行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記32『権平五千石』

2008-04-18 23:50:41 | Weblog
 『権平五千石』(司馬遼太郎 著「侍はこわい」収録)
 作者が雑誌で発表した作品を収録した短編集である。
 賤ヶ岳の戦いには、七本槍の一人に平野長泰がいた。通称を権平という。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則で七本槍と呼ばれた。織田信長亡き後、明智光秀を討伐し、信長の嫡孫・三法師を擁する羽柴秀吉と信長の三男信孝を擁する柴田勝家の雌雄を決する戦であった。
 結果は、秀吉が勝ち、敗れた勝家はやがて北乃庄城でお市の方とともに自刃する。

 さて、この戦で活躍した七本槍は秀吉の天下の下、平野長泰を除き、みな1万石以上の大名となった。しかし、権平は五千石のままだった。その代わり、朝廷から官位をもらい、従五位下豊臣朝臣遠江守長泰となったが、権平は権平のままだった。戦場で目立たない地味な出で立ちの権平を秀吉もついつい忘れ、結局五千石のまま秀吉が死んだ。

 秀吉死後、関ヶ原の戦いとなるが、家康の上杉討伐隊として関東へ出陣しており、成行き上東軍となった。関ヶ原では特に活躍は無く、戦後やはり五千石のままだった。福島や加藤清正、嘉明ら大大名と成っていったことにも厭世的な気分となり、鬱屈した日々を江戸で旗本として送っていた。大坂の役の際、権平は駿府の家康に突然暇乞いを申し出、大坂に入城すると言い、家康を唖然とさせた。彼なりの鬱屈した気分の捌け口を求めていたのだと理解した家康は、権平をなだめすかし、江戸へ帰させた。大坂の役後も動きは無く、やはり五千石であった。

 同僚の福島、両加藤は相次いで改易された。権平はそれらを見ながら三代家光の寛永まで生き、70歳で亡くなった。その後も五千石で続くが、幕末の時に1万石を拝し、ついに大名となった。そして明治を迎えた。

 地味で目立たなかった平野長泰だったが、家名存続を永らえ、秀吉子飼いでありながら徳川の世を生き抜いた。

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