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幕末、戦前といつも利用されてきた楠木正成

2019年06月26日 | 鎌倉・室町時代

 楠木正成とは、日本で最も有名になった土豪であり、大楠公として歴史に名を遺す英雄、険しい山に城を築き奇想天外な戦法で大軍と戦った武略の天才である。天皇の命令に従い悲劇的な死を遂げた忠臣として長く語り継がれた。今年は明治150年にあたるが、明治維新に大きく影響を与えた人物でもある。ほんとうに悲劇の忠臣なのか?1336年に足利尊氏と湊川の戦で敗れて自刃したが、その三か月前に尊氏をあと一歩のところまで追いつめていた。出自も不明な謎多き正成が歴史に登場したのは1331年8月、150年に渡った鎌倉武家政権と時の後醍醐天皇との対立が表面化した。わが子への皇位継承を望む後醍醐天皇は、これを阻む幕府に不満を募らせていた。天皇に政の実権を取り戻すことを目論んでいたのである。これに応えたのが河内の土豪・楠木正成である。大阪南部を拠点にしていた正成は武力を財力を兼ね備えた有力者であった。当時、中国宗からの銭の普及を背景に交通、流通をとりしきることで台頭した武士たちのひとりである。彼らは権威を振りかざし権益を独占する鎌倉幕府に憤りを感じていた。正成は後醍醐天皇の元にはせ参じ、武力と智謀にて天下を改めるべく動いたのである。かくして楠木正成は500の手勢を用いて河内の山城・赤坂城で蜂起した。幕府は30万とも言われる大軍勢を差し向け、赤坂城を攻撃したが、大木熱湯などで大軍を撃退。これに手を焼いた幕府軍は兵糧攻めに転じるや、楠木正成は自害を装って城に火を放ち夜陰に紛れて逃げたのである。

 倒幕戦に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流され、楠木正成の行方も不明であった。赤坂城脱出の1年後楠木正成は紀伊で挙兵する。河内一帯を取り戻した楠木正成は金剛山の麓に新たな千早城を築いた。約500段の階段を上ると千早城四ノ丸跡がある。峰の奥には金剛山まで続く道がある要塞であったようだ。金剛山には幕府軍を迎え撃つ正成の書状がのこされている。千早城は金剛山の出城みたいな存在であり、正成は金剛山と密接な関係を結んでいたと思われる。

 1332年2月鎌倉幕府の大軍が千早城に襲い掛かった。正成は奇策で第軍勢を迎え撃つ。籠城は100日以上にもおよんだことから兵糧を受け入れるネットワークがあった。逆に幕府軍の戦意は衰え、また正成奮戦の効果は日本各地に及び、日本各地で蜂起が始まったのである。激変は幕府内部でも発生。幕府軍の大将・足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返った。1333年5月、尊氏は幕府の京都拠点・六波羅探題を攻め落とし、幕府方の新田義貞も鎌倉を襲撃し壊滅させた。かくして1333年5月22日鎌倉幕府は滅亡した。隠岐を脱出した後醍醐天皇は正成に先導されて京都に凱旋した。6月には天皇親政である建武の親政を開始した。後醍醐天皇は所領争いなどに前例を顧みない判決を行い破格の人事を次々と実施した。地方の土豪に過ぎなかった正成も天皇の親衛隊長とも言える武者所に大抜擢された。しかしこれらは武家だけではなく朝廷内にもわだかまりを残すこととなる。

 鎌倉幕府倒幕から二年後、旧幕府残党の氾濫を抑えるため鎌倉に下っていた足利尊氏が後醍醐政権から離反する。反乱の鎮圧後も鎌倉から動かない尊氏を後醍醐天皇が討伐しようとしたからである。ところが尊氏はこの戦いに勝利して京都を制圧。比叡山に逃れた後醍醐天皇の元に正成ら朝廷軍は集結した。1336年1月朝廷軍は尊氏軍に総攻撃をしかけ洛中から駆逐したのである。ここでも正成は戦死したとみせかけて散り尻に逃げたが、尊氏により差し向けられた追手に襲い掛かった。かくして正成は尊氏を追い詰めたが、優勢な朝廷軍の中には逃げる朝敵に付き従う武士が多数居たのである。彼らは所領の拡大など功績に見合った恩賞が無いとして不満を持っていたのである。正成はこの光景を見て尊氏を追い込むことはやめて撤退した。ある意味尊氏との決戦をさけて尊氏を取り込み、後醍醐天皇の治世継続を狙ったと言える。そして都に戻った正成は後醍醐天皇に思い切った策を進言した。つまり尊氏との和睦案を進言し、尊氏の反撃をかわそうとしたのである。ところが、この進言は聞き入れられなかった。

 二か月後、九州に落ち延びていた尊氏は大軍勢を率いて京都に進軍した。かくして天皇を比叡山に逃し京都を空にして尊氏軍を引き込み、兵糧のルートを新田軍と絶ったうえで市中殲滅を狙うものであった。だが、公家たちからは反対され出陣を強いられたのである。かくして菊水の旗印のもとわずか500騎で兵庫湊川に向かった正成は、足利の大軍を相手に激闘し、1336年5月25日やつきた正成は弟正季と「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」と誓い、刺し違えて死んだという。

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大名が将軍を暗殺・嘉吉の乱

2019年06月10日 | 鎌倉・室町時代

 暗殺されたのは室町幕府6代将軍足利義教、暗殺の首謀者はに播磨・備前・美作の守護大名・赤松満祐である。暗殺された足利義教は、悪政の限りを尽くしたことで有名な室町幕府の六代将軍である。

室町幕府ができて70年余りが過ぎ、三代将軍義満が亡くなったころから幕府政治は揺らぎ始めていた。畿内では一揆が多発、九州では地侍同志の争いが続いて幕府の制御が不能となっていた。そもそも室町幕府は辺境分治といって地方は地方の有力者・有力守護大名に任せ、中央は距離を置いて口出しはしないというものであった。そうした状況の中で足利義教は1394年に義満の第二子として生まれた。義満は次の将軍には嫡男義持と決め、残る4人の男子は仏門にはいらせた。足利義教は天台宗比叡山の一門・青蓮院へ入り、後に天台座主にまで上り詰めた。しかし35歳の時、兄4代将軍義持の息子が5代将軍に就任してまもなく急死。また義持もが後継者を指名せずに死亡した。

 困ったのは残された有力大名、というのも後継ぎ候補の義満の子は皆僧侶であり、後継ぎとしての資質に欠けていたからである。かくして6代将軍は籤引きで決められることとなった。くじは石清水八幡宮で行われ、青蓮院殿が選ばれたのである。足利義教は将軍直属の軍隊・奉公衆を独自に整備し、延暦寺の焼き討ちを行っている。当時の延暦寺は金融業を営み、僧兵という軍事力を持ち、室町幕府に楯突いていたのである。また幕府における将軍の役割も変えていった。裁判における判決や合議制における人選を将軍が行えるようにした。つまり将軍の権力はこの時代に最強になったのである。かくして日明貿易を復活させ、南北朝問題も決着。副将軍とも言うべき鎌倉公方・足利持氏が暴走しようとしたときには管領・斯波義淳などの重臣が足利義教を強く諫めた。ところが1433年管領の斯波義淳が病死し、他の重臣たちも次々と亡くなっていった。足利義教は有力大名の家督問題に介入すると、その大名は内紛が起こって弱体化を招いた。畠山、大内、山名、一色、土岐氏も同様である。結果将軍の権力は益々強大になった。1438年、反抗していた関東の鎌倉公方を攻撃し自害に追い込んだ。さらに持氏の血を継ぐ3人の息子までも殺害した。また鎌倉公方を匿ったということで一色義貫を殺害し領地を取り上げたのである。

 恐怖に包まれた都を一掃するために立ち上がったともいえるのが重臣大名・赤松満祐。斯波や一色に続いて次は赤松家が取り潰されることを恐れたのである。ある日、赤松満祐は有力大名とともに足利義教を屋敷に招き、暗殺を実行したのである。足利義教を助けるものはほとんどいなかったという。それ以降、権力は将軍の手から次第に離れ室町幕府は衰退していくのである。

