行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記31 『世に棲む日日』

2008-04-09 20:12:48 | Weblog
 『世に棲む日日』(司馬遼太郎 著)
 
 吉田松陰、高杉晋作が主人公の作品である。3年間の松下村塾での師弟の絆は、新しい時代を創り上げる原動力となった。
 
 1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に出現して以降、国内は開国か攘夷か、勤王か佐幕か、国内の世論は大きく揺れた。海外諸国の出没は、19世紀に入り、ロシア、イギリス、アメリカの各国が日本近海に現れていたが、江戸湾の奥深くまで侵入し、測量をしたのはペリー艦隊が初めてだった。また、毎年のように起きる飢饉や疫病、膨れ続ける各藩の経済破綻等々、国内の問題も多数抱えていた。そうした時代の中での海外からの通商要求は、国是である鎖国体制、ひいては徳川幕府そのものの危機であった。
 当時の諸藩の武士の教育水準は世界的に見ても高く、私塾が発達し、また、藩外に留学する事も頻繁であった。
 長州藩には吉田寅次郎(松蔭)がおり、後の長州藩の倒幕思想の原点となる。松蔭が活躍する前、松代の佐久間象山や、水戸の藤田東湖、会沢正志斎らが活躍しており、特に水戸藩は2代徳川光圀(水戸黄門)から『大日本史』の編集が始まっており、親藩でありながら同時に勤王思想を持った藩であった。尊王攘夷の総本山とも言うべき藩であった。

 通商を求めたペリー艦隊に1年後までに国論をまとめて回答する、として保留したが勅許も国論も統一しないまま幕府は独断で日米和親条約を締結。この時アメリカへ密航しようとした松蔭は捕縛された。その後長州で謹慎処分となるが、松下村塾を開き後継者を育て始めた。藩は教育という事で大目に見ていた。この松下村塾に幕末から明治の日本史に名を刻む人材が多数集まる。久坂玄瑞や吉田稔麿らは、松下村塾でも最優秀の人物だったが、幕末の動乱で死ぬ。奇兵隊を創設した高杉晋作も、明治を見ることなく病没した。
 しかし、吉田松陰の教育方法は、人材育成の要諦が示唆されている。高杉晋作は上級武士の子息でプライドが高く手が付けられなかったが、高杉の持つプライドを刺激しながら接していった。特に久坂玄瑞を褒めれば褒めるほど、久坂にだけは負けられない、という意識を強くし、人が変わったように勉学に励むようになった。桂小五郎(木戸孝允)は、この当時、既に藩の要職にあり、客人、友人として松下村塾に顔を出していた。
 松蔭の思想は過激で、やがて安政の大獄の標的となる。役に立たなくなった幕府を公然と倒幕せよ、と呼びかけ、後継達に伝えていった。わずか3年の松下村塾での教えが、討幕の原点となり、近代日本の礎を築いた。

 松下村塾の出身者である、吉田、久坂、高杉、(正確には出身ではないが)木戸ら優秀な人物が明治前、あるいは明治初期に亡くなると、第2線だった、伊藤、山県、井上馨らが明治期に権力を掌握し、歪んだ形としてしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石 前3部作

2008-04-09 00:24:53 | Weblog
 「三四郎」は既に紹介したが、その後に続く「それから」と「門」は未だ紹介できていない。
 漱石作品は、テーマが文章の底に秘められており、表面上の文章をひたすら読んでも、作者の意図が見えてこない。文学作品に壁を感じるのはこうした意識があるからだろう。本来なら、率直な感想を述べれば良いのだろうが、ある程度、それらの作品に親しんできたため、この程度しか読めてないのか、と自分を情けなく感じるようで避けている。しかし、次に進むためには、前3部作を順次読まねば後3部作につながらない気がする。
 こういう意味では、歴史ものは、その人物1代か、ある程度の時間で区切られるため、読む楽しさはこちらの方が手軽なのかも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする