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欽明天皇以降の崇仏論争と物部戦争

2010年10月07日 | 奈良・飛鳥時代

 欽明天皇期の出来事で逸することができないのが仏教伝来である。 紀元前5世紀頃、釈迦によって創始されたこの考えが中国に伝来したのは紀元前後の頃で、朝鮮半島へは4世紀後半に高句麗に6世紀初頭に百済に伝来し、5世紀前半に新羅に伝来した。 倭国には百済の聖明王から欽明天皇へ仏教伝来のしるしとして釈迦金銅像が贈られた。 日本書紀では552年のことである。 しかしながら倭国では歓迎されたわけではなく、豪族間で崇仏論争が繰り広げられた。 欽明天皇は「これほどすばらしい教えは初めてだ」 として喜んだが、群臣らの意見を聞くこととした。 これに対して蘇我稲目は賛成したが、物部大連尾輿と中臣連鎌子は、「外国の神を礼拝すれば国神の怒りを招く」 として反対した。 そこで、欽明天皇は蘇我稲目に仏像を預けて礼拝させることとした。 稲目は喜んで小墾田の家に安置し、寺とした。 しかしその後疫病が大流行し、民は若死にして久しく続くのである。 すると物部大連尾輿と中臣連鎌子は仏教を認めたためにこうなったのだと稲目を責め立てた。 欽明天皇は物部大連尾輿と中臣連鎌子はの申し立てを認め、仏像は難波の堀江に流し捨てられ、稲目の伽藍には火がつけられ、焼き払われた。 これが一回目の崇仏論争である。

  

 二度目は、敏達天皇の時代のことである。 蘇我稲目は死に、蘇我氏は子の馬子の時代である。 百済から帰国した鹿深臣が弥勒石像を持ち帰り、佐伯連も仏像一体を海外からもたらし、 二体の仏像を手に入れた馬子はmこれを礼拝できる僧侶を求めた。 このときにみつけたのが播磨国で還俗している高句麗出身の渡来人で、その名を恵便という。 実は聖徳太子が恵便のために建てたのが、播磨の鶴林寺なのである。 恵便が師僧になって3人の少女が出家し日本初の僧侶が誕生した。 善信尼、豊女、石女の渡来系豪族の娘である。 馬子は自宅に仏殿をつくり、仏像を安置すると彼女らに祀らせた。

                                                      聖徳太子が恵便のために建てた播磨の鶴林寺

   

 しかしその直後に馬子は病に倒れ、卜部に問うと、、難波の堀江に流した仏像の祟りだという。 仏教受容に反対する物部氏と中臣氏は疫病を理由に再び仏教受容中止を天皇に訴えた。 これを天皇が認めると、物部守屋大連はわが意を得たりと馬子の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に流した。 しかしこんどは物部守屋と天皇が天然痘にかかり、馬子の崇仏は結果許されることとなるのであるが、敏達天皇は天然痘により崩御し、次に即位したのは先帝の異母弟で稲目の外祖父にあたる用明天皇である。 蘇我氏の血を引く初めての天皇である。 用明朝になっても馬子と守屋の対立は続き、用明天皇は即位まもなく天然痘によって崩御し、その後継者として蘇我馬子は甥の泊瀬部皇子を、物部守屋は穴穂部皇子を推した。  このとき蘇我馬子は先帝・敏達の皇后であった豊御食炊屋姫(後の推古天皇)を立てて、諸豪族を率いると、穴穂部皇子を襲い殺害したのである。  これが、物部・蘇我戦争の発端である。 後継者争いにかつぎだされた泊瀬部皇子(553-592)と、穴穂部皇子(?-587)は欽明天皇と小姉君を父母にもつ兄弟である。 穴穂部皇子は敏達天皇崩御のときから天下を欲していたようで、用明天皇即位のときに、これに対抗すべく物部守屋と結んだ。 586年、穴穂部皇子は敏達天皇の皇后である豊御食炊屋姫を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとしたが、先帝の寵臣・三輪逆はこれを拒んだ。 穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆の不遜を相談し、馬子と守屋はこれに同意した。 守屋は兵を率いて三輪逆を包囲しようとしたが、三輪逆は逃れて炊屋姫の後宮に隠れた。 密告により三輪逆の居所が知られると、穴穂部皇子は三輪逆とその子を殺すよう守屋に命じ、守屋は兵を率いて向かった。 これを聞いた馬子は守屋にちかづこうとする穴穂部皇子に対して「王者は刑人に近づくべからず」と諫言したが、聞き入れようとしなかったため、物部守屋に通じる穴穂部皇子を殺害したのである。  

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