推古天皇・皇太子 厩戸皇子廟 と 蘇我馬子の桃原墓・石舞台古墳の石室
推古天皇が崩御したのは馬子の死から2年後のことである。 そのあとをうけて時期王位継承者の候補にあがったのは厩戸皇子の長子・山背大兄王と押坂彦人大兄皇子の長子・田村皇子である。 推古天皇の在位が長かったために、厩戸皇子と押坂彦人大兄皇子がすでに亡くなり、その遺児の時代となっていた。 さて、推古天皇の意思はどちらにあったのか。 推古は二人に遺言を残しているが、どちらを指名したというわけではない。 要するに群臣にまかせよ、ということである。 当時の群臣のなかで、中央集権豪族の筆頭にいたのは、もちろん蘇我蝦夷である。 蝦夷は推古の長子・田村皇子を推した。 しかし山背大兄王は自分こそ指名されたの主張し、蝦夷に食い下がった。 ここで、蝦夷の叔父である境部臣摩理勢は蝦夷に逆らって山背大兄王を推したのである。 そして境部臣摩理勢は蝦夷と決裂し、山背大兄王の異母弟の泊瀬仲王の私邸に篭ってしまった。 蝦夷は山背大兄王に境部臣摩理勢を差し出すように要請する。 これにより山背大兄王は境部臣摩理勢に蝦夷の意思に従うように説得するさなかに泊瀬仲王が死去し、孤立した境部臣摩理勢は蝦夷に襲撃されて628年に殺された。 こうして山背大兄王を推した境部臣摩理勢が滅んだことで、田村皇子が舒明天皇として即位することとなる。 日本書紀では異例なほど詳細にこの記述がなされている。 その割には舒明天皇の記述は簡単で、どういう治世であったのかよくわからない。 政権の中枢には舒明天皇と蘇我蝦夷がおり、斑鳩の地には山背大兄王とのそ一族が健在であったから、舒明天皇や蝦夷にとっては脅威であったのかもしれない。
斑鳩の里