応仁の乱1467-1477といえば、その勃発理由や目的などは極めて分かりにくい。元々は管領畠山家の畠山義就と従兄弟の畠山政長の家督争いから始まった。これに時の将軍・足利義政の後継者争いが弟の足利義視、息子の義尚の間であった。そして山名宗全と細川勝元との権力争いが関わり、11年の長きにわたり京都の町が戦場になったためにこの多くが焼け野原になったのである。
畠山家は室町幕府のNo.2で管領になれる家柄で、細川家、斯波家と並ぶ家柄であった。畠山持国も二度管領になった幕府の重臣で、河内など4か国を治める守護大名である。ところが畠山持国には嫡子がなく、弟の持富に家督を譲る約束をしていた。ところが持国は突然家督継承者を庶子(妾の子)の義就に変え、時の将軍足利義政もこれを認めた。1448年11月に畠山義就人世最初の転機が訪れたのである。元々畠山義就12歳のとき、畠山義就は父・畠山持国の跡取りとなった。母の身分が低かったために弟・持冨が跡取りになるはずであったが、父の心代わりがそうさせたようである。しかしこれに不満を持った持冨の息子・弥三郎は畠山義就に戦を挑み勝利する。これに態度を変えた将軍義政は弥三郎を家督継承者に認めた。これにより持国は隠居し義就は京を去ることになったのである。実はこの足利義政の決断の裏には有力大名の山名宗全と管領細川勝元が居たようである。つまり畠山家の内紛を煽り、自分たちの権力強化を狙っていたのである。それを知った将軍義政は幕政の主導権を取られまいと勝元の家臣を処罰し、山名宗全を隠居させた。さらに畠山家の家督に義就を据えたのである。これに弥三郎は没落して、弟の政長に跡を託して1459年死去した。ところが畠山義就が意に沿わない行動にでるや、政長に家督権を与えたのである。その行為とは。
1457年10月、畠山義就21歳のとき将軍からある問題解決の大将を命じられた。このころ都で暴れていた土一揆、借金の帳消しなどを求める民衆が米などを盗む暴動を起こしていた。ところが畠山義就は土一揆を鎮圧しなかった。抑え込むよりも取り込んだほうが得策ではないかと考えたようである。かくして畠山義就は地方勢力を味方につけて家や幕府を盛り立てようと考えた。この畠山義就の動きを不気味に見ていたのは、時の管領・細川勝元で、畠山家の力を削ぐ機会を狙っていた。勝元は幕府の権威のもと、土一揆鎮圧命令に背いたとして畠山義就を畠山家当主の座から追放、畠山義就のいとこの畠山政長を据えたのである。細川勝元に深い恨みを持った畠山義就は、すぐに河内で決起し嶽山に立てこもり細川勝元に反旗を翻したのである。相手は室町幕府の大軍、しかし地方の武士・土豪に期待されて持ちこたえた。1463年畠山義就は追い詰められたが、土豪の湯浅は畠山義就の甲冑と取り換えて身代わりを打って出た。かくして僅か30人ほどの手勢とともに包囲を突破した。これほどまでに畠山義就と地方の土豪との結びつきは深かった。畠山義就は奈良県上北山村の人々にかくまわれたという。村の中心にある景徳寺には畠山義就ゆかりの弓引き行事があるという。細川勝元は政長に管領を譲って恩を売り、背後から幕府を操る強大な権力を手に入れた。さて、このように畠山家家督争いが二転三転するのも、当時の将軍足利義政は僅かに8歳、室町幕府には大きな権力は所有しておらず、将軍補佐役の管領(足利一族の細川、畠山、斯波のどれか)が権力を握っていたといえる。次に重要なのは京都の警護を担う侍所で、山名、赤松、京極、一色に限られていた。
一方、将軍家にも後継者争いがはじまった。義政には妻・日野富子との間に子が居なかったために僧侶になっていた弟を還俗させた。ところがその1年後、富子と義政の間に義尚が誕生したため、まずは将軍を義視に譲り、義尚の成長を待って将軍にするつもりであった。これに細川勝元も異論はなかった。富子の妹・日野美子が義視の妻であったから、富子にとっても異論はなかった。だが山名宗全の考えは異なり政局に大きな波乱を迎えることとなる。山名宗全は娘を斯波義廉に嫁がせていることから斯波家を管領にして、義政は政界から引退させて自分が実権を握るという目論見があった。そこで山名宗全は、1466年、応仁の乱勃発の半年前、畠山義就の元へ手紙を送った。山名宗全は勝元の舅であり、8か国の守護を務めていたが、勝元との戦いを決意し、畠山義就との同盟を求めてきたのである。何故か、山名宗全にしてみれば勝元と組んでいれば安泰ではあるがトップにはなれない。思いもよらない誘いに畠山義就は5千の兵を率いて上洛した。宗全と畠山義就は大軍で京都を占拠すると、その軍事力に脅威を感じた義政は早々に義就を畠山家の家督に据え、宗全は幕府の実権を奪うことに成功した。さらに畠山義就は勝元に就いた従兄弟の政長を攻め、管領を罷免され居場所をなくした。このときについに都で戦が起こったのである。政長は闇に紛れて逃亡、畠山義就は畠山家の当主に返り咲いた。さらに将軍にも認められて幕府の重臣にも復帰した。管領には宗全の娘婿・斯波義廉が就任し、これが11年にも及ぶ応仁の乱のきっかけとなった。京都市上京区にある御霊神社で、管領の座を追われた畠山政長は陣を構えて義就に決戦を挑んだ。将軍義政はこの戦いを畠山家の内紛として諸大名には加勢を禁じた。1467年1月18日政長義就が激突し、結果は義就の圧勝であったが、敗走する政長の軍に宗全が追い打ちをかけた。将軍の沙汰を破った宗全に憤慨した細川勝元は、宗全との対立を表面化させていく。
