うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

捕まえ手-To suicide applicants

2005年07月18日 | ことばを巡る色色
サリンジャーの小説に「ライ麦畑で捕まえて」という有名すぎるのがあるが、原題は「catcher」つまり捕手(捕まえ手)である。
「捕まえて!!(Please would you catch me?)」でもなく、「捕まえて…(I caught it and~)」でもない。
「ライ麦畑の捕手」では野球小説みたい。そんな思惑がこの邦題をつけさせたのかもしれない。
本の中の、いまや有名すぎる主人公の少年は、ライ麦畑から落ちそうになる子供を捕まえる人になり、子供を助けたいと語る。
「わたしもcatcherになりたい!」と、そのくだりを読みながらわたしは思った。
世の中の役に立ちたいとか、困っている人を救いたいといった立派な考えからではない。
私自身が崖の端っこをふらふらと歩いている、捕まえていてもらわなけらばならない人だったからだ。自分が捕まえる役に回れば、少なくとも、自分から落ちようなんて考えないのではないかと思ったのだ。
落ちそうな人を監視する役をやっていれば、ライ麦畑の端っこで、何とかとどまっていられそうだ。落っこちてしまわぬために、落っこちることを考えてしまいそうな自分を押しやるために、わたしが「catcher」をやるのだ。

今、この瞬間に何人の子どもが、大人が、ライ麦畑から落ちてしまいたいと思っているだろうか。
暗い部屋の中で、どれだけがその方法を逡巡していることだろうか。

崖から落っこちてしまうことはその「field」を捨て去ることだ。
捨て去れば、もう2度と会えない。ただ、それだけだ。
自分が世の中から捨てられた者のように思ってのことかもしれないが、大きな間違いだ。
謝罪も、言い訳も、感謝も、苦言も、愛も、憎しみも、恨み言も、
すべてを拒み、切り捨て、
友達も、家族も、仲間も、恋人も
すべてを捨て去っていくことだ。
残された者は彼らに捨てられたのだ。
いくら辛さに耐えられないとはいえ、なんて冷たい行為だろう。

何をおいても、とにかく、この「field]に居なければならない。
それが目もくらむような崖の先っぽであっても。
たとえ捨てられようとも、自分から捨ててはいけない。
ただ息をするだけで精一杯のときであっても、ここに居続けるのだ。
息を凝らして生き続けるのだ。

だから、わたしは「catcher」になりたい。


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季節柄、仕事が忙しくなりそうです。どれくらい記事が書けるか不安ですが、
できる限り投稿したいと思っています。暑さもこれからが本番ですが、
たまに、のぞきに来て下さい。        usato
コメント (16)
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