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蘇我氏と渡来人・王仁氏

2010年10月16日 | 奈良・飛鳥時代
 東漢氏、鞍作氏とともに見逃せないのが応神朝に百済から渡来した王仁系の豪族である。 古事記に「和邇吉師」という人物が登場する。 彼は論語に長けた学者で、応神の皇太子・菟道稚郎子の学問の師とされている。 この人物が書首等の始祖であり、河内国に勢力を広げた西文氏のことである。 この氏を中心に多くの枝氏が誕生し、葛井氏・船氏・津氏は王辰邇という渡来人の末裔であるとしている。 また、この3氏は祖が百済の貴須王とし、その孫・辰孫王が皇太子の師となったという。 つまり、井氏・船氏・津氏は王辰邇の末裔であると主張することで王仁氏族のなかにくいこんだ。 これらの氏族は河内地方(今の藤井寺・羽曳野)に本拠を置いた。 そして6世紀のある時期より蘇我氏の指導の下に、学問・文筆のほか、朝廷の倉庫の出納・記録を担当した。 羽曳野市古市にある西淋寺は欽明天皇のときに文首阿志高が創建したと伝えられている。 

 次に王辰邇の末裔である船氏については、欽明天皇のときに天皇が樟勾宮を訪れたときに、王辰邇は船の賦を記録する役目を蘇我稲目から命じられたことから船長を務め、それ以来船氏という姓をもらった。また敏達天皇のときには漢文で書かれた国書を解読したことから、天皇と馬子から賞賛された。 これにより頭角を現したという伝承が残っている。 そして乙巳の変のときに、一族の破滅を悟った蝦夷は「天皇記・国記」を焼き払おうとしたが、船氏恵尺がとりあげて中大兄皇子に献上したとされる。 船氏恵尺は蝦夷に仕えて書の編纂にあたっていた人物である。「天皇記・国記」はもともと厩戸皇子と馬子が編纂を行っていたが、厩戸皇子の死後は馬子、蝦夷はそれを引き継ぎ、その下で船氏恵尺が編纂したとされる。 

 王仁氏ゆかりの地・羽曳野市には何度か言っているが、直接のゆかりの場所には残念ながら行っていないので、写真がない。 仕方がないので、王氏が学問の師を務めたというだけではなく、王仁氏の母・宮主宅媛を持つ応神の皇太子・菟道稚郎子の墓を紹介します。 これは羽曳野にあるのではなく、宇治市にあります。 ところで、宮主宅媛、王仁氏・・・和爾氏・・・となれば、屯倉との強い結びつきが関係する。 私は菟道稚郎子の母の氏族が屯倉に関係あると思っており、前々からその関連を裏付けるような記事がないかと思っていたのであるが、見つけたので、次回は「王仁氏と宮主宅媛と屯倉」について書いてみようと思う。 ここまでくれば、歴史ファンの域を超えて、考古学研究の域に入ってしまうので、ほどほどにしないと。。  

                                             春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
   葛城高額媛    ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 麛坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┣ 飯豊青皇女(記紀) 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
           応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
           ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
   開化天皇┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
    ┣和気王┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃
    鸇比売  ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰┛   ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰    ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃吉備臣┃┏━┃━┛       ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┗羽田矢代宿禰  ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┗葛城蟻臣  ┣忍坂大中姫      
                   ┗荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ)

 

  

 菟道稚郎子は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われています。 応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主の女 ・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいる。 父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。  皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地)に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。  同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定されています。

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