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蘇我氏による崇仏が決定

2010年10月20日 | 奈良・飛鳥時代
 馬子の時代になって、国内から僧侶を輩出しようとした。 高句麗の還俗僧・恵便を師として倭国で初めての僧侶が誕生した。 いままでの慣例を打ち破って本格的な仏教新興にとりくんだことが、二度目の大きな対立を生んだのである。 しかし破仏を行った敏達天皇も実は仏教弾圧を徹底して蘇我氏と全面戦争をすることは望まなかったと思う。 蘇我氏は大和政権下で最大の勢力をもった豪族というだけではなく、屯倉や軍事・土木の分野での貢献は絶大であったからである。 したがって天皇による破仏は一回きりでおわった。

 天皇による仏教新興が積極的に関わるのは、用明天皇からである。 用明天皇は蘇我稲目の娘・堅塩姫を母とする蘇我氏系最初の大王である。 用明天皇の誕生によって状況は一変した。 蘇我・物部の対立は激化するが、蘇我氏の仏教受容の方向に流れは傾いていく。 用明天皇が即位2年目で崩御すると、蘇我馬子は先帝の皇后の詔を大義名分に物部一族を滅ぼした。 これにより蘇我氏に対抗できる勢力はなくなり、飛鳥寺の建立が始まった。 飛鳥寺造営に際して百済から僧侶・寺工・瓦師・絵師など多くの渡来人が派遣され、飛鳥真神原と称してとりかかった。 馬子の息子・入鹿が寺司に任命され、慧慈、慧聡のふたりの僧侶が百済から来日して寺にはいった。 慧慈は厩戸皇子の師となった人物でもある。 9年後に飛鳥寺は完成し、翌年仏像は金堂に収められた。 現在われわれが目にすることのできる飛鳥大仏のことである。  飛鳥の遺構が発掘調査され、一塔三金堂様式であることが確認され、塔の基礎部分からは舎利とともに埋葬された装飾品類が見つかっている。 

 飛鳥寺の建立を契機に機内では寺院の建立が広がり、625年頃までに30を超える寺院の遺構が見つかっている。 これは機内の豪族が氏寺を建立することで、自己の仏教への熱意を表明したにほかならない。 本日、奈良の巨勢に行って来た。 ここにも機内の豪族が建立した巨勢寺があり、今では跡のみになっているが、なんとも趣のある場所である。 ほかにも色々と巡ってきたので徐々に紹介しようと思う。

                                                                               巨勢寺塔跡

   
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