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松原三絢さん

2010年10月23日 | 松原三絢 村信遙 MELO めぐみ 美紀 みつき Mippo









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松原三絢さん

2010年10月23日 | 松原三絢 村信遙 MELO めぐみ 美紀 みつき Mippo













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松原三絢さん

2010年10月23日 | 松原三絢 村信遙 MELO めぐみ 美紀 みつき Mippo











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松原三絢さん

2010年10月23日 | 松原三絢 村信遙 MELO めぐみ 美紀 みつき Mippo













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松原三絢さん in 淀川橋周辺

2010年10月23日 | 松原三絢 村信遙 MELO めぐみ 美紀 みつき Mippo

今回のロケ地は阪急十三駅近くの淀川河川敷周辺
夏には花火大会が開催されるとこでも知られています
モデルは大阪出身の松原三絢さん











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葛城氏衰退と巨勢氏繁栄

2010年10月23日 | 奈良・飛鳥時代

 江戸時代の享保17年(1734年)に書かれた大和志という書物には 「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」 とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥北古墳と、隣接する円墳・水泥南穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから云われていた。 この伝説を頼りに奈良県の古瀬を訪れたのですが、客観的に考えると南北水泥古墳が蘇我蝦夷と入鹿親子の墓という説よりも、巨勢氏という有力豪族の墓ではないか、と思えてきた。 古瀬の地には、当時の巨勢氏の首長の墓とみられる大規模な横穴式石室を持つ古墳がたくさん残されているということと、乙巳の変で殺された入鹿と、その直後に自害した蝦夷が、これほど巨大な墓に葬むられることは考えにくい点にある。 蘇我氏が栄華を誇った蘇我馬子の時代の場合には、石舞台古墳は考えられるが、蝦夷・入鹿がなくなった時は、蘇我氏宗本家が滅亡し、諸豪族のほとんどが中大兄皇子側についたのであるから、 ここまで規模の大きい墓を作ることは考えられない。 従って宮山古墳、水泥北古墳、水泥南古墳などは巨勢氏の墳墓だとする説が真実ではないかと思える。 

 では、巨勢氏とはどのような豪族であったのか。 巨勢氏は孝元天皇から派生する氏族の中で、武内宿禰の子である巨勢小柄宿禰を祖とし、葛城氏の衰退と入れ替わるように大和盆地南部に勢力を拡充させています。 6世紀のはじめ、武烈天皇は世継ぎに恵まれず、血統断絶の危機を迎え、北陸地方にいたとされる継体天皇が擁立されることになります。 その擁立を強力に押し進めた人物のひとりが巨勢男人であり、継体天皇の即位を契機に巨勢氏の権勢は大きくなり、絶頂期を迎えます。  継体天皇の元年に巨勢男人は大臣となり、娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となり、継体天皇の即位を支援したことにより巨勢氏の権勢は大きくなります。(500年頃) しかし、 蘇我氏連合軍が物部氏を滅ぼした丁未の乱(587年)では巨勢臣比良夫が蘇我軍に従軍していることから、巨勢氏は蘇我氏の配下となっていることがあわかる。 

 乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足らは蘇我入鹿を皇極天皇の御前で討ち取った後、 東漢氏は一族を終結して蘇我蝦夷の邸宅に軍陣を設けますが、そのときに中大兄皇子の命令で降伏の説得に赴き、軍陣を解かせたのが巨勢徳太である。 実は巨勢氏は蘇我氏と密接なつながりを持ち、巨勢徳太は蘇我入鹿の側近として仕えており、入鹿が山背大兄王一族を襲撃したときには軍の指揮を執っています。 こうした繋がりから乙巳の変直後の蝦夷説得に中大兄皇子が徳太を派遣した理由が伺えます。 そしてその功により大化5年には徳陀古(日本書紀では巨勢徳太)は左大臣となります。 天武天皇13年に黒麿は巨勢朝臣姓を賜うなど繁栄を続けています。

                                             春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
   葛城高額媛    ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 麛坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┣ 飯豊青皇女(記紀) 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
           応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
           ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
   開化天皇┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
    ┣和気王┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃
    鸇比売  ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰┛   ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰    ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┃       ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃吉備臣┃┏━┃━┛       ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰  ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
 ┗巨勢小柄宿禰  ┗葛城蟻臣  ┣忍坂大中姫      
   ┃              ┗荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ)
   ┗□-□-巨勢男人-529
        ┣胡人-巨勢徳太-658-巨勢黒磨
        ┣紗手媛 (安閑天皇妃)
        ┗香香有媛(安閑天皇妃)

          春日大娘皇女  
24代仁賢天皇449-498  ┣-
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 大臣:平群真鳥
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)         
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
        ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
        ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
蘇我石川宿禰  ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
┗木満致      ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
 ┗韓子      ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
   ┗高麗    ┗┓   ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇 
    ┗稲目     ┃   ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
     ┣堅塩姫 ┃   ┃┃      ┃     広姫(息長真手王・娘)
     ┣小姉君 ┃   ┃┃刀自古郎女 ┃-623
     ┣巨勢麻呂┃   ┃┃┣山背大兄王┃595-643
     ┗馬子   ┃   ┃┃┣財王   ┃
  当麻倉首比里古 ┃   ┃┣厩戸皇子  ┃574-622
     ┗━━━━┃━ ┃┃伊比古郎女 ┃ 
            ┃   ┃┃┣麻呂子王 ┃
            ┃   ┃用明天皇 ┗━┃┓
            ┃   ┣穴穂部皇子  ┃┣□-□-当麻公広嶋・当麻公広麻呂 
            ┃   ┣宅部皇子   ┃舎人皇女
            ┃ 小姉君(物部系)  ┃
        振姫  ┃橘仲皇女(顕宗天皇娘┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┣ 神前皇女  ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┏ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┏ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┏ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)        ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
                            ┃香香有媛(紗手媛の妹)  
                                       宅媛(物部木蓮子大連の女)

 さて、古瀬の地一帯は、万葉に歌われた巨勢山であり、平安時代に巨勢川が氾濫したときに阿吽法師なるものがきて、避難民を救済した。 人民は法師を崇めて玉椿精舎に請住せしまたという。玉椿精舎とは巨勢寺のことであり、さきの謂われから阿吽寺の名が起こり巨勢寺の子院となったものと考えられる。

                          巨勢寺の子院 阿吽寺      

  

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葛上郡今木双墓・水泥北古墳

2010年10月22日 | 陵 古墳 墓 遺跡
 狭い県道沿いにある水泥南古墳はすぐに見つかったのですが、隣にあるはずの水泥北古墳が見当たらない。 たまたま県道沿いで畑仕事をしていた地元の人に水泥北古墳のことを尋ねてみると、すぐに教えていただきました。 驚いたことに、その古墳は民家の裏庭にあるという。 丁度そのお宅の玄関が開いていたので聞いてみると、たしかに水泥北古墳は裏庭にありました。 快く古墳を案内して頂き、古墳の説明だけではなく、出土品の説明までしていただき、蘇我入鹿の墓以上の興奮しきりでございました。 水泥北古墳は双墓のひとつであり、詳細については水泥南古墳のところで済みましたので省略するとして、 ここ水泥北古墳は蘇我蝦夷の墓と云われている古墳で、直径20mの円墳には両袖式の横穴式石室を有します。 蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する規模には驚きをかくせません。

                                       石室・羨道の入り口 と 高さ3.3mにも及ぶ玄室を持つ水泥北古墳  

   

 石室の全長は13.4m、玄室の長さ5.6m、幅2.9m、高さ3.3mの大規模なもので、水泥南古墳よりも一回り大きな石室は二上山から運ばれたと思われる巨大な花崗岩を利用して構築されている。 6世紀中葉の構造とされ、現在石棺は存在しないが、凝灰岩の破片が出土しており、元々は石棺が安置されていた。 水泥南古墳と同様に盗掘にあっていて装飾品などの出土はなかったが、円筒状の排水管が出土していて、ここのお宅のリビングに保管されていた。 円筒状の排水管は、飛鳥寺から出土した瓦と同じ焼きで、連結のための結合部もあり石室の排水に使われた非常に珍しいものである。

