平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

加古川城主・糟谷氏

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 12代糟谷武頼の祖・糟谷有数は、平家追討の功により、源頼朝よりこの播磨の地を与えられ、1184年に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。糟谷氏累代の中でも12代糟谷武頼は、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、七本槍の一人に数えられた。かくして一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。現在、この加古川城跡は、称名寺という寺院になっている。城跡としての遺構はほとんどない。当寺境内に設置された「加古川城」に関する説明板によると、城主は、糟谷助右衛門で、別所長治の幕下であった。天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後糟谷助右衛門は、秀吉につき従って小姓頭となった。後年には各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。

 七騎供養塔は、頼山陽の筆になるものであるが、七騎とは、1350年の南北朝時代、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまった。その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦ったが、遂に全員討死してしまった。この七騎の塚が船頭付近にあったが、洪水等で流されてた。この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものである。なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられている。

 塩冶高貞らが逃亡する際には、高貞を含む家臣グループと、高貞の妻で絶世の美女といわれた「顔世御前」のグループとの二手に分かれていた。高貞らは一緒に逃亡すると、目立つことからの策だった。しかし、塩冶高貞の妻・顔世御前らは子供連れであるため、姫路市蔭山というところで捕まり、自害する。この加古川城付近の船頭で戦ったのは、元々高貞のグループだったと思われる。実際に追手としての役を担ったのは、高師直ではなく、山名時氏らである。ところで、1350年は、足利尊氏が直冬追討のため、高師直を率いて京都を出発したり、足利直義が南朝に降ったりする時期で、塩冶高貞が死亡してから9年も経っているから、説明板の記載は高貞追討と、直冬追討混同による間違いであろう。加古川城主・糟谷氏は、鎌倉期まで播磨守護代を務めたとある。そして戦国期に至ると、羽柴秀吉が当地を訪れた際、糟谷助右衛門が館において休息をとらせたとある。つまり助右衛門と、12代武頼は同一人物となると、南北朝期の塩冶氏家臣の七騎が討死した際も、糟谷氏は当地・加古川城に拠っていたことになる。しかし、当地の説明板には同氏が関わったことは、一切書かれていない。地元にやってきた両者(高貞側、尊氏派)に対して、糟谷氏がどういう態度をとったのか、記録がないというのも不可解である。

 鳥取県の岩井垣城主・糟谷弥二郎は、元々北条一門の守護代で、その一族は鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職にあった。1333年船上山に拠った後醍醐天皇は、名和長年に糟谷弥二郎の拠る岩井垣城を攻めさせ、同城は炎上し、同氏は滅亡している。加古川城主・糟谷氏が7,8年前に起こった伯耆国の同族の情報を知らないはずはない。元々倒幕の両者であるため、どちらにも与せず、城は傷つけられることを覚悟の上、一旦同城から避難していたのではないだろうか。


隠岐の島-1 後醍醐天皇・黒木御所跡

2018年08月09日 | 鎌倉・室町時代

 隠岐の島には後醍醐天皇が1332年に流罪となったときに、約1年間の行在所生活を過ごしたとされる隠岐の島町(島後)にある「隠岐国分寺」や、西ノ島町別府(島前)にある「黒木御所跡」がある。今回は「黒木御所跡」に行ったので紹介です。後醍醐天皇は、第96代天皇にして南朝の初代天皇(1318-1339)でもある。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権を樹立した。1308年に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、1318年に花園天皇の譲位を受けて31歳のときに即位した。即後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後醍醐天皇の即位は兄・後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることは否定され、それが皇位継承計画を承認している鎌倉幕府への反感につながってゆく。

 1324年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚すると、天皇側近の日野資朝らが処分されるという正中の変が起こる。この変では、後醍醐天皇に何の処分もなかったが、天皇はその後も密かに倒幕を志したため、次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。1331年、再度の倒幕計画が発覚すると京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。比叡山に拠ろうとして失敗、笠置山に籠城するが、幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱と呼ぶ。

 鎌倉幕府は、後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子・量仁親王を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、1332年隠岐島に流されたのである。この時期、後醍醐天皇の皇子・護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松円心ら反幕勢力が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐1333年、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利尊氏が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始する。また、持明院統、大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、自分の皇子・恒良親王を皇太子に立て、自らの子孫により皇統を独占した。


