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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

斎藤道三の人物像

2020年03月05日 | 戦国時代

 一介の油商人から戦国時代の象徴・美濃の国主となった斉藤道三の父は京都妙覚寺の法華宗僧侶で、美濃の侍となったときは西村と称し、美濃の有力者「長井家」に仕官、そこからさらに長井氏に紹介されて、その主人の「土岐頼芸」に仕える事となり、頼芸の側室を与えられます。しかし、彼の主人・土岐頼芸は、美濃の大名・土岐政頼とは不仲で、1527年、頼芸と共に夜襲、大名政頼を追放します。こうした急激な台頭に、長井氏も疎ましく思うと道三は長井家を乗っ取り、長井家の城 「稲葉山城」を居城とします。さらに「稲葉一徹」といった豪族を味方に引き入ます。そして、元々美濃の守護職にあった「斉藤家」を継いで 「斉藤氏」となる。道三は娘・帰蝶を土岐頼純に嫁がせると、その一年後には何故か土岐頼純死亡。次いで帰蝶を弟の土岐八郎に嫁がせると、何故か八郎は自害。道三は、土岐頼芸を孤立させたところで追放します。しかし、かつての美濃の大名「土岐家」は、美濃を取り戻そうと尾張の織田家に協力を要請、攻撃を仕かけて来ると、道三は、娘を織田家に嫁がせる事にします。相手は、尾張の風雲児「織田信長」です。斉藤道三は国内の土岐家の勢力や、土岐家に恩のあった家臣達を牽制するために、元 土岐頼芸の側室(深芳野)の妻の生んだ長男、「斉藤義龍」に家督を譲ります。義龍は土岐頼芸の子だという噂があり、道三はこれを利用して義龍に家督を譲る事で、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたのですが、その大人しい性格から、一度は義龍に家督を譲りましたが、後にそれを撤回、他の兄弟に国を継がせようとします。しかしそれが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでする事になり、そして義龍自身も、自分が道三によって廃されようとしているのを悟ります。1556年、斉藤義龍は他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、斉藤道三を襲い、62 才にて命を失いま。(長良川の戦い) その後、斉藤義龍は、美濃の支配を強化し続けますが、1561年、34 才で病没します。後を継いだ「斉藤龍興」は僅か14 才であり、1567 年、織田家の攻撃によって美濃・稲葉山城は占領され、斉藤家は滅亡することとなります。後に稲葉山城は岐阜城と名を改め天下布武を掲げた。そうした斉藤道三の娘で織田信長の正室となったのが濃姫である。


明智光継1468-1538明智長山城主 清和源氏の土岐氏支流                     
 ┣明智光綱1497-1535                     
 ┃   ┣明智光秀?-1582    
 ┃   ┃┣明智光春室    
 ┃   ┃┣明智光忠室    
 ┃   ┃┣珠(細川ガラシャ)1563-1600 丹後幽閉@1582
 ┃   ┃┃ ┣細川忠隆1580-1646  
 ┃   ┃┃ ┣細川興秋1583-1615 
 ┃   ┃┃ ┣細川忠利1586-1641
 ┃   ┃┃細川忠興1563-1646 縁@1584
 ┃   ┃┣織田信澄室    
 ┃   ┃妻木煕子?-1576    
 ┃お牧の方    
 ┃藤田伝五(明智重臣)?-1582    
 ┃    
 ┣明智光安1500-1556                     
 ┗小見の方(正妻)1513-1551                     
     ┣濃姫1535-1612帰蝶 信長との縁組は和睦の証    

     ┃   ┣信忠(養子)   
     ┃ ┏織田信長1534-1582    
     ┃織田信秀1511-1552 ⇔ 格上の今川氏    
     ┣斉藤孫四郎?-1555 義龍に殺害    
     ┣斉藤喜平次?-1555 義龍に殺害    
    斉藤道三1494-1556   ⇔ 稲葉良通1515-1589(道三の家臣)                    

     ┃利政         ┣稲葉貞通  正室:斎藤道三娘   
     ┃岐阜常在寺で出家   ┣稲葉典通  正室:丹羽長秀娘                        
     ┃           ┗稲葉一通  正室:細川忠興娘・多羅     
     ┃                                         
     ┃長井家に仕官    ⇔ 織田信秀1515-1589(道三の家臣)                    
     ┃土岐家に仕官          ┣お市1547-1583   
     ┃                     ┣信長1534-1582(本能寺の変1582で、重臣・明智光秀に討たれる)   
      ┃                     土田御前?-1594   
    ┣斉藤義龍1527-1561(土岐頼芸の子とも言われている)1554家督相続〇⇔✖道三1556長良川の戦い           