                                 出土品は高杯・台付壺・土器・耳環・排水管

  
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葛上郡今木双墓・水泥南古墳

2010年10月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡
 前に少しだけ触れた水泥古墳を早速訪れたので紹介です。  奈良の遷都1300年を記念して行われている大イベント・平城京跡地での遷都1300年祭で、大極殿内に安置されている玉座を見て、ゆっくりした後は 巨勢地へ向かいました。 いたるところに置かれた「巨勢の道」 の碑を目印に目指したのは「蘇我氏の双墓」 です。 ひとつは水泥北古墳、もうひとつは水泥南古墳といって双墓と呼ばれるだけに、二つの古墳が隣接して水泥古墳を構成しています。 実はこの古墳、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子の墓と云われているもので、水泥南古墳が蘇我入鹿の墓ということで、 久しぶりに興奮致しました。 その前に双墓についての日本書紀の記録は以下となっています。 

 皇極元年(642年というから乙巳の変の3年前) 蘇我蝦夷は、蘇我宗本家の象徴として、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞を奉納します。 つまり蘇我氏はいまや王家に相応するということを誇示するための奉納であったと思われます。 さらに全国から大勢の人夫を徴発、「今木」の地に自分と息子・入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼ばせたのです。 この造成に上宮の乳部の民(上宮の乳部の民とは亡き厩戸皇子の養育のために設けられた部民) を使ったことが発端となって、上宮王家の春米女王(厩戸皇子の娘)は 「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」 と非難した。 これに激怒した入鹿は後に山背大兄王一族を襲撃して、上宮家を滅ぼします。 そして、乙巳の変が勃発します。 皇極4年(645年)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせます。 邸宅の各門の警備にあたっていた渡来系の一族、東漢直駒らは一戦を交えようと軍装を整えるが、皇子側の説得工作により抵抗を断念し、翌13日、蝦夷は編纂中の天皇記、国記などの重要書類や財宝に火を放って死に、蘇我本宗家はあっけなく滅亡してしまいます。 その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬られたといいます。 このときに葬られたのが双墓というわけです。

 享保17年(1734)に書かれた大和志という書物には 「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」 とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから云われていたようです。 この水泥南古墳は直径約14m、高さ約5mの円墳で、全長15mほどの横穴式石室をもつ。 石室内の玄室(長さ4.6m 幅2.4m 高さ2.6m)に一つ、羨道に一つと、二つの石棺が納められていて、床面には礫が敷かれている。 礫床の下には排水溝が造られ、羨道部を通って石室外に出る。 発掘調査の結果、さらに南方向に伸びた後、東に曲がって谷の方向に続くことが判っている。  玄室に置かれた石棺は二上山の凝灰岩、羨道の石棺は加古川流域でとられた凝灰岩であるとのこと。 また、追葬されたと見られる羨道部の石棺は、蓋の縄掛け突起正面に直径30cm程の6弁の蓮華文が津き彫りにされている。 この石棺と蓮華文の取り合わせは、古墳文化と仏教文化の結合の例として著名である。 なお、石室は古い時期に盗掘にあっていて、古墳の主だった人物を推定する手掛かりとなるような遺物は、何一つ残されていなかったという。 (奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥時代の古墳」より抜粋)

                  「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」 から 蘇我入鹿の墓と伝わるが、不確かである。
                  この古墳ができた7世紀前半には巨勢氏の氏寺・巨勢寺も築かれ、遺構が見つかっています。
              巨勢寺、蓮華文、巨勢寺を築いた巨勢徳太の活動期間から、水泥南古墳の埋葬者は巨勢徳太との説もある。

  
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蘇我氏による崇仏が決定

2010年10月20日 | 奈良・飛鳥時代
 馬子の時代になって、国内から僧侶を輩出しようとした。 高句麗の還俗僧・恵便を師として倭国で初めての僧侶が誕生した。 いままでの慣例を打ち破って本格的な仏教新興にとりくんだことが、二度目の大きな対立を生んだのである。 しかし破仏を行った敏達天皇も実は仏教弾圧を徹底して蘇我氏と全面戦争をすることは望まなかったと思う。 蘇我氏は大和政権下で最大の勢力をもった豪族というだけではなく、屯倉や軍事・土木の分野での貢献は絶大であったからである。 したがって天皇による破仏は一回きりでおわった。