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永観堂の西隣にある尊良親王墓

2019年04月19日 | 鎌倉・室町時代

 元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。 楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。  1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。 翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。 その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。 当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。  翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。後醍醐天皇自ら正成に向かい、その功労を称えている。 正成は検非違使、左衛門尉として従五位に叙せられ、河内、摂津の両国を賜わる。 新田義貞は、上野、播磨の両国、尊氏は、武蔵、常陸、下総の三ヶ国を賜わり、それぞれ従四位、左兵衛督と従二位参議に任ぜられた。 

 護良親王との対立を契機として尊氏は反朝廷の旗色を鮮明にしてゆき、事態は尊氏の弟直義による親王殺害にまでエスカレートし、正成は天皇と尊氏の和解を真剣に考える。 都に押し寄せた尊氏勢が、正成、義貞の連合軍に破れて船で九州へ敗走した時にも、両者の和解を上奏している。 九州へ敗走した尊氏は逆賊であったが、新政の失策を目の当たりにした正成には、全国の武士の動向が手に取るようにわかったのであろう。これは天皇を思えば最善の方法ではあったが、到底公家達が納得できる案ではなかったのである。  正成の予測通り尊氏は、新政に失望した全国の大小名を味方につけ東上を開始した。これを阻止せんとした義貞勢が、兵庫湊川に弧立してしまう。 天皇は義貞救援を正成に諮問する。この時、正成は史上有名な献策をする。 結局、この献策は坊門宰相清忠によって一蹴され、正成は勅命により兵庫へと出陣し、尼ヶ崎で最後の上奏を行う。 もはや戦いの帰趨は正成にとって明らかであり、死を決意しての悲愴な出陣だったのである。 湊川に出陣した正成は義貞に会い、その任務は君を守護し聖慮を安んずべきであることを説き、身を挺して脱出を助けることを進言する。 総勢七百騎余の正成勢は七十三騎になり、正成は壮絶な自害を遂げる。  天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから十日後の延元元年(1336)五月二十五日。正成四十三歳の男盛りであった。その首級は、敵将尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。

 後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。

 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。  足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。 ところで、京で捉えられた尊良親王は脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。1335年、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆したときに、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが敗退し、翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。 1337年、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来ると尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、遂に力尽き自害した。

 後醍醐天皇が政権に復帰すると、光厳天皇を廃して建武の新政を始めた。つまり律令政の復活と天皇親政である。 後醍醐天皇は土地所有に対する習慣、既得権を白紙にもどした。また、知行国制を取りやめた。 これは特定の家系が国司の任免権を独占し世襲させる制度であり、多くの貴族が私物化していた土地を取り上げられることになる。また、関白職そのものも廃止し、征夷大将軍には尊氏ではなく、護良親王を任命した。 当然足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇と対立する持明寺統の公家達は知行国を召し取られて対立していく。 そして後醍醐天皇の夢であった大内裏の建設を始めたのであるが、その費用は全国の地頭、御家人からの税金によりまかなおうとした。 これでは武士たちが不満を持つのは当然である。 そして新政の崩壊は旧幕府系の人々の反乱によって始まるのである。 北条高時の遺児・時行が反乱の首謀者である。 また後醍醐天皇に解任された大納言・西園寺公宗は各地の北条氏の残党を集めて、再び持明寺統を立てようと画策した。 この時、密告により公宗は逮捕され持明寺統の後伏見、花園、光厳上皇は幽閉されたが、北条時行の軍勢は諏訪の豪族・諏訪氏に庇護されながら1335年に兵を挙げた。 公宗を密告したのは弟の公重で、西園寺の家督を得たうえに知行国の返還という恩賞を後醍醐天皇から与えられている。  後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。

  尊良親王 ?~1337は、「太平記」にて「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の数多い皇子の中では最も早く生まれたと考えられている。母は権大納言二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王がいる。為子が1314年に亡くなったことから、幼少時より後醍醐の側近・吉田定房に養育され、1326年に元服した。1324~1333の鎌倉幕府の滅亡までの戦いで、後醍醐天皇を支えたのは、当時元服を終えた尊良、世良、尊雲(護良)、尊澄(宗良)の四人の皇子である。 後醍醐は、鎌倉幕府打倒のために、多くの僧兵を擁する近畿の有力寺社勢力を味方に付けようと画策し、自ら延暦寺や興福寺・東大寺・春日社等に行幸して関係強化に努めた。さらに、尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)の二人は天台宗(延暦寺)勢力を勧誘する任務を与えられて、天台トップの天台座主に据えられて同宗勢力を管轄した。一方、尊良と世良は父帝を傍から補佐することが期待され、この頃、後醍醐の寵愛を受けた阿野廉子が、恒良1325~38、成良1326~44、義良1328~68の三人の皇子を相次いで生み、これら幼い皇子たちは、後に九州で征西大将軍として活躍した懐良 1329?~83と共に後醍醐天皇の晩年を支えた第二世代の皇子といえる。

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承久の乱により武士の時代は確立した

2019年02月02日 | 鎌倉・室町時代

 日本の歴史の中で上皇は権力の中心にあった。新古今和歌集の選者として有名な後鳥羽上皇は自らの和歌を数多く残している。その才能は和歌だけではなく、菊御作という刀剣にも残されている。備前や備中、山背から御番鍛冶と呼ばれる鍛冶名人を集めて作られたものである。では後鳥羽上皇は何故刀を必要としたのか。後鳥羽天皇即位の二年後に勃発した壇ノ浦の戦いでは三種の神器のひとつ草薙の剣が失われた。天皇の権威の象徴が失われたことが菊御作の背景にあるという。後鳥羽上皇の時代には王統の正当性が揺らぎ、権威の象徴を造らざるを得ないほどに追い込まれていた。後鳥羽天皇は1198年に19才で譲位して上皇となると諸芸の習得を重視したが、なかでも和歌は重視した。

 新古今和歌集は王の権威をとりもどす狙いがあったと考えられる。それは東国の政治情勢である。源頼朝が鎌倉幕府を創設、従来荘園の下級役人に過ぎなかった武士が守護や地頭として勢力を拡大し荘園経営に口出しし始めたことは、公家にとっては大きな打撃である。1204年、鎌倉幕府の執権・北条義時(畠山重忠を謀反の罪に陥れて暗殺した北条時政は、御家人の信頼を失い、代わって北条義時が政権を握るようになる)が3代将軍・実朝の正室として公家から迎え入れたいと申し出てきた。後鳥羽上皇は、自分の従兄弟にあたる坊門信清卿の女を送りこむことで実朝を取り込もうと図った。その効果は絶大で、婚姻の数か月後に実朝は和歌をたしなむようになった。1213年、実朝は自ら金槐和歌集を編纂した。実朝は後鳥羽上皇に対して恭順の意を表したのである。かくして上皇は実朝の官位を僅か1年の間に左大将、内大臣、右大臣にまで昇進させている。この裏には二人の間にて密かに進められていた計画があったと愚管抄には記載がある。つまり頼仁親王を将軍とし、実朝にはその補佐をさせるということである。天皇の権威の元、この国を再びまとめるという計画は実現寸前までこぎつけていたのである。

 ところが1219年1月27日、鶴岡八幡宮で右大臣昇進祝賀のために参拝していた実朝が、二代将軍頼家の子・公暁によって暗殺された。自ら将軍になることを目論んでの犯行である。北条義時は京へ使者を派遣し、頼仁親王を鎌倉へ下向させるように要請した。将軍をも暗殺するような危険な鎌倉へ、頼仁親王を送りこむことを後鳥羽上皇は拒んだ。「実朝の身の安全を祈祷していた陰陽師がすべて罷免された」という吾妻鏡の記述は後鳥羽上皇の御沙汰だという。後鳥羽上皇は北条義時の本心を確かめるべく、摂津、長江、倉橋の荘園地頭の罷免を申し出た。(1219年3月、摂津から鎌倉の御家人を追い出せということ)この荘園の地頭は北条義時である。どこまで朝廷に従う気があるのかを試したのである。ところが義時は1000騎の兵を京に派遣し、内裏に火を放つなど、この要求を拒否している。かくして朝廷と北条義時の関係は悪化していく。1219年7月、後鳥羽上皇は摂政・九条道家の子・三寅を関東に下向させるという苦渋の選択をした。ところがその裏で源頼茂が将軍就任を目論み、実朝の後継者には三寅よりも自分がふさわしいとした。これを知った後鳥羽上皇は頼茂討伐に踏み切る。1219年8月源頼茂は討伐されたが、混乱のさなか大内裏が焼失した。王権の象徴である内裏の焼失は我慢ならないものであった。後鳥羽上皇は再建を進めたが、公家寺社は年貢の増大に反発、さらに幕府までもが反対し、内裏再建は頓挫したのである。そして1221年4月28日、後鳥羽天皇は京に1000騎の軍勢を招集した。承久の乱勃発である。西国の守護である御家人に上皇が挙兵を呼び掛けた命令が残されている。

