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鳥取東照宮

2019年11月08日 | 江戸時代

 鳥取東照宮は、江戸時代の創建より因幡東照宮と称され、主神として東照大権現を祀り、池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を合祀する。本殿・拝殿・幣殿・唐門は、国の重要文化財に指定され鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された。光仲は僅か3歳で藩主となり、お国入りの際、幕府に願い出て鳥取城下への東照宮勧進を許可された。光仲の父・忠雄の生母は徳川家康の次女・督姫で、光仲自身は家康の曾孫であることが大きい。

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鳥取藩池田氏の墓所

2019年11月08日 | 江戸時代

 史跡鳥取藩主池田家墓所は、初代藩主池田光仲の墓所として1693年に、ここ奥谷の地に建てられた。因幡・伯耆をあわせた32万石を領した初代鳥取藩主池田光仲から11代藩主慶栄までの歴代藩主と藩主夫人や同族70数基の墓碑が整然と立ち並んでいる。藩主の墓碑は、亀の形をした亀趺とよばれる台石に円頭扁平な墓標を立てた「亀趺円頭」の墓碑とよばれ、大名家の葬制、墓制の階層制を知ることができる貴重な資料として史跡に指定されている。

 織田信長の重臣・池田恒興の次男が池田輝政は、中川清秀の娘・糸姫を正室として迎え(1565年頃)嫡男・利隆が生まれた。池田利隆は岡山藩池田家宗家を継いだ。また池田輝政は、徳川家康の二女・督姫を継室として迎え(1602年頃)六男忠雄が生まれた。池田忠雄は因幡鳥取藩池田家宗家を継いだ。池田利隆の嫡男・光政が岡山藩初代藩主なのに対して、池田忠雄の嫡男光仲は鳥取藩初代藩主となった。また、光仲の嫡男・綱清は二代鳥取藩主、次男仲澄は鳥取新田藩(東館)初代藩主、四男清定は鳥取新田藩(西館)初代藩主となることで鳥取池田家の繁栄を永続させたものと思われる。池田光仲が鳥取藩主になったのは1632年、3歳の時であったが、実際の領国経営を行ったのは19才の時である。1638年に三代将軍家光の前で元服したため、光の字を賜っている。1645年には幕府の斡旋で紀州藩主・徳川頼宜の長女茶々姫と結婚したことから、鳥取池田家と紀州徳川家との姻戚関係が継続した。こういった状況もあり、この頃に鳥取池田家は支藩鹿奴藩を立藩して東館と称し、次男池田仲澄を藩主とした。また四男 池田清定には支藩若桜藩を西館と称して立藩した。

 これは第8代将軍・徳川吉宗が別家を立てて御三卿を起こしたのに似ている。吉宗が田安家、一橋家を創設した意図は、尾張藩第7代藩主の徳川宗治との対立を踏まえて、徳川御三家と将軍家との血縁関係がしだいに疎遠になったことから、御三家とは別個の親族を将軍家の新たな藩屏とすることにあったという。また、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者を選定することができた。鳥取池田藩についても、同様の意図から東館、西館を設立したものと思われる。

 また、墓所に眠る藩主の没年が20才前後が多いことに気づく。(11名のうち6名)この傾向は支藩である東館、西館の藩主にも言える。8代鳥取藩主池田斉稷の時には、今まで相模守であったのを因幡守に変更することで、若死が続いている難からのがれようとしていたという。加賀藩から迎えた11代藩主・池田慶栄が17歳で没したときには加賀前田家の奥向きから毒殺説が浮上し、池田慶栄の母・溶姫は信じていたという。

 