 天皇による仏教新興が積極的に関わるのは、用明天皇からである。 用明天皇は蘇我稲目の娘・堅塩姫を母とする蘇我氏系最初の大王である。 用明天皇の誕生によって状況は一変した。 蘇我・物部の対立は激化するが、蘇我氏の仏教受容の方向に流れは傾いていく。 用明天皇が即位2年目で崩御すると、蘇我馬子は先帝の皇后の詔を大義名分に物部一族を滅ぼした。 これにより蘇我氏に対抗できる勢力はなくなり、飛鳥寺の建立が始まった。 飛鳥寺造営に際して百済から僧侶・寺工・瓦師・絵師など多くの渡来人が派遣され、飛鳥真神原と称してとりかかった。 馬子の息子・入鹿が寺司に任命され、慧慈、慧聡のふたりの僧侶が百済から来日して寺にはいった。 慧慈は厩戸皇子の師となった人物でもある。 9年後に飛鳥寺は完成し、翌年仏像は金堂に収められた。 現在われわれが目にすることのできる飛鳥大仏のことである。  飛鳥の遺構が発掘調査され、一塔三金堂様式であることが確認され、塔の基礎部分からは舎利とともに埋葬された装飾品類が見つかっている。 

 飛鳥寺の建立を契機に機内では寺院の建立が広がり、625年頃までに30を超える寺院の遺構が見つかっている。 これは機内の豪族が氏寺を建立することで、自己の仏教への熱意を表明したにほかならない。 本日、奈良の巨勢に行って来た。 ここにも機内の豪族が建立した巨勢寺があり、今では跡のみになっているが、なんとも趣のある場所である。 ほかにも色々と巡ってきたので徐々に紹介しようと思う。

                                                                               巨勢寺塔跡

   
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蘇我氏と仏教

2010年10月19日 | 奈良・飛鳥時代
 欽明天皇のときに仏教は伝来した。 当時の豪族たちは全員反対したなかで、蘇我氏ただひとつだけが仏教を受け入れようとしたと日本書紀には書かれている。 その後、敏達・用明・崇峻天皇の時期も一貫して仏教受容を主張し、これに反対する大伴氏、物部氏と対立した。 対立した要因のひとつとして、天皇の態度に一貫性がなく傍観的であったのである。 それでは何故蘇我氏だけが一貫して受容しようとしたのか。 それは蘇我氏が渡来系の豪族であるという説の根本となっている。 また逆に、実は物部氏は政治的な権力抗争上敵対したものであって物部氏も仏教を受容していたという説もある。 物部氏は前々から海外との交流を活発に行っており、仏教が浸透していった地方を見てみると、河合国の周辺であり、渡来系の豪族を中心としている事実があるというのである。 物部守屋を仏敵とするのは聖徳太子とかかわりの深い四天王寺の縁起にもとづくものとしている。 また、蘇我氏に対抗するために反崇仏派とした政治的な思惑によるものであるとする説である。 そして仏教をめぐる対立も、実は皇位継承に端をほっしたという考え方に近い。 そうすると日本書紀に書かれた崇仏論争は虚構であって物部氏や敏達天皇によりおこなわれた破仏は史実ではないとなる。 物部氏が勢力を誇った現在の八尾市には渋河廃寺があり、廃物論者である 物部の本拠地に飛鳥時代前期の寺院があるのは日本書紀からすれば不可解である。 

 一方天皇側の動きを見てみると、伝来当時の欽明天皇は傍観的な態度を示している。 これは、日本固有の信仰観念に大きな影響を与えるものではない、という判断があった。 しかし敏達天皇の頃になると在来の神々の秩序に悪影響を及ぼすものと考え、破仏を命じた。 そしてその後を継いだ用明・推古天皇の時代では一転して仏教擁護の姿勢になっている。 それは何故か。 用明・推古天皇の母は蘇我氏の母を持ち、仏教に親しむ環境にあった。 しかし宗教が大王の存在基盤を揺るがすものであれば、もっと重要な転換理由があったにちがいない。 元に戻って、敏達天皇は破仏を実施したのであるから、蘇我氏と大王とが全面的に対抗したはずであるが、 実際にはそのような事態には至っていない。  したがって敏達天皇は宗教的な理由から廃物を行ったわけではないと思われる。 先にかいたように、物部氏は積極的に海外交渉に携わっており、排外的な態度をとる保守的な豪族であったとは考えにくい。 百済王が欽明天皇に仏像を贈ったのは、新羅との戦いを有利に導くための外交であり、倭国は百済に援軍を送っている。 この崇仏戦争はもともと百済側からの働きかけによるものであり、欽明天皇が伝来を拒否しなかったのは百済との友好関係を考えてのことでもある。 つまり仏教本来の重要性をわかっての処置ではなかった。

