。 「大臣・蘇我馬子が逝去し、桃原墓に葬った。 大臣は蘇我稲目宿禰の子である。 性格は武略に長けて、弁論の才もあった。 仏教を恭敬して飛鳥河のあたりに家を構えた。 そこでは庭の中に小さな池を開いた。 そして小嶋を池の中に開いたことから、彼のことを嶋大臣と呼んだ。」  彼の家は嶋宮で、その近くには石舞台古墳がある。 これが日本書紀にでてくる桃原墓のこととみられる。 石舞台古墳は京都大学によって発掘調査がおこなわれて、周濠を備えた方墳であることがわかった。 時期は馬子逝去の時期と一致する。 その後の調査では、小古墳を潰してその上に造営されていたこともわかり、馬子の絶大な権力が伺える。 

                                   推古天皇・皇太子 厩戸皇子廟 と 蘇我馬子の桃原墓・石舞台古墳の石室

  
  
 推古天皇が崩御したのは馬子の死から2年後のことである。 そのあとをうけて時期王位継承者の候補にあがったのは厩戸皇子の長子・山背大兄王と押坂彦人大兄皇子の長子・田村皇子である。 推古天皇の在位が長かったために、厩戸皇子と押坂彦人大兄皇子がすでに亡くなり、その遺児の時代となっていた。 さて、推古天皇の意思はどちらにあったのか。 推古は二人に遺言を残しているが、どちらを指名したというわけではない。 要するに群臣にまかせよ、ということである。 当時の群臣のなかで、中央集権豪族の筆頭にいたのは、もちろん蘇我蝦夷である。 蝦夷は推古の長子・田村皇子を推した。 しかし山背大兄王は自分こそ指名されたの主張し、蝦夷に食い下がった。 ここで、蝦夷の叔父である境部臣摩理勢は蝦夷に逆らって山背大兄王を推したのである。 そして境部臣摩理勢は蝦夷と決裂し、山背大兄王の異母弟の泊瀬仲王の私邸に篭ってしまった。 蝦夷は山背大兄王に境部臣摩理勢を差し出すように要請する。 これにより山背大兄王は境部臣摩理勢に蝦夷の意思に従うように説得するさなかに泊瀬仲王が死去し、孤立した境部臣摩理勢は蝦夷に襲撃されて628年に殺された。  こうして山背大兄王を推した境部臣摩理勢が滅んだことで、田村皇子が舒明天皇として即位することとなる。 日本書紀では異例なほど詳細にこの記述がなされている。 その割には舒明天皇の記述は簡単で、どういう治世であったのかよくわからない。 政権の中枢には舒明天皇と蘇我蝦夷がおり、斑鳩の地には山背大兄王とのそ一族が健在であったから、舒明天皇や蝦夷にとっては脅威であったのかもしれない。

                                                                              斑鳩の里

 

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蘇我氏の専権

2010年10月08日 | 奈良・飛鳥時代
 587年に物部氏が滅びたことで蘇我氏に対抗できる豪族はいなくなった。 当時主要な豪族のすべてが蘇我氏側についたから、中央豪族層における大臣・蘇我馬子がぬきんでることとなる。 大臣・大連のうち大連は欠員となり大臣として蘇我馬子、蝦夷親子が任命されて独占政権となる。 これによって、これまでの合議制である、大王-大連-大臣-大夫の形態は崩れ、馬子が最高実力者となって崇峻、推古天皇の外戚としてこれを支える立場となる。 こうした状況から蘇我馬子による崇峻天皇殺害という前代未聞の事件が起こる。 崇峻天皇は傀儡として立てられただけの天皇であり、倉梯岡という政界の表舞台とは離れた宮に追いやられていた。 これを不服に思った崇峻は、蘇我馬子に対して戦の準備をすすめていたという。 密告したのは崇峻からの寵愛が衰えていた大伴小手子という妃であった。 これにより蘇我馬子は渡来系氏族で群臣の東漢直駒に天皇の命を奪わせたのである。 このとき、東漢直駒は天皇の妃である河上娘を略奪して妻にしたという。 ところが河上娘は蘇我馬子の娘であり、この事実を知った馬子は東漢直駒を殺している。 