池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死                                                                      ┗池田輝政1565-1613(姫路城主)                                                                     ┃ ┣池田利隆1584-1616                                                                                                                                     ┃糸姫 ┗池田光政1609-1682 備前岡山藩初代藩主                                                                  ┃                                                                                                                                      ┣忠継1599-1615                                                                                                                                     ┣忠雄1602-1632                                                                                                                                     ┃ ┗池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主 母:徳島藩主蜂須賀至鎮の娘・三保姫 正室:紀州徳川頼宜長女・茶々姫(因幡姫、今上天皇の直系祖先))                                                                                                                                     ┃  ┣池田清定1683-1718(鳥取新田藩(西館)初代藩主)                                                                                                                                     ┃  ┣池田仲澄1650-1722(鳥取新田藩(東館)初代藩主)                                                                                                                                     ┃  ┃ ┣池田吉泰1687-1739(3代鳥取藩主)                                                                                                                                     ┃  ┃ ┣池田貞賢 (鳥取新田藩(西館)2代藩主)                                                                                                                                     ┃  ┃ ┗池田仲央 (鳥取新田藩(東館)2代藩主)                                                                                                                                     ┃  ┗池田綱清1648-1711(2代鳥取藩主 母:因幡姫 徳川頼宜長女・茶々姫 正室:森岡藩主南部重信の娘・式姫)                                                                                                                                      ┃   ┗池田吉泰1687-1739(3代鳥取藩主 母:涼月院菊子 松平頼隆娘 正室:加賀前田綱紀の娘・敬姫)                                                                                                                                      ┃    ┗池田宗泰1717-1747(4代鳥取藩主 母:側室中村氏 吉宗の前で元服 正室:久姫 紀州徳川宗直5女)                                                                                                                                      ┃     ┗池田重寛1746-1783(5代鳥取藩主 母:久姫 紀州徳川宗直5女 正室:律姫 桑名藩主松平忠刻二女 家重の前で元服)                                                                     ┃      ┣池田澄時1769-1785 三男 鳥取東館新田藩の第6代藩主                                                                                                                                      ┃      ┣池田仲雅1780-1841 六男 鳥取東館新田藩の第7代藩主                                                                     ┃      ┃  ┣池田清直 1812-1858 鳥取西館新田藩の第8代藩主                                                                     ┃      ┃  ┣池田仲諟 鳥取東館新田藩の第8代藩主?                                                                    ┃      ┃  ┃  ┣池田清緝 1843-1862鳥取西館新田藩の第9代藩主                                                                     ┃      ┃  ┃  ┣池田徳定 1848-1910鳥取西館新田藩の第10代藩主                                                                     ┃      ┃  ┃  ┗池田徳澄 1854-1876鳥取東館新田藩の第10代藩主                                                                     ┃      ┃  ┗池田仲律1805-1850 鳥取東館新田藩の第8代藩主                                                                     ┃      ┃    ┣池田仲達 1841-1862鳥取東館新田藩の第9代藩主                                                                     ┃      ┃    ┃ ┗池田徳澄 1854-1876鳥取東館新田藩の第10代藩主                                                                     ┃      ┃    ┣裕之進 11代鳥取藩主に名が挙がった                                                                                                                                      ┃      ┃    ┣延子(聡姫)  池田慶栄1834-1850 11代鳥取藩主の正妻                                                                     ┃      ┃    ┗池田慶行1832-1848 10代鳥取藩主                                                                                                                                      ┃      ┗池田治道1768-1798(6代鳥取藩主 母:側室村上氏 正室:生姫 伊達重村娘 重寛側室仲姫(松平定信の姉)に養われて嫡子となる)                                                                     ┃       ┣三津姫 長州第10代藩主毛利斉熙の正室                                                                     ┃       ┣弥姫1792-1824 薩摩藩主島津斉興の正室                                                                     ┃       ┃ ┣島津斉彬1809-1858(11代薩摩藩主)                                                                    ┃       ┃ ┣池田斉敏1811-1842(7代岡山池田家藩主)                                                                    ┃       ┃ ┗候姫(土佐藩主山内豊熈1815-1848室) 

     ┃       ┣幸姫 佐賀藩鍋島斉直の正妻                                                                     ┃       ┃ ┗鍋島直正(閑叟)                                                                    ┃       ┣籠姫 高鍋第9代藩主秋月種任室                                                                     ┃       ┣善之進 早世  