 計画は次である。北条義時に対して相模の三浦義村(鎌倉幕府創設以来のライバル)がクーデターを起こす。失敗したら西国の上皇方御家人が北条義時を討つというものである。ところが、北条義時は上皇の挙兵をすばやく察知し、三浦義村が義時に上皇の書状を提出した。(5月19日後鳥羽上皇による義時追討命令)また東国御家人達に対する北条政子の情報操作演説が威力を見せ、武田信光などは一番に賛同した。僅か8騎の幕府軍の軍勢は1万を超えるまでに膨れ上がった。1221年6月5日、岐阜県木曽川で両軍は対峙、上皇軍は大敗し京へ撤退すると幕府軍(武田信光の東山道、北条朝時の北陸道、北条泰時の東海道は恩賞の確約を取り付ける)はそのまま京へなだれ込んだという。一方北条に捕えられていた上皇の密使・押松は、京に送り返され、東国武士の団結を後鳥羽上皇に知らせた。上皇は西国武士を整えるが時は遅く、恩賞の保証がない院宣には従わないのも道理。6月14日京都宇治で総大将泰時が覚悟するほどの最後の決戦が行われ、鎌倉幕府軍の勝利となった。

 そして上皇は義時追討の院宣を取り消した。この朝廷敗北によって西国の守護はことごとく処分され日本全土は東国の守護により配置された。朝廷の所領3000か所が幕府の所領となったのである。東国の武士に西国の所領が与えられ、それぞれに移住し、武士の考え方や秩序が西国にまで及ぶようになる。 また、幕府によってそれまでの天皇(仲恭天皇、その父・順徳天皇、その前の土御門天皇)は廃され、上皇の兄の子にあたる後堀河天皇が即位した。つまり皇位継承に幕府が口出しをするという前代未聞の事態が発生した。上皇への処分も過酷を極め、上皇41歳の1221年隠岐の島へ流された。隠岐の島の中ノ島海土町には上皇が暮らした行在所跡が今でも残っている。上皇は失意の中でも決して都への思いは忘れなかった。島で上皇と接した一族が村上家である。村上家は帰還を願う後鳥羽上皇の便りを京へ運び上皇はその返事を求めて村上家を訪ねたという。しかし上皇の願いが叶うことはなく、流罪になってから18年後の1239年2月、後鳥羽上皇は病に倒れ、この地で崩御した。その後上皇の遺骨の一部は京から20km離れた大原に葬られた。死して尚都の地を踏むことは許されなかったのである。

 また、承久の乱の三年後、1224年に北条義時は自分の役割を終えたかのようにこの世を去った。この後武士の世は640年間続くのである。しかし新井白石などは朱子学の元、北条義時を悪人と批判している。 

大原陵

 

┏源頼朝 1147-1199 (急死 乳母比企の局)    
┣義賢   ┃          ┣比企能員
┃     ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局   
┣範頼   ┃┃         ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
 ┣高能  ┃┣九条兼実      藤九郎盛長
 ┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188        
 ┣全子  ┃  ┣九条良経1169-1206      
 ┣保子  ┃   ┃┣九条道家1193-1252     
 一条能保 ┃   ┃┃┣九条教実1211-1235     
      ┃   ┃┃┣二条良実1216-1271     
      ┃   ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍(幼名は三寅)     
      ┃   ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍      
      ┃   ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘)  ┣-    
      ┃   ┃┃┣一条実経1223-1284  桧皮姫1230-1247北条経時妹   
      ┃   ┃┃西園寺綸子     
      ┃   ┃┣九条教家1194-1255     
         ┃   ┃┣九条立子1192-1248     
      ┃   ┃一条能保娘     
      ┃  ┣中宮任子1173-1238      
      ┃ 兼子┃     
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子       ┣後嵯峨天皇1220-1272   
      ┃ ┃  ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
      ┃ ┃西園寺実氏1194-1269    平棟子  ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
      ┣大姫1178-1197       
      ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条時政により暗殺 手を下したのは義時)       
      ┃ ┣一幡(藤原氏に敗れる)    
      ┃ ┣公暁(乳母は三浦一族)     
      ┃ ┃  (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)   
      ┃比企能員(よしかず)娘・若狭局     
      ┃藤原棟子       
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子  藤原立子1192-1247   
      ┃守貞親王(後高倉院)┃    ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王) 
      ┃            ┣84順徳天皇1197-1242
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼    
      ┃   ┣    
      ┣実朝1192-1219(乳母は北条・阿波局三浦氏に暗殺される)      
      ┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
  ┏北条政子1157-1225尼御台 
 ┃姫の前(比企朝宗娘)    
 ┃  ┣北条朝時1193-1245         
 ┃ ┃ ┣北条光時?-?(宮騒動) 
 ┃ ┃ ┗娘
 ┃ ┃  ┣家氏?-?
 ┃ ┃ 足利泰氏1216-1270
 ┃ ┃  ┣頼氏1240-1297    北条時盛娘
 ┃ ┃ 北条時氏娘(時頼兄妹)     ┣北条義宗1253-1277六波羅探題北方
 ┃ ┣北条重時1198-1261(極楽寺流)┃       ┃
 ┣②北条義時1163-1224 ┣⑥北条長時(1229-1264) ┗北条久時1272-1307
 ┃ ┃┣⑦政村1205-  ┣北条時茂1240-1270探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条義政1242-1282探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条時頼室(葛西殿)    ┃
 ┃ ┃┃        ┣安達泰盛室・藤岡     ┃
 ┃ ┃┣実泰1208-1263 平基親娘(治部卿)       ┃
 ┃ ┃┃ ┗実時1224-1276(金沢流)          ┃
 ┃ ┃伊賀の方 ┗顕時1243-1301 (室:安達千代野) ┃
 ┃ ┃                                   ┃
 ┃ ┣③北条泰時(承久の乱時総司令官)1183-1242   ┃
 ┃ ┃       ┃ ┃              ┣⑯北条守時1295-1233
 ┃阿波局?-?     ┃ ┣北条時実1212-1227    ┃
 ┣北条宗時?-1180    ┃ 安保実員娘        ┃
 ┃         ┣北条時氏1203-1230      ┣赤橋登子1306-1365
 ┃         ┃ ┣桧皮姫1230-1247        ┃   ┃
 ┃         ┃ ┣北条時定-1290宝治合戦  ┃   ┃
 ┃三浦義澄1127-1200 ┃ ┣④北条経時1224-1246  北条宗頼娘┣足利義詮1330-1367
 ┃ ┣三浦義村-1239 ┃ ┃   ┣隆政            ┃┣義満1358-1408
 ┃伊東 ┣矢部禅尼1187- ┃    ┗頼助1245-1296       ┃┃
 ┃祐親娘┃          1256┃大江広元1148-1245         ┃┃
 ┃   ┣三浦泰村1184- ┃┗毛利季光1201-1247(宝治合戦)  ┃┃
 ┃   ┣三浦光村1205- ┃  ┣経光?-?・・・毛利元就    ┃┃
 ┃   ┣土岐光定室  ┃  ┣娘              ┃┃
 ┃   ┣━━━━━━━┃ ━娘┣北条時宗(否定説)      ┃┃
 ┃ 一条忠頼娘(公暁乳母)┃   ┃辻殿            ┃┃
 ┃            ┃   ┃┣北条宗頼?-1279      ┃┣満詮1364-1418
 ┃              ┃    ┃┃                 ┃紀良子
 ┃              ┃    ┃┃     小山長村娘     ┃
 ┃              ┃    ┃┃讃岐局┣時朝       ┃
 ┃     家時(報国寺)┃   ┃┃┣北条時輔1248-1272   ┣足利基氏1340-1367
①北条時政     ┣-  ┣⑤北条時頼1227-1263        ┣足利頼子?-1353鶴王
  ┃        ┃  ┃    ┃            ┃           ┃
 ┣阿波 平賀朝雅 ┏娘 ┏松下禅尼┣北条宗政1253-1281   足利尊氏1305-1358┣-
 ┣鏡子 ┣- ┏常葉時茂┃ ?-?   ┃┣⑩師時1275-1311                崇光天皇
 ┣百合子┏重時1198- ┃    ┃北条政村娘
 ┣江馬四郎義時1163- ┃    ┣北条時宗1251-1284     
牧の方         ┃   北条重時娘   ┣⑨貞時1272-1311(乳母)         
            ┃   (葛西殿)   ┃┣⑭高時1303-1333┃
             安達景盛-1248       ┃北条宗政娘    ┣宗綱?-?
            ┃               ┃      ┏平頼綱1241-1293(日蓮を配流)
            ┣安達義景1210-1253 ┃ 平盛綱?-?得宗家執事
          武藤頼佐娘┣堀内殿1252-1306覚山尼
                ┣安達泰盛1231-1285        
                ┃ ┣宗景1259-1285         
                ┃北条重時娘・藤岡         
                  北条時房娘