 ところで蘇我氏が逆賊扱いされているのには崇峻天皇殺害事件の責めがある。 しかしながら天皇を殺害した馬子に対して、当時の豪族たちは罪の追及などは一切していない。 馬子は対立する穴穂部皇子と物部守屋を殺し、崇峻を天皇にたてた。 これを正当化したのは豊御食炊屋姫の詔であり、政権の中枢は崇峻でもなんでもないことを諸豪族はしっていたからである。 したがって馬子と崇峻の対立のときには多くの豪族は馬子側についた。 したがって馬子の批判はしない。 崇峻が殺害された翌月に豊御食炊屋姫は即位して推古天皇となった。 天皇殺害の後、何の問題もなかったかのように彼女が選ばれた背景には、非蘇我系王族の皇子・押坂彦人大兄皇子の即位を回避する目的があったといえる。 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の長子で大王家の嫡流の人物で、蘇我氏との姻戚関係を持たない純皇室系の王族である。 彼の子供が舒明天皇で、その子供が中大兄皇子であるから、蘇我氏を滅ぼして大化の改新を進めたこの系統の王族の意思は、非蘇我系王族の皇子・押坂彦人大兄皇子の無念からもうすでに始まっていたとも解釈できるところが面白い。 とにかく馬子としては非蘇我系王族の皇子・押坂彦人大兄皇子の即位は避けたかった。 

 他の王位継承候補というと用明天皇の長子、厩戸皇子や推古天皇の子・竹田皇子がいた。 ふたりとも蘇我系の血を引く皇子ではあるが、若くて押坂彦人大兄皇子と比べると見劣りがする。 したがって適任の押坂彦人大兄皇子を排除するためには豊御食炊屋姫を即位させる必要があったとされる。 こうして、推古朝は以来三十数年間、馬子と厩戸皇子により担われることとなった。

                                                奈良・牧野古墳は押坂彦人大兄皇子の墓という説があります
                       偶然見つけて、説明版に押坂彦人大兄皇子の名を見たときは感動しました

  
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欽明天皇以降の崇仏論争と物部戦争

2010年10月07日 | 奈良・飛鳥時代

 欽明天皇期の出来事で逸することができないのが仏教伝来である。 紀元前5世紀頃、釈迦によって創始されたこの考えが中国に伝来したのは紀元前後の頃で、朝鮮半島へは4世紀後半に高句麗に6世紀初頭に百済に伝来し、5世紀前半に新羅に伝来した。 倭国には百済の聖明王から欽明天皇へ仏教伝来のしるしとして釈迦金銅像が贈られた。 日本書紀では552年のことである。 しかしながら倭国では歓迎されたわけではなく、豪族間で崇仏論争が繰り広げられた。 欽明天皇は「これほどすばらしい教えは初めてだ」 として喜んだが、群臣らの意見を聞くこととした。 これに対して蘇我稲目は賛成したが、物部大連尾輿と中臣連鎌子は、「外国の神を礼拝すれば国神の怒りを招く」 として反対した。 そこで、欽明天皇は蘇我稲目に仏像を預けて礼拝させることとした。 稲目は喜んで小墾田の家に安置し、寺とした。 しかしその後疫病が大流行し、民は若死にして久しく続くのである。 すると物部大連尾輿と中臣連鎌子は仏教を認めたためにこうなったのだと稲目を責め立てた。 欽明天皇は物部大連尾輿と中臣連鎌子はの申し立てを認め、仏像は難波の堀江に流し捨てられ、稲目の伽藍には火がつけられ、焼き払われた。 これが一回目の崇仏論争である。

  

 二度目は、敏達天皇の時代のことである。 蘇我稲目は死に、蘇我氏は子の馬子の時代である。 百済から帰国した鹿深臣が弥勒石像を持ち帰り、佐伯連も仏像一体を海外からもたらし、 二体の仏像を手に入れた馬子はmこれを礼拝できる僧侶を求めた。 このときにみつけたのが播磨国で還俗している高句麗出身の渡来人で、その名を恵便という。 実は聖徳太子が恵便のために建てたのが、播磨の鶴林寺なのである。 恵便が師僧になって3人の少女が出家し日本初の僧侶が誕生した。 善信尼、豊女、石女の渡来系豪族の娘である。 馬子は自宅に仏殿をつくり、仏像を安置すると彼女らに祀らせた。

                                                      聖徳太子が恵便のために建てた播磨の鶴林寺

   