     ┃       ┣完姫 笠間藩主牧野貞幹室                                                                     ┃       ┣池田斉稷1788-1830 8代鳥取藩主永之進 母:側室浦の方                                                                     ┃       ┗池田斉邦1787-1807 (7代鳥取藩主 母:三宅氏 三保の方 家斉の前で元服 財政倹約)                                                                     ┃        ┗池田斉稷1788-1830(8代鳥取藩主 母:側室の佃氏(浦の方)正室・演姫 家斉の前で元服 相模守→因幡守 若死が続いている為)                                                                     ┃         ┣徳川乙五郎(家斉の12男) 婿養子 家斉の前で元服 世継問題 藩主になることなく早世                                                                     ┃         ┣                                                                                                                                    ┃         ┗池田斉訓1820-1841(9代鳥取藩主 家斉の前で元服 母:高沢氏 正室・家斉の娘・泰姫1827-1843)                                                                    ┃          ┗池田慶行1832-1848(10代鳥取藩主 母:若林氏 鳥取池田家の分家・仲律の長男 家慶の前で元服 佐賀藩主娘・貢姫と婚約)                                                                     ┃           ┗池田慶栄1834-1850(11代鳥取藩主 加賀藩主・前田斉泰の四男 母:徳川家斉の娘・溶姫 正室:池田仲律の娘・聡姫)                                                                     ┃            ┗池田慶徳1837-1877(12代鳥取藩主 水戸徳川斉昭の五男 母:松波春子 将軍慶喜は異母兄弟)                                                                     ┃             ┗池田輝知1861-1890 第13代当主 正室:鍋島直正の娘・幸子                                                                     ┃              ┗池田仲博1877-1948 第14代当主 徳川慶喜の五男                                                                     ┃               ┗池田徳真1904-1993 第15代当主                                                                     ┃                ┗池田百合子1933- 第16代当主 養子を迎えているが、当代限りで鳥取藩主家の役目終焉を表明                                                                                         ┃                                                                  督姫1565-1615(徳川家康次女)             

鳥取藩主池田家墓所

 

初代藩主・光仲

右隣には西館初代藩主・清定(光仲の四男)

その隣には西館五代藩主・定常(光仲の来孫)

 池田定常は江戸城柳の間・三学者のひとり池田冠山である。冠山には多くの側室があり9男16女をもうけたという。しかしそのほとんどが幼逝して成人したのは僅かに4人だけだった。幼くして逝った子女のうち最も惜しまれたのが16女の露姫。幼女の慈悲深い言動は菩薩の化身ではないかとの噂になるほど、優れた行状の多くが記述に残されている。露姫は不幸にも当時流行した疱瘡にかかり、かぞえ6歳で死去した。彼女の死後に遺書めいた手紙や俳句などが見いだされた。父・冠山は愛惜の情止みがたく、それらを模刻した。するとこれらが大きな反響を呼び、松平定信、滝沢馬琴、各種寺社などの著名人から賛美を得たという。

 

二代藩主・綱清(光仲の嫡男)

 

 

三代藩主・吉泰(光仲の孫)

 

四代藩主・宗泰(光仲の曾孫)

 

 

五代藩主・重寛(光仲の玄孫)

 

 

六代藩主・治道(光仲の来孫:曾孫の孫)

 

 

七代藩主・斉邦(光仲の昆孫:曾孫の曾孫)

 

 

 

八代藩主・斉稷(光仲の昆孫:曾孫の曾孫)

 

 

九代藩主・斉訓(光仲の仍孫:玄孫の曾孫)

 

 

十代藩主・慶行(光仲の仍孫:玄孫の曾孫)

 

 

十一代藩主・慶栄(加賀・前田家から迎えた)

 

十二代藩主・慶徳(水戸・徳川家から迎えた)

大雲院に墓所はあります

 

 

 

斉衆 将軍家斉の12男で徳川乙五郎

八代藩主池田斉稷の後継ぎとして立てられたが早世

 

東館初代・仲澄(光仲の次男)

 

清源寺住職代々の墓

 

初代藩主・光仲の側室上野勾の墓

光仲の側室上野勾は京都の出身で光仲に最も愛され西館初代・河内守清定をはじめとして三子を産んだ。

 

和田三信の墓所

家臣として唯一墓所に眠っているのが家老・和田三信。和田氏は池田輝政の頃から池田家に仕えた着座(家老職を出す家柄)のひとつであった。

三信は初代光仲、二代綱清に仕えた。この地に葬られたのは光仲の遺言である

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和意谷池田家墓所

2019年06月13日 | 江戸時代

 和意谷池田家墓所は、岡山県備前市にある「岡山藩主池田家墓所」である。この地に墓所を建設することになったのは、池田光政の意思によるもので、1667年墓地の造営を行い、1669年に墓域の工事が完了した。一のお山--池田輝政の墓所 二のお山--池田利隆とその正室鶴姫の墓所 三のお山--池田光政とその正室勝姫の墓所 四のお山--池田慶政8代藩主とその正室宇多子の墓所 五のお山--池田茂政9代藩主とその正室萬寿子の墓所