    ┃ ┗斉藤龍興1548-1573               
   深芳野(側室)?-? ┏土岐頼芸1502-1582の愛妾、稲葉通則の娘、稲葉良通の姉 朝倉孝景急死に伴い美濃追放1548             
          ┃  ↕            
          ┗土岐頼武(政頼)?-?⇔斉藤道三                     

            ┣土岐頼純1524-1547                     
           朝倉貞景・娘 ┣                                      

               帰蝶(濃姫・北の方)1535-1612              
                  ┣                                      
               土岐八郎(自害)

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真田幸村最期の天王寺口の戦いの地

2020年01月13日 | 戦国時代

 大阪城の南約3.5キロ、一心寺の南側に隣接してある茶臼山古墳、ここは「真田幸村最期の天王寺口の戦いの地」なのである。 以下は朝日新聞の記事より抜粋。
 1615年5月7日、大坂夏の陣。すでに豊臣方の敗色は濃厚のなか、安居神社の南の茶臼山に陣取った幸村は、さらに南の徳川家康本陣を激しい突撃で混乱に陥れ、あと一歩まで追いつめる。だが、家康方の増援に阻まれ、ついには退却を余儀なくされる。そして安居神社で腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られた。後の越前藩の「首帳」で確認できる。しかし、今日の幸村の人気は何と言ってもその後の講談や軍記物語による。講談「難波戦記」では、幸村も主君の豊臣秀頼も夏の陣で死なずに薩摩に逃げ延びるし、大坂で口伝えされた別の講談にいたっては家康が倒されてしまう。明治から大正には、忍者猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」が活躍する立川文庫が大ヒットする。「講談の世界での人気は3本の指に入る主人公です」というのは講談師の旭堂南海さん。計略を駆使する冷静な軍師として語られるから、主役だがあまり張り扇をパンパンたたかない。負けるのが分かって豊臣方について忠義を尽くしたところが、大阪人の判官びいきの心をくすぐる。「弱かった時の阪神タイガースが好きなのと一緒」と南海さん。同じ豊臣方の石田三成が人望のない陰謀家で、その人望のなさが敗因として語られるのとは対照的だ。 幸村人気は江戸を首都にした家康のアンチテーゼでもある。南海さんの師匠、故・3代目旭堂南陵さんは、大阪の衰退も阪神が弱いのも全部家康のせいにしてしまう「家康をののしる会」を開いて評判になった。 大阪城で月1度ごみ拾いをしているNPO法人大阪城甲冑隊は、鎧から兜まで赤で統一した幸村の「赤備え」を身につける。03年から大阪城天守閣で開かれるボール紙で甲冑を作る教室の修了者が、「多くの戦死者の上にごみが落ちているのが許せない」と始めた。甲冑隊の理事長を務める河井計実(かずみ)さん(47)は、衣装を赤備えにした理由を、「幸村は自分ができることをきちんと貫いた人。みんなが共感できる。大阪城と言えば真田と自然に決まった」と話す。 安居神社は毎年5月、幸村の慰霊をしている。近年の戦国武将ブームで参拝者が増えたこともあり、今冬には幸村の銅像を建てる。兜を脱ぎ、刀を置いて座る最期の姿。覚悟を決め、家族や豊臣家に思いをはせているという。
 大阪人は太閤さん好きと言われますが、それに劣らず人気があるのが豊臣方の武将、真田幸村です。大阪では徳川家康は、秀吉が築いた天下をかすめ取り、武士を頂点とする身分社会を作った悪玉として嫌われ者。幸村はその家康を苦しめました。大坂夏の陣の前に、故郷・信州にいた姉の夫に出した幸村最後の手紙を、大阪城天守閣で展示したことがあります。武張ったところがなく、小さい頃から修練を積んだ達筆で、落ち着いた知性が感じられた。「定めなき浮世なので一日先のこともわかりません。私などはこの世にあるとはお思いなされますな」という内容が書かれ、死を覚悟していることが分かります。それでも豊臣に忠義を尽くした。そこが共感を呼びます。冬の陣では優れた作戦で徳川方を悩ませ、夏の陣では最後まであきらめず可能性に賭けて家康の首を狙い、敵に「日本一の兵(つわもの)」とたたえられた。ただ滅びるのではなく、一矢を報い、豊臣という一時代の終わりに花を添えました。

