平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

千代田ビルは役宅跡にある

2014年01月29日 | 池波正太郎

 柳原を南に神田駅側、東京メトロ・丸の内線の淡路町駅東口を出た靖国通り沿い北側に「手打ちそば・まつや」 というのがある。創業120年、そば本来の風味を味わうことができる神田の老舗である。「挽きぐるみ」というそば粉を使っているところが風味の元だそうで、美食家の池波正太郎をかよわせたという。美食家・池波正太郎先生は恐らく、「天もり」 は邪道であると思っている。蕎麦にてんぶらは邪魔! と、鬼平犯科帳では「役宅の料理人・猫どの」が言っているからである。「猫どの」 というのは村松忠之進の愛称で、役宅で料理を作らせたら天下一品であるが、捕り物をさせたらへっぴりごしで情けない・・。ここで言う役宅というのは火付盗賊改方の事務所、つまり警察署であり、長官は長谷川平蔵である。その役宅跡は皇居北西に位置していて現在では千代田ビルが建っている。役宅跡というような石碑があるだろうと思い、探してみたが見つけることはできなかった。ないのかも知れない。  

火付盗賊改方の役宅は皇居清水御門の向側にあった

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遊女と吉原神社

2014年01月28日 | 池波正太郎

 善通寺の境内に、吉原の遊郭・三浦屋の四郎左衛門が善通寺に奉納した燈篭がある。これは三浦屋の花魁・高尾太夫の供養塔として四郎左衛門が奉納したものである。吉原三浦屋の高尾太夫というのは代々襲名された名前で、中でも有名なのは二代目・万治高尾太夫である。(万治というのは当時の年号) 伊達騒動で有名な伊達綱宗1640-1711は7800両で太夫を身請けしたのであるが、太夫は恋仲にあった島田重三郎に操をたてて応じなかったため隅田川永代橋上流で高尾丸船上にて逆さ吊りにされて斬殺されたとの説があるから、仙台高尾太夫とも言われている。そこで二代目高尾太夫のことを少し調べてみると、三代目仙台藩主・伊達綱宗と、二代目・万治高尾太夫との死亡年代が同じという説がある。燈篭が供養の為に奉納された真の理由が見えてきそうである。

 花魁・高尾大夫の幼名はアキといって、絶世の美人で、聡明であったという。1640年に父・角兵衛は、アキ三歳のとき仔細あって離婚した。その後、1646年に母ハルは再婚するが一家の生活が苦しく、母が世話になっていた明賀屋の主人の計らいで、遊廓の三浦屋四郎左衛門に相談した。アキの父が勘解由頭ということもあり、その身分と聡明さを見込んだ三浦屋四郎左衛門はアキを禿として引き取り、名妓大夫になる本格的な教育を受けさせたのである。花魁となる資格を得た後は、三浦屋四郎左衛門はアキと特別に養子縁組みをした。1657年の振袖火事によって三浦屋が焼け落ち、遊廓は浅草の新吉原に移ったのは、アキ19歳のときである。三浦屋再建のためアキは花魁となり、二代目・高尾大夫を襲名し店にでたのである。しかしその3年後、過労と病魔に襲われたアキは、22歳で病のため死去した。新吉原・三浦屋から、高尾大夫・アキの生家に送られてきた遺品は僅かに五品であったという。アキ死亡は1660年、藩主・伊達綱宗の死亡は1711年であるから、同時期の死亡ではない。また、伊達家に斬殺されたというのは定かではないが、お家の名誉を汚さないために死因を病死にすることはよくあることで、22歳という若すぎる死を考えると、斬殺説はあながち嘘でもなさそうである。ここで紹介した花魁は過労と病魔に襲われて22歳で亡くなったが、花魁という最高峰の域までいけない遊女の数は数え切れないほどいる。遊女の多くも過労と病魔のために若くして亡くなっている。彼女達を供養したのがここ吉原神社で、浅草のすぐ北西の新吉原のエリアの西端にある。

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桜田門、昔は小田原門と呼ばれていた

2014年01月26日 | 池波正太郎

 先日2014年1月23日、幕末の思想家、吉田松陰が自筆したとみられる辞世の句が、彦根藩士長野主膳の書状の中から見つかったとの記事がでた。主膳というのは江戸幕府大老・井伊直弼の腹心で、幕府側が松陰の歌を保管していたことは興味深いというのが研究者の見解である。辞世の句は、「此程に思定めし出立をけふきく古曽嬉しかりける」 安政の大獄で処刑された日にしたためたとみられ、覚悟を決めた心境を表現しているという。井伊直弼が暗殺された桜田門に再び出向。暗殺されたのは、学者をはじめとした反対勢力の多くの人々を安政の大獄で抹殺した大老・井伊直弼である。そして暗殺者は水戸藩士17名と薩摩藩士1名の集団のひとり、有村次左衛門である。因みに安政の大獄で井伊直弼の餌食になった人には、吉田松陰、橋本佐内、そして坂本竜馬の妻・お龍の父で医者の楢崎将作も含まれる。井伊直弼の屋敷は現在の霞ヶ関にあり、桜田門との距離はわずかに500mであった。1860年3月3日 井伊直弼が江戸城に登城するその瞬間に暗殺は実行されたのである。実はこの桜田門という名称は通称であり、正式には外桜田門という。ということは内桜田門があるのか?というと確かに本丸側にある。そして門の由来であるが、その昔このあたりは桜田郷であったことがその理由らしい。また、この門は小田原街道の起点であり、徳川家康関東に入るまでは関所の木戸門が設けられていて、小田原門と呼ばれていた。