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丹波市黒井にある興禅寺で生まれた春日局

2019年06月10日 | 江戸時代

 江戸時代の幕府3代将軍 徳川家光の乳母・「春日局」とは朝廷から賜った称号で、名は斉藤福といい、 父は明智氏の家臣 斎藤利三である。本能寺の変で織田信長を討ったあとは、山崎の合戦で敗戦すると利三は捕らえられて処刑されており、春日局も他の兄弟とともに各地を流浪していたという。京都で三条西実条に奉公し、稲葉一鉄の子で小早川秀秋の家臣・稲葉正成の後妻となっている。夫の正成と離婚し、1604年に江戸幕府2代将軍徳川秀忠の子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。秀忠の正室の於江与が弟の国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、駿府にいた大御所の徳川家康に竹千代を三代将軍に確定させるように直訴した話が知られる。また、大奥の制度を統率して、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。家光の将軍就任に尽力をつくし、また家光の側室にはすべて自分の息のかかった者を選んでいく。家光は女装、男色趣味があったため、世嗣問題には肝を冷やしたらしい。初期の大奥の体勢を整えたのも彼女である。

 また、女性には一切の権利を認めず、男性社会への従属のみを強い、それでいて自分だけは枠の外で全ての権力を掌握した。 そして家光への異常とも思える偏愛それは家光人間形成に大きく影響した。家光が暗君であったのは有名で唯一の徳川存続の彼の功績は子孫を残した事だけなのです。家光が将軍であった時代には「武家諸法度」の改訂や参勤交代、鎖国、などの法令が制定され徳川政権確立への道を歩んでいますが、これは有能な忠臣が居ただけの話しで家光自身は遊興にふけっていただけなのです。家光唯一の功績(子孫を残した)事も春日局に手中にあったと知れば 彼女が徳川政権安泰の礎を作った人物と思えます。1629年には紫衣事件収拾のため、将軍の名代で三条西実条の妹分と称して無位無官の身で朝廷へ参内し、後水尾天皇や徳川和子に拝謁し従三位の位と「春日局」の称号を受ける。1643年に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」 将軍家の乳母に登用された経緯には京都所司代 板倉勝重が一般公募した話などが伝えられるが、稲葉氏の昇格などから夫・正成の縁を頼ったと考えられている。

JR黒井駅前にあるお福の像

丹波市黒井にある興禅寺はお福の生誕地

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吉原の遊女の末路

2019年01月20日 | 江戸時代

 江戸幕府によって公認された遊廓・吉原遊廓は浅草の名所である、最初は日本橋の近くにあったが、明暦の大火により、浅草寺裏の日本堤に移転された。多くの男性が浅草寺の雷門から仲見世通りを抜けて浅草寺の仁王門・本堂・護摩堂を立ち寄って北の新吉原へと繰り出したのである。遊郭は男が遊女と遊ぶところであるが、遊郭にいき、料金(揚代という)を支払ったからといってすぐに肌を合わせることはできない。最初は宴席を設けるだけなのである。そして二回目の指名をすることを「裏をかえす」というが、お客はそれでも肌を合わすことはできない。ほとんどの場合は口もきけずに揚代に加えてご祝儀を払うのである。そして3回目の宴席にしてやっと馴染みになれて話せるようになる。ところが、肌を合わせるには遊女に気に入られなければならない。つまり断られて、今までの揚代・祝儀が無駄になることもあるのである。また、馴染みになった客が吉原内で浮気をして他の遊女を指名することはできない。発覚すれば罰が待ち受けていたらしい。そこで、遊女もさるもの・・・男心を巧みに操っては多くの常客を獲得しようとし、客側も上手に遊ぶことによって、自分が「粋」であることを自慢するのである。かくして浅草寺仲見世を代表とする遊郭のまわりには多くの楊枝屋があったのである。当時、新吉原に指折りの遊郭 「海老屋」というのがあった。恐らく海老屋の常客となって通うことが江戸一番の粋な男性ということになったのであろう。