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室町幕府六代将軍・足利義教はくじで決まった

2019年01月26日 | 鎌倉・室町時代

 悪政の限りを尽くしたことで有名な室町幕府の六代将軍・足利義教に関わる逸話について記載する。将軍の就任式で笑った公家の領地を召し上げ蟄居に追い込んだ。梅の木を運ばせたとき、枝が折れていたという理由で関係者8人を切腹など処罰。能楽の第一人者・世阿弥を佐渡に追放。これらの処罰は大名、僧侶、庶民、皇族などあらゆる階層に及んだと云う。室町幕府ができて70年余りが過ぎ、三代将軍義満が亡くなったころから幕府政治は揺らぎ始めていた。畿内では一揆が多発、九州では地侍同志の争いが続いて幕府の制御が不能となっていた。そもそも室町幕府は辺境分治といって地方は地方の有力者・有力守護大名に任せ、中央は距離を置いて口出しはしないというものであった。そうした状況の中で足利義教は1394年に義満の第二子として生まれた。義満は次の将軍には嫡男義持と決め、残る4人の男子は仏門にはいらせた。足利義教は天台宗比叡山の一門・青蓮院へ入り、後に天台座主にまで上り詰めた。しかし35歳の時、兄4代将軍義持の息子が5代将軍に就任してまもなく急死。また義持もが後継者を指名せずに死亡した。

 困ったのは残された有力大名、というのも後継ぎ候補の義満の子は皆僧侶であり、後継ぎとしての資質に欠けていたからである。かくして6代将軍は籤引きで決められることとなった。くじは石清水八幡宮で行われ、青蓮院殿が選ばれたのである。足利義教は将軍直属の軍隊・奉公衆を独自に整備し、延暦寺の焼き討ちを行っている。当時の延暦寺は金融業を営み、僧兵という軍事力を持ち、室町幕府に楯突いていたのである。また幕府における将軍の役割も変えていった。裁判における判決や合議制における人選を将軍が行えるようにした。つまり将軍の権力はこの時代に最強になったのである。かくして日明貿易を復活させ、南北朝問題も決着。副将軍とも言うべき鎌倉公方・足利持氏が暴走しようとしたときには管領・斯波義淳などの重臣が足利義教を強く諫めた。ところが1433年管領の斯波義淳が病死し、他の重臣たちも次々と亡くなっていった。足利義教は有力大名の家督問題に介入すると、その大名は内紛が起こって弱体化を招いた。畠山、大内、山名、一色、土岐氏も同様である。結果将軍の権力は益々強大になった。1438年、反抗していた関東の鎌倉公方を攻撃し自害に追い込んだ。さらに持氏の血を継ぐ3人の息子までも殺害した。また鎌倉公方を匿ったということで一色義貫を殺害し領地を取り上げたのである。

 恐怖に包まれた都を一掃するために立ち上がったともいえるのが重臣大名・赤松満祐。斯波や一色に続いて次は赤松家が取り潰されることを恐れたのである。ある日、赤松満祐は有力大名とともに足利義教を屋敷に招き、暗殺を実行したのである。足利義教を助けるものはほとんどいなかったという。それ以降、権力は将軍の手から次第に離れ室町幕府は衰退していくのである。 

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

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足利義満と管領・細川頼之

2018年11月03日 | 鎌倉・室町時代

 足利義満が生まれたのは室町前期、つまり南北朝時代である。幼名は春王という。足利義満4歳の1362年、有力大名が室町幕府を裏切り都を攻めてきた。この時、足利義満の父・義詮はすでに都を脱出していた。義満が辿り着いたのは播磨の白旗城である。白旗城といえば、源義経が鵯越を駆け下りて平家を敗走させたときに経由した場所である。ここ白旗城では細川頼之に匿われて育ったのである。この頃、朝廷は南朝の後村上天皇が、北朝は室町幕府の足利義詮が治めるが、混乱は全国に波及する。足利義詮は収束の為に譲歩、上杉氏、山名氏、大内氏を幕府側につけた。

 義満10歳のとき足利義詮が倒れ、細川頼之は育ての親となる。因みに桂の地蔵院は管領・細川頼之が願いを込め、宗鏡禅師を招いて建立した臨済禅の寺である。義満22歳の時、幕府は安定しつつあったが、細川頼之に対して土岐氏、山名氏が反発。土岐氏は細川頼之打倒に向けて挙兵したのである。花の御所を土岐氏数万が取り囲み、関東管領・細川頼之追放の圧力をかけてきたのである。かくして細川頼之は讃岐へ流されることとなったが、花の御所は平穏を取り戻したのである。足利義満は、武家だけではなく公家としての高い地位を獲得することで室町時代の安定を目指した。足利将軍家の格上げの為には官位をあげる必要がある。そのためには朝廷行事にかかわることであるが、その武器は笙であった。仏への功徳という楽器・笙を駆使することで、当時の後小松天皇の時代に、25歳で左大臣となった。

 1389年義満が31歳の時、彼は讃岐へ都落ちした。義満が讃岐の宇多津の細川頼之を訪れたのは、山名、土岐の棟梁が死去したことで、細川頼之を都に迎え入れようと考えたからである。かくして足利義満は、山名満幸の役職をはく奪すると、一族を相手に宣戦布告し都での短期決戦に出た。戦場は内野と言って平安京の中心である。大内裏に兵を集中し、奉公衆5000が山名を打ち破り大勝利し、さらなる平和、つまり南朝との和睦、南北朝統一を考えていた。北朝説得するのに、官位を高めたことはほんとうに役立った。1392年、南北朝収束の直前に、義満を支えてきた細川頼之は64歳で亡くなったが、義満による室町幕府は繁栄の極みを迎えることとなる。

 足利義満には天皇位略奪説がある。明との貿易で日本国王を名乗ったことが理由のひとつであるが、これは交易のための便宜的な措置である。またもうひとつは、息子・義嗣を親王の待遇としたことが挙げられる。しかし狙いは別にあった。これが武士の世の礎となる。つまり幕府の財政基盤の強化を朝鮮との交易ではかろうとしたが、そのため倭寇を取り締まり航路の安定をはかることが重要であった。交易で膨大な利益をあげ、北山邸や金閣寺での祭りごとの折には、嫡男・義持を公家や帝に披露することで、この後継者を公家のトップにしようとしたのである。次男・義嗣が笙が苦手な嫡男・義持のかわりに演奏し、後小松天皇や公家に披露したという。これらは出世、格挙のためのものであり、天皇家乗っ取りではない。やがて義満は流行り病に倒れ、1408年義満は51歳で死去した。義持は4代将軍として幕府を納め、義嗣は公家を納める。これにより支配の正当性をはかり、長期安定を得るといった武家政治の流れをつくったのである。     

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相国寺の遺構

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 1379年細川頼之にかわって斯波義将が管領になり、足利義満は「奉公衆」という近衛軍を作った。この奉公衆とは将軍固有が持つ軍団であり、これにより斯波義将に操られることなく自己の権力を強化したのである。1381年には京室町にあった室町第(花の御所)の落慶供養が行われた。貴族・武士の屋敷にあった名花・名木を移植させ義満の権力を誇示した。左大臣以上の大臣を相国というが、彼が後に京の中央に建てた相国寺は義満の権力の象徴である。