 

 徳川の親藩・越前藩は松平春嶽という名君によって藩の建て直しを成功させている。優秀な政治家・松平春嶽には橋本左内という参謀がいた。西郷隆盛折り紙つきの男である。越前藩士の子として生まれた左内は16歳で大阪の緒方洪庵の門をたたき、3年間蘭学を学ぶなかで、日本の危機的な状況を理解することとなる。左内の主君・松平春嶽は徳川一橋派であり、徳川13代将軍の跡目には一橋慶喜を推していた。ところが現実には幼少ではあるが老中以下の家臣が補佐すべきとして慶福を推す守旧派が幕閣を握っている。そこで春嶽は朝廷から慶喜推薦の勅許を示してもらおうと考え、橋本左内を京に送り込み公家たちを説いた。しかし春嶽の最大のライバルである守旧派幕閣・井伊直弼が腹心の長野主膳を送り、関白九条尚忠を見方につけたために一橋派は残念ながら敗れた。そして井伊直弼は大老となり春嶽を隠居の身に追い込むと、橋本左内は謹慎の身となり処刑されたのである。

 幕府との強調路線にいた薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らはペリー来航時は徳川斉昭と同様の攘夷論であったが、その後は開国派に転じ堀田老中の開国策を支持した。薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らは将軍後継者をめぐって三卿の一橋慶喜を擁立する運動を始めていた。将軍家慶の急死によって13代将軍に就いた家定は病弱で嗣子がなかったため、後継者は血統から紀州藩主・徳川慶福が有力であったが、松平慶永ら改革派藩主は徳川斉昭の子で一橋家に入れていた慶喜を擁立する。これに対して井伊直弼らは南紀派と呼ばれる運動をする。有力大名の中で最も早く積極通商論に変わったのは島津斉彬である。縁家の近衛・三条家に、また徳川斉昭も鷹司政通に「いわれなく、打ち払いと申す事にもあいなりかね」 という書簡を送り橋本左内を入京させた松平慶永の後押しをした。老太閤鷹司政通は孝明天皇が16歳で天皇を継いだとき准摂政に就いていた。政通は光格、仁孝、孝明の閑院宮系三代の天皇に仕え34年間に渡って関白を務めた開国派で、斉昭からの書簡を孝明天皇に見せていることから条約承認を楽観視した。条約不承認を貫こうとした孝明天皇にとっては鷹司政通は鬼門である。政通の祖父・輔平は閑院宮を創設した直仁親王の実子で東山天皇と血統的にはつながっている。確かに光格、孝明、明治の閑院宮系天皇の血統は弱く、光格天皇は天皇権の強化に努めるべく、父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが幕府と強調した前関白の鷹司輔平に望みを絶たれている。孝明天皇は鷹司政通のいいなりになるのを恐れて、九条尚忠、近衛忠煕、三条実万に対しては条約不承認の立場を貫き妥協する考えのないことを言明したのである。特に九条尚忠には猛烈に働きかけている。しかし九条尚忠は幕府から課された天皇を規制する役目を理由に幕府側に転じた。そして近衛忠煕、三条実万や青蓮院宮に不穏な動きがあるとして天皇への面会を禁止している。これを機に、伏見宮家の青蓮院宮・朝彦親王は条約承認問題の表舞台に登場し、後に公武合体運動で活躍する。

 1858年4月、井伊直弼は大老に任命され将軍継承問題は慶福で決着し、一橋派の幕臣・川路は左遷となり1868年ピストル自殺した。井伊直弼の安政の大獄では一橋派の橋本左内ら藩士、近衛忠煕らの公家、徳川斉昭ら大名はことごとく処分され、橋本左内、吉田松陰は死罪となったのである。薩摩藩では安政の大獄と前々藩主斉興の抑圧のもと中下級武士大久保利通などが結束し、斉彬の遺志を継いで水戸、長州、越前諸藩と連携して井伊直弼大老、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を襲撃する計画を立てていた。島津久光の進言により脱藩を中止した大久保らは藩とともに出兵する道を選び、誠忠組と称して薩摩藩の尊皇攘夷派をつくる。そして島津久光は小松帯刀、大久保利通らと兵1千余を率いて鹿児島から出発、水戸との連携を深めていた有村次左衛門は薩摩を脱藩し、1860年水戸藩と薩摩藩の尊皇攘夷派は伏見の寺田屋で発起を計画し挙兵の盟約が成立し、水戸藩士17名と薩摩藩士1名は登城する井伊直弼を襲い、有村次左衛門が井伊直弼を暗殺した。桜田門外の変である。