 吉原の遊女は年季が明けると裏方に回るか出ていくしかない。その末路はどうなったかというと、私娼と云われる個人営業の遊女になっていく。それは様々な名前で呼ばれ商売の方法も多様であった。比丘尼というのは尼の姿をした遊女のことで、熊野の札を配りながら春を売っていた。比丘尼宿から街に繰り出して、声がかかると相手の家に行ったという。値段は100~200文というから3000円程度。綿摘というのは綿の実で綿製品を作る商売のこと。彼女たちは内職仕事の合間をぬって客をとった。提重とは重箱を持ち、呼ばれた家に行って身を売るというもの。夜になると現れるのは夜鷹と呼ばれて地面に筵を敷いて商売をする最下級の私娼である。そして夜鷹が通った夜間営業のに蕎麦屋を夜鷹蕎麦といった。夜鷹の料金は24文で今の500円程度、客を二人とると稼ぎは48文、当時のかけ蕎麦が16文だったというから、「客二つ つぶして夜鷹 三つ食い」という川柳がはやった。夜鷹の中には武士の妻もいたという。藩の取り潰しなどで浪人になる者も多く止む無くだったようである。夜鷹と並んで最下層の私娼には舟饅頭と云われる遊女もいた。料金はわずか32文で、停泊している船で饅頭を売ると称して男たちに声をかけていた。遊女の末路のすべてが不幸であったわけではなく、遊女を妻に受け入れる見受けという制度があった。元々遊女は自分の意思で遊女になったわけではなく、家庭の事情でなっらことを誰もが知っていたからであろう。

 1859年幕府は横浜に外国人にも開かれた港崎遊郭を開設。これはアメリカ総領事ハリスが出した開港の条件のひとつであった。当時一番立派な建物が遊郭であったことから、この遊郭を外国人を迎える迎賓館として使用するとともに、遊女を接待役とした。港崎遊郭の中でも最も有名な妓楼「岩亀楼」が石灯篭として今も残っている。しかし攘夷論が叫ばれるなか、岩亀楼で人気の遊女・喜遊は、どうしても会いたいという外国人を拒み、自ら命を絶ったという。

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長崎-1 二十六聖人殉教地

2018年11月21日 | 江戸時代

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島原-4 キリシタン墓碑まだれいな

2018年11月21日 | 江戸時代

 島原では有名な、「まだれいな」のキリシタン墓碑。正面に干十字「カルワリオ十字紋」が、彫られている。「カルワリオ」とは、イエス・キリストが十字架に架けられた丘の名前で、普通は、「ゴルゴタの丘」といっていますが、ラテン語では「カルワリオ」というそう。

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島原-3 天草四郎時貞

2018年11月21日 | 江戸時代

 天草四郎時貞は、肥後国のキリシタン大名・小西行長の遺臣・益田好次の子として天草諸島で生まれたという。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立された人物で、そのカリスマ性はイエス・キリストが起こした奇跡を参考に創作されたといえる。1637年に勃発した島原の乱では一揆軍の総大将となる。しかし四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないようだ。当時、一揆軍はすでに廃城となっていた原城に立てこもり、幕府軍の板倉重昌を敗死させたが、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられた。この時、四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士・陣佐左衛門に討ち取られたと伝えられる。

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島原-1 江東寺に眠る板倉重政

2018年11月21日 | 江戸時代

 松倉重政1574-1630は、筒井城主である筒井順慶の家臣・松倉重信の長男として生まれた。母は秦楽寺氏の娘。筒井定次が伊賀・上野城へ転封となると、父・松倉重信は伊賀名張に約8000石を与えられた。しかし、島左近が筒井定次と合わなく、大和・郡山城主となった豊臣秀長に仕えたのと同様に、子の松倉重政も大和に残った。1600年、関ヶ原の戦いの際に、松倉重政は単身で徳川家康の元に参じ、10000石の大名に取り立てられ大和の五条二見城主となった。現在の奈良県五條市では、松倉豊後守重政の官名から、名君「豊後様」として評価を受けている。1615年、豊臣秀頼との大坂夏の陣では、大和・郡山城を救援し、道明寺の戦いで後藤又兵衛と戦い、松倉重政は1616年、肥前・日野江藩4万3千石と抜擢され日野江城に入った。そして、築城の名手とされた松倉重政は、1618年に島原城を造営する。

 当初はキリシタンに寛容だった松倉重政であったが、1625年に、将軍・徳川家光からキリスト教弾圧が甘いと指摘され、松倉重政は徹底的な弾圧を開始する事となる。松倉重政はキリシタンの根拠地であるルソン攻撃の許可を幕府から取っており、さらなる戦費を領民に課したとされる。1630年11月16日、松倉重政は急死。あとを継いだのは、正室・筒井定慶の娘との間に、1597年誕生していた嫡男・松倉勝家である。 

