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蘇我氏を再考

2010年10月12日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我蝦夷・入鹿が葬られた翌日、皇極天皇は弟に譲位し、孝徳天皇が即位した。 当初皇極の譲位の意志は息子の中大兄皇子にあったが、兄の古人大兄、叔父の軽皇子を差し置いて即位するのは良くないと助言した。 軽皇子は古人兄王の即位を勧めたが、古人兄王が固辞したのである。 中大兄皇子は皇太子となり、左大臣には安倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられることで大化の改新政権が発足した。 大化の改新で新政権が目指したものは何なのか、日本書紀に記された改新がどこまで史実に忠実に描かれているのかをめぐって、長く議論が繰り広げられたが、この改新により後に律令国家体制につながっていくことは事実である。 しかし、ここで蘇我氏の歴史は終わったわけではなく、この豪族は改新の後も大和政権の雄族として活躍した。 右大臣・蘇我倉山田石川麻呂である。 しかし改新の4年後、謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれたが、実際には中大兄皇子による謀略があったとされる。 後、蘇我赤兄は天智天皇に重用されて左大臣になるが、壬申の乱では近江方についたために配流となる。 その後、天武期には氏名を石川氏に改めるが次第に衰退して、藤原氏の台頭とともにいれかわり朝廷の中心から遠ざかっていった。 

 話を蘇我氏の出自に戻してみる。 蘇我氏の渡来系説が学会だけではなく古代史ファンのなかでも広まった時期がある。 これは蘇我氏の逆賊観とうまく融合したところにあるらしい。 蘇我氏は渡来人で天皇への忠誠心が薄かったから、天皇をないがしろにしてとってかわろうとした、というのである。 もうひとつ蝦夷、入鹿は本当の名前ではなく大化の改新以降に逆賊ゆえにつけられた差別的な蔑称であるとする説がある。 しかし古代の資料からは、鴨君蝦夷、河内連入鹿など動物に由来する名前は多くあり、動物の生命力にあやかろうとする命名であり蔑視に値するものではない。  そこで蘇我氏渡来人説を外すと、この氏の発祥の地としては大和国高市郡曽我説、葛城説、河内国石川郡説がある。 祖・武内宿禰の子・宗我石川は河内国石川に生まれ、石川の名とした。 そして宗我の大家を賜り宗我宿禰の姓を賜った。 その後朝臣の姓を賜り、石川朝臣を子孫の姓とした。 蘇我氏発祥の地は石川で後の大和の曽我に移住したとの伝承が注目された。 しかし蘇我氏が河内の石川に拠点をもったのは7世紀以降であり、本拠地ではない。 

 一般に蘇我氏や葛城氏といった臣姓を名乗る豪族は、自らの本拠地の地名を氏として名乗る原則があるという。 すると蘇我氏の本拠地は大和国曾我となる。 6世紀前半以降は蘇我氏の本拠地と考えてよいが、それ以前はどうか。 それ以前については葛城氏であった説がある。 葛城氏は5世紀には最大の勢力を誇った豪族である。 雄略天皇と戦って以降衰退した後、その支族であった蘇我氏が次第に勢力を伸ばしたという。 その論拠は推古紀と皇極紀にあるという。 蘇我馬子が葛城は私の本拠であるといっており、聖徳太子伝では馬子のことを蘇我葛木臣としてでてくる。 蘇我馬子の母はだれなのか?については不明である。 最近、馬子の母は葛城氏であるとする説がでてきたらしい。 これは葛城は馬子の本拠であると記している推古紀からきている。 当時長子は母の実家で生まれて育った。すると葛城は蘇我氏全体ではなく、馬子一人のの本拠になる。 しかし皇極紀では、蘇我蝦夷が自氏の祖廟を葛城高宮に立てたという記事からすれば、葛城は馬子ひとりの故郷ではないとなる。 したがって馬子の母は葛城氏出身とするには無理がある。 また蘇我氏が葛城氏との関わりを強調するのは、蘇我氏が圧倒的な地位を確立てから記された推古紀、皇極紀であることは見逃せない。 つまり5世紀に最大の豪族であった葛城氏の末裔であることを蘇我氏は強調することで、権勢のよりどころを名族の末裔であるところに求めたのかもしれない。

                           葛城氏の本拠地にある馬見古墳群のナガレ山古墳と倉塚古墳

  
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