『吾妻鑑』に登場する曽我兄弟の墓

2018年06月09日 | 鎌倉・室町時代

 頼朝が東国鎌倉にて武士団のトップとして台頭したとき、朝廷側の後白河法皇はそれまで非合法であった独立政権を認めざるを得なかった。なにしろ後白河には軍事力がないから東国の支配権を与えてしまったのであるが、しばらくして東国武士団を失望させる行為を頼朝は行おうとする。長女・大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたのである。子を生ませてそれを次代の天皇とし、自分は外祖父になろうとしたのであるが、この行為は藤原摂関家の手法であり、東国武士が最も嫌っていたことである。結果的には頼朝は落馬により死亡し、二代目頼家は殺され、三代目実朝も殺されている。後白河法皇の死によって頼朝は1193年征夷大将軍となったときに富士の裾野で巻狩りが行われた。武士にとっての山ノ神を祭る行事である。ところが曽我十郎祐成と五郎時致兄弟が夜陰に乗じて切り込みをかけ頼朝の側近・工藤祐経が殺され、頼朝自身の陣屋にも討ち入った。つまりこれは平家討伐以来の有力御家人・岡崎義実、大庭景義らが曽我兄弟を使って頼朝や側近の北条時政を狙った事件である。このとき 頼朝の弟・範頼は巻狩りに出席していなかったために謀反の疑いにより伊豆へ流罪となった。この事件以来、北条家は源氏との距離を置くことになる。源氏はわずかに三代で絶えたが、北条氏は京から貴族を招いて将軍を推挙するということを始めた。つまり京には天皇が、鎌倉にはその息子が将軍の座につき、実際に政治は北条氏が行った。

富士の裾野にある曽我兄弟の墓


戦国最大の悪人・松永弾正久秀

2018年05月01日 | 鎌倉・室町時代

 室町幕府の権威は地に落ち、暗殺や裏切りが横行していたこの時代、最大の悪人と言われた男が松永弾正久秀である。時の将軍・足利義輝を殺害し、奈良東大寺大仏殿を焼き払い、織田信長に対する二度の謀反があった。一方で久秀は茶人としても知られ平蜘蛛釜などの最高級の茶器を所有していた教養人でもあった。晩年には織田信長に仕えた松永久秀1510-1577は、京から阿波にかけて勢力を誇った大名・三好氏の家臣であった。出自は極めて不明で、三好家の京都駐在の家臣として歴史に登場したときには壮年を迎えていた。応仁の乱から70年経った頃であるが、今日の都はいまだに混乱のさなかにあった。この頃幕府の権威は失墜しており実権を握っていたのは管領・細川氏の家臣・三好長慶である。1550年三好長慶は将軍足利義輝を攻めて都から追放し畿内一円を支配していった。主君・三好長慶の右筆から次第に頭角を現し、三好家の外交を担い、最終的には信貴山城を預けられて大和侵攻の先駆を務めるようになった。永禄3年朝廷より弾正少弼に任命された。そして足利家と同じ桐の紋の使用を許された。その知力と手腕によって家臣であるにもかかわらず、将軍と三好殿を掌握し、異例の大出世を遂げた。

 1559年久秀は長慶の命により大和へ兵を進めた。大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、実はこの故事は真実ではないらしい。順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。一方、久秀は順慶を大和から追い出して、東大寺や興福寺を見下ろすことができる漆喰で固められた四階櫓の多聞城を築くと実質的な領主となった。寺社の時代は終わり、武士の時代が始まったことを奈良の民に見せつけたのである。城内にある茶室では千利休を迎えて茶会が催され、茶入付藻茄子が使われている。

 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。長い間実権を三好長慶に奪われていた足利義輝は、三好一族の怪死に乗じて実権を取り戻そうと図った。不穏な空気が漂う中、先手を打ったのは三好側であった。1565年5月、三好、松永らはおよそ1万の大軍を率いて将軍御所を攻めて義輝を暗殺した。ところが三好家の中で内紛が勃発する。1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍勢を率いて大和に侵攻、興福寺や東大寺に陣を構えて久秀と対峙した。半年後久秀はこれを打ち破るが、このとき大仏殿は全焼している。

 この年、後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策していたが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。それが織田信長である。1568年、義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏。これによって宿敵筒井順慶に奪われた城を、信長の援軍を得て奪還している。久秀は信長との同盟によって大和の支配をさらに強固なものにしていく。ところがこの3年度久秀の大和支配を脅かす事態が起こった。織田信長とは友好関係にあった足利義昭(以前は興福寺の一条院門跡であった)は、娘をが久秀の宿敵筒井順慶に嫁がせ姻戚関係を結んだのである。さらに順慶は信長の家臣になることを認められた。起こった久秀は筒井順慶の家臣を攻撃したが、これは信長に対する反逆でもあった。久秀が信長軍と小競り合いをしていた、こうしたとき甲斐の武田信玄は信長打倒に乗り出した。信玄軍は三方が原で徳川織田連合軍と激突すると大勝利を収めた。喜んだのは久秀、時を同じくして将軍義昭も信長に反旗を翻した。窮地に陥った信長は信玄の上洛を待つのみだったが、信玄は都に現れることはなかった。病死していたのである。勢いを取り戻した信長は将軍義昭を追放し、久秀の多聞城を取り囲んだ。厳しい降伏条件に屈したことで久秀の大和支配は終わった。

 その後大和の支配を任されたのは筒井順慶、多聞城の解体を久秀の息子に命令した。その4年後、久秀に再びチャンスがやってきた。足利義昭の呼びかけにより大阪本願寺、上杉、武田、毛利、宇喜多など各地の大名が妥当信長のために立ち上がった。このとき久秀は織田軍の一武将として本願寺攻めの最前線にいた。かくして久秀は謀反の方向に進み、信貴山城に立てこもる。上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず撤退、武田も徳川家康と国境で攻めあって進めず、久秀は大和で孤立するのである。このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は謀反の真意を聞こうと使者を送るが、久秀は会おうともしなかった。信長は大軍で信貴山城を包囲して攻撃した。挙兵から一か月半後の1577年10月10日、久秀は天守閣に火を放って自害した。


足利尊氏と直義の戦い・観応の擾乱

2017年11月29日 | 鎌倉・室町時代

 観応の擾乱とは、足利尊氏と足利直義兄弟による政権内部の紛争といえる。1335年、時の権力者・後醍醐天皇の元に、共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏に関する驚くべき知らせが届いた。尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに独断で、配下の者たちに恩賞を与えたというのである。建武政権にとっては由々しき事態である。11月、後醍醐天皇は激怒して討伐軍を差し向けると、尊氏は一端九州へ落ち延びたものの翌年再び巻き返した。1336年12月、後醍醐天皇は京を捨て吉野に南朝を樹立、かくして50年にも及ぶ南北朝動乱が幕を開けたのである。一方尊氏は京を抑えて室町幕府を設立する。が尊氏の権限は限定的なものであった。梅松論によると尊氏は弟の足利直義に政務を譲り、以降口出しをすることはなかった。足利直義は足利武家政権を樹立した中心人物なのである。尊氏は軍事指揮権と恩賞充行権があり、足利直義は裁判などの政務全般を司った。しかし二人は武士の所領扱いの訴訟場でぶつかることとなる。足利直義の判決は武士側の敗訴、武士に対して寺社側への年貢納入を命じた。寺社に寄進された所領は永久に寺社が持つべきであるという足利直義の、寺社所領、貴族の荘園保護の政策が濃厚にでた。だが命を懸けて戦ったのに恩賞が認められない武士の不満はくすぶり始めた。この時武士への恩賞給付を積極的に働きかけたのが足利家の執事・高師直である。つまり師直は所領の給付に際して守護の援助も受けられるようにした。こうして師直は幕府のために働いた武士の求心力を得られるようにしたのである。高師直と足利直義の緊張関係はこうして高まっていく。1348年、南朝の武将・楠正行の挙兵により幕府軍を攻略していくこと5か月、ところが師直軍は四条畷の戦いにて楠木軍を討ち取ったのである。さらに師直は南朝の本拠地吉野に進軍すると、御所などを焼き払った。このままでは権力の座が危ういとした足利直義は窮地へと追い込まれるのである。