 応仁の乱に於いては東軍・足利義視側の本拠地となっている。義視勢は16万、対する義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名・大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦という。

 また、相国寺には禁門の変で犠牲となった藩兵ら400名の霊塔・墓や、新古今和歌集の選者のひとりである藤原定家の墓などがある。 

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室町贅沢三昧の邸・花の御所

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 1379年細川頼之にかわって斯波義将が管領になり、足利義満は「奉公衆」という近衛軍を作った。この奉公衆とは将軍固有が持つ軍団であり、これにより斯波義将に操られることなく自己の権力を強化したのである。1381年には京室町にあった室町第(花の御所)の落慶供養が行われた。貴族・武士の屋敷にあった名花・名木を移植させ義満の権力を誇示した。左大臣以上の大臣を相国というが、彼が後に京の中央に建てた相国寺は義満の権力の象徴である。

 八第将軍足利義政というと銀閣寺(慈照寺)それも書院造の書斎・東求堂同仁斎が有名である。当時は東山山荘という義政の隠居所で銀閣寺は正式には観音殿という。義政は多くの側室の中でも今参局を溺愛し二人の女児をもうけ、20歳の時に日野富子という正室を向かえた。この頃お今の力も頂点に達し、斯波家の相続争いに口を出すほどであったが義政の叔母・日野重子は一族の日野富子を義政の正室として嫁がせた。そのうち日野富子との間に男児が生まれるが死産となり、原因はお今の呪詛であると訴えたことによりお今は琵琶湖の沖島に流される途中で自ら自害する。この頃日本有数の大飢饉により鴨川の河原には8万を越す死体が積み重ねられたという。こんなときでも足利義政は花の御所を造営していたというから世の混乱が収まるはずはない。関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し享徳の乱を引き起こしたのもそのひとつである。こうしたなか、義政は弟・義尋に還俗させてまで将軍の座を譲ろうとする。還俗し義視と名乗り管領細川勝元を後見人として今出川に屋敷を構えたところ、義政と日野富子の間に男児・義尚が生まれ義視との後継人争いなど益々混乱は拡大していくのである。

 義政の悪政ぶりは並大抵ではない。室町殿を改装し、花の御所といわれた贅沢三昧の邸を1464年完成させたのおかげで、世の中が飢え苦しみ動乱がはじまった。つまり、悪政を正すための、徳政一揆(土一揆)が京都を中心に頻発した。この頃、京都の人口30万人のうち、8万人以上が飢えなどで死んだという。政治のことは何もしないわりには、政治に嫌気がさした義政は 弟の天台宗浄土寺の門主義尋に将軍就任を持ちかけている。義尋は俗還を拒んだが義政の説得も強硬で、この説得にあわてたのが日野重子、勝光親子である。義尋が俗環し義視と名を改め義政の養子となって将軍になるのだから、日野家の存続が危ないのである。

京都御所のすぐ北側にある大聖寺には「花の御所」と刻まれた石がある。

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応仁の乱の舞台 西陣と東陣

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 応仁の乱1467-1477といえば、その勃発理由や目的などは極めて分かりにくい。元々は管領畠山家の畠山義就と従兄弟の畠山政長の家督争いから始まった。これに時の将軍・足利義政の後継者争いが弟の足利義視、息子の義尚の間であった。そして山名宗全と細川勝元との権力争いが関わり、11年の長きにわたり京都の町が戦場になったためにこの多くが焼け野原になったのである。

 畠山家は室町幕府のNo.2で管領になれる家柄で、細川家、斯波家と並ぶ家柄であった。畠山持国も二度管領になった幕府の重臣で、河内など4か国を治める守護大名である。ところが畠山持国には嫡子がなく、弟の持富に家督を譲る約束をしていた。ところが持国は突然家督継承者を庶子(妾の子)の義就に変え、時の将軍足利義政もこれを認めた。1448年11月に畠山義就人世最初の転機が訪れたのである。元々畠山義就12歳のとき、畠山義就は父・畠山持国の跡取りとなった。母の身分が低かったために弟・持冨が跡取りになるはずであったが、父の心代わりがそうさせたようである。しかしこれに不満を持った持冨の息子・弥三郎は畠山義就に戦を挑み勝利する。これに態度を変えた将軍義政は弥三郎を家督継承者に認めた。これにより持国は隠居し義就は京を去ることになったのである。実はこの足利義政の決断の裏には有力大名の山名宗全と管領細川勝元が居たようである。つまり畠山家の内紛を煽り、自分たちの権力強化を狙っていたのである。それを知った将軍義政は幕政の主導権を取られまいと勝元の家臣を処罰し、山名宗全を隠居させた。さらに畠山家の家督に義就を据えたのである。これに弥三郎は没落して、弟の政長に跡を託して1459年死去した。ところが畠山義就が意に沿わない行動にでるや、政長に家督権を与えたのである。その行為とは。

 1457年10月、畠山義就21歳のとき将軍からある問題解決の大将を命じられた。このころ都で暴れていた土一揆、借金の帳消しなどを求める民衆が米などを盗む暴動を起こしていた。ところが畠山義就は土一揆を鎮圧しなかった。抑え込むよりも取り込んだほうが得策ではないかと考えたようである。かくして畠山義就は地方勢力を味方につけて家や幕府を盛り立てようと考えた。この畠山義就の動きを不気味に見ていたのは、時の管領・細川勝元で、畠山家の力を削ぐ機会を狙っていた。勝元は幕府の権威のもと、土一揆鎮圧命令に背いたとして畠山義就を畠山家当主の座から追放、畠山義就のいとこの畠山政長を据えたのである。細川勝元に深い恨みを持った畠山義就は、すぐに河内で決起し嶽山に立てこもり細川勝元に反旗を翻したのである。相手は室町幕府の大軍、しかし地方の武士・土豪に期待されて持ちこたえた。1463年畠山義就は追い詰められたが、土豪の湯浅は畠山義就の甲冑と取り換えて身代わりを打って出た。かくして僅か30人ほどの手勢とともに包囲を突破した。これほどまでに畠山義就と地方の土豪との結びつきは深かった。畠山義就は奈良県上北山村の人々にかくまわれたという。村の中心にある景徳寺には畠山義就ゆかりの弓引き行事があるという。細川勝元は政長に管領を譲って恩を売り、背後から幕府を操る強大な権力を手に入れた。さて、このように畠山家家督争いが二転三転するのも、当時の将軍足利義政は僅かに8歳、室町幕府には大きな権力は所有しておらず、将軍補佐役の管領(足利一族の細川、畠山、斯波のどれか)が権力を握っていたといえる。次に重要なのは京都の警護を担う侍所で、山名、赤松、京極、一色に限られていた。

  一方、将軍家にも後継者争いがはじまった。義政には妻・日野富子との間に子が居なかったために僧侶になっていた弟を還俗させた。ところがその1年後、富子と義政の間に義尚が誕生したため、まずは将軍を義視に譲り、義尚の成長を待って将軍にするつもりであった。これに細川勝元も異論はなかった。富子の妹・日野美子が義視の妻であったから、富子にとっても異論はなかった。だが山名宗全の考えは異なり政局に大きな波乱を迎えることとなる。山名宗全は娘を斯波義廉に嫁がせていることから斯波家を管領にして、義政は政界から引退させて自分が実権を握るという目論見があった。そこで山名宗全は、1466年、応仁の乱勃発の半年前、畠山義就の元へ手紙を送った。山名宗全は勝元の舅であり、8か国の守護を務めていたが、勝元との戦いを決意し、畠山義就との同盟を求めてきたのである。何故か、山名宗全にしてみれば勝元と組んでいれば安泰ではあるがトップにはなれない。思いもよらない誘いに畠山義就は5千の兵を率いて上洛した。宗全と畠山義就は大軍で京都を占拠すると、その軍事力に脅威を感じた義政は早々に義就を畠山家の家督に据え、宗全は幕府の実権を奪うことに成功した。さらに畠山義就は勝元に就いた従兄弟の政長を攻め、管領を罷免され居場所をなくした。このときについに都で戦が起こったのである。政長は闇に紛れて逃亡、畠山義就は畠山家の当主に返り咲いた。さらに将軍にも認められて幕府の重臣にも復帰した。管領には宗全の娘婿・斯波義廉が就任し、これが11年にも及ぶ応仁の乱のきっかけとなった。京都市上京区にある御霊神社で、管領の座を追われた畠山政長は陣を構えて義就に決戦を挑んだ。将軍義政はこの戦いを畠山家の内紛として諸大名には加勢を禁じた。1467年1月18日政長義就が激突し、結果は義就の圧勝であったが、敗走する政長の軍に宗全が追い打ちをかけた。将軍の沙汰を破った宗全に憤慨した細川勝元は、宗全との対立を表面化させていく。

