武内宿禰の子・蘇我石河宿禰が蘇我氏の初代であり、この人物の末裔とされるのが蘇我・川辺・田中・高向・小治田・桜井・岸田臣の7氏であり、これらは蘇我氏と血縁関係があったと見れる。 記紀において蘇我という姓を名乗る最初の人物は蘇我満智宿禰で、履中天皇の時代に出てくる。 次は雄略天皇の時代にでてくる蘇我韓子宿禰である。 紀氏や大伴氏とともに新羅遠征に派遣されて現地で殺害されている。 そして次が宣化天皇の時代の蘇我稲目となる。 しかし、満智、韓子、稲目の3人の系譜関係はまったくわからない。 つまり記紀では蘇我氏はわずかしか登場せず、極めて影が薄いのである。 蘇我稲目以降、蘇我氏は急速に大和王朝に台頭するのであるが、実情は謎に包まれている。
蘇我氏が大きく台頭する時代の天皇 雄略と宣化の陵
蘇我稲目は宣化天皇のときに大臣に任命されて、大伴金村と物部麁鹿火などの大和政権の大連と並ぶ地位に加わった。 蘇我稲目が大和政権に突如台頭した理由として推定されているのが、財政担当として大きな功績をあげたことである。 雄略天皇のときに、蘇我氏は三種類の倉(三蔵)の管理を任されていたことがその理由である。 そして蘇我稲目の飛躍的な発展を裏付けるのが、二人の娘を欽明天皇に嫁がせたことである。 小姉君は5人、堅塩媛は13人の子供を生み、稲目を外祖父に持つ皇子、皇女は18人にも及んだ。 そして3人の天皇が生まれている。 聖徳太子の父・用明天皇や、崇峻天皇、推古天皇である。 この時代はまさに蘇我氏の絶頂であったといえる。 本来、天皇と姻戚関係が結べるのは、葛城氏、和邇氏、息長氏などの臣姓に限られていて、大伴氏や物部氏などの連姓の豪族から妃がでるのは困難であった。 その点、新興豪族ではあるが臣姓であった蘇我氏から欽明天皇に妃をいれることができたのは、理解できるが、新興勢力であるだけに謎はぬぐいきれない。 ともかく、大王家と蘇我氏の結びつきは急速に親密になっていた。
蘇我稲目を外祖父とする天皇 用明、崇峻の陵