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赤松円心の居城・白旗城

2019年05月09日 | 戦国時代

 赤松円心(則村)は、南北朝時代の播磨守護大名で、家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主である。北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家 の属する村上源氏の末裔を自称することを許可された説があるが、定かではない。赤松本城・白旗城は兵庫県赤穂郡白旗山にある赤松三城のひとつである。

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千早城の戦いの勝者は楠木正成

2019年05月09日 | 戦国時代

 元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これに耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。 

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楠木正成の生誕地

2019年05月09日 | 戦国時代

太平記には、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあることから、この地を生誕地としたのだろう。

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九度山に幽閉された真田一族

2019年05月09日 | 戦国時代

 1600年の関ケ原の戦いでは真田信繁と父・真田昌幸は西軍に、真田信繁の兄・真田信之は東軍、徳川家康側についた。結果、家康軍が圧勝し、真田家は改易。真田信繁と父・真田昌幸は高野山のふもとの九度山に幽閉された。それから十五年後、大坂の陣では徳川家康が豊臣家の滅亡を図って大阪城に攻め入った。この時真田信繁(幸村)は豊臣側について、鉄壁の真田丸を築いて徳川に対抗したことで一気に名声を世に轟かせたのであるが、関ケ原の勝者となった兄の真田信之は、いささか影が薄い。大坂の陣では中風を患って参戦せず、代わりに一族の真田信吉、信政が出陣したのである。真田信之は晩年自らを大鋒院と称して長野県松代町で過ごしたが、川中島の古戦場跡や山本勘助の墓などのすぐ近くの大鋒寺では真田信之の菩提を弔っている。 真田信之は真田家をいかに存続させていくかということに人生を費やしたといえる。

真田庵は、真田昌幸、真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺

真田古墳(真田の抜け穴)

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松丸殿、秀頼の子・国松丸の五輪塔

2019年04月23日 | 戦国時代

 松丸殿とは、豊臣秀吉の側室・京極殿のことで、京極高次の妹で名は龍子である。武田元明室であったが、夫が山崎の戦後、秀吉に殺されたことで、秀吉の側室となった。1594年大坂城西丸に住み、西丸殿、伏見城に移ってからは松丸殿と呼ばれた。秀吉の寵愛を受け淀殿に次ぐ権勢を誇った。秀吉死後は兄高次のもとで生活し、関ヶ原の戦以後は京に住んだ。

 豊臣国松1608 - 1615は、豊臣秀頼の庶子。母は秀頼の側室の伊茶で、妹に天秀尼がいる。生後すぐに若狭京極家に預けられた後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。大坂夏の陣のおり、国松は秀頼と5月8日に盃を交わし、田中六郎左衛門(京極家)・乳母と共に城を落ち延びた。しかし、徳川方の捜索により国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で斬首。享年8。墓所は京都市中京区の誓願寺にあったが、後に東山区の豊国廟に移された。

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阿弥陀ヶ峰・豊国廟

2019年04月23日 | 戦国時代

 豊国神社の西側、京都女子大学の隣に豊国廟と言って豊臣秀吉の墓所がある。豊臣秀吉の死後間も無く作られた豊国廟は、阿弥陀ヶ峰の中腹に位置する。豊臣秀吉の死後に徳川家康に破壊され、300年ほど放置されていたという。豊国廟は、拝殿から563段の石段を登ったところ、墓所には大きな石塔がある。

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細川ガラシャ

2019年04月09日 | 戦国時代

 ここは細川忠興の屋敷跡、そして忠興の妻・細川玉子の殉節の地である。細川玉子の父は織田信長を討った明智光秀である。討つと同時に玉子は逆臣の娘となり不遇の人生を背負うこととなる。この時19才、二人の子とともに丹後の味土野に幽閉される。信長の死後は秀吉の計らいもあって忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。その地が大阪城の南隣のここである。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話に心惹かれていく。1587年頃にガラシャという洗礼名を受けたが、やがて秀吉はバテレン追放令を発布。夫である忠興は受洗を棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった。1600年7月、忠興は徳川家康に従い上杉征伐に出陣する。この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、屋敷に火をつけて自刃した。

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真田家存亡の危機から救った真田信之

2019年02月10日 | 戦国時代

 1600年の関ケ原の戦いでは真田信繁と父・真田昌幸は西軍に、真田信繁の兄・真田信之は東軍、徳川家康側についた。結果、家康軍が圧勝し、真田家は改易。真田信繁と父・真田昌幸は高野山のふもとの九度山に幽閉された。それから十五年後、大坂の陣では徳川家康が豊臣家の滅亡を図って大阪城に攻め入った。この時真田信繁(幸村)は豊臣側について、鉄壁の真田丸を築いて徳川に対抗したことで一気に名声を世に轟かせたのであるが、関ケ原の勝者となった兄の真田信之は、いささか影が薄い。大坂の陣では中風を患って参戦せず、代わりに一族の真田信吉、信政が出陣したのである。

