葛城氏は継体天皇にたいして反支持の姿勢を見せていたが、蘇我氏は継体の大和定着に積極的に支援した。 継体が大和定着を果たして置いた宮は磐余玉穂宮で、現在の桜井市であるから当時最大の豪族だった大伴氏の本拠に近い。 ところが、継体の皇子・安閑の宮は勾金橋宮といい、蘇我氏の本拠に近い。また、宣化の場合は檜隅盧入野宮で、蘇我氏の配下にいた東漢氏の本拠地である。 つまり継体一族を大伴氏と蘇我氏が受け入れているのである。 継体を受け入れなかった葛城の末裔・蘇我氏が受け入れ方向に転換した。 葛城の衰退と蘇我氏の台頭が中央豪族の一本化を実現し、継体の大和定着を実現し、政権の安定をもはかった。 蘇我稲目がいきなり大臣に任ぜられたのはこの功績によるものであると推測される。 欽明天皇と蘇我稲目の姻戚関係は、こうしたなかから成立したが、稲目だけではなく、欽明天皇にとっても有効であった。 雄略天皇が亡くなって以来、王権には多くの混乱が続いていたから、蘇我氏と組みことによって安定した実力を回復したことでもわかる。
葛城氏の祖・武内宿禰の墓と云われている葛城地方最大の巣山古墳
足元の悪い中、堀の淵を歩いて古墳の中央部へ近づこうと頑張りましたが、堀に落ちそうなのでギブアップ