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厩戸皇子が天皇になれなかった理由

2010年10月09日 | 奈良・飛鳥時代
 厩戸皇子は日本書紀によると推古29年に、天皇より先立つこと7年で亡くなっている。 厩戸皇子が何故即位できなかったのか、については譲位の慣行が当時はなかった、 皇極天皇の頃になって初めて譲位がなされた、という説がある。 しかしこれは間違いのようで、継体天皇から安閑天皇への譲位や、飯豊皇子から仁賢天皇への譲位は実際にあったともされている。 すると推古天皇が譲位の意思を持っていたのかどうかがポイントとなる。 推古天皇には竹田皇子という息子がいて、皇太子に立てて皇位を譲るつもりであったが、意に反して竹田皇子は数年後に亡くなってしまった。 そこで厩戸皇子を皇太子に立てた。 もともとは譲位を前提とする中継ぎの天皇であったが、竹田皇子の死によって厩戸皇子に譲位する気持ちになれず、 また推古・馬子の政権運営が次第に安定してきたものだから、ますます譲位の気運はなくなり大王としての長期の在位となってしまったというのが真相なのかもしれない。 厩戸皇子が死んだ5年後に蘇我馬子は亡くなった。 日本書紀にはそのときのことを、こう記している。 「大臣・蘇我馬子が逝去し、桃原墓に葬った。 大臣は蘇我稲目宿禰の子である。 性格は武略に長けて、弁論の才もあった。 仏教を恭敬して飛鳥河のあたりに家を構えた。 そこでは庭の中に小さな池を開いた。 そして小嶋を池の中に開いたことから、彼のことを嶋大臣と呼んだ。」  彼の家は嶋宮で、その近くには石舞台古墳がある。 これが日本書紀にでてくる桃原墓のこととみられる。 石舞台古墳は京都大学によって発掘調査がおこなわれて、周濠を備えた方墳であることがわかった。 時期は馬子逝去の時期と一致する。 その後の調査では、小古墳を潰してその上に造営されていたこともわかり、馬子の絶大な権力が伺える。 

                                   推古天皇・皇太子 厩戸皇子廟 と 蘇我馬子の桃原墓・石舞台古墳の石室

  
  
 推古天皇が崩御したのは馬子の死から2年後のことである。 そのあとをうけて時期王位継承者の候補にあがったのは厩戸皇子の長子・山背大兄王と押坂彦人大兄皇子の長子・田村皇子である。 推古天皇の在位が長かったために、厩戸皇子と押坂彦人大兄皇子がすでに亡くなり、その遺児の時代となっていた。 さて、推古天皇の意思はどちらにあったのか。 推古は二人に遺言を残しているが、どちらを指名したというわけではない。 要するに群臣にまかせよ、ということである。 当時の群臣のなかで、中央集権豪族の筆頭にいたのは、もちろん蘇我蝦夷である。 蝦夷は推古の長子・田村皇子を推した。 しかし山背大兄王は自分こそ指名されたの主張し、蝦夷に食い下がった。 ここで、蝦夷の叔父である境部臣摩理勢は蝦夷に逆らって山背大兄王を推したのである。 そして境部臣摩理勢は蝦夷と決裂し、山背大兄王の異母弟の泊瀬仲王の私邸に篭ってしまった。 蝦夷は山背大兄王に境部臣摩理勢を差し出すように要請する。 これにより山背大兄王は境部臣摩理勢に蝦夷の意思に従うように説得するさなかに泊瀬仲王が死去し、孤立した境部臣摩理勢は蝦夷に襲撃されて628年に殺された。  こうして山背大兄王を推した境部臣摩理勢が滅んだことで、田村皇子が舒明天皇として即位することとなる。 日本書紀では異例なほど詳細にこの記述がなされている。 その割には舒明天皇の記述は簡単で、どういう治世であったのかよくわからない。 政権の中枢には舒明天皇と蘇我蝦夷がおり、斑鳩の地には山背大兄王とのそ一族が健在であったから、舒明天皇や蝦夷にとっては脅威であったのかもしれない。

                                                                              斑鳩の里

 

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