                                   ここ豊浦寺にある難波池に廃仏された

                       
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蘇我氏と渡来人・秦氏

2010年10月18日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我氏が栄華を誇った時代の忘れることができない渡来人に秦氏の存在がある。 秦氏は東漢氏と並ぶ二大勢力で、厩戸皇子の舎人を務めた秦河勝を代表とする氏族である。 秦氏は蘇我氏とは対立する存在であったとされる。 蘇我氏・東漢氏と厩戸皇子・秦氏の対立の構図である。 厩戸皇子の晩年は蘇我氏との対立から孤立していったことで、東漢氏と秦氏の対立の構図が云われるようであるが、確かではない。 厩戸皇子の遺児・山背大兄王が蘇我入鹿によって襲撃されたときに、秦氏がかけつけた記録はない。 また、乙巳の変で改新派を積極的に味方したという記録もない。 どうやら秦氏は政治の分野ではなく、殖産興業の分野で活躍した豪族とみたほうがよさそうである。 

 竹田皇子の病弱に拍車がかかったとなると、皇太子への期待は厩戸皇子に注がれるようになり、流石の豊御食炊屋姫も認めざるを得ない。 厩戸皇子の博識を諸豪族をはじめ蘇我馬子までもが認めるのであるから仕方がない。 この頃に蘇我馬子は政治の議の際には厩戸皇子の意見を求めるべく出席するように告げている。つまり本格的に厩戸皇子を認め、政治に参加させようというのである。厩戸皇子には信念があった。 伯父の崇峻大王が完全に馬子の傀儡大王になっているのを見ている厩戸皇子は自分の意見を政治に反映できる皇太子として政治に参加したかったのである。 馬子は厩戸皇子の意見を求めはするが決定権は絶対に譲らないと思われた。 つまり後々厩戸皇子と蘇我馬子が衝突するのは目に見えているのである。 これを心配した腹心の舎人・秦河勝は厩戸皇子の強大な後ろ盾が必要であると感じ、山背の実家に帰るまでに話をすすめようとする。

 蘇我馬子にとって頭があがらない人物といえば・・・豊御食炊屋姫である。 しかし基本的には厩戸皇子を快くは思っていない。異母妹の、厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女を嫌っているのである。 その豊御食炊屋姫をなんとかしなければならないと考えた秦河勝は、豊御食炊屋姫の長女・菟道貝鮹皇女を厩戸皇子の妃とすることを考え、境部臣摩理勢に話を持ちかけた。 境部臣摩理勢は馬子の同母弟であり、温厚な性格の持ち主であるだけに馬子の独裁的なやり方に疑問を持っている。 また、学を重んじていることから厩戸皇子に好感を抱いていた。次は厩戸皇子に好意を持つ豪族達との密接な繋がりである。物部守屋討伐の頃から厩戸皇子に特に好意を持つ豪族は膳臣加多夫古と 葛城臣烏那羅 である。 膳臣加多夫古は斑鳩一帯を本拠地としている安倍臣、巨勢臣に次ぐ力を持っており、末娘に十二歳の菩岐岐美郎女がいる。いずれ菩岐岐美郎女を妃にするべきだというのである。

 18歳になる年の正月、豊浦の大后に厩戸皇子が挨拶に行く意を伝えたのは境部臣摩理勢である。1月中旬に厩戸皇子は舎人を従え、豊浦に向かった。甘橿丘の北・豊浦には豊御食炊屋姫をはじめ竹田皇子、尾張皇子、稲目の邸宅を改築した馬子の別邸などがある。派手好きな豊御食炊屋姫には用明帝の遺品を贈ると母・穴穂部間人皇女の話になる。 母の再婚に対する嫉妬が伺える。父・用明を裏切るような感じを抱いていた厩戸皇子も話に乗った。 倭国で初めて、画期的とも言える「仏教を推奨する詔」を発した用明大王は優しい心ねの持ち主であり、そういう同母兄に豊御食炊屋姫は心を寄せていただけに、なおさらである。心の優しさを気が弱いと批判した豪族もいたが、この詔を発した父に、厩戸皇子は心の優しさとともに、毅然とした心の強さを感じていたのを知ると、豊御食炊屋姫の厩戸皇子への見方がかわったのである。 二人は用明を思慕し穴穂部間人皇女を批判することによって通じ合ったのである。