足利将軍の廟所 等持院

 京都の龍安寺のすぐ南、立命館大学の南隣にあるごく小さなお寺ではありますが立派な方丈庭園には足利尊氏の墓、室町幕府の将軍の木像が納められた霊光殿など興味溢れる刹寺です。等持院は足利尊氏が等持寺の別院としてこの地に創建したもので、疎石を開山に迎えたことに始まり、五山の下に列する十刹寺院の筆頭に位置する。尊氏の死後、菩提寺であった等持寺と併合して、尊氏の法号をもって等持院とし、以後歴代足利将軍の廟所となった。

 

初代足利将軍尊氏             二代足利将軍義詮   

 

 足利直義はいよいよ高師直の暗殺を謀ったが、密告により未遂に終わる。このままでは内乱になりかねないとして尊氏は師直の執事解任を行った。そこで師直は1349年8月、尊氏と直義が籠る屋敷を5万もの大軍で取り囲み前代未聞の軍事クーデターを起こした。要求は足利直義の政務引退と尊氏の嫡子・義詮を据えること。尊氏はこの要求を承認した。そして師直は武勇高い直義の養子直冬に兵を向けて追い落としたのである。直義は政務から外され出家にまで追われた。この時、直冬は九州地元の武士とともに挙兵すると師直派を次々と撃破した。1350年10月26日直義はついに高師直を討つべく挙兵を選んだ。これが観応の擾乱の始まりである。尊氏派の重臣を含む各地の不満武士は次々と挙兵に参加した。一方10月28日、師直軍は直冬討伐のために九州に出陣。しかし集まったのはわずかに500騎ほどであった。そして1351年2月摂津の打出で直義は師直との直接対決すると師直・尊氏軍は惨敗し講和を決断する。ところが休戦協定が結ばれた後直義派の武士が師直を襲撃し殺害したことで、尊氏は右腕をも失うことになるのである。その後の講和に臨んで尊氏は戦いに敗れた武者への恩賞を与えるという強気の条件で決着。擾乱後の直義派の守護勢力を見ると、ほとんど増えていない。すると直義のために戦った武士たちは恩賞が少なかったということであり、心は直義から離れていくのである。また、尊氏の嫡子・足利義詮は御前沙汰という制度を設けて裁判を有利に進めるのである。これにより寺社や貴族には大いに歓迎され、直義は武士の信頼を大きく失うこととなる。1351年7月30日直義は京を脱出して挙兵する。観応の擾乱の最終局面である。直義は味方の武士とともに富山から鎌倉へ移動し、一方尊氏は3千の兵で布陣すると直義は1万を超える兵で包囲する。すると下野武士団が尊氏側に立って挙兵したから直義側は一気に崩れた。尊氏に降伏した直義は翌年の1352年2月26日に46歳で幽閉先の鎌倉の寺で死去。これにより観応の擾乱は終結するのである。こうして室町幕府は恩賞を重視することで確立し、各地の守護に実力を蓄えさせたことは言うまでもない。