  京都白峰神社のすぐ西側には、山名宗全を総大将とした西軍が陣を敷いた場所があり、西北には宗全の邸宅跡がある。北西へほどなく歩くと百々橋跡という応仁の乱激戦地がある。京都堀川通り、一条戻橋のちょうど北側に位置する。南へ200m歩くと細川勝元の東陣跡が小川児童公園にあり、そこから東へ300m歩くと烏丸通りに面して大聖寺があり、境内には室町殿跡の石碑(花の御所)がある。隣には同志社大学があるが、当時は一帯を含めて広範囲に花の御所があったと思われる。1467年5月26日軍勢を密かに整えていた細川勝元は4万の軍を率いて山名宗全の館に攻撃を始めた。油断していた山名宗全、畠山義就は5千の兵を堀川沿いの西陣船橋あたりに敷いた。このとき両軍の放火で京都は焼け落ち多くの死傷者がでたという。それまで中立的立場であった足利義政は細川勝元側に就いたことで、山名側は反逆者となった。山名側の指揮も低下した。ところが、瀬戸内海に500もの大船団が現れた。率いるのは22歳の若武者・大内政弘、4か国の守護を務める大大名で、日明貿易や瀬戸内の利権をめぐって勝元と対立し、幕府内の地位についても不満を持っていた。東軍の総大将足利義視は大内軍の上洛前に決着をつけようと、西軍に内通する者を粛清し山名邸への攻勢をかけていたが、宗全の誘いに応えて3万もの大軍で大内は8月に上洛し、細川邸や室町殿を取り囲んだのである。この時足利義視は御所から姿をくらましている。

山名宗全を総大将とした西軍の陣

山名宗全の邸宅跡

百々橋跡という応仁の乱激戦地

細川勝元の東陣跡

 1467年10月山名側は 将軍の御所のすぐ隣の細川側の拠点となった相国寺などを攻めて大打撃を与えた。最強の相棒、畠山義就と大内政弘の活躍で戦は振出に戻るとともに、この乱は長引くこととなる。かくして足利義満建立の相国寺は三日間燃え続けてことごとく焼け付きたのである。しばらく膠着状態が続くが、伊勢に逃げていた足利義視が将軍義政の要請にこたえて上洛、足利義視は復帰の条件として反対勢力の一掃を要求するが義政には受け入れられずに再び出奔する。そしてこともあろうことか敵方西軍に寝返ったのである。1969年応仁の乱も3年目に入ると僧侶や公家など続々と洛中から脱出していった。これが京都の文化が各地に伝播する元となり、後に小京都と云われる年を作ることとなった。高知県四万十市の送り火などは一条家が京を懐かしんではじめたという。

 西軍の管領斯波家越前では西軍の斯波義廉と義敏が家督を争い、戦闘の末に義敏が家督を得た。敗れた義廉は西軍の朝倉孝景を向かわせ奪還にでる。東軍は兼ねてから朝倉に目を付け寝返りを誘っていた。朝倉の条件は越前の守護とすること、勝元はこれを認めたので朝倉は東軍に寝返った。驚いたのは山名宗全、越前を失ったことは越前からの食糧補給を絶たれたことを意味し山名や大内に大きな痛手となった。乱も6年目の1472年、山名方11万、細川方16万の兵が戦い続けて7年、都は荒れ果てて終わる気配もなし。山名宗全は降参を考え、細川勝元は和睦に前向きになり乱が終わるかに思えたが、畠山義就と大内政弘は反対し和睦は纏まらない。畠山義就は党首の座を、大内政弘は幕府内での地位が保証されなければ意味がないとして交渉はとん挫した。

 翌年の1473年になり乱も7年目に入ると、義政が将軍の座を9歳の義尚に譲り将軍継嗣問題は決着。3月18日には西軍を率いてきた山名宗全が死去、その2か月後細川勝元も死去し、細川、山名の後継者は和睦交渉を再開し翌年山名が幕府に帰参することで決着した。義尚の母は日野富子、早く乱を終わらせてすべての大名が息子義尚に従うような室町幕府体制を復活させたかった。富子は家や幕府の資産を元手に高利貸などで稼いだ金、現在の価値で70億とも言われている金で、都で戦う武将たちに対して優位な立場を築いた。かくして多くの武将が富子の求めに従って戦から手を引いていった。ところが畠山義就と大内政広は今更金で解決できるはずもないとして従わなかった。そこで義視の義理の姉である富子は、1476年義政と義視の和解を取りつけ、また大内政弘は四か国の守護職を安堵され、官職を山名と同等に引き上げ、瀬戸内海での利権を認めるという厚遇を得て大内の願いは叶ったことで国に帰る決意をした。1477年11月11日大内は都を離れたことで応仁の乱は終わった。最後まで矛を納めなかったのは乱の発端となった畠山義就、大内が撤退することで孤立し、京を離れて自らの兵2千とともに河内に再び向かわざるをえなかった。すると僅か20日たらずで河内すべてを手中に収めた。かくして河内は幕府の支配から切り離された独立国になった。このような国が日本中で生まれた「戦国の世」の先駆けとなったといえる。畠山義就は大阪羽曳野市で晩年を過ごした。応神天皇陵のすぐ東の近くに館があったと考えられている。近くにある誉田八幡宮で行われる秋祭りで担がれる神輿は頼朝による寄進と言われているが、畠山義就も担いだといわれている。またしばらく途絶えていた祇園祭は乱の30年後に壮麗な姿でよみがえった。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄  1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

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加古川城主・糟谷氏

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 12代糟谷武頼の祖・糟谷有数は、平家追討の功により、源頼朝よりこの播磨の地を与えられ、1184年に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。糟谷氏累代の中でも12代糟谷武頼は、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、七本槍の一人に数えられた。かくして一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。現在、この加古川城跡は、称名寺という寺院になっている。城跡としての遺構はほとんどない。当寺境内に設置された「加古川城」に関する説明板によると、城主は、糟谷助右衛門で、別所長治の幕下であった。天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後糟谷助右衛門は、秀吉につき従って小姓頭となった。後年には各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。

 七騎供養塔は、頼山陽の筆になるものであるが、七騎とは、1350年の南北朝時代、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまった。その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦ったが、遂に全員討死してしまった。この七騎の塚が船頭付近にあったが、洪水等で流されてた。この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものである。なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられている。

 塩冶高貞らが逃亡する際には、高貞を含む家臣グループと、高貞の妻で絶世の美女といわれた「顔世御前」のグループとの二手に分かれていた。高貞らは一緒に逃亡すると、目立つことからの策だった。しかし、塩冶高貞の妻・顔世御前らは子供連れであるため、姫路市蔭山というところで捕まり、自害する。この加古川城付近の船頭で戦ったのは、元々高貞のグループだったと思われる。実際に追手としての役を担ったのは、高師直ではなく、山名時氏らである。ところで、1350年は、足利尊氏が直冬追討のため、高師直を率いて京都を出発したり、足利直義が南朝に降ったりする時期で、塩冶高貞が死亡してから9年も経っているから、説明板の記載は高貞追討と、直冬追討混同による間違いであろう。加古川城主・糟谷氏は、鎌倉期まで播磨守護代を務めたとある。そして戦国期に至ると、羽柴秀吉が当地を訪れた際、糟谷助右衛門が館において休息をとらせたとある。つまり助右衛門と、12代武頼は同一人物となると、南北朝期の塩冶氏家臣の七騎が討死した際も、糟谷氏は当地・加古川城に拠っていたことになる。しかし、当地の説明板には同氏が関わったことは、一切書かれていない。地元にやってきた両者(高貞側、尊氏派)に対して、糟谷氏がどういう態度をとったのか、記録がないというのも不可解である。