厩戸皇子の舎人・秦河勝ゆかりの広隆寺と秦氏の蛇塚古墳

 

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王仁氏と宮主宅媛と屯倉

2010年10月17日 | 奈良・飛鳥時代
 王辰禰を祖とする氏族に葛井氏というのがあり、元々は白猪氏といった。 720年(記紀が編纂された頃)にその姓を賜り改めた。 この豪族は吉備国の白猪屯倉(大和政権の直轄地のこと)との結びつきが強かった。 大和政権は各地の豪族の支配領域を取って、これを拡大することで支配力を示していた。 蘇我氏が台頭した6世紀以降にこの屯倉制度が拡大している。 蘇我氏が関与した屯倉で知られているのは、白猪屯倉、児島屯倉、海部屯倉である。 蘇我稲目、穂積磐弓臣は屯倉の設置のために吉備に派遣され、葛城山田直瑞子を田令(屯倉経営の管理者のこと)に任命している。 面白いことに現在の倉敷市には三宅という姓の人が非常に多いらしく、それは児島屯倉に起因する。 葛城山田直瑞子という人物は葛城国造をつとめた葛城地方の豪族の出身で稲目の側近であったと思われる。 こののち、屯倉で塩田をはじめとする耕作が盛んになるとともに、課役をとりたてることを目的に戸籍制度が始まる。 記紀には、課役を免れるために籍に漏れる耕作者が非常に多くなり、 これを取り締まった胆津(戸籍を作成した人物でもある) は、その功により白猪氏の姓を賜り、屯倉の田令に任命されて、葛城山田直瑞子の副官になったことが記されている。 つまり戸籍制度という記録の集大成とも言える作業には、王仁氏を祖とする葛井氏などが蘇我氏のもとで官僚的な役割を果たして、屯倉の管理、戸籍の編纂、船舶の税徴収、史書編纂などを担ったのである。 
 
 さて、百済から渡来した王仁系の学者氏族が、応神天皇の頃から大和で活躍するようになったのは、神功皇后が朝鮮半島を制圧して、優秀な氏族を大和に連れ帰ったためと思われる。 そして神功皇后の子・応神天皇は、その氏族から菟道稚郎子の学問の師を選んだり、その氏族(もっと調査が必要)である宮主宅媛を妃としたりしている。 また、応神天皇の子である仁徳天皇は小緪媛という宮主宅媛の妹にあたる女性を妃にしている。(小緪媛も応神天皇妃であり、仁徳天皇は小緪媛の娘・菟道稚郎女皇女を妃としているという説もある) この姉妹の父は和珥氏の日蝕使主といい、和珥氏はもちろん和爾氏ともいい、王仁氏族です。  応神、仁徳に始まり、履中、反正天皇陵は羽曳野市の古市古墳群に集中し、屯倉制度に大きな影響を与えた王仁氏族の本拠地が羽曳野であることから、 蘇我氏が台頭した6世紀以前の仁徳天皇の時代から、すでに屯倉の制度のようなものが朝鮮半島から渡来した氏族により徐々にはじめられていたとしか思えません。 ついでにですが、仁徳の子・反正天皇の皇后に津野媛、妃に弟媛という女性がおり、その姉妹の父は大宅臣木事といい、この人も屯倉制度の起源に関わるような臣姓であります。 因みにこの頃は起源3世紀から4世紀ですから、蘇我氏台頭時期の200年前のことになります。

 さらに付け加えると、応神、仁徳天皇陵が日本で最大の古墳でなければならなかった理由というのは、屯倉という所有地にこだわった氏族の意図が働いていると想像するのは私だけでしょうか。 