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幕府公認の遊郭・新吉原

2014年01月14日 | 池波正太郎

 芝増上寺、小石川療養所跡の次に行ったのが、華の御江戸にふさわしい名所・浅草のすぐ近くにあり、江戸幕府によって公認された遊廓・新吉原遊廓である。当初は日本橋近くにあったが、明暦の大火により、浅草寺裏の日本堤に移転された。多くの男性が浅草寺の雷門から仲見世通りを抜けて浅草寺の仁王門・本堂・護摩堂を立ち寄って北の新吉原へと繰り出したのである。浅草寺仲見世に当時多かったが、今となってはなくなった店というのが「楊枝屋」である。浅草で夕飯をとったあと、楊枝・・というから、口臭を防止するためのものであるが、これは男として身だしなみを整えてお気に入りの女性を指名するのである。そのうち身だしなみを整える・・の意が楊枝屋という業界用語にかわる。現在の女性がこぞって京都の油取り紙を「よ~じや」で買い求めるが、もちろんデート前の身だしなみ用でもあり、楊枝屋が由来である、というのは単なる私の思いつきである。ところで、遊郭を知れば楊枝の意味がわかってくる。遊郭は男が遊女と遊ぶところであるが、遊郭にいき、料金(揚代という)を支払ったからといってすぐに肌を合わせることはできない。最初は宴席を設けるだけなのである。そして二回目の指名をすることを「裏をかえす」というが、お客はそれでも肌を合わすことはできない。ほとんどの場合は口もきけずに揚代に加えてご祝儀を払うのである。そして3回目の宴席にしてやっと馴染みになれて話せるようになる。ところが、肌を合わせるには遊女に気に入られなければならない。つまり断られて、今までの揚代・祝儀が無駄になることもあるのである。また、馴染みになった客が吉原内で浮気をして他の遊女を指名することはできない。発覚すれば罰が待ち受けていたらしい。そこで、遊女もさるもの・・・男心を巧みに操っては多くの常客を獲得しようとし、客側も上手に遊ぶことによって、自分が「粋」であることを自慢するのである。かくして浅草寺仲見世を代表とする遊郭のまわりには多くの楊枝屋があったのである。当時、新吉原に指折りの遊郭 「海老屋」というのがあった。恐らく海老屋の常客となって通うことが江戸一番の粋な男性ということになったのであろう。ただしこの習慣は江戸末期には無くなるほうこうにいったらしい。

 浮世絵師で有名な安藤広重は、吉原遊郭を含む江戸百景を描いている。江戸の同心・安藤広重が東海道五十三次を発表して華々しく浮世絵の世界に出たとき、名を歌川広重と変えたが、遊女の絵を描いたときには一立斉広重と名乗っている。遊女の色々な姿を描いた浮世絵が、評判となって世に出回り、後の世になると世界的な評価を得たのはいうまでもない。ところで、遊女の生活をある本から紹介するとこうなる。10:00起床後、入浴など身支度を整えると「昼見世」が昼九つ(12:00)から始まり、夕七つ(16:00)に昼見世がひけると、暮れ六つ(18:00)に「夜見世」が始まるのである。暁八つ(2:00)に就寝で、暁七つ(4:00)が泊り客の帰る時間となり、これを「後朝の別れ」 という。後朝と書いて「きぬぎぬ」というが、これは平安用語で、平安時代には後朝を3回経験することは、結婚を了承するという意味があった。この習慣によって無駄な離縁を防ごうというのである。3回経験すると遊女との交友にこぎつけることができた・・・という遊郭の習慣は、平安時代の婚儀の習慣に極めて似ているから、その関係性は密であると思う。遊女の生活もこうしてみれば結構重労働である。遊郭の特徴といえば、「張見世」というお客が遊女の品定めをするスペースである。当然通いつめてくれるお客が少ない遊女は、妓楼との間の格子の内側でお客から品定めされるが、遊女の中の遊女はそのようなことは不要である。新吉原遊郭の遊女はおよそ3000人いたといわれるが、そのほんのひとにぎりの、礼儀作法から芸事に至るまで精通した遊女のことを「花魁」といった。現在でも「花魁道中」と称して、花魁が高下駄を履き、数十人の付き人を従えて揚屋と茶屋の間を行き来する姿が再現されることがあるが、広重などは浮世絵で多くの花魁を描いている。

