人は何を胡散臭いと思うんだろう。私は、晴天白日の下、真っ白というのを見ると胡散臭いと思ってしまう屈折した人間だ。「正しい」というところに何の疑いもなさそうな物を、何の疑いもなく賞賛できるほうが、人間としてはかわいらしいのだろうけれど、どうも素直にYESと言えない。言ってはいけない気がしてしまう。何も人生の中で極悪な人に騙されたわけではないし、石を投げられるような目にあったわけでもない。苛めるよりはむしろ苛める側だったろうし、底辺で喘ぐ人であったわけでもない。でも、申し訳ないけれど、あまりに正しそうなものには警告ランプが灯ってしまう。完璧に正しい物なんて世の中にあるのだろうかという気持ちがあるということだ。人間は完璧に正しくあれるのだろうか。完璧な美しい心を持てるのだろうか、ということだ。私は心の中でそれに、否、と言い続けている。正しい物の裏には必ず、それに傷つけられる物、それにより損なわれる物があると私には思えてしまう。全き正しき物は、それを黙殺していないのかと私には思えてしまう。明るく眩しい太陽のように、正しいものには目が眩む。目を眩ませる。暗いものを見えなくする。青空の下で笑いながら歩く家族。子は親の腕に自らの腕を絡めている。それは全く正しいものだ。しかし、その光景を涙をこらえてみている子もいる。その子と自分の間に何の違いがあるのか、なぜ自分にはあれがないのか、そう思っている子もいる。もちろん家族に罪はないけれど、存在すること自体が、刃になることもある。明るく正しいものには、どこかそんな残酷さがある。
正しいものは自らの正しさを疑わない。正しいものは正しくないものを否定して成り立っている。確かにそれは皮肉れた考え方だろう。ある意味では幸福なことに、そうしてある意味では不幸なことに、私はそんな皮肉れた考え方をしながら、致命的なリスクを避けて生きてきた。そうして、それによって何とかやってこれたのだと思ってしまっている。だから、いつも、否定の余地のなさそうな正しいものを疑ってしまう。
最も危険なものは、大抵、正しい顔をして近づいてくる。目くらましの正しさだ。反論できぬ余地を与えぬものは大抵胡散臭い。そもそも物事は完璧には出来ていないものだと思う。森羅万象は、一つに完全を与えることを許してはいない。「もの」は本来、それだけでは不完全なものではないだろうか。不完全で少し悪かったり欠けていたり足りなかったりするということが物の本質ではないだろうか。それを完璧に仕立てるには、必ずどこかに嘘が必要になる。そうして、完璧に見えるものは嘘を巧妙に隠している点で罪深い。それが私が「胡散臭い」と思う理由かもしれない。正しくないものの「正しくなさ」を抱きしめて生きていけたらいいなあ。自分の正しくなさから目をそらさずに生きていたい。「正しくない」ことがわかっている人はかわいらしい。ちょっと心細そうだけれど、生き物が生きていくってそういう心細いことのような気がする。
先日知人と話していて、学習障害の話になった。障害は数値で表せるものでないもの、基準が明確に出来ぬものと私は思っている。総合的に日常生活に支障があるかどうかで線引きがされているが、どこかの分野で、誰もが境界線上にあるのではないかと思っている。計算が出来ない、本がすらすら読めないというのはわかりやすいが、喋りすぎたり、気が付きすぎたりするのもある意味での「障害」ではないかと思う。「そうやって考えていくと勉強ができすぎるっていうのも障害だって私は考えているんだよね」といった私の言葉が知人にはわからなかったようだ。知人の子は最上偏差値を必要とする学校に行っている。理解できない・感受性が低いというのが障害ならば、理解しすぎる・感受性が強すぎるというのも、どこかで異常であり、その意味で日常生活の障害であろうと私は思うのだが、知人にとっては、受け入れられぬ考え方だったようだ。しかし、「出来る」ということのみをプラスの綱の向こう側に入れておくのは、変じゃないだろうか。「出来る」ということを「正しい」と決め付けてしまうことは硬直した考えでないか。
生き物はどのように作られているか。生き物は強いもの、正しいものが生き延びているわけではない。弱いものが淘汰されているわけではない。自然はその選択をしない。あるのはその状況に合っているかどうかということである。しかも、自然は遠い遠い未来の可能性も残しながら時を刻む。それが多様性というものだ。食糧難の時代に繁栄したDNA は、飽食の時代には循環器障害などを発症し生きづらい。また、飽食の時代に健康な人は、食糧難になると真っ先に栄養障害になってしまう。しかし、自然はそのどちらのDNAも絶滅させようとは思わない。いずれ来るとも来ぬともわからぬ様々な形の時代のためにそのDNAを持つ人を残して時を刻む。自然はいつも大きな河のように、流れをその土地の形に合わせながら変え、しかも水をこぼすことなく流れていく。弱いものはいつかの時代に強いものになり、強いものは弱いものになる。自然はその未来のためにどのDNAもこぼすことなく進んでいく。今という時代にはそぐわなかったとしても、それは、北極の氷河が形を変えるような未来のいつかを生き延び、救うものであるかもしれない。そのために用意されているのかもしれない。
