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原寸大に復元された第一次大極殿

2010年10月26日 | 奈良・飛鳥時代

 奈良遷都1300年に当たる2010年に合わせて、平城宮跡に実物大で復元されたのが第一次大極殿である。 その計画は9ヶ年にもおよび、第一次大極殿を取り巻く南門・廻廊等についても、復原整備の検討が実は進められているようです。 奈良時代の前半には朱雀門を入った正面に朝堂院の建物が左右対称に配置され、その奥800mのところに大極殿院が位置していました。 その建物は高い基壇に礎石をすえ、丹塗りの赤い柱を建て、屋根に瓦を葺いた壮大な建物であった様子がわかるように復元されています。 第一次大極殿は天皇の即位・朝賀・外国使節の謁見といった行事を行うために建てられたもので、規模は正面約44m、側面約20m、高さ約27mあり、直径70cmの朱色の柱は44本、屋根瓦は約10万枚使われているそうです。 現地に行きますと「平城宮跡会場公式案内MAP」をもらえます。 それを見ますと第一次大極殿の南東部に第二次大極殿が描かれています。 何故第二があるのか。

                                             朱雀門の真北800mのところにある第一次大極殿は平城京前期のもの 

   

 710年に平城京ができたときの大極殿を第一次大極殿といい、今回復元されたものです。 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年12月15日)に聖武天皇によって一時期山背国相楽郡の地、現在の京都府木津川市に大極殿は移されており、この都が恭仁京です。 左大臣・橘諸兄の本拠地が相楽郡にあったことが遷都の理由とされており、聖武天皇の放浪の苦悩がこうして始まります。 都は完成しないまま743年に造営は中止され、聖武天皇は紫香楽宮に移ります。 742年頃に離宮を造営してしばしば行幸し場所です。天皇は恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたとみられています。 

                                             わずかに2年間、山背相楽郡の恭仁京に大極殿は移設された

   

 ところが744年2月には難波京(726年、聖武天皇が藤原宇合に命じ、難波宮に瓦葺の離宮を造営していた)に遷都が実施されます。 発掘調査によれば、難波宮周辺には正方位に溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたものが多い。 また、溝からは多数の土器が出土しており相当数の人間が生活していたことが想定されている。  そして遷都の翌年745年5月に都は平城京に戻された。  因みに、難波宮は大阪城の南に隣接していて現在は快適に遊べる公園になっています。 したがって唐からの遣唐使の船団が大阪湾から淀川を経由して支流・大川を通って難波宮近辺を港にしていたことが伺えます。 745年に都が難波宮から再び平城宮に戻された後も、副都として遣唐使船の港として栄えます。 しかし784年に長岡京遷都が行われたときに廃都となります。 このころの難波宮のことを後期難波宮といいますが、それに対して前期難波宮というのは大化の改新のときに即位した孝徳天皇が政務をとった宮(難波長柄豊崎宮)のことをいい652年に完成します。

                          天平文化が栄える一方で、度重なる遷都により民は苦しめられていた
                            こうした悪政に立ち向かったのが吉備真備や僧侶・行基である

  

 
 
 740年の恭仁京遷都までの大極殿を第一次大極殿といい、745年奈良に再び都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿といいます。 第二次大極殿は平城宮東寄りの壬生門北に位置し、第一次大極殿の周囲は築地回廊で囲まれ、この区域は「大極殿院」と呼ばれるそうです。 元正天皇や聖武天皇の即位式が行われたのはこの大極殿院である。 奈良時代の後半には儀式は壬生門北の第二次大極殿で行われ、内裏、朝堂院、朝集殿なども壬生門と第二次大極殿との間に集約されていったのです。 壬生門、築地回廊などの説明は次に譲ります。

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