新吉原遊郭があった一角のほぼ中央にこの案内板があった

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小石川療養所跡

2014年01月12日 | 池波正太郎

 浜松町にある芝増上寺の次に行ったのが小石川養生所。案内して下さったあなた、ありがとう。すぐ近くに蕎麦屋があったので、そこで盛り蕎麦の昼食。当日の行動予定や近況報告等々積もる話をしたあとは、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の療養所である。広大な敷地なのに入口は一箇所、それも一方通行に苦しめられながらやっと駐車場に車を置いたのですが、ここ文京区白山というところは、そういうところなんだそうです。さて、そもそもの発端ですが、将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相による享保の改革における施策のひとつであり、幕末までの長きに渡って庶民を助けた。現在は東京大学理学部の敷地内にあり、小石川植物園として一般市民にも入園料300円くらいで開放している。当時は徳川幕府直轄の小石川御薬園であり、三代将軍家光の時代に 薬用の植物を栽培するための場を麻布と大塚に開設するが 後に小石川御薬園となったらしい。そして八代将軍吉宗の時代に小石川療養所が付属施設として開設されたという。この小石川療養所は貧民のための医療施設として開設され、山本周五郎の小説赤ひげ診療譚の舞台にもなっている。 明治になって東京大学が設置されると、その付属施設とされて今日に至る。現地では東大の学生さんらすき人が植物の研究調査なのでしょうね、ノート記録で忙しそうでした。

現在は療養所で使われていた井戸だけが残っている

 植物園のほぼ中央にあるこの大イチョウ(雌株)を研究材料として、明治29(1896)年に、理学部植物学教室の助手であった平瀬作五郎が、種子植物にも精子が存在することを発見しました。これは日本の初期の生物学者による世界的な発見で、生物学史上の偉業とされています。 昭和31(1956)年にこの木の下に精子発見60周年記念碑が建立されました。 この木の樹齢は年輪抽出により約300歳と推定され、幹回り4.9mの大木となっています。 このイチョウが生育している場所は、薬園奉行岡田利左衛門の邸内であったこと、利左衛門が享保(1718)年から奉行になったことなどから、おそらく利左衛門が植えたものと推定されます。 明治元(1868)年6月、お薬園が幕府から朝廷に移管される時、園内の樹木は期限内に伐採すると関係者の所有となることとなったため、そのほとんどが切り倒されてしまいました。 その時、この大イチョウも鋸で挽かれ始めましたが、太すぎたため、期限内に切ることができず、難を逃れたということです。 昭和のはじめ頃にはまだ鋸の切り傷跡が見られ「鋸歯のイチョウ」と呼ばれていましたが、現在では完全に跡が消え、この名も忘れ去られてしまいました。「説明板より」

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戒行寺にある長谷川平蔵の墓

2014年01月09日 | 池波正太郎

 今まで長谷川平蔵については数多く取り上げてきた。本所の宅をはじめ色々なゆかりの地を訪ねたが、今回の訪問は戒行寺、平蔵の墓のほか5人の火付盗賊改が眠っているとは知らなかった。

 池波正太郎の鬼平犯科帳の主人公として活躍する長谷川平蔵は、松平定信による寛政の改革で強盗・殺人が横行する時代に登場し、火付盗賊改の長官として一般庶民から慕われる人物像であるが、実際はかなり違うようである。田沼意次に賄賂を贈ることにより引き上げられ、田沼意次と犬猿の仲であった松平定信が老中になったことから出世の道は絶たれ、田沼意次が失脚後に隠居に追い込まれると、長谷川平蔵も同様に屋敷没収の憂き目にあったという説もある。長谷川平蔵が火付盗賊改方長官であったのは1787年から1795年までの8年間で、浅間山大噴火や大飢饉により、インフレが起こった時である。時の老中・田沼意次が1786年に失脚し、翌年松平定信が老中に就任して寛政の改革が始まるという経済不安の中で、長谷川平蔵は火付盗賊改の長官となった。長谷川氏の当主が代々受け継ぐ名である平蔵を通称とした長谷川宣以1745-1795は江戸時代の旗本・長谷川宣雄の嫡男として生まれ、母は町人の女であった。23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見えし、長谷川家の家督相続人となると、旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し宣義を授かった。青年時代は奔放な風来坊で、父・宣雄は火付盗賊改役を経て京都西町奉行に付き、平蔵とともに京都に赴く。1773年、父・宣雄が京都で死去すると平蔵は江戸に戻り、30歳で長谷川家の家督を継ぐ。31歳で江戸城西の丸・将軍世子の警護役に任ぜられると、後は田沼意次とともに順調に出世していったが、老中・松平定信の頃、42歳のときに火付盗賊改役に任ぜられた。

 寛政の改革では人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し功績を挙げた。この時上司である老中・松平定信に予算の増額を却下されたことから幕府から預かった資金を銭相場に投じるという、田沼意次をほうふつさせる方法で資金繰りを行ったという。これにより田沼意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪く、功績は認めるものの 「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」 と述べたという。また、清廉潔白とはほど遠く、「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちの信頼は薄かった。1789年関八州を荒らしまわっていた大盗・徳次郎一味を一網打尽にしてその勇名を天下に響き渡らせたものの、幕閣や同僚の信頼は薄く、出世はままならなかった。しかし人情味溢れる仕事振りに庶民からは人気があったという。火付盗賊改役の御役御免を申し出て認められた直後に、11代将軍・家斉からは労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」を下賜されたがすぐに死去し、長谷川家の家督は嫡子長谷川宣義が継いだ。また、長谷川平蔵の住居跡には数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えたという。