 しかしその直後に馬子は病に倒れ、卜部に問うと、、難波の堀江に流した仏像の祟りだという。 仏教受容に反対する物部氏と中臣氏は疫病を理由に再び仏教受容中止を天皇に訴えた。 これを天皇が認めると、物部守屋大連はわが意を得たりと馬子の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に流した。 しかしこんどは物部守屋と天皇が天然痘にかかり、馬子の崇仏は結果許されることとなるのであるが、敏達天皇は天然痘により崩御し、次に即位したのは先帝の異母弟で稲目の外祖父にあたる用明天皇である。 蘇我氏の血を引く初めての天皇である。 用明朝になっても馬子と守屋の対立は続き、用明天皇は即位まもなく天然痘によって崩御し、その後継者として蘇我馬子は甥の泊瀬部皇子を、物部守屋は穴穂部皇子を推した。  このとき蘇我馬子は先帝・敏達の皇后であった豊御食炊屋姫(後の推古天皇)を立てて、諸豪族を率いると、穴穂部皇子を襲い殺害したのである。  これが、物部・蘇我戦争の発端である。 後継者争いにかつぎだされた泊瀬部皇子(553-592)と、穴穂部皇子(?-587)は欽明天皇と小姉君を父母にもつ兄弟である。 穴穂部皇子は敏達天皇崩御のときから天下を欲していたようで、用明天皇即位のときに、これに対抗すべく物部守屋と結んだ。 586年、穴穂部皇子は敏達天皇の皇后である豊御食炊屋姫を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとしたが、先帝の寵臣・三輪逆はこれを拒んだ。 穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆の不遜を相談し、馬子と守屋はこれに同意した。 守屋は兵を率いて三輪逆を包囲しようとしたが、三輪逆は逃れて炊屋姫の後宮に隠れた。 密告により三輪逆の居所が知られると、穴穂部皇子は三輪逆とその子を殺すよう守屋に命じ、守屋は兵を率いて向かった。 これを聞いた馬子は守屋にちかづこうとする穴穂部皇子に対して「王者は刑人に近づくべからず」と諫言したが、聞き入れようとしなかったため、物部守屋に通じる穴穂部皇子を殺害したのである。  

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蘇我氏の祖・武内宿禰

2010年10月06日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我氏の祖とされるのは武内宿禰という人物である。 第8代孝元天皇の孫にあたり、9人の子から27の氏族を誕生させている。 このうち、蘇我石河宿禰の末裔が蘇我氏とされている。 武内宿禰は成務天皇の時代に大臣に任命され、仲哀天皇急死によって摂政を務めた神功皇后を補佐した。 武内宿禰には多くの伝承があり、蘇我馬子のモデルであったり、藤原鎌足のモデルであったりする。 不比等の父・鎌足が孝徳天皇に仕えたありさまが竹内宿禰のそれに似ているというのが理由である。 
 
 武内宿禰の子・蘇我石河宿禰が蘇我氏の初代であり、この人物の末裔とされるのが蘇我・川辺・田中・高向・小治田・桜井・岸田臣の7氏であり、これらは蘇我氏と血縁関係があったと見れる。 記紀において蘇我という姓を名乗る最初の人物は蘇我満智宿禰で、履中天皇の時代に出てくる。 次は雄略天皇の時代にでてくる蘇我韓子宿禰である。 紀氏や大伴氏とともに新羅遠征に派遣されて現地で殺害されている。 そして次が宣化天皇の時代の蘇我稲目となる。 しかし、満智、韓子、稲目の3人の系譜関係はまったくわからない。 つまり記紀では蘇我氏はわずかしか登場せず、極めて影が薄いのである。 蘇我稲目以降、蘇我氏は急速に大和王朝に台頭するのであるが、実情は謎に包まれている。

                               蘇我氏が大きく台頭する時代の天皇 雄略と宣化の陵

  

 蘇我稲目は宣化天皇のときに大臣に任命されて、大伴金村と物部麁鹿火などの大和政権の大連と並ぶ地位に加わった。 蘇我稲目が大和政権に突如台頭した理由として推定されているのが、財政担当として大きな功績をあげたことである。 雄略天皇のときに、蘇我氏は三種類の倉(三蔵)の管理を任されていたことがその理由である。 そして蘇我稲目の飛躍的な発展を裏付けるのが、二人の娘を欽明天皇に嫁がせたことである。 小姉君は5人、堅塩媛は13人の子供を生み、稲目を外祖父に持つ皇子、皇女は18人にも及んだ。 そして3人の天皇が生まれている。 聖徳太子の父・用明天皇や、崇峻天皇、推古天皇である。 この時代はまさに蘇我氏の絶頂であったといえる。 本来、天皇と姻戚関係が結べるのは、葛城氏、和邇氏、息長氏などの臣姓に限られていて、大伴氏や物部氏などの連姓の豪族から妃がでるのは困難であった。 その点、新興豪族ではあるが臣姓であった蘇我氏から欽明天皇に妃をいれることができたのは、理解できるが、新興勢力であるだけに謎はぬぐいきれない。  ともかく、大王家と蘇我氏の結びつきは急速に親密になっていた。