京都白峰神社のすぐ西側には、山名宗全を総大将とした西軍が陣を敷いた場所があり、西北には宗全の邸宅跡がある。北西へほどなく歩くと百々橋跡という応仁の乱激戦地がある。京都堀川通り、一条戻橋のちょうど北側に位置する。南へ200m歩くと細川勝元の東陣跡が小川児童公園にあり、そこから東へ300m歩くと烏丸通りに面して大聖寺があり、境内には室町殿跡の石碑(花の御所)がある。隣には同志社大学があるが、当時は一帯を含めて広範囲に花の御所があったと思われる。1467年5月26日軍勢を密かに整えていた細川勝元は4万の軍を率いて山名宗全の館に攻撃を始めた。油断していた山名宗全、畠山義就は5千の兵を堀川沿いの西陣船橋あたりに敷いた。このとき両軍の放火で京都は焼け落ち多くの死傷者がでたという。それまで中立的立場であった足利義政は細川勝元側に就いたことで、山名側は反逆者となった。山名側の指揮も低下した。ところが、瀬戸内海に500もの大船団が現れた。率いるのは22歳の若武者・大内政弘、4か国の守護を務める大大名で、日明貿易や瀬戸内の利権をめぐって勝元と対立し、幕府内の地位についても不満を持っていた。東軍の総大将足利義視は大内軍の上洛前に決着をつけようと、西軍に内通する者を粛清し山名邸への攻勢をかけていたが、宗全の誘いに応えて3万もの大軍で大内は8月に上洛し、細川邸や室町殿を取り囲んだのである。この時足利義視は御所から姿をくらましている。
山名宗全を総大将とした西軍の陣

山名宗全の邸宅跡

百々橋跡という応仁の乱激戦地


細川勝元の東陣跡

1467年10月山名側は 将軍の御所のすぐ隣の細川側の拠点となった相国寺などを攻めて大打撃を与えた。最強の相棒、畠山義就と大内政弘の活躍で戦は振出に戻るとともに、この乱は長引くこととなる。かくして足利義満建立の相国寺は三日間燃え続けてことごとく焼け付きたのである。しばらく膠着状態が続くが、伊勢に逃げていた足利義視が将軍義政の要請にこたえて上洛、足利義視は復帰の条件として反対勢力の一掃を要求するが義政には受け入れられずに再び出奔する。そしてこともあろうことか敵方西軍に寝返ったのである。1969年応仁の乱も3年目に入ると僧侶や公家など続々と洛中から脱出していった。これが京都の文化が各地に伝播する元となり、後に小京都と云われる年を作ることとなった。高知県四万十市の送り火などは一条家が京を懐かしんではじめたという。
西軍の管領斯波家越前では西軍の斯波義廉と義敏が家督を争い、戦闘の末に義敏が家督を得た。敗れた義廉は西軍の朝倉孝景を向かわせ奪還にでる。東軍は兼ねてから朝倉に目を付け寝返りを誘っていた。朝倉の条件は越前の守護とすること、勝元はこれを認めたので朝倉は東軍に寝返った。驚いたのは山名宗全、越前を失ったことは越前からの食糧補給を絶たれたことを意味し山名や大内に大きな痛手となった。乱も6年目の1472年、山名方11万、細川方16万の兵が戦い続けて7年、都は荒れ果てて終わる気配もなし。山名宗全は降参を考え、細川勝元は和睦に前向きになり乱が終わるかに思えたが、畠山義就と大内政弘は反対し和睦は纏まらない。畠山義就は党首の座を、大内政弘は幕府内での地位が保証されなければ意味がないとして交渉はとん挫した。
翌年の1473年になり乱も7年目に入ると、義政が将軍の座を9歳の義尚に譲り将軍継嗣問題は決着。3月18日には西軍を率いてきた山名宗全が死去、その2か月後細川勝元も死去し、細川、山名の後継者は和睦交渉を再開し翌年山名が幕府に帰参することで決着した。義尚の母は日野富子、早く乱を終わらせてすべての大名が息子義尚に従うような室町幕府体制を復活させたかった。富子は家や幕府の資産を元手に高利貸などで稼いだ金、現在の価値で70億とも言われている金で、都で戦う武将たちに対して優位な立場を築いた。かくして多くの武将が富子の求めに従って戦から手を引いていった。ところが畠山義就と大内政広は今更金で解決できるはずもないとして従わなかった。そこで義視の義理の姉である富子は、1476年義政と義視の和解を取りつけ、また大内政弘は四か国の守護職を安堵され、官職を山名と同等に引き上げ、瀬戸内海での利権を認めるという厚遇を得て大内の願いは叶ったことで国に帰る決意をした。1477年11月11日大内は都を離れたことで応仁の乱は終わった。最後まで矛を納めなかったのは乱の発端となった畠山義就、大内が撤退することで孤立し、京を離れて自らの兵2千とともに河内に再び向かわざるをえなかった。すると僅か20日たらずで河内すべてを手中に収めた。かくして河内は幕府の支配から切り離された独立国になった。このような国が日本中で生まれた「戦国の世」の先駆けとなったといえる。畠山義就は大阪羽曳野市で晩年を過ごした。応神天皇陵のすぐ東の近くに館があったと考えられている。近くにある誉田八幡宮で行われる秋祭りで担がれる神輿は頼朝による寄進と言われているが、畠山義就も担いだといわれている。またしばらく途絶えていた祇園祭は乱の30年後に壮麗な姿でよみがえった。
上杉清子
┣足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338
┗足利尊氏1305-1358 ⇔ 後醍醐天皇1288-1339
┃┣義詮1330-1367 ┃┃ ┏憲忠1433-1455
┃┃┃藤原慶子 ┃┃関東管領上杉氏 ↑
┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷 ┃┃ 享徳の乱1455-
┃┃┃┃ ┣義量1407-1425 ┃┃ ↑ ↓
┃┃┃┃栄子 武者小路隆光 ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
┃┃┃┃ ┣━━━━ 娘 ┃┃関東公方足利持氏
┃┃┃┃ ┗円満院 ┣細川澄之 ┃┃
┃┃┃┃ ┣潤童子 九条政基 ┃┃
┃┃┃┃ ┃ 大内義興娘 ┃┃
┃┃┃┃ ┃斯波氏┣義栄 1538-1568┃┃(三好氏で養育)
┃┃┃┃ ┃┣義維1509-1573 ┃┃
┃┃┃┃ ┃┃日野永俊娘 ┃┃
┃┃┃┃ ┃┃┣義晴1511-1550 ┃┃
┃┃┃┃ ┃┃┃┣義輝1536-1565 ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)
┃┃┃┃ ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃ (三好三人衆:義栄派)
┃┃┃┃ ┃┃┃近衛娘 ┃┃ 伊勢貞親1417-1473
┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸 ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏
┃┃┃┃ ┣政知1435-1491関東堀越公方 ┃┃ ┗北川殿
┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐 ┃┃ ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃┃ 今川義忠1436-1476駿河守護
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃┃
┃┃┃┃ ? ┣- ┣義勝1434-1443 ┃┃満元┓
┃┃┃┃ ┣宗子 ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442
┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児 ┃┃ ┗細川勝元1430-1473
┃┃┃┃ ┣義資 ┃┃今参局-1459 ┃┃ ┃┗政元1486-1507(明応政変)
┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489 ┃┃ ┣- ┣澄之(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野富子1440-1496 ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家)
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┗娘義尚夫人 ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護
┃┃┃┃ ┃ ┃┣義視1439-1491(義尋) ┃┃
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┣義材1466-1523⇔政元 ┃┃満家(山城守護)┓
┃┃┃┃ ┃ ┗┃日野美子 妙音院 ┃┃管領畠山持国1398-1455
┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局 ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護
┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413 ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家
┃┃┃┃春日局 ┃┃ ┗義英
┃┃┃┃┣義嗣1394-1418 ┃┃
┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏) ┃┃
┃┃┃┃┃ 日野康子 ┏━━━━━━━━━┛┃
┃┃┃┃┃ ┣- ┃┏━━━━━━━━━┛
┃┃┣義満1358-1408 ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)
┃┃┃ ┣女子 ┃┃
┃┃┣満詮 日野業子 ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368
┃┃紀良子 ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394
┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃
┃┣基氏1340-1367 ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424
┃赤橋登子 ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
┣直冬1327-1400 ┃阿野廉子1301-1359
越前局 ┣護良親王1308-1335
┣懐良親王1329-1383
源師親娘