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陽明文庫明宝展 白磁無地金襴手馬上盃

2012年06月24日 | 池波正太郎

 清朝初期のごく薄手の磁器。外面は本体、蓋とも全面無地の金彩を施し、内側は白磁で寿字に双竜をからませた彫文がある。形は馬上盃で本来の用途は不詳であるが、近衞家熈はこれを茶湯の菓子器として用いたことがその茶湯之記に見受けられる。また家熈の言行録である山科道安著「槐記」には「先年薩州より献上」とあり伝来経路が知れるが、「オランダの焼物なり」とあるのは誤りであろう。( 陽明文庫解説より)  1728年に行われた茶会 当時の関白・近衛家久がこの杯を薩摩から贈られたのであるが、家久の室・満姫は薩摩藩主・島津吉貴の娘であり、家久関白就任の祝いの品だったのではないか、と記されている。なぜなら2年前の関白就任・・・とある。400年前の出来事であったことを考えれば2年という歳月は大変短く思えるが、江戸幕府による鎖国政策時代に沖縄はもとより中国の清からさまざまな物品を輸入していた島津藩が、その見返りとして色々な品を献上していた頃であったことを思えば、2年の歳月はあまりにも長い。近衛家久が関白となった祝いの品などは、1726年にすでに藤原長者に贈られているはずである。また、島津満君という娘そのものが密輸入に対する最大の見返りであり、極めて上品にそれを表現した場合「絆」となる、と考えるのは私だけだろうか。

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魚河岸の居酒屋・えびす大黒

2011年06月14日 | 池波正太郎

 JR元町駅を降りて中央南を出てすぐ西側へ進んだ高架下に見えてくるのが、かの有名な魚河岸の居酒屋・えびす大黒です。 前回の撮影会の帰りに寄ったのが初めてだったのですが、噂に違わず超安値の「ランチメニュー・海鮮丼」を味わってきました。 丼に乗っていたのは、たこ・あなご・いくら・うに・マグロ・トロ・イカ・ハマチ・・・などでいっぱい。 味噌汁おかわり自由で500円というから安い。 また今度も行こう。

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松平定信によるアイヌ史抹殺

2011年03月25日 | 池波正太郎

 松平定信は名君として知られているが、はたしてそうだろうか。 松平定信が領主だった白河藩の民衆にとっては天明の飢饉を乗り越えたこともあり、彼は悪人どころではないが、他領の犠牲の上にあった。 失脚した田沼意次はまもなく死んで、松平定信はその後何十年も生き残ったから、その間田沼意次は悪人に、松平定信は英雄となった。 田沼意次の命令で行われた蝦夷地調査団の報告書は幕府により葬られたが、バックには松平定信がいた。 調査団の中心人物・青嶋俊蔵の遠島処分は行われたが、その理由に遊女買という不行跡があったとし、松前藩はそれにつけこんだ。 しかし調査結果の重要性や処罰が松平定信の偏見によるものであるということが1974年になって一介の研究者によって発表されたが、この労作は無視され、中央の資料が鵜呑みされた。 松平定信がアイヌを人間視することは毛頭なかったことが、アイヌの歴史をほぼ抹殺するにいたった原因であるといえると記されている。

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松平定信は名君?

2011年03月24日 | 池波正太郎

 田沼意次の失脚で権力の座についた松平定信は、蝦夷地を幕府直轄とせずに従来通りの松前藩委任にこだわった。 ロシアは南下政策をとっていることは幕府は認識していた。 ならば田沼意次やその失脚後に蝦夷地担当となった老中格の本多忠籌が考えていたように、蝦夷地をたった一万石の松前藩からとりあげて幕府直轄の地とするべきであろう。 しかし松平定信はこれに大反対し、松前藩に委任した。 その理由は幕府に交易をさせたくないということである。 つまり蝦夷地を直轄にすれば、神聖なる幕府が蝦夷という野蛮人と商売をすることとなり、それは断じて許せないとなる。 松平定信が朱子学の熱烈な信者であり、農業を国の根幹政策とし商業を悪とみなしたことを考えれば納得できる。 ゆえに松平定信は田沼意次の通称開国という幕府が商売をすることによって財政を立て直すことには反対であった。 そして田沼意次の息子の意知の暗殺にも加担したといわれている。 幕府の財政は破綻していたから合理的には農業政策から商業重視路線をとらざるをえなかったはずであるが、決してその道はえらばず幕府は滅びの道をえらんだが、松平定信はそれが正しいと確信していたのには、朱子学ではそれが正義であるからである。  江戸時代の日本は金貨と銀貨という二通貨という不合理な体制であり、田沼意次はこれを解消するために二朱銀を発行したが、田沼意次失脚後はこれの鋳造停止した。 松平定信は田沼意次政策の否定を目的に国益を無視した。 