                         日本最長の仁徳陵、日本最大容積の応神陵の基本設計を実施したのは王仁氏、というのが私の説

  
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蘇我氏と渡来人・王仁氏

2010年10月16日 | 奈良・飛鳥時代
 東漢氏、鞍作氏とともに見逃せないのが応神朝に百済から渡来した王仁系の豪族である。 古事記に「和邇吉師」という人物が登場する。 彼は論語に長けた学者で、応神の皇太子・菟道稚郎子の学問の師とされている。 この人物が書首等の始祖であり、河内国に勢力を広げた西文氏のことである。 この氏を中心に多くの枝氏が誕生し、葛井氏・船氏・津氏は王辰邇という渡来人の末裔であるとしている。 また、この3氏は祖が百済の貴須王とし、その孫・辰孫王が皇太子の師となったという。 つまり、井氏・船氏・津氏は王辰邇の末裔であると主張することで王仁氏族のなかにくいこんだ。 これらの氏族は河内地方(今の藤井寺・羽曳野)に本拠を置いた。 そして6世紀のある時期より蘇我氏の指導の下に、学問・文筆のほか、朝廷の倉庫の出納・記録を担当した。 羽曳野市古市にある西淋寺は欽明天皇のときに文首阿志高が創建したと伝えられている。 

 次に王辰邇の末裔である船氏については、欽明天皇のときに天皇が樟勾宮を訪れたときに、王辰邇は船の賦を記録する役目を蘇我稲目から命じられたことから船長を務め、それ以来船氏という姓をもらった。また敏達天皇のときには漢文で書かれた国書を解読したことから、天皇と馬子から賞賛された。 これにより頭角を現したという伝承が残っている。 そして乙巳の変のときに、一族の破滅を悟った蝦夷は「天皇記・国記」を焼き払おうとしたが、船氏恵尺がとりあげて中大兄皇子に献上したとされる。 船氏恵尺は蝦夷に仕えて書の編纂にあたっていた人物である。「天皇記・国記」はもともと厩戸皇子と馬子が編纂を行っていたが、厩戸皇子の死後は馬子、蝦夷はそれを引き継ぎ、その下で船氏恵尺が編纂したとされる。 

 王仁氏ゆかりの地・羽曳野市には何度か言っているが、直接のゆかりの場所には残念ながら行っていないので、写真がない。 仕方がないので、王氏が学問の師を務めたというだけではなく、王仁氏の母・宮主宅媛を持つ応神の皇太子・菟道稚郎子の墓を紹介します。 これは羽曳野にあるのではなく、宇治市にあります。 ところで、宮主宅媛、王仁氏・・・和爾氏・・・となれば、屯倉との強い結びつきが関係する。 私は菟道稚郎子の母の氏族が屯倉に関係あると思っており、前々からその関連を裏付けるような記事がないかと思っていたのであるが、見つけたので、次回は「王仁氏と宮主宅媛と屯倉」について書いてみようと思う。 ここまでくれば、歴史ファンの域を超えて、考古学研究の域に入ってしまうので、ほどほどにしないと。。  

                                             春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
   葛城高額媛    ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 麛坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┣ 飯豊青皇女(記紀) 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
           応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
           ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
   開化天皇┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
    ┣和気王┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃
    鸇比売  ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰┛   ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰    ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃吉備臣┃┏━┃━┛       ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┗羽田矢代宿禰  ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┗葛城蟻臣  ┣忍坂大中姫      
                   ┗荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ)

 

  

 菟道稚郎子は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われています。 応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主の女 ・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいる。 父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。  皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地)に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。  同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定されています。

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蘇我氏と渡来人・鞍作氏

2010年10月15日 | 奈良・飛鳥時代
 渡来人・東漢氏が軍事面および土木技術面で蘇我氏を支えたのに対して、鞍作氏は仏教の面で蘇我氏を支えた。 倭国ではじめての僧侶誕生は、鞍作氏出身の善信尼という少女であった。 彼女の兄・鞍作多須奈の息子がかの有名な仏師・鞍作鳥である。 鳥は飛鳥寺の本尊仏だけではなく、法隆寺釈迦三尊像などの飛鳥仏の多くを造った。 平安時代末期に成立した扶桑略記には、鞍作氏の始祖にあたる司馬達等が来朝して草堂を大和高市郡に結んで本尊を安置し、世の人々はこれを大唐神と呼んだという。 この司馬達等という人物は鞍作鳥の祖父にあたるのである。 司馬達等は蘇我馬子の側近でもあり、 敏達13年に百済から鹿深臣と佐伯連が持ち帰った二体の仏像を礼拝するために、馬子は司馬達等と池辺直水田を全国に遣わして出家者を探させたのである。 このときに播磨国で発見されたのが高句麗出身の僧侶・恵便であった。  ただちに彼が僧師となって、司馬達等の娘、善信尼らが初めての僧侶となった。 

