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芥川龍之介の両国観

2010年10月03日 | 池波正太郎 江戸時代

 両国といえば大石内蔵助以下赤穂浪士47名が討ち入った吉良上野介の屋敷があり、鼠小僧眠る回向院があり、そして芥川龍之介の生誕の地でもあります。 今回は芥川龍之介がみる両国についての記事を紹介します。 大川に架かる両国橋近辺は当時も人々が集まる場所であった。

 

 両国の鉄橋は震災前と変らないといつても差支へない。唯鉄の欄干の一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形の鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や芦の茂つた中洲を眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立つてゐた乱杭である。昔の芝居は殺し場などに多田の薬師の石切場と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸を歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこに群がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川でも魚の釣れたことに多少の驚嘆を洩らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何と何だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人もそこに来てゐなかつた。その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人俯向けに浪に揺すられてゐた。……

 両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清事変の時には大平といふ広小路の絵草紙屋へ行き、石版刷の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団の匪徒や英吉利兵などは斃れてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張り日本兵も一人位は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾露西亜位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達する訣には行かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山の戦に鉄条網にかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年前の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣には行かなかつた。

 この表忠碑の後には確か両国劇場といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災前にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁を見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚ない亜鉛葺きのバラツクの外に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜を持つてゐないやうにこの煉瓦建の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止め橋もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼や二州楼といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外に鮨屋の与平、鰻屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食はせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあつた「坊主軍鶏」――かう一々数へ立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集つてゐたらしい。

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