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剣池島上陵に眠る第8代孝元天皇

2010年10月04日 | 天皇・皇后陵

 江戸の紹介が一段落してしまった後は、元に戻って天皇陵の紹介に移る。 今回は欠史8代のひとり、孝元天皇である。 孝元天皇陵は橿原神宮のすぐ東、甘樫丘に挟まれた石川池の横に位置する中山塚1~3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)で剣池島上陵という。 孝霊天皇の皇子として生まれた大日本根子彦国牽尊は19歳で皇太子となり40年後に孝元天皇崩御に際して孝元天皇として即位し都を軽の境原宮に移した。欝色謎命を皇后として大彦命や稚日本根子彦大日日尊(後の開花天皇)を産んだ。 また妃・伊香色謎命との間に彦太忍信命(武内宿禰の祖父)をもうけている。 皇后・欝色謎命との間にもうけた大彦命は膳臣の祖というから、聖徳太子の妃・膳大郎女、つまり膳部菩岐々美郎女の系統にあたる。 膳部菩岐々美郎女の父は、膳臣加多夫子であり、妹は聖徳太子の弟・久米王の夫人となった膳比里古郎女がいる。推古天皇の時代に(600年頃)膳臣は重用されたようで、聖徳太子の妃・膳部菩岐々美郎女は四男四女を生み、そのうちの舂米女王は異母兄である山背大兄王の妃となっている。 因みに、太子に「死後は共に埋葬されよう」と言われた伝えられており、622年、聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日に没すると聖徳太子の墓所である磯長陵に合葬されている。 身分の低い膳臣の妃が合葬されるのは極めて異例のことであり、菩岐々美郎女がいかに太子の寵愛を受けたかが伺われる。 

 また、妃・伊香色謎命は物部氏の祖であり、息子・彦太忍信命は武内宿禰の祖父であり、磐之媛命の曾祖父にあたる。 また、葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏の祖であるというから、蒼々たる氏族を後の世に生み出している。 そして妃・埴安媛との間には武埴安彦命をもうけた。 武埴安彦命といえば、妻の吾田媛とともに謀反を企てて 大和を襲撃しようとそれぞれ軍を率いた。 しかしそれを予見した倭迹迹日百襲媛命(箸墓伝説の主人公)の進言により、大坂へは四道将軍の吉備津彦命が派遣され吾田媛を迎え撃ちこれを討った。 山背へは同じく四道将軍の大彦命と和邇の祖先彦国葺命が派遣され両軍は川を挟んで対峙する事となった。 このとき、彦国葺命の放った矢が武埴安彦に当り死亡したという。 これによって武埴安彦の軍は崩れ、謀反の乱は鎮圧された。

 ところで、孫・武内宿禰は蘇我氏の祖である。 古代の繁栄に多大な貢献をした蘇我氏本宗家は一瞬にして滅亡に追いやられたことは良く知られている。 中大兄皇子と藤原鎌足の革新派が645年に起こしたクーデターをかわきりに、大化の改新が始まった。 次回からは、蘇我氏の謎について記載していきたいと思う。 

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