 ところで、蘇我入鹿は別名を鞍作といったことから、鞍作氏は特に入鹿と密接な関係があったと思われる。 ところで、大化の改新以降、鞍作氏は史上から姿を消しているのである。 恐らくこの一族は入鹿・蝦夷と運命をともにしたと思われる。

                     東漢氏の技術で建立した飛鳥寺の中には、鞍作鳥による日本最古の飛鳥仏が収められている。 

  
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蘇我氏と渡来人・東漢氏

2010年10月14日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我稲目以前の蘇我氏の系譜には韓子、高麗、満智などが散見される。 また、蘇我稲目は高句麗の女性を妻にしたという記録がある。 倭国から高句麗征伐に派遣された将軍・大伴狭手彦が高句麗王宮に乱入したときに、後宮女性を略奪して帰国後に稲目に献上している。 稲目は二人を妻として軽曲殿に置いた。 入鹿の別名は鞍作といい、仏師・鞍作氏の名である。 母または乳母が鞍作氏かどうかは別にして、蘇我氏が渡来人と密接なかかわりがあったのは事実である。 また渡来人の血は蘇我氏だけではなく、大伴氏・物部氏にも見え、百済の官人の名が現れる。 5世紀の雄族 葛城氏や大伴氏は大陸にしばしば使者を送り、多くの現地の人々を連れ帰っている。 しかし葛城・大伴・物部が没した後は、渡来人は蘇我氏の下に組織され、蘇我氏の手足として活躍する。  たとえば、秦氏は蔵に納める物の出納、東文氏と西文氏がその帳簿の記録に当たっている。 三蔵や屯倉の出納管理を担当した蘇我氏が、主家を越える権力を持つに至った理由を、松本清張は、蘇我稲目の時代から朝廷に収めるべき穀を帳簿上の操作により私したからである、といっている。 当時帳簿作成の技術は蘇我氏の配下にいた渡来人にしかなく、在来の倭人にはその能力がなかった。 日本人の官人は算盤や文字の読み書きもできなかったのである。 

 蘇我氏の配下にいた渡来人には東漢氏・鞍作氏・西文氏らであった。 彼らの多くは漢字を使いこなすことで倭人系の豪族には望めない高度な行政実務能力を発揮できた。 蘇我氏は6世紀以降、さまざまな政策を打ち出していくが、これらは渡来系豪族によって実行されたのである。 なかでも東漢氏は最も強大な勢力を誇った。  東漢氏は5世紀後半頃、朝鮮半島南部の安羅から大和高市郡に移住してきた。 東漢氏は当初大伴氏の配下におり、東漢直掬という人物が大伴室屋大連とともに雄略天皇崩御後の反乱を鎮圧している。 雄略亡き後、吉備稚姫と息子の星川皇子が反乱を起こしたのである。 しかし欽明天皇の頃、大伴金村が対朝鮮外交の失敗により失脚すると、東漢氏は蘇我氏に近づき、その配下となった。 東漢氏は飛鳥寺の建立にもかかわり、山東漢大費直という人が飛鳥寺の建築、土木事業の監督を務めている。  一方、東漢氏は軍事氏族としての一面もあり、馬子の命令で崇峻天皇を殺害した東漢直駒が軍事の総指揮をとった。 東漢氏の本拠は飛鳥の南・檜隈地方で、後に蘇我氏が進出し、飛鳥周辺に多くの邸宅を構えた。 稲目の小墾田の家、向原の家、軽曲殿がそれで、軽曲殿の近くにある見瀬丸山古墳(現在、天武・持統合葬陵)は 稲目の墓とする説が有力になっているらしい。 馬子の代には石川宅、嶋宅が加わったが、これらは東漢氏が開発したものであった。 

                                         東漢氏の技術が現在も豊浦寺跡 向原寺跡に見られる

    
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