 松平定信の非理性的な愚行は蝦夷地問題の対応にも現れている。 田沼意次は蝦夷の事情を知るとただちに有能な人材を集めて蝦夷地調査団を派遣した。 そして地勢、風俗、ロシア人の進出程度などを調査した。また樺太方面も探検させた。 これによってのちに幕臣・間宮林蔵が間宮海峡を1809年に発見し樺太が島であることを確定させたのである。 ことろが、将軍徳川家治が急死し田沼意次が失脚すると、松平定信は調査団の成果をなかったことにする行動に出た。 調査団の長・松本秀持は罷免され、秀持の片腕で、蝦夷地問題を担当した土井孝之は、死罪に処せられている。 もちろん調査結果は松平定信の命により闇に葬られた。

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田沼意次のアイヌとの交易

2011年03月22日 | 池波正太郎

 アイヌ・シャクシャインが蜂起する以前、松前藩は藩士に直接アイヌとの交易権を与え、それを家禄の代わりにしていたが、松前藩はアイヌから膨大な収穫をしながら財政難に苦しみ、飛騨国の材木商・飛騨屋久兵衛に多大な借金をしていた。 その借金返済のために飛騨屋にアイヌとの交易をまかせっきりにした。 交易権を与えられた飛騨屋はこれまでの損を取り返そうと大規模な商船を送り込んだがアイヌ首長・ツキノエに船を奪われ、以降8年間交易ができなかったという。 つまり交易を重要としていたアイヌが和人との交易を絶つ行動にでたのは、別のロシアとの交易ルートを持っていたからである。 ところがロシアとの交易に翳りが見え始めたために、アイヌは日本側との交易を再開せざるをえなくなる。 飛騨屋に依存せざるをえないツキノエは、極めて不公平な物産比率だけではなく、労働者としての扱いに甘んじる。 これにより飛騨屋は膨大な利益をあげ貿易黒字をうみだすと、開国による国家改革を推進していた田沼意次の目に留まった。 田沼は飛騨屋にかわって幕府の実質的な交易団を派遣し、1785年、交易を実施した。 この派遣は苦しかったアイヌにとっては救いとなる可能性があった。 ところが田沼意次が松平定信の陰謀によって失脚すると、交易団は引き上げられ、アイヌ待遇改善策は打ち砕かれた。 こうした背景からクナシリ・メナシの蜂起は起こったのである。 

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芥川龍之介の両国観

2010年10月03日 | 池波正太郎

 両国といえば大石内蔵助以下赤穂浪士47名が討ち入った吉良上野介の屋敷があり、鼠小僧眠る回向院があり、そして芥川龍之介の生誕の地でもあります。 今回は芥川龍之介がみる両国についての記事を紹介します。 大川に架かる両国橋近辺は当時も人々が集まる場所であった。

 

 両国の鉄橋は震災前と変らないといつても差支へない。唯鉄の欄干の一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形の鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や芦の茂つた中洲を眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立つてゐた乱杭である。昔の芝居は殺し場などに多田の薬師の石切場と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸を歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこに群がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川でも魚の釣れたことに多少の驚嘆を洩らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何と何だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人もそこに来てゐなかつた。その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人俯向けに浪に揺すられてゐた。……

 両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清事変の時には大平といふ広小路の絵草紙屋へ行き、石版刷の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団の匪徒や英吉利兵などは斃れてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張り日本兵も一人位は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾露西亜位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達する訣には行かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山の戦に鉄条網にかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年前の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣には行かなかつた。

 この表忠碑の後には確か両国劇場といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災前にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁を見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚ない亜鉛葺きのバラツクの外に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜を持つてゐないやうにこの煉瓦建の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止め橋もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼や二州楼といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外に鮨屋の与平、鰻屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食はせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあつた「坊主軍鶏」――かう一々数へ立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集つてゐたらしい。

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池波正太郎が通いつめた蕎麦屋・まつや

2010年09月30日 | 池波正太郎
 柳原を南に神田駅側、東京メトロ・丸の内線の淡路町駅東口を出た靖国通り沿い北側に「手打ちそば・まつや」 というのがある。 創業120年、そば本来の風味を味わうことができる神田の老舗である。 「挽きぐるみ」というそば粉を使っているところが風味の元だそうで、美食家の池波正太郎をかよわせたという。 ということで、先日月曜日に、再び「神田・まつや」にいってきました。 中に入ると今回も大変な込み具合で、合席した後今回頼んだのは、「天もり」である。 前回は単なる盛蕎麦だったので、今回は少々豪華。 食後の蕎麦湯も二杯いただき、一応蕎麦のとろみ を味わった。 美食家・池波正太郎先生は恐らく、「天もり」 は邪道であると思っている。 蕎麦にてんぶらは邪魔! と、鬼平犯科帳では「役宅の料理人・猫どの」が言っているからである。 「猫どの」 というのは村松忠之進の愛称で、役宅で料理を作らせたら天下一品であるが、捕り物をさせたらへっぴりごしで情けない・・。 そこで、なぜ猫どのなのか。