 真田信之は晩年自らを大鋒院と称して長野県松代町で過ごしたが、川中島の古戦場跡や山本勘助の墓などのすぐ近くの大鋒寺では真田信之の菩提を弔っている。 真田信之は真田家をいかに存続させていくかということに人生を費やしたといえる。

大鋒院、長野県松代町は川中島の古戦場跡のすぐ近く

 1600年7月、豊臣家に反旗を翻した上杉家の征伐の途中で真田一族に石田三成から密書が届いた。家康不在の隙を突いて三成が反徳川の兵をあげたという。ついては三成の西軍につくように依頼する内容であった。真田一族は三成、家康のどちらに就くかを迫られた。信之の正妻は家康の重臣・本田忠勝の娘であり、弟信繁の正妻は西軍の首謀者・大谷吉継の娘である。昌幸は西軍に就くことを表し、弟・信繁も賛同した。しかし信之は異を唱え東軍家康側についた。関ケ原の戦いはわずか一日で東軍の勝利となり、父・昌幸、弟・信繁は敗者となった。勝者となった信之は約10万石の大名となり、敗者となった昌幸(第二次上田合戦では秀忠は昌幸に足止めをくらった)には徳川秀忠が怒りを表し処刑すべしとした。しかし真田信之は徳川家に命懸けの嘆願を行い処刑は免れている。かくして父と兄は罪を減じられて九度山に幽閉となったのである。

信繁の正妻は西軍の首謀者・大谷吉継の娘

 以降真田信之は江戸幕府を支えていくこととなる。しかし信之の大名としての領国経営は浅間山噴火、江戸幕府普請、父・弟の幽閉性格をさせるなど困難を極める中、1611年に幕府から赦免されることなく父昌幸は幽閉先で亡くなった。江戸幕府開府した家康にとって豊臣家の排除は必要。かくして1614年方広寺正鐘銘事件が起こり大坂冬の陣に突入した。九度山から呼び戻された信繁は信濃一国を与えるといった信之の説得にもかかわらず1614年10月大阪城に入城した。大阪城に集まった浪人は10万人、対する幕府軍は20万で大阪城を包囲、大坂冬の陣が始まったのである。幕府に許可を得た信之は真田信吉、信政に従軍させている。ここで信繁は徳川の大軍勢を破る。これは真田丸によるものと考えられている。

真田丸ゆかりの地

 しかし大砲による集中砲火によって豊臣方は動揺し、1614年12月一時的な講和が成立。講和から半年後、真田丸は撤去、外堀は埋められ大坂夏の陣が始まると、家康の本陣を目指した信繁は壮絶な死を遂げた。弟の名声が高まる中、信之には嫌疑がかけられたが、将軍秀忠は信之の忠義を認めたという。かろうじて真田家の存続は保たれたのである。しかしながら実際には徳川を裏切って信繁の加勢をしたものが信之の配下には居たという。それらは家族とともにことごとく京都に送られて処刑された。信之はかくして真田の家名を守るために、幕府からの疑念を振り払っていたのである。

真田信繁の子・真田幸昌は秀頼の切腹に殉じた

 

真田弾正忠幸隆 1513-1574(武田二十四将)     
  ┣真田信綱1537-1575(武田二十四将 長篠合戦で戦死)  
  ┣真田昌輝1543-1575(武田二十四将 長篠合戦で戦死)
  ┣真田信尹1547-1632(分家である旗本真田家を興した) 
 ┃山手殿?-1613 
  ┃  ┣真田信之1566-1658(信濃上田藩の初代藩主)  
  ┃  ┃ ┣真田信吉1595-1635(清音院殿?-1619(真田信綱の娘)大坂の陣で敗走)      
  ┃  ┃ ┣真田信政1597-1658(大坂の陣で敗走 信濃松代藩の第2代藩主)
  ┃  ┃ ┣真田信重1599-1648
  
┃  ┃本多忠勝の娘・小松姫1573-1620 
      

  ┃  ┃
  
┃  ┣真田信繁1567-1615(大坂夏の陣で戦死) 

  ┃  ┃ ┣ 真田幸昌1600-1615(秀頼の切腹に殉ずる)     
  ┃  ┃竹林院?-1649(側室 大谷吉継の娘) 
      
  ┃  ┃
  ┃  ┃
  
┃  ┣村松殿1565-1630 
      
  ┣真田昌幸1547-1611(九度山幽閉中に没す)

  ┃  ┣真田信勝 ?-1609(母は不詳)
  ┃  ┗真田昌親1583-1632(母は不詳 関ケ原では信之側の東軍)
  ┃  
河原隆正の妹・恭雲院?-?