                      ┏北畠顕信-1338            
                      ┗北畠顕家1318-1338            
                      ┏楠木正季-1336             
                      ┗楠木正成-1336 
                                      ┣正行-1348
                         赤松円心1277-1350    ┗女(伊賀観世家に嫁ぐ)
            ┏足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338┣観阿弥  
                   ┃上杉重能 畠山直宗(直義執権)   上島元就┗世阿弥
                   ┃ ┗能憲                  ┣観世元雅
                   ┃  ↑                   ┗音阿弥
                   ┃  ↓
                   ┃ 佐々木導誉 
                      ┃ 赤松則祐
┏北条泰家-1335    ┃┏高師直  
┗北条高時1303-1333  ┃┗高師泰         【大覚寺統】     
  ┗北条時行-1353 ⇔ ┣足利尊氏1305-1358  ⇔  後醍醐天皇1288-1339
         上杉清子┃┣義詮1330-1367                   ┃┃                 
             ┃┃┃藤原慶子                     ┃┃                 
             ┃┃┃┣義持1386-1428 斯波義将       ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┗義量1407-1425             ┃┃                 
             ┃┃┃┣義教1394-1441 ⇔ 赤松満祐    ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┣-  ┣義勝1434-1443       ┃┃                 
             ┃┃┃┃日野宗子┣義政1436-1490       ┃┃                 
             ┃┃┃┃    ┣義視1439-1491       ┃┃                 
             ┃┃┃┃春日局 日野重子1411-1463⇔今参局┃┃                 
             ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418               ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)            ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ 日野康子  ┏━━━━━━━━┛┃
             ┃┃┃┃┃ ┣-     ┃┏━━━━━━━━┛ 
             ┃┃┣義満1358-1408  ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)                 
             ┃┃┃   ┣女子   ┃┃                 
             ┃┃┣満詮 日野業子  ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368                 
             ┃┃紀良子       ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
             ┃┃藤原仲子(崇賢門院)┃┃┃                
┏西園寺公宗1310-1335  ┃┣基氏1340-1367   ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
┗西園寺公重       ┃赤橋登子       ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
             ┣直冬1327-1400     ┃阿野廉子1301-1359             
            越前局          ┣護良親王1308-1335            
                         ┣懐良親王1329-1383           
┏1光厳上皇1313-1364                         源師親娘      
┃ ┣3興仁親王(崇光天皇)1334-1398      
┃ ┣4弥仁親王(後光厳天皇)1338-1374    宮人 
┃ ┃        ┣後円融天皇1359-1393 ┣宗純王1394-1481 
┃ ┃藤原仲子(崇賢門院)1339-1427┣後小松天皇1377-1433
┃三条秀子       三条厳子1351-1406   ┣称光天皇1401-1428
┗2光明天皇 豊仁親王1321-1380              日野資子
                                     日野資国┛(日野業子の兄)


安土桃山時代の武将・高橋紹運

2015年04月22日 | 鎌倉・室町時代

 ここは福岡県太宰府市の岩屋城跡の山麓で、大宰府天満宮から北西に5kmくらいの山中に岩屋城を構えた高橋紹運の墓である。紹運というは法名で、吉弘鎮理、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋鎮種と名乗った。1586年、島津氏が大友氏を滅ぼそうと約5万の大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はたったの800名弱であったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦したのである。これを岩屋城の戦いという。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にして岩屋城は陥落した。しかしながら、この善戦によってのちに黒田長政が九州の北半分を統制するには大いに役立ったことで、高橋紹運の評価は高い。

岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑と高橋紹運の墓


奈良・明日香南の高取城址

2014年12月27日 | 鎌倉・室町時代

 藤原宮、都塚古墳の後はここ高取城へ行ってみた。奈良県明日香村の南に位置する高取町にあった山城である。南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が1332年に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏本城・貝吹山城の支城であったが、やがて高取城が越智氏の本城となった。1532年6月、飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)が大和国に侵攻してきたときに、対立していた興福寺の僧兵たちは越智氏に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲したが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した。 その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は1580年廃城となった。1583年8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され、越智氏は滅亡した。筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、1584年に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。1585年、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久が家臣諸木大膳に命じて築造した。本丸には3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並び、広壮な山城となった。また家臣団により高取市街はに城下町となる。利久は秀長の後嗣となった秀保に仕え、秀保が17歳で没した後は、利久の子俊政が秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後、俊政は徳川家康につき、1600年、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させている。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となっている。


波賀城跡

2012年12月01日 | 鎌倉・室町時代

 波賀城は1261-63年頃に芳賀七郎が築城し戦国時代末期まで播磨の中村氏が城主として拡張した山城で、因幡街道沿いの城山(標高458m)の山頂に位置する。整備された史跡公園まで車で行くことができ、そこから山頂の城郭に至る遊歩道を5分ほど歩くと、復元された城郭内の二層櫓、冠木門などが見える。また山頂から波賀一帯を見下ろした景色には心を奪われる。史跡公園にある案内板の紹介は以下。

十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。この地には有名な名馬の伝説があります。「その昔、波賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました・・・・。伝説の波賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。中村氏は初代の光時から戦国時代末期の、吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点として波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの郭を作って縦深をとっています。また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。平成二年三月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるべきものと結論を得ました。このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。


