行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記6 『安寿と厨子王』 

2007-11-28 23:54:43 | Weblog
   『安寿と厨子王』(森鴎外 著)
 ―平正氏の嫡男厨子王とその姉安寿、そして母親、女中の4人は、筑紫へ流されたという父親の消息を追って、北陸の直江津に入る。そこは、人買が出るため、旅人を泊めてはいけないという土地であったが、山岡太夫という船頭が彼ら親子を泊めたが、この男こそ人買であった。筑紫までは海路で行くべきだ、というアドバイスに従い、翌日、山岡太夫の紹介で2艘の舟で行く事となり、1艘にに安寿と厨子王、もう1艘に母親・女中とで別れて乗ったが最後、母と女中を乗せた船は佐渡へ、安寿と厨子王を乗せた船は南の若狭を目指して分かれていった。別れ際に母親は2人に向かって、守本尊と刀を大切にするよう伝える。母親に会いたい一心で、二人は泣きながら日々過ごした。若狭で山椒太夫に買われた2人だったが、安寿が水汲み、厨子王が芝刈りをさせることとし、2人がか細く見えたため、少し仕事を減らして労働させた。いつも二人で、厨子王はここを抜けて母親を追いなさい、と安寿と話していた所を山椒太夫の息子に聞かれ、太夫の前に連れられ、二人の額に烙印を押した。部屋に戻され余りの苦しさに悶え、守護仏に祈ると、額の烙印は消え、代わりに守護仏の額に傷が浮かび、二人は夢でも見ていたかのように、額には何も傷が無かった。その後から安寿は徐々に話さなくなり、何やら達観したような顔つきに代わっていった。やがて1年が過ぎ安寿15歳、厨子王13歳となると、安寿は志願して男の仕事である芝刈りへ出かけ、ある日厨子王に脱走を命じた。脱走先は都、姉は守本尊を渡した。すぐに山椒大夫の追っ手が迫ったが、厨子王は国分寺に匿われ、そのまま弟子となり、師匠と都へ上って行った。この頃安寿が入水したと聞いた。東山の清水寺に泊まった翌朝、ある老人に守本尊を貸してくれと頼まれた。この老人は関白師実であった。厨子王は自分の身上を語ると、師実は厨子王の家系の確証を得た。師実は厨子王を還俗させた。彼の父である平正氏の安否を確認するが、既に亡くなっていた。厨子王は名を正道に改め、丹後の国守に任命された。彼は最初の政として、丹後で人身売買を禁止した。
 その後、母が辿り着いたであろう佐渡へ渡り、行方を探るが容易に発見できなかった。ある日、途方に暮れながら市中を歩くと歌のような詞を呟いているぼろを着た目の不自由な女を見かけると、心が惹かれた。その女は「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。鳥も生あるものなれば、疾う疾う逃げよ、逐わずとも。」と呟いていた。正道はこの詞を聞いて女の前に進んだ。女は気配を感じ、見えぬ目で前を見た。その時、両方の目に潤いが出て、目が開いた。女は「厨子王」と叫んだ。厨子王と母親は再会に抱き合った。―

安寿と厨子王の山椒大夫伝説を扱ったもので「歴史離れ」の歴史小説である。読み終った後の感動は何とも言えないものがある。