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松永弾正久秀

2019年02月07日 | 戦国時代

 室町幕府の権威は地に落ち、暗殺や裏切りが横行していたこの時代、最大の悪人と言われた男が松永弾正久秀である。時の将軍・足利義輝を殺害し、奈良東大寺大仏殿を焼き払い、織田信長に対する二度の謀反があった。一方で久秀は茶人としても知られ平蜘蛛釜などの最高級の茶器を所有していた教養人でもあった。晩年には織田信長に仕えた松永久秀1510-1577は、京から阿波にかけて勢力を誇った大名・三好氏の家臣であった。出自は極めて不明で、三好家の京都駐在の家臣として歴史に登場したときには壮年を迎えていた。天分九年33歳のときである。応仁の乱から70年経った頃であるが、今日の都はいまだに混乱のさなかにあった。この頃幕府の権威は失墜しており実権を握っていたのは管領・細川氏の家臣・三好長慶で、摂津一帯を治めていた。1550年三好長慶は将軍足利義輝を攻めて都から追放し畿内一円を支配していった。これは三好政権ともいうべき画期的なものであった。追放した将軍を孤立化させ、畿内の武士たちに手紙を送って三好政権を認めさせていったのも松永久秀である。主君・三好長慶の右筆から次第に頭角を現し、三好家の外交を担い、最終的には信貴山城を預けられて大和侵攻の先駆を務めるようになった。永禄3年朝廷より弾正少弼に任命された。そして足利家と同じ桐の紋の使用を許された。その知力と手腕によって家臣であるにもかかわらず、将軍と三好殿を掌握し、異例の大出世を遂げた。

 1559年久秀は長慶の命により大和へ兵を進めた。大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、実はこの故事は真実ではないらしい。順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。一方、久秀は順慶を大和から追い出して、東大寺や興福寺を見下ろすことができる漆喰で固められた四階櫓の多聞城を築くと実質的な領主となった。寺社の時代は終わり、武士の時代が始まったことを奈良の民に見せつけたのである。城内にある茶室では千利休を迎えて茶会が催され、茶入付藻茄子が使われている。

 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。長い間実権を三好長慶に奪われていた足利義輝は、三好一族の怪死に乗じて実権を取り戻そうと図った。不穏な空気が漂う中、先手を打ったのは三好側であった。1565年5月、三好、松永ら(三好長慶の甥と松永久秀の息子)はおよそ1万の大軍を率いて将軍御所を攻めて義輝を暗殺した。ところが三好家の中で内紛が勃発する。1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍勢を率いて大和に侵攻、興福寺や東大寺に陣を構えて久秀と対峙した。半年後久秀はこれを打ち破るが、このとき大仏殿は全焼している。

 この年、後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策していたが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。それが織田信長である。1568年、義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏。これによって宿敵筒井順慶に奪われた城を、信長の援軍を得て奪還している。久秀は信長との同盟によって大和の支配をさらに強固なものにしていく。ところがこの3年度久秀の大和支配を脅かす事態が起こった。織田信長とは友好関係にあった足利義昭(以前は興福寺の一条院門跡であった)は、娘をが久秀の宿敵筒井順慶に嫁がせ姻戚関係を結んだのである。さらに順慶は信長の家臣になることを認められた。怒った久秀は筒井順慶の家臣を攻撃したが、これは信長に対する反逆でもあった。久秀が信長軍と小競り合いをしていた、こうしたとき甲斐の武田信玄は信長打倒に乗り出した。信玄軍は三方が原で徳川織田連合軍と激突すると大勝利を収めた。喜んだのは久秀、時を同じくして将軍義昭も信長に反旗を翻した。窮地に陥った信長は信玄の上洛を待つのみだったが、信玄は都に現れることはなかった。病死していたのである。勢いを取り戻した信長は将軍義昭を追放し、久秀の多聞城を取り囲んだ。厳しい降伏条件に屈したことで久秀の大和支配は終わった。

