先日2014年1月23日、幕末の思想家、吉田松陰が自筆したとみられる辞世の句が、彦根藩士長野主膳の書状の中から見つかったとの記事がでた。主膳というのは江戸幕府大老・井伊直弼の腹心で、幕府側が松陰の歌を保管していたことは興味深いというのが研究者の見解である。辞世の句は、「此程に思定めし出立をけふきく古曽嬉しかりける」 安政の大獄で処刑された日にしたためたとみられ、覚悟を決めた心境を表現しているという。井伊直弼が暗殺された桜田門に再び出向。暗殺されたのは、学者をはじめとした反対勢力の多くの人々を安政の大獄で抹殺した大老・井伊直弼である。そして暗殺者は水戸藩士17名と薩摩藩士1名の集団のひとり、有村次左衛門である。因みに安政の大獄で井伊直弼の餌食になった人には、吉田松陰、橋本佐内、そして坂本竜馬の妻・お龍の父で医者の楢崎将作も含まれる。井伊直弼の屋敷は現在の霞ヶ関にあり、桜田門との距離はわずかに500mであった。1860年3月3日 井伊直弼が江戸城に登城するその瞬間に暗殺は実行されたのである。実はこの桜田門という名称は通称であり、正式には外桜田門という。ということは内桜田門があるのか?というと確かに本丸側にある。そして門の由来であるが、その昔このあたりは桜田郷であったことがその理由らしい。また、この門は小田原街道の起点であり、徳川家康関東に入るまでは関所の木戸門が設けられていて、小田原門と呼ばれていた。


徳川の親藩・越前藩は松平春嶽という名君によって藩の建て直しを成功させている。優秀な政治家・松平春嶽には橋本左内という参謀がいた。西郷隆盛折り紙つきの男である。越前藩士の子として生まれた左内は16歳で大阪の緒方洪庵の門をたたき、3年間蘭学を学ぶなかで、日本の危機的な状況を理解することとなる。左内の主君・松平春嶽は徳川一橋派であり、徳川13代将軍の跡目には一橋慶喜を推していた。ところが現実には幼少ではあるが老中以下の家臣が補佐すべきとして慶福を推す守旧派が幕閣を握っている。そこで春嶽は朝廷から慶喜推薦の勅許を示してもらおうと考え、橋本左内を京に送り込み公家たちを説いた。しかし春嶽の最大のライバルである守旧派幕閣・井伊直弼が腹心の長野主膳を送り、関白九条尚忠を見方につけたために一橋派は残念ながら敗れた。そして井伊直弼は大老となり春嶽を隠居の身に追い込むと、橋本左内は謹慎の身となり処刑されたのである。
幕府との強調路線にいた薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らはペリー来航時は徳川斉昭と同様の攘夷論であったが、その後は開国派に転じ堀田老中の開国策を支持した。薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らは将軍後継者をめぐって三卿の一橋慶喜を擁立する運動を始めていた。将軍家慶の急死によって13代将軍に就いた家定は病弱で嗣子がなかったため、後継者は血統から紀州藩主・徳川慶福が有力であったが、松平慶永ら改革派藩主は徳川斉昭の子で一橋家に入れていた慶喜を擁立する。これに対して井伊直弼らは南紀派と呼ばれる運動をする。有力大名の中で最も早く積極通商論に変わったのは島津斉彬である。縁家の近衛・三条家に、また徳川斉昭も鷹司政通に「いわれなく、打ち払いと申す事にもあいなりかね」 という書簡を送り橋本左内を入京させた松平慶永の後押しをした。老太閤鷹司政通は孝明天皇が16歳で天皇を継いだとき准摂政に就いていた。政通は光格、仁孝、孝明の閑院宮系三代の天皇に仕え34年間に渡って関白を務めた開国派で、斉昭からの書簡を孝明天皇に見せていることから条約承認を楽観視した。条約不承認を貫こうとした孝明天皇にとっては鷹司政通は鬼門である。政通の祖父・輔平は閑院宮を創設した直仁親王の実子で東山天皇と血統的にはつながっている。確かに光格、孝明、明治の閑院宮系天皇の血統は弱く、光格天皇は天皇権の強化に努めるべく、父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが幕府と強調した前関白の鷹司輔平に望みを絶たれている。孝明天皇は鷹司政通のいいなりになるのを恐れて、九条尚忠、近衛忠煕、三条実万に対しては条約不承認の立場を貫き妥協する考えのないことを言明したのである。特に九条尚忠には猛烈に働きかけている。しかし九条尚忠は幕府から課された天皇を規制する役目を理由に幕府側に転じた。そして近衛忠煕、三条実万や青蓮院宮に不穏な動きがあるとして天皇への面会を禁止している。これを機に、伏見宮家の青蓮院宮・朝彦親王は条約承認問題の表舞台に登場し、後に公武合体運動で活躍する。
1858年4月、井伊直弼は大老に任命され将軍継承問題は慶福で決着し、一橋派の幕臣・川路は左遷となり1868年ピストル自殺した。井伊直弼の安政の大獄では一橋派の橋本左内ら藩士、近衛忠煕らの公家、徳川斉昭ら大名はことごとく処分され、橋本左内、吉田松陰は死罪となったのである。薩摩藩では安政の大獄と前々藩主斉興の抑圧のもと中下級武士大久保利通などが結束し、斉彬の遺志を継いで水戸、長州、越前諸藩と連携して井伊直弼大老、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を襲撃する計画を立てていた。島津久光の進言により脱藩を中止した大久保らは藩とともに出兵する道を選び、誠忠組と称して薩摩藩の尊皇攘夷派をつくる。そして島津久光は小松帯刀、大久保利通らと兵1千余を率いて鹿児島から出発、水戸との連携を深めていた有村次左衛門は薩摩を脱藩し、1860年水戸藩と薩摩藩の尊皇攘夷派は伏見の寺田屋で発起を計画し挙兵の盟約が成立し、水戸藩士17名と薩摩藩士1名は登城する井伊直弼を襲い、有村次左衛門が井伊直弼を暗殺した。桜田門外の変である。