足利義教ゆかりの安国寺

2012年11月10日 | 鎌倉・室町時代

 京都府綾部にある安国寺は足利尊氏ゆかりの寺であるが、ここは兵庫県加東市にある安国寺である。室町幕府6代将軍足利義教は嘉吉の乱で赤松満祐により暗殺されたため、足利氏ゆかりのこの地に葬られた。境内裏手にある首塚・宝篋印塔は貴重な文化財であるとのこと。実は今日播州清水寺の紅葉を見に行こうと車を走らせていたら、義教公の首塚という看板を見かけたので立ち寄ってみた。


従二位家隆の歌碑

2012年09月01日 | 鎌倉・室町時代

 百人一首の98番に謳われる和歌 「風そよぐ ならの小川の 夕暮れはみそぎぞ夏の しるしなりける」 が刻まれた歌碑が京福電鉄嵐山駅から天龍寺を抜けて竹林の小道へ行く途中にある。 歌の意味は 「風がそよそよと吹いて楢の木の葉を揺らしています。小川の夕暮れはすっかり秋の気配となっているが、六月祓というみそぎの行事だけが、夏であることの証なのだった。」 期せずして見つけたので、思わずパチリとスナップ写真の乗りである。 ところでこの歌の作者は歌碑の右に刻まれているが、見えるだろうか。藤原家隆1158-1237といって鎌倉初期の歌人で、藤原氏北家・兼輔の末裔である。藤原兼輔の長男は藤原雅正、その孫が紫式部である。和歌はかの有名な藤原俊成に学び、藤原定家と並び称される歌人となった。藤原定家はもちろん小倉百人一首の選者で、ここ小倉の地で選んだと云われている。『古今著聞集』によると後鳥羽上皇が和歌を学びはじめたころに、藤原良経に師を仰いだところ、藤原家隆を推薦したという。 ところで、野宮・嵐山・亀山の地域にはこのような歌碑がいたるところに配置されていて、全部で百の石碑がある。


天龍寺の塔頭・妙智院 

2012年08月26日 | 鎌倉・室町時代

 京都嵐山にある代表的な臨済宗大本山天龍寺。足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれ、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため1339年に創建された。阪急嵐山駅で下車後、渡月橋を渡って到着したのは嵐電嵐山駅。野宮神社と竹林の小道を散策した後は、天龍寺境内にある塔頭・妙智院。


京都・嵐山 天龍寺ゆかりの地

2012年08月23日 | 鎌倉・室町時代

 天龍寺といえば、京都嵐山にたたずむ寺院である。 実は今週この地へひさしぶりに行く予定である。ということで昔記載した記事を読み返しながら投稿してみた。 この地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(786-850)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242-1246)とその皇子である亀山天皇(在位1259-1274)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。足利尊氏は1338年、征夷大将軍となり、後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の1339年である。 足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。 寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の1345年に行われた。 季節を問わず天龍寺近辺は観光客でにぎわうが、特に秋の紅葉の時期は特筆するものがある。そして天龍寺近くにある宝厳寺、実は特別公開の時期しか中に入れないという天龍寺の塔頭も見事な紅葉に彩られる。すこし散策しながら北側へ行くと野間神社という源氏物語でも登場する禊の場所や竹林の小道といって竹林で囲まれたその小道は夏でも清涼感たっぷりで、夜間になるとライトアップされる様は幻想的な瞬間を味わえる。どれだけまわれるかわかりませんが、欲張らずにゆっくりと。


湊川神社で挙式

2012年07月03日 | 鎌倉・室町時代

 湊川は楠木正成が後醍醐天皇の命により足利尊氏軍と激戦を展開し、力尽きて兄弟で刺し違えた場所であり、湊川神社は楠木正成を祀る神社である。 実は、去る6月30日に湊川神社での挙式に参列し、楠木正成に浸ってきました。因みに披露宴はホテルオークラ神戸。残念ながら一番楽しみにしていた参進の儀は雨のためにできなかったのですが、本殿までの廊下を雅楽に合わせて進む儀は、平安時代初期を思わせるすばらしいものでした。

----- 楠木正成の超略歴 -----

 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。  二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336年1月11日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨(現在の上郡町)の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。 足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。


