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蘇我氏の専権

2010年10月08日 | 奈良・飛鳥時代
 587年に物部氏が滅びたことで蘇我氏に対抗できる豪族はいなくなった。 当時主要な豪族のすべてが蘇我氏側についたから、中央豪族層における大臣・蘇我馬子がぬきんでることとなる。 大臣・大連のうち大連は欠員となり大臣として蘇我馬子、蝦夷親子が任命されて独占政権となる。 これによって、これまでの合議制である、大王-大連-大臣-大夫の形態は崩れ、馬子が最高実力者となって崇峻、推古天皇の外戚としてこれを支える立場となる。 こうした状況から蘇我馬子による崇峻天皇殺害という前代未聞の事件が起こる。 崇峻天皇は傀儡として立てられただけの天皇であり、倉梯岡という政界の表舞台とは離れた宮に追いやられていた。 これを不服に思った崇峻は、蘇我馬子に対して戦の準備をすすめていたという。 密告したのは崇峻からの寵愛が衰えていた大伴小手子という妃であった。 これにより蘇我馬子は渡来系氏族で群臣の東漢直駒に天皇の命を奪わせたのである。 このとき、東漢直駒は天皇の妃である河上娘を略奪して妻にしたという。 ところが河上娘は蘇我馬子の娘であり、この事実を知った馬子は東漢直駒を殺している。 

 ところで蘇我氏が逆賊扱いされているのには崇峻天皇殺害事件の責めがある。 しかしながら天皇を殺害した馬子に対して、当時の豪族たちは罪の追及などは一切していない。 馬子は対立する穴穂部皇子と物部守屋を殺し、崇峻を天皇にたてた。 これを正当化したのは豊御食炊屋姫の詔であり、政権の中枢は崇峻でもなんでもないことを諸豪族はしっていたからである。 したがって馬子と崇峻の対立のときには多くの豪族は馬子側についた。 したがって馬子の批判はしない。 崇峻が殺害された翌月に豊御食炊屋姫は即位して推古天皇となった。 天皇殺害の後、何の問題もなかったかのように彼女が選ばれた背景には、非蘇我系王族の皇子・押坂彦人大兄皇子の即位を回避する目的があったといえる。 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の長子で大王家の嫡流の人物で、蘇我氏との姻戚関係を持たない純皇室系の王族である。 彼の子供が舒明天皇で、その子供が中大兄皇子であるから、蘇我氏を滅ぼして大化の改新を進めたこの系統の王族の意思は、非蘇我系王族の皇子・押坂彦人大兄皇子の無念からもうすでに始まっていたとも解釈できるところが面白い。 とにかく馬子としては非蘇我系王族の皇子・押坂彦人大兄皇子の即位は避けたかった。 

 他の王位継承候補というと用明天皇の長子、厩戸皇子や推古天皇の子・竹田皇子がいた。 ふたりとも蘇我系の血を引く皇子ではあるが、若くて押坂彦人大兄皇子と比べると見劣りがする。 したがって適任の押坂彦人大兄皇子を排除するためには豊御食炊屋姫を即位させる必要があったとされる。 こうして、推古朝は以来三十数年間、馬子と厩戸皇子により担われることとなった。

                                                奈良・牧野古墳は押坂彦人大兄皇子の墓という説があります
                       偶然見つけて、説明版に押坂彦人大兄皇子の名を見たときは感動しました

  
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