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佐賀-4 佐賀城

2018年11月20日 | 江戸時代

 佐賀城は佐賀市の中心に位置し、佐賀神社の南側に隣接している。鍋島直正の像が象徴的で歴史館の周りには鍋島直正が開発したカノン砲やアームストロング砲が配置されている。平安時代末期に藤原季喜が龍造寺村の領主になって土着し、慶長期に鍋島氏が佐賀城を普請した。1569年、大友宗麟は大軍を投じて進攻するが、窮地に追い込まれた龍造寺軍の鍋島信正(後の鍋島直茂)は、夜襲により今山の陣で大友軍の総大将の大友親貞を討ち取った。直茂の城改修計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の1602年である。1874年、江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠され、建造物の大半を失った。鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。

 

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千利休遺構・不審庵

2018年10月16日 | 江戸時代

 千利休がもと京都大徳寺の門前に建てた茶室。不審庵は利休の次男の少庵,少庵の長男の宗旦,宗旦の3男の江岑 (こうしん) 宗左によって受継がれ,表千家を代表する茶室の席名となり,またその家元の庵号ともなっている。利休好みの草庵茶席の代表とされ,現在,本法寺前の表千家内にある。たびたび火災にあい,現存の不審庵は 1914年に再建されたもの。命名は利休の師,古渓の「不審花開今日春」の言葉からとったものと伝えられる。 

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日光東照宮-6 唐門

2018年08月03日 | 江戸時代

  陽明門を入った正面、東照宮の最も重要な本社への正門が唐門で、この門を潜るのは、正月や大祭など中祭以上の祭典の時だけだという。桁行3メートル・梁間2メートル弱の小さな建物ですが、彫刻の数は柱などに嵌め込まれた小さな花形の文様彫刻などを含めると611にも及び、柱などの軸部は、総てに地紋彫りが施されています。

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日光東照宮-5 左甚五郎の作・眠り猫と雀

2018年08月02日 | 江戸時代

 眠り猫は、奥宮に行く入口の日光東照宮回廊にある建築装飾彫刻作品で、伝説的彫刻職人・左甚五郎の作品と伝承されている。眠り猫は踏ん張っていることから、徳川家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。

↑ 眠り猫と雀 ↓

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日光東照宮-4 徳川家康公の墓所

2018年08月01日 | 江戸時代

 国宝であり、世界遺産である日光東照宮には江戸幕府の初代将軍、徳川家康公が祀られている。家康公の亡くなった翌年、徳川家康公の遺言に従い、勧請の総指揮にあたった南光坊天海はじめ家臣たちは、久能山から日光へ向けた盛大な「神霊遷し」を始めた。総指揮・南光坊天海が久能山に残した歌は、「あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」 南光坊天海が言うには、実際に勧請したかどうかは自分自身の口から言う必要はない、ということである。江戸時代は火葬ではなく土葬だったため分骨をすることはできないから、掘り起こしてしまったら、睨みを利かすという意味はなくなってしまうものではないのかと南光坊天海は考えたと言われている。

 江戸から離れた西日本は外様大名が多く、まだまだ戦乱の世が終わったが油断できなかったのか、駿府で徳川家康公の薨去が行われ側近たちに、4つの遺言を残した。遺骸は久能山に埋葬すること。葬式は江戸の増上寺で行うこと。位牌は徳川家の菩提寺である大樹寺に立てること。一周忌の後に、日光に小堂を建てて勧請すること。4つ目の「日光小堂」が日光東照宮である。 

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日光東照宮-3 国宝・陽明門

2018年07月31日 | 江戸時代

 2017年3月10日、50年ぶりの修復を終えてその光り輝く姿を見ることができました。創建は1617年、徳川家康、2代目将軍・徳川秀忠の発願によるものである。施行は甲良豊後守宗弘、総指揮は天海で、現在の日光東照宮の陽明門は、徳川家康公の21回忌にあたる1636年に徳川家光公によって造り替えされたものである。陽明門は508体の彫刻で埋め尽くされおり、中国の歴史上に存在した22人の著名人を含んでいる。

平安時代の武装した格好の随身像

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