うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

貴の美 俗の美

2022年12月05日 | ことばを巡る色色
美を見る目のほとんどを決めるのは出自であり、成育歴である。それは不都合ながら、差別ではなく真実であろう。お育ちのよくない方の美はお育ちのよくない美である。残念ながら、いろいろを見るたびにそう思う。伊東忠太が築地本願寺を設計することとなったのも、貴族的お育ちの、あの大谷探検隊の方であったし、武相荘もやはり野に有って貴族的である。せめて親の代からのお大尽でなければ養われぬ、判ずる目がある。聞こえぬ音がある、見えぬ色がある。強靭な精神力を持ってせねば、育ちに養われた感覚の+-の軸を動かすことは難しい。世襲を悪しき旧習とする人もいるが、子のうち曝されねば手にできぬものはあるのだ。それは血のつながりということではない。この国の今までを見ても、血のつながらぬものに跡を継がせるということは今の私たちが思うほど避けられてきたわけではない。ただ、場で育つことは重要であろう。
身体は伝えねばならぬものの器となり、それは環境の中で濃縮され、継承される。生き物は揺れながら伝えるべきものを容れて、よきものを残そうとする器であるのだ。
美とは、人が持つ「これが美であろう」というイメージであり、その人はその人の「これが美である」というイメージの中で美に囚われる。貴族は貴族の、武士は武士の、芸能民は芸能民の、商人は商人の、己の美のイメージの中で美を見るのだ。だから、「これは美しいね」と言ったが最後、裸の自分の美を人前で露呈する恥ずかしい行いをしてしまっているのだ。その曝されたものに上下優劣は勿論ないのだけれど、ああ、あなたはそういう人なのねとわからせてしまうのだ。
しかし、それが己の独りよがりの美であっても、人は美なくして生きていけない。自分を露にしながら己の美を守り、イメージし、喰らいながらしか生きていけない、って、恥ずかしくって悲しくって美しいことだな。
そして、私は挫けないから美しいものが好きだ。
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