 その後大和の支配を任されたのは筒井順慶、多聞城の解体を久秀の息子に命令した。その4年後、久秀に再びチャンスがやってきた。足利義昭の呼びかけにより大阪本願寺、上杉、武田、毛利、宇喜多など各地の大名が妥当信長のために立ち上がった。このとき久秀は織田軍の一武将として本願寺攻めの最前線にいた。かくして久秀は謀反の方向に進み、信貴山城に立てこもる。上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず撤退、武田も徳川家康と国境で攻めあって進めず、久秀は大和で孤立するのである。このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は謀反の真意を聞こうと使者を送るが、久秀は会おうともしなかった。信長は大軍で信貴山城を包囲して攻撃した。挙兵から一か月半後の1577年10月10日、久秀は天守閣に火を放って自害した。

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暗愚とまで言われた武田勝頼

2019年01月20日 | 戦国時代

 1573年4月武田信玄亡き後、名門武田家を継いだ勝頼は長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫して7年後の2582年には武田家滅亡となったことから暗愚の武将とも呼ばれた。果たしてそうか?普通は長篠の戦により武田家は滅亡してもおかしくはないが7年もの間、織田や徳川の領地に攻勢をかけて領地を過去最大にまで拡張している。

 信玄の四男として生まれた勝頼の母は諏訪明神の祀りを司る諏訪家の娘である。勝頼は最初諏訪家を相続して諏訪勝頼と名乗っていた。従って武田家代々から続く信の字が入っていないのでそのためである。諏訪家を継いだ勝頼には武田家を継ぐ権利はない。しかし嫡男・義信は謀反の企てが発覚し自刃。次男信親は体が悪く、三男信之は夭折している。武田家の家督を継ぐのは勝頼しか居なかったのである。信玄の遺言によると、勝頼16歳までは陣代を申し付けると。つまり勝頼は幼い信勝が成人するまでの中継ぎに過ぎないのである。諏訪家の人間が武田家を継ぐということに大変な抵抗感が譜代、一門衆の中にあったと思われる。1575年勝頼は織田・徳川連合軍に戦いを仕掛けた。長篠の戦である。戦国最強の武田軍の猛攻に対して3000丁と云われる鉄砲で応戦した連合軍はわずか半日で武田軍に勝利し、武田軍は数多くの重臣が討ち死にした。

 武田24武将のうち8武将を失った勝頼は、武田軍再編成に奔走し2万の軍を作り上げた。また上杉謙信との和睦や毛利、北条と手を結ぶことにより新たな信長包囲網を築こうとした。さらに勝頼は本拠地を躑躅が崎から新府城へ移した。巨大な馬出や出構を備え、城の出入り口を防護する武田流築城の代表的な工夫である。1578年勝頼にとって思わぬ事態が発生した。それは上杉謙信の死去である。謙信亡き後上杉家では家督争いが激化した。(御館の乱)上杉の同盟者・北条氏政は景虎を支持し、勝頼は景勝を支持した。家督争いは勝頼が支持した景勝が勝利し、これにより武田の領地は信玄時代を超える最大のものとなる。しかしこれにより北条との関係は悪化。北条は家康と同盟を結び、武田は三方に敵を抱えることとなる。1582年2月に信州木曽義政が織田と内通し、さらに信玄の姉を母に、娘を正室にもつ重臣・穴山梅雪も徳川に寝返った。勝頼は新府城で軍議を開いた。信勝は新府城での籠城を主張し、譜代衆家老の小山田信茂は岩殿城での決戦を進言し、真田正幸は岩櫃城での決戦を提案した。

 武田勝頼は小山田信茂が勧める岩殿城での決戦を決めたが、新府城を出立したとき500人いた兵たちは途中で逃亡しなんと41人になったという。また、岩殿を勧めた小山田信茂が織田に寝返ったのである。行き場を無くした勝頼一行は織田軍に囲まれた末に勝頼は自刃。享年37歳であった。鎌倉依頼続いた名門武田家はここに滅亡したのである。そしてその三か月後の1582年6月には本能寺の変で織田信長・信忠親子が死んだことで日本の天下統一は極めて速い速度で進むこととなる。