                                 蘇我稲目を外祖父とする天皇 用明、崇峻の陵   

  
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謎の豪族・蘇我氏

2010年10月05日 | 奈良・飛鳥時代
 肌寒い季節になると、京都・奈良に行きたくなる。 今年は遷都1300年記念ということで、いよいよ活動開始である。 その前に再び奈良に関する本を購入した。 それは水谷千秋氏著・謎の豪族曽我氏である。 すでにいやというほど蘇我氏に関する本を読んでいるので、恐らく知らないことは書いていないように思うが、ひょっとして・・と思いつつ読むのが楽しい。 奈良・蘇我氏といえばもちろん588年に蘇我馬子によって建てられた日本最古の寺院・飛鳥寺である。 この寺の近くには蘇我入鹿の首塚や飛鳥板葺宮があり、観光客が絶えない。 板葺宮で殺された入鹿の首が飛鳥寺の近くまで飛んできて埋葬したという伝説によって塚が作られた。 この伝説は奈良の談山神社(紅葉の季節には絶景が味わえる藤原氏ゆかりの神社)に行くと、絵巻としてみることができる。 645年、皇極天皇の御前で行われた三韓朝貢の儀式の場で、入鹿は中大兄皇子、中臣鎌足らによって殺された後、大極殿の庭に捨てられて筵がかぶせられた。 大和政権の最高権力者を公式の場で斬殺するという綿密に計画されて実行されたクーデターは成功した。 乙巳の変である。 中大兄皇子、中臣鎌足らの改革派は、飛鳥寺に篭って、来るべき戦に備えていたのである。 

 乙巳の変の後、動向が注目された諸皇子、豪族達はすみやかに飛鳥寺にはいったが、渡来系の東漢氏のみが蘇我蝦夷に従って改革派に抵抗しようとしたが、やがて説得を受けて最後には投降した。 敗北を悟った蘇我蝦夷は甘樫丘の邸宅に火を放って自殺し、これによって蘇我氏本宗家は滅びたのである。 この甘樫丘の蘇我邸宅については、奈良橿原考古学研究所によって、確か200回以上にもわたって発掘調査が行われていたと思う。 私も何年か前に、調査結果報告の見学会が聞かれたので現地へ行ったことがある。 以来、蘇我氏は一貫して逆賊として扱われてきたという。 歴史というものには真実を隠そうとする意図が働くもので、大化の改新を正当化するためには蘇我本宗家を逆賊として描く必要があった。 それを日本書紀に描いたのは藤原不比等である。 しかしながら蘇我氏は日本古代史における最大の豪族であり、大和政権の発展にもっとも大きな貢献をした豪族でもある。 宣化天皇から欽明天皇の時代に大臣を務めた蘇我稲目、その子で敏達・用明・崇峻・推古天皇の時代に大臣として仕えた蘇我馬子、またその子で皇極天皇時代まで仕えた蘇我蝦夷、皇極天皇時代には父をしのぐ権力を得た蘇我入鹿については、古代史には不可欠な蘇我4代なのである。 

 蘇我氏の研究が本格的に行われて飛鳥寺近辺の発掘調査が行われ始めたのは昭和32年のことらしい。 しかし、いまだに蘇我氏の実像は隠れていて見えないところが多いという。 その出自に関しても渡来人説や葛城氏の末裔説などがあり、急速な台頭の理由もはっきりしない。 蘇我馬子と厩戸の皇子・推古天皇との関係についても色々な説がある。 この本では少しでも蘇我氏の実像に迫るということで、いきなりわくわくしてきた。 すこしずつ水谷千秋氏論を紹介していこうと思う。

                         2007/02/11 飛鳥甘樫東麓見学会 蘇我蝦夷の邸宅跡調査結果報告 

  