 池波正太郎先生は猫を飼っていて、その猫が何でも食べるらしい。 プロデューサーと、脚本家が、この猫どのに食のこと、食べることを担わせて登場させたら面白いんじゃないかと、ということから、この猫どのという役ができという。 鬼平犯科帳 「蛇の眼」 では、同心・木村忠吾が、てんぷら蕎麦が最近流行っててあれが旨い、というので 猫どのこと村松忠之進と一緒に 「よし、じゃあ実際に食べに行こう」と蕎麦屋に来て、そこで猫どのは「絶対に盛りだ」という。 てんぷら蕎麦が旨いといいながら、蕎麦は盛り! というのも変な話ではあるが、 とにかく邪魔者は蕎麦本来の風味を損なうという。 また、蕎麦は噛んではいけない。 猫どのに言わせると、蕎麦は汁を少しだけつけると口元まで運び一気にスルッと喉に入れなければいけないのである。 これができない木村忠吾に、猫どのが一言。 「おまえはそれでも江戸っこか!」 というところがなんとも面白いのである。 因みに私は、てんぷらを食べながら、蕎麦を濃い目のつゆにひたひたに漬けて、そばを噛んで食べるのであるから、江戸っ子のかざかみにもおけない食べ方であったと思う。 
 
 
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有楽町にある南町奉行所跡

2010年09月29日 | 池波正太郎

 以前に南町奉行所跡について紹介したが、今回現地へ行ってきたので再度紹介です。 東京駅で新幹線を降りると山手線で品川方面に向かって隣の駅がJR有楽町駅です。 有楽町マリオンというビル・数寄屋橋方面へ繋がる地下街へ降りるまでに駅南の広場があり、その広場には石垣を再現したベンチや奉行所跡の説明板がある。 ここは南町奉行所の跡であったことが、数多く出土した遺物から判明したとのことである。 その墨書札には大岡越前守様御屋敷と書かれていたという。 説明板には、その墨書札や南町奉行所の平面図、出土した遺物の様子を写した写真、そして南町奉行所の簡単な説明が書かれています。 大岡越前守忠相は第14代南町奉行で約19年間勤め、根岸肥前守鎮衛は17年間、そして遠山左衛門尉景元が7年間奉行を務めた。 この3人が3大名奉行といわれている。 

                                   

 町方与力・同心が与えられていた屋敷を組屋敷といい、その広さは与力が200-300坪、同心は100坪ほどで、ほとんどのものが自らは30坪ほどの屋敷に住み、 拝領地内に屋敷を構えて医者や学者に貸すことで家賃収入を得ていて、幕府公認のことであった。 幕府にしてみれば、体制外の知識人を一箇所に集める工夫であったともいえる。  そして彼らの住んだ屋敷が八丁堀に集中していたことから江戸の町人は、町方同心のことを「八丁堀の旦那」と呼んだ。 今はなき藤田まこと演じる中村主水は必殺仕事人であり同心であるが、仲間からは確かに「八丁堀の旦那」 と呼ばれている。 この旦那、町人を相手にした仕事のため、武士からは低く見られていたが町人からは頼りにされて付け届けなどの副収入や役得があった。 女湯での朝湯は無料、毎朝の髪結いも無料というわけである。  そして南町奉行所の近辺である江戸城大手門の周辺から南側の外堀に囲まれた地域には大名屋敷が集中していた地域でもあり、大手門に近い場所から順に親藩、譜代、外様屋敷があった。 霞ヶ関には42万石の広島藩浅野家や47万石の福岡藩黒田家などの屋敷があった。 浅野家には鮮やかな朱色の門、黒田家には重厚な黒い門があり、両者が隣り合った様子は対照的で面白く、浮世絵にも数多く描かれた。 大名小路は大名屋敷が連なる通りであると同時に、江戸城の内堀と外堀に囲まれた地域名でもあり、現在の丸の内一帯にあたる。 有力大名屋敷だけではなく、定火消屋敷も置かれていた。 今も昔も政治の中枢がこの地域にあったのは同じである。 

 

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皇居の南にある外桜田門

2010年09月28日 | 池波正太郎

 久しぶりの江戸出向である。 今回はあまり時間がなかったので東京駅から程近い皇居外苑に行ってみた。 目的地は外桜田門で、JR有楽町から有楽町線に乗り換えて隣の駅・桜田門で降りる。 そこはかの有名な「桜田門外の変」が起こった場所でもある。 外桜田門と書いたのは、内桜田門というのが江戸城にはあったからである。 暗殺されたのは、学者をはじめとした反対勢力の多くの人々を安政の大獄で抹殺した大老・井伊直弼である。 そして暗殺者は水戸藩士17名と薩摩藩士1名の集団のひとり、有村次左衛門である。  因みに安政の大獄で井伊直弼の餌食になった人には、吉田松陰、橋本佐内、そして坂本竜馬の妻・お龍の父で医者の楢崎将作も含まれる。 井伊直弼の屋敷は現在の霞ヶ関にあり、桜田門との距離はわずかに500mであった。 1860年3月3日 井伊直弼が江戸城に登城するその瞬間に暗殺は実行されたのである。 

