蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの山田寺
皇極3年、蝦夷・入鹿は甘樫岡に邸宅を築き、蝦夷の邸宅は上の宮門、入鹿のは谷の宮門と呼び、子供たちのことは王子と呼ばせた。 家の外には城柵を作り、門の外には武器庫を作ったというから相当に厳重な装備をしていたのである。 これは入鹿が斑鳩の山背大兄王一族を襲撃したことから念入りに装備したものである。 その警備の長官が渡来系有力豪族・東漢直駒である。 先に紹介した甘樫岡の発掘調査は、武器庫の様子、排水設備の様子が報告されたものである。 飛鳥板葺宮の大極殿で入鹿誅殺の事件が起きたのは皇極4年6月とされる。 三韓の使者が天皇に調を献上する儀式において、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げている間に中大兄皇子らが斬りかかろうというものである。 入鹿はすでに身の危険を感じていて、いつも剣を離さなかったといわれているが、 三韓貢献の儀式を装ったこのときには、入鹿を騙して剣を外して大極殿に入らせたのである。 席に着くと、皇極天皇、古人大兄臨席のもと、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み、中大兄皇子は宮中の門を閉じさせて、鎌足は弓を引いた。 また、鎌足は海犬養連勝麻呂を通して佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に剣を与えて、一気に斬りかかるように伝えていた。 ところが一向に佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田が斬りかからないことに動揺した蘇我倉山田石川麻呂は声が乱れて手が震えだした。 入鹿の威勢に怖気づいて手が出せない様子を見た中大兄皇子は、いきなり子麻呂とともに入鹿に斬りかかり、首を切り裂くと、その首は宮から飛鳥寺ちかくまで飛んだという。
入鹿誅殺の事件が起きた 飛鳥板葺宮の大極殿跡 と 飛鳥寺の隣にある入鹿の首塚
日本書紀ではこの様子を詳細につたえ、同席していた古人大兄の行動にも触れている。 古人大兄は私邸に走って「韓人が鞍作臣を殺した、私の心は痛い」 と言い残すと寝室にはいって門を閉ざしたという。 古人大兄は中大兄皇子とともに舒明天皇の息子ではあるが、中大兄皇子とは違って蘇我氏の血を引き、蝦夷・入鹿から時期天皇に推されていた人物であるから、入鹿とともに殺されても仕方のない立場であった。 入鹿殺害に成功した中大兄皇子らは飛鳥寺に立て篭もって次の戦に備えた。 ところが、諸王子・諸豪族らのほとんどが飛鳥寺に参集して中大兄皇子に従う意思を明らかにした。 甘樫岡の蝦夷は孤立し、蘇我氏に忠誠を尽くそうとしていた東漢氏と高向臣国押は戦の用意をしていた。 中大兄皇子は将軍巨勢徳陀臣を敵陣に送って恭順をさそった。 これに高向臣国押が同意したことにより戦は回避されたが、翌日蝦夷は自宅に火を放って自ら滅んだ。 この日、蝦夷と入鹿は遺体を墓に葬ることが許されて、栄華を誇った蘇我氏本宗家は滅んだのである。 つまり、平安時代に栄華を誇った藤原氏の誕生がここにあったとも云えるのである。