 鳥取県の岩井垣城主・糟谷弥二郎は、元々北条一門の守護代で、その一族は鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職にあった。1333年船上山に拠った後醍醐天皇は、名和長年に糟谷弥二郎の拠る岩井垣城を攻めさせ、同城は炎上し、同氏は滅亡している。加古川城主・糟谷氏が7,8年前に起こった伯耆国の同族の情報を知らないはずはない。元々倒幕の両者であるため、どちらにも与せず、城は傷つけられることを覚悟の上、一旦同城から避難していたのではないだろうか。

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隠岐の島-1 後醍醐天皇・黒木御所跡

2018年08月09日 | 鎌倉・室町時代

 隠岐の島には後醍醐天皇が1332年に流罪となったときに、約1年間の行在所生活を過ごしたとされる隠岐の島町(島後)にある「隠岐国分寺」や、西ノ島町別府(島前)にある「黒木御所跡」がある。今回は「黒木御所跡」に行ったので紹介です。後醍醐天皇は、第96代天皇にして南朝の初代天皇(1318-1339)でもある。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権を樹立した。1308年に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、1318年に花園天皇の譲位を受けて31歳のときに即位した。即後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後醍醐天皇の即位は兄・後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることは否定され、それが皇位継承計画を承認している鎌倉幕府への反感につながってゆく。

 1324年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚すると、天皇側近の日野資朝らが処分されるという正中の変が起こる。この変では、後醍醐天皇に何の処分もなかったが、天皇はその後も密かに倒幕を志したため、次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。1331年、再度の倒幕計画が発覚すると京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。比叡山に拠ろうとして失敗、笠置山に籠城するが、幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱と呼ぶ。

 鎌倉幕府は、後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子・量仁親王を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、1332年隠岐島に流されたのである。この時期、後醍醐天皇の皇子・護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松円心ら反幕勢力が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐1333年、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利尊氏が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始する。また、持明院統、大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、自分の皇子・恒良親王を皇太子に立て、自らの子孫により皇統を独占した。

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『吾妻鑑』に登場する曽我兄弟の墓

2018年06月09日 | 鎌倉・室町時代

 頼朝が東国鎌倉にて武士団のトップとして台頭したとき、朝廷側の後白河法皇はそれまで非合法であった独立政権を認めざるを得なかった。なにしろ後白河には軍事力がないから東国の支配権を与えてしまったのであるが、しばらくして東国武士団を失望させる行為を頼朝は行おうとする。長女・大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたのである。子を生ませてそれを次代の天皇とし、自分は外祖父になろうとしたのであるが、この行為は藤原摂関家の手法であり、東国武士が最も嫌っていたことである。結果的には頼朝は落馬により死亡し、二代目頼家は殺され、三代目実朝も殺されている。後白河法皇の死によって頼朝は1193年征夷大将軍となったときに富士の裾野で巻狩りが行われた。武士にとっての山ノ神を祭る行事である。ところが曽我十郎祐成と五郎時致兄弟が夜陰に乗じて切り込みをかけ頼朝の側近・工藤祐経が殺され、頼朝自身の陣屋にも討ち入った。つまりこれは平家討伐以来の有力御家人・岡崎義実、大庭景義らが曽我兄弟を使って頼朝や側近の北条時政を狙った事件である。このとき 頼朝の弟・範頼は巻狩りに出席していなかったために謀反の疑いにより伊豆へ流罪となった。この事件以来、北条家は源氏との距離を置くことになる。源氏はわずかに三代で絶えたが、北条氏は京から貴族を招いて将軍を推挙するということを始めた。つまり京には天皇が、鎌倉にはその息子が将軍の座につき、実際に政治は北条氏が行った。

富士の裾野にある曽我兄弟の墓

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戦国最大の悪人・松永弾正久秀

2018年05月01日 | 鎌倉・室町時代

 室町幕府の権威は地に落ち、暗殺や裏切りが横行していたこの時代、最大の悪人と言われた男が松永弾正久秀である。時の将軍・足利義輝を殺害し、奈良東大寺大仏殿を焼き払い、織田信長に対する二度の謀反があった。一方で久秀は茶人としても知られ平蜘蛛釜などの最高級の茶器を所有していた教養人でもあった。晩年には織田信長に仕えた松永久秀1510-1577は、京から阿波にかけて勢力を誇った大名・三好氏の家臣であった。出自は極めて不明で、三好家の京都駐在の家臣として歴史に登場したときには壮年を迎えていた。応仁の乱から70年経った頃であるが、今日の都はいまだに混乱のさなかにあった。この頃幕府の権威は失墜しており実権を握っていたのは管領・細川氏の家臣・三好長慶である。1550年三好長慶は将軍足利義輝を攻めて都から追放し畿内一円を支配していった。主君・三好長慶の右筆から次第に頭角を現し、三好家の外交を担い、最終的には信貴山城を預けられて大和侵攻の先駆を務めるようになった。永禄3年朝廷より弾正少弼に任命された。そして足利家と同じ桐の紋の使用を許された。その知力と手腕によって家臣であるにもかかわらず、将軍と三好殿を掌握し、異例の大出世を遂げた。

 1559年久秀は長慶の命により大和へ兵を進めた。大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、実はこの故事は真実ではないらしい。順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。一方、久秀は順慶を大和から追い出して、東大寺や興福寺を見下ろすことができる漆喰で固められた四階櫓の多聞城を築くと実質的な領主となった。寺社の時代は終わり、武士の時代が始まったことを奈良の民に見せつけたのである。城内にある茶室では千利休を迎えて茶会が催され、茶入付藻茄子が使われている。

 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。長い間実権を三好長慶に奪われていた足利義輝は、三好一族の怪死に乗じて実権を取り戻そうと図った。不穏な空気が漂う中、先手を打ったのは三好側であった。1565年5月、三好、松永らはおよそ1万の大軍を率いて将軍御所を攻めて義輝を暗殺した。ところが三好家の中で内紛が勃発する。1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍勢を率いて大和に侵攻、興福寺や東大寺に陣を構えて久秀と対峙した。半年後久秀はこれを打ち破るが、このとき大仏殿は全焼している。

 この年、後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策していたが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。それが織田信長である。1568年、義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏。これによって宿敵筒井順慶に奪われた城を、信長の援軍を得て奪還している。久秀は信長との同盟によって大和の支配をさらに強固なものにしていく。ところがこの3年度久秀の大和支配を脅かす事態が起こった。織田信長とは友好関係にあった足利義昭(以前は興福寺の一条院門跡であった)は、娘をが久秀の宿敵筒井順慶に嫁がせ姻戚関係を結んだのである。さらに順慶は信長の家臣になることを認められた。起こった久秀は筒井順慶の家臣を攻撃したが、これは信長に対する反逆でもあった。久秀が信長軍と小競り合いをしていた、こうしたとき甲斐の武田信玄は信長打倒に乗り出した。信玄軍は三方が原で徳川織田連合軍と激突すると大勝利を収めた。喜んだのは久秀、時を同じくして将軍義昭も信長に反旗を翻した。窮地に陥った信長は信玄の上洛を待つのみだったが、信玄は都に現れることはなかった。病死していたのである。勢いを取り戻した信長は将軍義昭を追放し、久秀の多聞城を取り囲んだ。厳しい降伏条件に屈したことで久秀の大和支配は終わった。

 その後大和の支配を任されたのは筒井順慶、多聞城の解体を久秀の息子に命令した。その4年後、久秀に再びチャンスがやってきた。足利義昭の呼びかけにより大阪本願寺、上杉、武田、毛利、宇喜多など各地の大名が妥当信長のために立ち上がった。このとき久秀は織田軍の一武将として本願寺攻めの最前線にいた。かくして久秀は謀反の方向に進み、信貴山城に立てこもる。上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず撤退、武田も徳川家康と国境で攻めあって進めず、久秀は大和で孤立するのである。このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は謀反の真意を聞こうと使者を送るが、久秀は会おうともしなかった。信長は大軍で信貴山城を包囲して攻撃した。挙兵から一か月半後の1577年10月10日、久秀は天守閣に火を放って自害した。