                松平安芸守の屋敷跡には警視庁がある                 井伊直弼屋敷跡は現在永田町・国会議事堂がある                        

  

 徳川の親藩・越前藩は松平春嶽という名君によって藩の建て直しを成功させている。優秀な政治家・松平春嶽には橋本左内という参謀がいた。 西郷隆盛折り紙つきの男である。越前藩士の子として生まれた左内は16歳で大阪の緒方洪庵の門をたたき、3年間蘭学を学ぶなかで、日本の危機的な状況を理解することとなる。 左内の主君・松平春嶽は徳川一橋派であり、 徳川13代将軍の跡目には一橋慶喜を推していた。 ところが現実には幼少ではあるが老中以下の家臣が補佐すべきとして慶福を推す守旧派が幕閣を握っている。 そこで春嶽は朝廷から慶喜推薦の勅許を示してもらおうと考え、橋本左内を京に送り込み公家たちを説いた。 しかし春嶽の最大のライバルである守旧派幕閣・井伊直弼が腹心の長野主膳を送り、関白九条尚忠を見方につけたために一橋派は残念ながら敗れた。 そして井伊直弼は大老となり春嶽を隠居の身に追い込むと、橋本左内は謹慎の身となり処刑されたのである。

 幕府との強調路線にいた薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らはペリー来航時は徳川斉昭と同様の攘夷論であったが、その後は開国派に転じ堀田老中の開国策を支持した。 薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らは将軍後継者をめぐって三卿の一橋慶喜を擁立する運動を始めていた。 将軍家慶の急死によって13代将軍に就いた家定は病弱で嗣子がなかったため、後継者は血統から紀州藩主・徳川慶福が有力であったが、松平慶永ら改革派藩主は徳川斉昭の子で一橋家に入れていた慶喜を擁立する。これに対して井伊直弼らは南紀派と呼ばれる運動をする。有力大名の中で最も早く積極通商論に変わったのは島津斉彬である。縁家の近衛・三条家に、また徳川斉昭も鷹司政通に「いわれなく、打ち払いと申す事にもあいなりかね」 という書簡を送り橋本左内を入京させた松平慶永の後押しをした。 老太閤鷹司政通は孝明天皇が16歳で天皇を継いだとき准摂政に就いていた。 政通は光格、仁孝、孝明の閑院宮系三代の天皇に仕え34年間に渡って関白を務めた開国派で、斉昭からの書簡を孝明天皇に見せていることから条約承認を楽観視した。 条約不承認を貫こうとした孝明天皇にとっては鷹司政通は鬼門である。 政通の祖父・輔平は閑院宮を創設した直仁親王の実子で東山天皇と血統的にはつながっている。 確かに光格、孝明、明治の閑院宮系天皇の血統は弱く、光格天皇は天皇権の強化に努めるべく、父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが幕府と強調した前関白の鷹司輔平に望みを絶たれている。 孝明天皇は鷹司政通のいいなりになるのを恐れて、九条尚忠、近衛忠煕、三条実万に対しては条約不承認の立場を貫き妥協する考えのないことを言明したのである。 特に九条尚忠には猛烈に働きかけている。 しかし九条尚忠は幕府から課された天皇を規制する役目を理由に幕府側に転じた。そして近衛忠煕、三条実万や青蓮院宮に不穏な動きがあるとして天皇への面会を禁止している。 これを機に、伏見宮家の青蓮院宮・朝彦親王は条約承認問題の表舞台に登場し、後に公武合体運動で活躍する。

 1858年4月、井伊直弼は大老に任命され将軍継承問題は慶福で決着し、一橋派の幕臣・川路は左遷となり1868年ピストル自殺した。井伊直弼の安政の大獄では一橋派の橋本左内ら藩士、近衛忠煕らの公家、徳川斉昭ら大名はことごとく処分され、橋本左内、吉田松陰は死罪となったのである。 薩摩藩では安政の大獄と前々藩主斉興の抑圧のもと中下級武士大久保利通などが結束し、斉彬の遺志を継いで水戸、長州、越前諸藩と連携して井伊直弼大老、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を襲撃する計画を立てていた。 島津久光の進言により脱藩を中止した大久保らは藩とともに出兵する道を選び、誠忠組と称して薩摩藩の尊皇攘夷派をつくる。 そして島津久光は小松帯刀、大久保利通らと兵1千余を率いて鹿児島から出発、 水戸との連携を深めていた有村次左衛門は薩摩を脱藩し、1860年水戸藩と薩摩藩の尊皇攘夷派は伏見の寺田屋で発起を計画し挙兵の盟約が成立し、水戸藩士17名と薩摩藩士1名は登城する井伊直弼を襲い、有村次左衛門が井伊直弼を暗殺した。 桜田門外の変である。

 

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