    
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剣池島上陵に眠る第8代孝元天皇

2010年10月04日 | 天皇・皇后陵

 江戸の紹介が一段落してしまった後は、元に戻って天皇陵の紹介に移る。 今回は欠史8代のひとり、孝元天皇である。 孝元天皇陵は橿原神宮のすぐ東、甘樫丘に挟まれた石川池の横に位置する中山塚1~3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)で剣池島上陵という。 孝霊天皇の皇子として生まれた大日本根子彦国牽尊は19歳で皇太子となり40年後に孝元天皇崩御に際して孝元天皇として即位し都を軽の境原宮に移した。欝色謎命を皇后として大彦命や稚日本根子彦大日日尊(後の開花天皇)を産んだ。 また妃・伊香色謎命との間に彦太忍信命(武内宿禰の祖父)をもうけている。 皇后・欝色謎命との間にもうけた大彦命は膳臣の祖というから、聖徳太子の妃・膳大郎女、つまり膳部菩岐々美郎女の系統にあたる。 膳部菩岐々美郎女の父は、膳臣加多夫子であり、妹は聖徳太子の弟・久米王の夫人となった膳比里古郎女がいる。推古天皇の時代に(600年頃)膳臣は重用されたようで、聖徳太子の妃・膳部菩岐々美郎女は四男四女を生み、そのうちの舂米女王は異母兄である山背大兄王の妃となっている。 因みに、太子に「死後は共に埋葬されよう」と言われた伝えられており、622年、聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日に没すると聖徳太子の墓所である磯長陵に合葬されている。 身分の低い膳臣の妃が合葬されるのは極めて異例のことであり、菩岐々美郎女がいかに太子の寵愛を受けたかが伺われる。 

 また、妃・伊香色謎命は物部氏の祖であり、息子・彦太忍信命は武内宿禰の祖父であり、磐之媛命の曾祖父にあたる。 また、葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏の祖であるというから、蒼々たる氏族を後の世に生み出している。 そして妃・埴安媛との間には武埴安彦命をもうけた。 武埴安彦命といえば、妻の吾田媛とともに謀反を企てて 大和を襲撃しようとそれぞれ軍を率いた。 しかしそれを予見した倭迹迹日百襲媛命(箸墓伝説の主人公)の進言により、大坂へは四道将軍の吉備津彦命が派遣され吾田媛を迎え撃ちこれを討った。 山背へは同じく四道将軍の大彦命と和邇の祖先彦国葺命が派遣され両軍は川を挟んで対峙する事となった。 このとき、彦国葺命の放った矢が武埴安彦に当り死亡したという。 これによって武埴安彦の軍は崩れ、謀反の乱は鎮圧された。

 ところで、孫・武内宿禰は蘇我氏の祖である。 古代の繁栄に多大な貢献をした蘇我氏本宗家は一瞬にして滅亡に追いやられたことは良く知られている。 中大兄皇子と藤原鎌足の革新派が645年に起こしたクーデターをかわきりに、大化の改新が始まった。 次回からは、蘇我氏の謎について記載していきたいと思う。 

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芥川龍之介の両国観

2010年10月03日 | 池波正太郎 江戸時代

 両国といえば大石内蔵助以下赤穂浪士47名が討ち入った吉良上野介の屋敷があり、鼠小僧眠る回向院があり、そして芥川龍之介の生誕の地でもあります。 今回は芥川龍之介がみる両国についての記事を紹介します。 大川に架かる両国橋近辺は当時も人々が集まる場所であった。

 

 両国の鉄橋は震災前と変らないといつても差支へない。唯鉄の欄干の一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形の鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や芦の茂つた中洲を眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立つてゐた乱杭である。昔の芝居は殺し場などに多田の薬師の石切場と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸を歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこに群がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川でも魚の釣れたことに多少の驚嘆を洩らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何と何だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人もそこに来てゐなかつた。その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人俯向けに浪に揺すられてゐた。……

 両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清事変の時には大平といふ広小路の絵草紙屋へ行き、石版刷の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団の匪徒や英吉利兵などは斃れてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張り日本兵も一人位は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾露西亜位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達する訣には行かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山の戦に鉄条網にかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年前の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣には行かなかつた。

 この表忠碑の後には確か両国劇場といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災前にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁を見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚ない亜鉛葺きのバラツクの外に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜を持つてゐないやうにこの煉瓦建の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止め橋もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼や二州楼といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外に鮨屋の与平、鰻屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食はせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあつた「坊主軍鶏」――かう一々数へ立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集つてゐたらしい。

芥川龍之介1892-1927:舞踏会@1919
 ・舞台は鹿鳴館 
 ・17歳の令嬢明子は初めての舞踏会
 ・皆は明子を二度見
 ・兎に角それらの様子をくどくどと多彩な形容詞で飾り立てる小説である   

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野呂陽菜さん

2010年10月02日 | 野木久美子 野呂陽菜 Nonu のん









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