貞慶と海住寺木造四天王立像

2012年06月18日 | 鎌倉・室町時代

 近年海住寺より発見され奈良国立博物館に寄託されているのが海住寺木造四天王立像である。持国・増長・広目・多聞天の順に東・南・西・北の方位に対応し、その身色は緑色、赤色、白肉色、青色に塗り分けられている。またその形相を見ると、持国天は右手に五鈷杵を、増長天は左手に戟、広目天は左右の手に巻子と筆、多聞天は左手に宝棒を持ち、顔は、持国天と広目天は像から見て左斜め方向、増長天と多聞天は右斜め方向に向けている。誌に紹介されている写真でわかるだろうか。1180年源平の戦い兵火で南都大仏殿が罹災した際、大仏は大破し、二菩薩・四天王は焼失してしまった。鎌倉復興期の大仏殿諸尊の像容については、幸いにもこれを伝える文献がある。醍醐寺に伝来した1284年に書写された「東大寺大仏殿図」がそれで、四天王像に関しても、各尊の本体および邪鬼の身色、持物や顔の向きに加え、担当した仏師の名が明記され、復原的に考察するよすがとなる。そして海住山寺像はほぼ完全にこれに一致し、大仏殿四天王像の忠実な模像、すなわち大仏殿様四天王像であることがわかる。しかし海住山寺の四天王像の造立に関する記録は、残念ながらこれを今見いだすことができないが、同寺五重塔に安置されていたのではないかとする説がある。海住山寺中興の祖で戒律の復興につとめた貞慶は、1208年に笠置寺から海住山寺に入った。彼は同年九月七日、河内国交野新堂において後鳥羽院より拝領した二粒の仏舎利(一粒は東寺、一粒は唐招提寺伝来)を、二日後の九月九日に海住山寺に安置する。しかしその後の経緯を見ると、貞慶は仏舎利の奉安の場として塔の建立を企図したと思われるが、その完成を見ることはかなわなかった。

 金亀舎利塔は唐招提寺に伝わる仏舎利を納める器である。鑑真和上の渡海中、海に沈んだ舎利を亀が背にして浮かび上がってきたとの故事にちなんで造られたもので、高さ92cm、総体が金銅の打物、台座となる亀形部は木胎に金銅板を被せたもので、白瑠璃舎利壺を収める軸部は蓮華唐草の透かし彫りになっている。


貞慶と春日権現験記絵

2012年06月16日 | 鎌倉・室町時代

 今回は春日権現験記絵といって最高峰の大和絵の話で、宮廷絵師の高階隆兼によって描かれた全20巻の絵巻である。神がひき起こす不思議な出来事の数々が57の物語で表されている。春日大社はもちろん藤原氏の氏社で、春日権現験記絵には氏社の摂社・若宮大社の前に貞慶が春日明神の勧請のために詣でている姿が第16巻に描かれている。

 建久7年(1196)9月27日の夜、笠置寺の般若台の鎮守として春日大明神をお祀りするため、小さな社を造ってから、貞慶は同朋を引き連れ春日社に参拝した。たまたま正預(本社の長官の1人)等が不在だったので当番の氏人(社司の補佐にあたる神官)に命じて、御蓋山の1,5メーター以上の榊を切り出し、第一殿のご神前で榊を手に持って祝詞を上げてもらってご神霊を榊に勧請し、貞慶自身が受け取り、その榊は一旦南門の脇に安置して若宮にお参りした時に、春日明神が貞慶に乗り移って「般若台を守ろう」という託宣を和歌の形で得たのだという。貞慶一行は、本社だけでなく若宮社にも参拝する。御験記の絵は本社と若宮社の間の道(御間道)を美しく描いていて、春日社においてこの御間道は、単に道の機能を超えた信仰空間である。夜間の参拝では、しばしば境内諸社の巡拝である宮廻りがおこなわれた。その最も短いバージョンが本社と若宮の間の往還で、数十度、百度、千度といった度数を重ねるほど篤い崇敬の表明となった。本話では、若宮と本社の間は一度往還されただけだが、春日明神に憑依された貞慶が若宮の方に立ち返り、石段の下から拝礼する所が描かれ、御間の度数参りもかくやと思わせる。よく見ると南門前の橋のたもとには、水船と柄杓が置かれ、いつでも手水が出来るようになっていて、多くの衆生の参詣を伺わせる。また道の所々には、灯籠が掛けられている。今日では中々実感しにくいが、近世までは、多く夜に神社にお参りしたし、特に祈願のあるときは、神前で参籠をした。本話は、春日明神を勧請申し上げるので特に夜である必要があったが、御験記に記される参詣は、多くが夜である。本話からは夜間も対応出来るよう神官が輪番で詰めていたことが明確になり興味深い。真っ暗闇では、如何にも不便だから、御間道には神への手向けも兼ねて灯籠が設置されたのだろう。今日、隙間無く石灯篭が並んだ美しい景観も同様な信仰が生み出したものなのである。「春日大社宝物殿学芸員の解説より抜粋」 