武田信虎・武田信玄らが館を構えた館、「躑躅ヶ崎館」

勝頼公の廟所・景徳院 左から武田信勝、武田勝頼、北条夫人の墓

武田信虎1494-1574     
  ┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 ⇔信玄に攻められ)  
  ┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
  ┃  ┣武田勝頼1546-1582 
  ┃  ┃ ┣信勝1567-1582 
  ┃  ┃信長養女(北条夫人) 
  ┣武田信玄1521-1573
  ┃  ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
  ┃  ┃ ┣
  ┃  ┃┏今川義元1519-1560娘
  ┃  ┃┗今川氏真1538-1615
  ┃  ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
  ┃  ┣海野信親1541-1582(龍宝)
  ┃  ┣信之1543-1553 
  ┃  ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
  ┃  ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
  ┃  ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
  ┃  ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
  ┃  ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
  ┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
  ┃┗如春院(顕如室) 
  ┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)  
  ┣武田信廉1532-1582(画才有)
  ┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘)
  ┣河窪信実-1575
  ┣一条信龍1539-1582()
  ┣武田信友-1582(母:内藤氏)
大井の方1497-1552大井氏(⇔本拠地:佐久郡)

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北条氏初代・北条早雲

2018年12月26日 | 戦国時代

 初めて戦国大名になったとされる北条早雲、500年前小田原を攻め取り5代に渡って拠点とした様子が記載されているのが北条五代記といって小田原城に残されている。家臣が記した軍記物語である。元々は浪人、初陣は56歳といわれていたが、これはあやまりで32歳のようである。最近の研究では浪人ではなく、幕臣であったと考えられる。早雲の元々の名は伊勢新九郎。伊勢氏は鎌倉幕府以来の名門で室町幕府では財政をつかさどる政所のトップを代々務めた。伊勢新九郎盛時の名が将軍側近の要職申し次衆として記されている。これは守護と将軍の仲立ちをするような要職である。

 元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。

 この頃、管領・細川政元が足利義澄を立てて河内にいた将軍義稙を追放すると宣言し、1493年4月にクーデターを起こした。そして足利義澄を新将軍として擁立した。義澄にとって茶々丸は母と弟を殺した敵である。かくして早雲は隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。早雲はこの決断をきっかけに出家し、伊勢新九郎盛時あらため早雲庵宗瑞となった。伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていた。先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。早雲は今川氏親からも兵を借りて総勢500の軍勢で挙兵し、興国寺城を出撃すると堀越御所の茶々丸を奇襲攻めて追放したのである。一見容易く追放し滅ぼしたようにも見えるが、茶々丸追討に5年もの歳月を要したという説もある。この時早雲が恐れていた上杉の援軍は来なかった。この頃上杉家は山内上杉家と扇谷上杉家とに分裂し勢力争いを繰り広げていた。早雲は扇谷上杉家と同盟を結び、茶々丸支持派だった山内上杉家の動きを封じ込めていたのである。こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。

 早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、上杉氏の一族である当主・三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。三浦同寸は相模を拠点に太平洋の海運を取りしきっていた。大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。1513年早雲58歳の時、新井城に籠城する同寸を包囲するがなんせ難攻不落である。おりしも八丈島の代官が三浦半島に来ると聞きつけ、生け捕りにすると、早雲は代官の弟を説得し、代官を寝返らせることに成功した。八丈島との繋がりを絶たれた同寸は次第に勢いをなくし、やがて1516年早雲は同寸を滅ぼし、八丈島を支配下に置いた。この時早雲61歳であったという。八丈島では桑が群生し、蚕の要職が盛んであり、絹織物が発達した。絹織物の長さが八丈であったことから、八丈島の名が残っているという。三浦氏滅亡の3年後の1519年8月に早雲はその生涯を閉じた。後に早雲の曾孫の氏政は江戸に新たな宿場町を置き街道を整備し、世田谷を自由に商いができる楽市とした。そして現在の「ボロ市」に続くという。これらをうまく引き継いだのが徳川家康であり、徳川300年の礎になったのである。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352   
┗足利尊氏1305-1358 
  ┃┣義詮1330-1367                            ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                        関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷          享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425                    ↑  ↓
 ┃┃┃┃日野栄子 武者小路隆光        三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃     ┣━━━━ 娘        関東公方足利持氏 小笠原元長娘,政清娘(南陽院殿) 不要な人物は居ない  
 ┃┃┃┃     ┗円満院  ┣細川澄之              ┣北条氏綱1487-1541(蒜山城主→小田原城主) 勝って兜の緒を締めよ
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┣北条氏康1515-1571 臆病者→算術、兵法→合理的精神 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┃       小沢原戦で初陣勝利 税一本化
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┃       河越夜戦→北条氏の時代へ
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┣北条氏政1538-1590 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┃ ┗北条氏直1562-1591 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┃ ┗上杉景虎1554-1579 
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃ ┣北条為昌1520-1542
 ┃┃┃┃      ┃    ┃                                 ┃養珠院宗栄
 ┃┃┃┃      ┣潤童子 九条政基      伊勢盛定?-?   ┣北条氏時?-1531(初代玉縄城主)
 ┃┃┃┃斉藤氏   ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸 ⇔ ┣北条早雲1456-1519    
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方     ┣北川殿?-1529  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐   ┏貞国娘 ┣竜王丸(今川氏親1471-1526)⇔┏小鹿範満(母は上杉氏、今川忠義の従兄弟) 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┗貞親 今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃                
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443         満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏  管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児           ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459          ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489           ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496      ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣   ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人          山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)      
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元   満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院        管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局           畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413           ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                            ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418    
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)   
 ┃┃┃┃┃ 日野康子  
 ┃┃┃┃┃ ┣-      
 ┃┃┣義満1358-1408    
 ┃┃┃   ┣女子  
 ┃┃┣満詮 日野業子     
 ┃┃紀良子                        
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院)                 
 ┃┣基氏1340-1367                  
 ┃赤橋登子             
  ┣直冬1327-1400             
 越前局

