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葛上郡今木双墓・水泥南古墳

2010年10月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡
 前に少しだけ触れた水泥古墳を早速訪れたので紹介です。  奈良の遷都1300年を記念して行われている大イベント・平城京跡地での遷都1300年祭で、大極殿内に安置されている玉座を見て、ゆっくりした後は 巨勢地へ向かいました。 いたるところに置かれた「巨勢の道」 の碑を目印に目指したのは「蘇我氏の双墓」 です。 ひとつは水泥北古墳、もうひとつは水泥南古墳といって双墓と呼ばれるだけに、二つの古墳が隣接して水泥古墳を構成しています。 実はこの古墳、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子の墓と云われているもので、水泥南古墳が蘇我入鹿の墓ということで、 久しぶりに興奮致しました。 その前に双墓についての日本書紀の記録は以下となっています。 

 皇極元年(642年というから乙巳の変の3年前) 蘇我蝦夷は、蘇我宗本家の象徴として、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞を奉納します。 つまり蘇我氏はいまや王家に相応するということを誇示するための奉納であったと思われます。 さらに全国から大勢の人夫を徴発、「今木」の地に自分と息子・入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼ばせたのです。 この造成に上宮の乳部の民(上宮の乳部の民とは亡き厩戸皇子の養育のために設けられた部民) を使ったことが発端となって、上宮王家の春米女王(厩戸皇子の娘)は 「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」 と非難した。 これに激怒した入鹿は後に山背大兄王一族を襲撃して、上宮家を滅ぼします。 そして、乙巳の変が勃発します。 皇極4年(645年)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせます。 邸宅の各門の警備にあたっていた渡来系の一族、東漢直駒らは一戦を交えようと軍装を整えるが、皇子側の説得工作により抵抗を断念し、翌13日、蝦夷は編纂中の天皇記、国記などの重要書類や財宝に火を放って死に、蘇我本宗家はあっけなく滅亡してしまいます。 その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬られたといいます。 このときに葬られたのが双墓というわけです。

 享保17年(1734)に書かれた大和志という書物には 「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」 とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから云われていたようです。 この水泥南古墳は直径約14m、高さ約5mの円墳で、全長15mほどの横穴式石室をもつ。 石室内の玄室(長さ4.6m 幅2.4m 高さ2.6m)に一つ、羨道に一つと、二つの石棺が納められていて、床面には礫が敷かれている。 礫床の下には排水溝が造られ、羨道部を通って石室外に出る。 発掘調査の結果、さらに南方向に伸びた後、東に曲がって谷の方向に続くことが判っている。  玄室に置かれた石棺は二上山の凝灰岩、羨道の石棺は加古川流域でとられた凝灰岩であるとのこと。 また、追葬されたと見られる羨道部の石棺は、蓋の縄掛け突起正面に直径30cm程の6弁の蓮華文が津き彫りにされている。 この石棺と蓮華文の取り合わせは、古墳文化と仏教文化の結合の例として著名である。 なお、石室は古い時期に盗掘にあっていて、古墳の主だった人物を推定する手掛かりとなるような遺物は、何一つ残されていなかったという。 (奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥時代の古墳」より抜粋)

                  「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」 から 蘇我入鹿の墓と伝わるが、不確かである。
                  この古墳ができた7世紀前半には巨勢氏の氏寺・巨勢寺も築かれ、遺構が見つかっています。
              巨勢寺、蓮華文、巨勢寺を築いた巨勢徳太の活動期間から、水泥南古墳の埋葬者は巨勢徳太との説もある。

  
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