だから、本当は完璧に正しいものなんてないんじゃないのか。足りないものも欠けているものも許されているのではないのか。それを抱くことの出来ない社会は、それ自体が自然に逆らっているのではないのか。「正しいもの」だけが生き残っていく世の中は、生き物の住みかではない。私たちは胡散臭い異界を生きているのかもしれない。
正しいものは自らの正しさを疑わない。正しいものは正しくないものを否定して成り立っている。確かにそれは皮肉れた考え方だろう。ある意味では幸福なことに、そうしてある意味では不幸なことに、私はそんな皮肉れた考え方をしながら、致命的なリスクを避けて生きてきた。そうして、それによって何とかやってこれたのだと思ってしまっている。だから、いつも、否定の余地のなさそうな正しいものを疑ってしまう。
最も危険なものは、大抵、正しい顔をして近づいてくる。目くらましの正しさだ。反論できぬ余地を与えぬものは大抵胡散臭い。そもそも物事は完璧には出来ていないものだと思う。森羅万象は、一つに完全を与えることを許してはいない。「もの」は本来、それだけでは不完全なものではないだろうか。不完全で少し悪かったり欠けていたり足りなかったりするということが物の本質ではないだろうか。それを完璧に仕立てるには、必ずどこかに嘘が必要になる。そうして、完璧に見えるものは嘘を巧妙に隠している点で罪深い。それが私が「胡散臭い」と思う理由かもしれない。正しくないものの「正しくなさ」を抱きしめて生きていけたらいいなあ。自分の正しくなさから目をそらさずに生きていたい。「正しくない」ことがわかっている人はかわいらしい。ちょっと心細そうだけれど、生き物が生きていくってそういう心細いことのような気がする。
先日知人と話していて、学習障害の話になった。障害は数値で表せるものでないもの、基準が明確に出来ぬものと私は思っている。総合的に日常生活に支障があるかどうかで線引きがされているが、どこかの分野で、誰もが境界線上にあるのではないかと思っている。計算が出来ない、本がすらすら読めないというのはわかりやすいが、喋りすぎたり、気が付きすぎたりするのもある意味での「障害」ではないかと思う。「そうやって考えていくと勉強ができすぎるっていうのも障害だって私は考えているんだよね」といった私の言葉が知人にはわからなかったようだ。知人の子は最上偏差値を必要とする学校に行っている。理解できない・感受性が低いというのが障害ならば、理解しすぎる・感受性が強すぎるというのも、どこかで異常であり、その意味で日常生活の障害であろうと私は思うのだが、知人にとっては、受け入れられぬ考え方だったようだ。しかし、「出来る」ということのみをプラスの綱の向こう側に入れておくのは、変じゃないだろうか。「出来る」ということを「正しい」と決め付けてしまうことは硬直した考えでないか。
生き物はどのように作られているか。生き物は強いもの、正しいものが生き延びているわけではない。弱いものが淘汰されているわけではない。自然はその選択をしない。あるのはその状況に合っているかどうかということである。しかも、自然は遠い遠い未来の可能性も残しながら時を刻む。それが多様性というものだ。食糧難の時代に繁栄したDNA は、飽食の時代には循環器障害などを発症し生きづらい。また、飽食の時代に健康な人は、食糧難になると真っ先に栄養障害になってしまう。しかし、自然はそのどちらのDNAも絶滅させようとは思わない。いずれ来るとも来ぬともわからぬ様々な形の時代のためにそのDNAを持つ人を残して時を刻む。自然はいつも大きな河のように、流れをその土地の形に合わせながら変え、しかも水をこぼすことなく流れていく。弱いものはいつかの時代に強いものになり、強いものは弱いものになる。自然はその未来のためにどのDNAもこぼすことなく進んでいく。今という時代にはそぐわなかったとしても、それは、北極の氷河が形を変えるような未来のいつかを生き延び、救うものであるかもしれない。そのために用意されているのかもしれない。
だから、本当は完璧に正しいものなんてないんじゃないのか。足りないものも欠けているものも許されているのではないのか。それを抱くことの出来ない社会は、それ自体が自然に逆らっているのではないのか。「正しいもの」だけが生き残っていく世の中は、生き物の住みかではない。私たちは胡散臭い異界を生きているのかもしれない。