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盛岡-4 奥国最北・最大級の古代城柵・志波城跡

2018年10月09日 | 戦国時代

 今から約1200年前の平安時代に,桓武天皇の命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂によって造営された古代陸奥国最北・最大級の古代城柵が「志波城」である。盛岡駅から南西に約8kmのところにあり、現在では跡地は発掘調査後に整備されて歴史公園となっている。

 城柵とは、奈良時代から平安時代にかけて、エミシ(蝦夷)と呼ばれていた東北地方の人々を朝廷が統治するために設置された役所である。志波城は、古代陸奥国最北端・最大級の城柵として、坂上田村麻呂により,803年に造営された。しかし造営後約10年で,雫石川の水害を理由にその役割を徳丹城に移したという。盛岡周辺の雫石川流域は、「末期古墳」が集中することからエミシの一大拠点であったと考えられるが、792年に斯波(志波)のエミシ首長,阿奴志己(アヌシコ)は、蝦夷の族長の中でも武闘派として、他の族長からも一目置かれている存在であった。阿弖流為の勇猛に信を置き、朝廷からの志波討伐に対する憎悪はさらに強いものとなったであろうが、朝廷に帰属を願い出るという記録が残っていることから、ついには朝廷側と通じたようである。志波城跡は、北上川と雫石川の合流点付近に広がる平坦地にあり,南の胆沢方面と西の出羽国秋田方面へ通じる交通の要衝であった。志波城跡の北辺は雫石川に近接していたようで水害により削られているが,城内北部には小河川が入り込んでおり,水運が重視されていたと考えられる。

 

今回の東北旅行で宿にしたのが偶然にも雫石の蛍宿温泉。

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盛岡-3 光台寺 源秀院殿墓所

2018年10月09日 | 戦国時代

 大泉寺から直線距離で200mほど離れた場所に光台寺があり、その敷地の中に『源秀院殿墓所』がある。これは「ムカデ姫の墓」と称される。ムカデ姫こと於武の方は、戦国武将・蒲生氏郷の養女にして盛岡の街と城を普請した盛岡藩二代目当主・南部利直公の正室である。ムカデ姫に関する奇妙な伝説は以下。

 於武の方は、利直公のもとに嫁いで来る際、先祖である藤原秀郷がムカデ退治に使ったと言われる矢の鏃を持って輿入れしてきました。数十年後、於武の方が亡くなった時、その遺体にはまるでムカデが這いまわったような不気味なアザが浮き出てきたといいます。 「於武の方が持ってきた、鏃の中に籠ったムカデの怨念にちがいない」と人々は恐怖に慄きました。この奇怪な出来事に利直公は、ムカデは水を嫌う事から堀をめぐらした土手を作り、その上に石垣で囲まれた墓を建立するよう命じました。ところが、堀にかこまれた墓地に見事な橋が架けられ、 殿様の渡り初めを待つばかりとなったある日、たった一夜のうちに橋が壊され大騒ぎとなります。 その後も何度か橋を架けなおしますが、その度にムカデが出てきては橋を壊してしまったのだそうです。墓には大小のムカデが無数にわき出し、また、於武の方の髪の毛も片目の蛇となって石垣の間から出て這い回るようになりました。 墓守は石の間に鉛を流し込んでそれを防いだともいわれています。人々は「これらの出来事は矢の根石(鏃のこと)にまつわるムカデの怨霊のせいだ」と噂し、いつしか於武の方をムカデ姫、 墓地を「ムカデ姫の墓」と呼ぶようになりました。しかし、時の光台寺の住職が一体の仏像を刻んで墓前に置き供養した所、祟りはようやく収まったといいます。

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