 この貞慶を描かせたのは時の左大臣・西園寺公衡で、藤原氏一族の繁栄を祈願して製作させた。近年、本絵巻の構成や詞書の内容に貞慶執筆の春日信仰にまつわる説草が深く関係していることが明らかになった。ところで、時の左大臣の家系を遡ると蒼蒼たる面々を見つけることができる。藤原1000年の栄華を誇った道長の系統ではなく閑院流藤原氏の系統にあたり、祖は藤原師輔の十二男・公季です。ついでなので公季について記載すると、母は醍醐天皇皇女康子内親王。伊尹・兼通・兼家・高光・為光の異母弟ということになります。公季は生まれて間もなく母を失い4歳で父を失います。そこで、姉の安子(村上天皇皇后)に養われ、親王たちと同じように内裏で育てられます。内裏で育ったため、「自分は高貴な生まれだ」という自負があったようで、妻も皇族・有明親王(醍醐天皇皇子)の娘です。康保四年(967)に叙爵し、永観元年(982)に参議、長徳元年(995)に大納言となり、その後道長政権下で内大臣を長く勤め、最終的には太政大臣となっています。居住していた邸宅にちなんで閑院と号し、その後裔が「閑院流」と呼ばれることとなります。この閑院第は、二条大路南、西洞院大路西に所在し、もと左大臣藤原冬嗣第で、巨勢金岡が水石を配した名所であり、これを公季が伝領したと伝えられます。(『拾芥抄』中)。公季は、孫に当たる実成女が当時の大納言藤原能信(道長男)と結婚した際、この第宅を能信に譲り、彼自身は息子の実成の第に移っています。藤原実資はこのことに関し、太政大臣たる者が旧居を捨て、小宅に移るのは後代の謗りを忘れたものとする深覚(公季の同母兄)の非難に同調し、たとえ譲るにしても同居し、一生閑院を去るべきではないと日記に書き遺しているという。「平安夢柔話より抜粋」

  藤原盛子?-943
   ┣藤原伊尹924-972
   ┣藤原兼通925-977
   ┣藤原兼家929-990
   ┃ ┗藤原道長966-1028
    
  ┣藤原安子927-964 村上天皇中宮

   ┣源高明室
忠平  ┣藤原怤子 - 冷泉天皇女御
 ┗藤原師輔909-960
   ┣藤原公季(閑院流祖) 小式部内侍(和泉式部娘)
  康子内親王┣藤原実成  ┣頼仁1025-? 
    有明親王女 ┣藤原公成999-1043 
      藤原陳政女   ┣藤原実季1035-1092
             藤原定佐女┣藤原苡子1076-1103 堀河天皇女御
                  ┣藤原公実1053-1107
               藤原睦子 ┣徳大寺実能1096-1157
                    ┣藤原璋子1101-1145(待賢門院)-鳥羽天皇中宮
                    ┣藤原通季1090-1128
                  藤原光子┣藤原公通1117-1173
                     忠教娘┣藤原実宗1145-1214
                     藤原通基娘 ┣西園寺公経1171-1244 西園寺家の実質的な祖
                       持明院基家娘 ┣西園寺実氏1194-1269   
                            一条全子┣西園寺公相1223-1267
                                 家女房  ┣西園寺実兼1249-1322
                                  中原師朝娘┣西園寺公衡1264-1315
                                     ┣覚円   (興福寺別当)
                                     ┣西園寺鏱子(永福門院 伏見天皇中宮) 
                                     ┣西園寺瑛子(昭訓門院 亀山天皇後宮)
                                       中院顕子