行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記33『兜率天の巡礼』

2008-04-20 12:19:20 | Weblog
 『兜率天の巡礼』(司馬遼太郎 著「ペルシャの幻術師」収録)
 昭和24年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会い、その紳士は司馬の事を知らずに「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。
 当時、ザビエルの日本上陸400周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。
 ネストリウス派と呼ばれたキリスト教は、西暦431年エフェソス公会議において“異端”とされ、ヨーロッパを追われた。その後ネストリウス派はササン朝ペルシャに渡り、シルクロードを経て中国に伝わった。7世紀前半、中国は唐の時代であり、2代目の太宗の頃に伝わった。則天武后が活躍する約50年前の事である。寺は波斯(ペルシャ)寺(後に大秦寺となる)と呼ばれ、中国では景教として流行した。その頃の日本は聖徳太子や推古天皇の治世を経て、中大兄皇子や中臣鎌足が大化の改新に取り組んでいる時代であった。

 作品のあらすじを紹介する。

 太平洋戦争中、南朝の北畠顕家について新説を立てたという理由で京都の大学を追われた閼(門構えに於)伽道竜(あかどうりゅう)は、終戦の日に妻の波那(はな)を失う。彼女は死の直前、にわかに発狂し、道竜に向けた眼差しが異邦人への恐怖と嫌悪のものであった。その意外な様子が、道竜の妻の血統とルーツを探る異常なまでの執念へ駆り立てた。
 その過程で、兵庫県赤穂郡比奈の大避神社の禰宜をしている波那の実家の本家の当主から、彼女の遠い祖先がペルシャ系ユダヤ人の移民団の子孫である事を知らされて衝撃を受ける。彼らは古代キリスト教のネストリウス派の信徒で、日本へ渡来した際に、秦氏の一族と称してダビデ(漢字で大闢(門構え辟)(だいびゃく))の礼拝堂(後の大避神社)を建てたが、それは仏教渡来以前の事だという。
 これを知った道竜は、文献を読みあさって想念を凝らすうち、幻想の空高く飛び立ち、5世紀の東ローマ帝国の都コンスタンチノープルに到り、ネストリウスとなって群集に自説を主張したり、7世紀の唐の都長安に到り、流亡の景教徒の長老となった。
 その後、道竜の幻想は、古代日本に到り、津、河内から、たけのうち峠を越えて大和に到着する。政権を支えていた聖徳太子と秦河勝とのやり取りの幻想を見ていた。聖徳太子の支援をする代わり、自分と一族の安全を図った。
 幻想から現実に戻った道竜は、洛西の廃寺(奈良時代に秦氏が建立した)の上品蓮台院の弥勒堂の壁に描かれている兜率天曼荼羅図を見つける。蝋燭の灯りでそれを眺めていた彼はそこがコンスタンチノープルにも、長安にも見えた。そして、そこに亡くなった波那を見出す。意識は既に現実を抜け、壁の中に入っていた。持っていた蝋燭は落ち、弥勒堂は炎上、焼け跡から一人の焼死体が見つかる。性別さえも分別できない焼死体は1週間を経て道竜と判明した。

 この説によれば、聖徳太子の時代にすでにキリスト教が日本に伝来していた事になる。秦氏がネストリウス派であったかは断言できないが、彼らが日本に渡来する頃、中国ではネストリウスが伝わっていた。西方の地であったり、情報網が整備されていれば早い段階で知っている。或いは、秦氏の保護下で日本に渡来した事も考えられる。いずれにせよ、聖徳太子はキリスト教の存在を知っていた事になる。
 事実かどうか、誰にも分からないからこそ、魅力を感じるものである。それを作品に読者を惹き付けるのが作者の技量の高さである。

 画像は太秦へ行った時のもの。時代劇の撮影現場見学が目的だったのだが・・・。

司馬短編集

2008-04-20 02:05:38 | Weblog
 昨日、本棚を整理しつつ目に留まったのが「ペルシャの幻術師」と「侍はこわい」。いずれも短編集が収録され、1作が短い分、気付くと読み続けてしまう。過去に2回以上は読んでいる作品なのだが、飽きずに読んでしまう。中でも「兜率天の巡礼」は傑作である。海音寺潮五郎は「ペルシャの幻術師」を読んで司馬遼太郎を評価していたが、この作品で更にその思いを強めた。
 内容を紹介し始めると、朝になりそうなので今回はここまで。
 真実か、そうでないかは重要ではなく、事実かも知れない曖昧さが読者を惹きつける。作品のテーマが悠久な世界史であり、広い視野から書かれた作品である。日本人とは何者なのか。我々はどこへ行くのか、読み終えて、こんな事まで考えてしまう作品である。

2008-04-20 00:30:34 | Weblog
 池波正太郎や司馬遼太郎の作品で、忍者を題材にしたものが幾つもある。
 
 服部半蔵、百地丹波、風魔小太郎らは名前が残っている。忍者、というのは果たして本物なのだろうか。現代の我々からは想像の付かない人々であったろう。忍者と言っても、それぞれに役割があり、情報収集を専門にする者、戦場での攪乱を専門にする者・・・。いずれも日の目が当たらない闇の存在である。
 
 服部半蔵、風魔小太郎は首領の名前で、代が変わってもこの名前は引継がれる。

 風魔小太郎は小田原北条家に仕え、箱根を本拠としていた。主家滅亡後江戸に散り、やがて吉原を開設し、その運営に当たったと言う。首領の小太郎は口が耳元まで裂け、犬歯が飛び出し、身長が2メートル以上の異様な容貌をしていたと言うが、誰も小太郎を見た者は居なかった。恐らくこうした噂を流布し、実態が分からないようにしていたのだろう。
 服部半蔵は徳川家に仕え、信長に切腹を強要された家康の長男・信康の介錯を行ったという。泰平の世となると、忍者はもはや不要のものとなった。給金に納得しない半蔵の部下達が反乱を起こし、鎮圧され忍者は消滅する。

 忍術は人間の心理に影響して初めて役に立つ技で、幻術もその類ではなかろうか。戦国期、個人名が残っているのは2人いる。飛び加藤と果心居士。「飛び加藤」は漫画「花の慶次」に登場するが、上杉家や武田家の記録にもある。「果心居士」は主家乗っ取り、将軍殺害、東大寺大仏を焼き払った、極悪の限りを尽くした松永久秀の居城に住んでいた。主家である三好義興の毒殺、また、三好一族の一人が厠で変死した事があった。暗殺も果心居士が行っていたのではないだろうか。果心居士は僧籍に居た事があるため、寺の記録にも残っている。

 確かなのか不確かなのか分からない存在だからこそ、惹かれるものがある。