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足利尊氏と直義の戦い・観応の擾乱

2017年11月29日 | 鎌倉・室町時代

 観応の擾乱とは、足利尊氏と足利直義兄弟による政権内部の紛争といえる。1335年、時の権力者・後醍醐天皇の元に、共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏に関する驚くべき知らせが届いた。尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに独断で、配下の者たちに恩賞を与えたというのである。建武政権にとっては由々しき事態である。11月、後醍醐天皇は激怒して討伐軍を差し向けると、尊氏は一端九州へ落ち延びたものの翌年再び巻き返した。1336年12月、後醍醐天皇は京を捨て吉野に南朝を樹立、かくして50年にも及ぶ南北朝動乱が幕を開けたのである。一方尊氏は京を抑えて室町幕府を設立する。が尊氏の権限は限定的なものであった。梅松論によると尊氏は弟の足利直義に政務を譲り、以降口出しをすることはなかった。足利直義は足利武家政権を樹立した中心人物なのである。尊氏は軍事指揮権と恩賞充行権があり、足利直義は裁判などの政務全般を司った。しかし二人は武士の所領扱いの訴訟場でぶつかることとなる。足利直義の判決は武士側の敗訴、武士に対して寺社側への年貢納入を命じた。寺社に寄進された所領は永久に寺社が持つべきであるという足利直義の、寺社所領、貴族の荘園保護の政策が濃厚にでた。だが命を懸けて戦ったのに恩賞が認められない武士の不満はくすぶり始めた。この時武士への恩賞給付を積極的に働きかけたのが足利家の執事・高師直である。つまり師直は所領の給付に際して守護の援助も受けられるようにした。こうして師直は幕府のために働いた武士の求心力を得られるようにしたのである。高師直と足利直義の緊張関係はこうして高まっていく。1348年、南朝の武将・楠正行の挙兵により幕府軍を攻略していくこと5か月、ところが師直軍は四条畷の戦いにて楠木軍を討ち取ったのである。さらに師直は南朝の本拠地吉野に進軍すると、御所などを焼き払った。このままでは権力の座が危ういとした足利直義は窮地へと追い込まれるのである。

足利将軍の廟所 等持院

 京都の龍安寺のすぐ南、立命館大学の南隣にあるごく小さなお寺ではありますが立派な方丈庭園には足利尊氏の墓、室町幕府の将軍の木像が納められた霊光殿など興味溢れる刹寺です。等持院は足利尊氏が等持寺の別院としてこの地に創建したもので、疎石を開山に迎えたことに始まり、五山の下に列する十刹寺院の筆頭に位置する。尊氏の死後、菩提寺であった等持寺と併合して、尊氏の法号をもって等持院とし、以後歴代足利将軍の廟所となった。

 

初代足利将軍尊氏             二代足利将軍義詮   

 

 足利直義はいよいよ高師直の暗殺を謀ったが、密告により未遂に終わる。このままでは内乱になりかねないとして尊氏は師直の執事解任を行った。そこで師直は1349年8月、尊氏と直義が籠る屋敷を5万もの大軍で取り囲み前代未聞の軍事クーデターを起こした。要求は足利直義の政務引退と尊氏の嫡子・義詮を据えること。尊氏はこの要求を承認した。そして師直は武勇高い直義の養子直冬に兵を向けて追い落としたのである。直義は政務から外され出家にまで追われた。この時、直冬は九州地元の武士とともに挙兵すると師直派を次々と撃破した。1350年10月26日直義はついに高師直を討つべく挙兵を選んだ。これが観応の擾乱の始まりである。尊氏派の重臣を含む各地の不満武士は次々と挙兵に参加した。一方10月28日、師直軍は直冬討伐のために九州に出陣。しかし集まったのはわずかに500騎ほどであった。そして1351年2月摂津の打出で直義は師直との直接対決すると師直・尊氏軍は惨敗し講和を決断する。ところが休戦協定が結ばれた後直義派の武士が師直を襲撃し殺害したことで、尊氏は右腕をも失うことになるのである。その後の講和に臨んで尊氏は戦いに敗れた武者への恩賞を与えるという強気の条件で決着。擾乱後の直義派の守護勢力を見ると、ほとんど増えていない。すると直義のために戦った武士たちは恩賞が少なかったということであり、心は直義から離れていくのである。また、尊氏の嫡子・足利義詮は御前沙汰という制度を設けて裁判を有利に進めるのである。これにより寺社や貴族には大いに歓迎され、直義は武士の信頼を大きく失うこととなる。1351年7月30日直義は京を脱出して挙兵する。観応の擾乱の最終局面である。直義は味方の武士とともに富山から鎌倉へ移動し、一方尊氏は3千の兵で布陣すると直義は1万を超える兵で包囲する。すると下野武士団が尊氏側に立って挙兵したから直義側は一気に崩れた。尊氏に降伏した直義は翌年の1352年2月26日に46歳で幽閉先の鎌倉の寺で死去。これにより観応の擾乱は終結するのである。こうして室町幕府は恩賞を重視することで確立し、各地の守護に実力を蓄えさせたことは言うまでもない。

                      ┏北畠顕信-1338            
                      ┗北畠顕家1318-1338            
                      ┏楠木正季-1336             
                      ┗楠木正成-1336 
                                      ┣正行-1348
                         赤松円心1277-1350    ┗女(伊賀観世家に嫁ぐ)
            ┏足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338┣観阿弥  
                   ┃上杉重能 畠山直宗(直義執権)   上島元就┗世阿弥
                   ┃ ┗能憲                  ┣観世元雅
                   ┃  ↑                   ┗音阿弥
                   ┃  ↓
                   ┃ 佐々木導誉 
                      ┃ 赤松則祐
┏北条泰家-1335    ┃┏高師直  
┗北条高時1303-1333  ┃┗高師泰         【大覚寺統】     
  ┗北条時行-1353 ⇔ ┣足利尊氏1305-1358  ⇔  後醍醐天皇1288-1339
         上杉清子┃┣義詮1330-1367                   ┃┃                 
             ┃┃┃藤原慶子                     ┃┃                 
             ┃┃┃┣義持1386-1428 斯波義将       ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┗義量1407-1425             ┃┃                 
             ┃┃┃┣義教1394-1441 ⇔ 赤松満祐    ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┣-  ┣義勝1434-1443       ┃┃                 
             ┃┃┃┃日野宗子┣義政1436-1490       ┃┃                 
             ┃┃┃┃    ┣義視1439-1491       ┃┃                 
             ┃┃┃┃春日局 日野重子1411-1463⇔今参局┃┃                 
             ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418               ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)            ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ 日野康子  ┏━━━━━━━━┛┃
             ┃┃┃┃┃ ┣-     ┃┏━━━━━━━━┛ 
             ┃┃┣義満1358-1408  ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)                 
             ┃┃┃   ┣女子   ┃┃                 
             ┃┃┣満詮 日野業子  ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368                 
             ┃┃紀良子       ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
             ┃┃藤原仲子(崇賢門院)┃┃┃                
┏西園寺公宗1310-1335  ┃┣基氏1340-1367   ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
┗西園寺公重       ┃赤橋登子       ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
             ┣直冬1327-1400     ┃阿野廉子1301-1359             
            越前局          ┣護良親王1308-1335            
                         ┣懐良親王1329-1383           
┏1光厳上皇1313-1364                         源師親娘      
┃ ┣3興仁親王(崇光天皇)1334-1398      
┃ ┣4弥仁親王(後光厳天皇)1338-1374    宮人 
┃ ┃        ┣後円融天皇1359-1393 ┣宗純王1394-1481 
┃ ┃藤原仲子(崇賢門院)1339-1427┣後小松天皇1377-1433
┃三条秀子       三条厳子1351-1406   ┣称光天皇1401-1428
┗2光明天皇 豊仁親王1321-1380              日野資子
                                     日野資国┛(日野業子の兄)

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安土桃山時代の武将・高橋紹運

2015年04月22日 | 鎌倉・室町時代

 ここは福岡県太宰府市の岩屋城跡の山麓で、大宰府天満宮から北西に5kmくらいの山中に岩屋城を構えた高橋紹運の墓である。紹運というは法名で、吉弘鎮理、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋鎮種と名乗った。1586年、島津氏が大友氏を滅ぼそうと約5万の大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はたったの800名弱であったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦したのである。これを岩屋城の戦いという。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にして岩屋城は陥落した。しかしながら、この善戦によってのちに黒田長政が九州の北半分を統制するには大いに役立ったことで、高橋紹運の評価は高い。

岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑と高橋紹運の墓

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