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蘇我氏と渡来人・秦氏

2010年10月18日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我氏が栄華を誇った時代の忘れることができない渡来人に秦氏の存在がある。 秦氏は東漢氏と並ぶ二大勢力で、厩戸皇子の舎人を務めた秦河勝を代表とする氏族である。 秦氏は蘇我氏とは対立する存在であったとされる。 蘇我氏・東漢氏と厩戸皇子・秦氏の対立の構図である。 厩戸皇子の晩年は蘇我氏との対立から孤立していったことで、東漢氏と秦氏の対立の構図が云われるようであるが、確かではない。 厩戸皇子の遺児・山背大兄王が蘇我入鹿によって襲撃されたときに、秦氏がかけつけた記録はない。 また、乙巳の変で改新派を積極的に味方したという記録もない。 どうやら秦氏は政治の分野ではなく、殖産興業の分野で活躍した豪族とみたほうがよさそうである。 

 竹田皇子の病弱に拍車がかかったとなると、皇太子への期待は厩戸皇子に注がれるようになり、流石の豊御食炊屋姫も認めざるを得ない。 厩戸皇子の博識を諸豪族をはじめ蘇我馬子までもが認めるのであるから仕方がない。 この頃に蘇我馬子は政治の議の際には厩戸皇子の意見を求めるべく出席するように告げている。つまり本格的に厩戸皇子を認め、政治に参加させようというのである。厩戸皇子には信念があった。 伯父の崇峻大王が完全に馬子の傀儡大王になっているのを見ている厩戸皇子は自分の意見を政治に反映できる皇太子として政治に参加したかったのである。 馬子は厩戸皇子の意見を求めはするが決定権は絶対に譲らないと思われた。 つまり後々厩戸皇子と蘇我馬子が衝突するのは目に見えているのである。 これを心配した腹心の舎人・秦河勝は厩戸皇子の強大な後ろ盾が必要であると感じ、山背の実家に帰るまでに話をすすめようとする。

 蘇我馬子にとって頭があがらない人物といえば・・・豊御食炊屋姫である。 しかし基本的には厩戸皇子を快くは思っていない。異母妹の、厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女を嫌っているのである。 その豊御食炊屋姫をなんとかしなければならないと考えた秦河勝は、豊御食炊屋姫の長女・菟道貝鮹皇女を厩戸皇子の妃とすることを考え、境部臣摩理勢に話を持ちかけた。 境部臣摩理勢は馬子の同母弟であり、温厚な性格の持ち主であるだけに馬子の独裁的なやり方に疑問を持っている。 また、学を重んじていることから厩戸皇子に好感を抱いていた。次は厩戸皇子に好意を持つ豪族達との密接な繋がりである。物部守屋討伐の頃から厩戸皇子に特に好意を持つ豪族は膳臣加多夫古と 葛城臣烏那羅 である。 膳臣加多夫古は斑鳩一帯を本拠地としている安倍臣、巨勢臣に次ぐ力を持っており、末娘に十二歳の菩岐岐美郎女がいる。いずれ菩岐岐美郎女を妃にするべきだというのである。

 18歳になる年の正月、豊浦の大后に厩戸皇子が挨拶に行く意を伝えたのは境部臣摩理勢である。1月中旬に厩戸皇子は舎人を従え、豊浦に向かった。甘橿丘の北・豊浦には豊御食炊屋姫をはじめ竹田皇子、尾張皇子、稲目の邸宅を改築した馬子の別邸などがある。派手好きな豊御食炊屋姫には用明帝の遺品を贈ると母・穴穂部間人皇女の話になる。 母の再婚に対する嫉妬が伺える。父・用明を裏切るような感じを抱いていた厩戸皇子も話に乗った。 倭国で初めて、画期的とも言える「仏教を推奨する詔」を発した用明大王は優しい心ねの持ち主であり、そういう同母兄に豊御食炊屋姫は心を寄せていただけに、なおさらである。心の優しさを気が弱いと批判した豪族もいたが、この詔を発した父に、厩戸皇子は心の優しさとともに、毅然とした心の強さを感じていたのを知ると、豊御食炊屋姫の厩戸皇子への見方がかわったのである。 二人は用明を思慕し穴穂部間人皇女を批判することによって通じ合ったのである。

厩戸皇子の舎人・秦河勝ゆかりの広隆寺と秦氏の蛇塚古墳

 

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