昨日は劇場で『海難1890』を観てきた。
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して、
合作及び朝日放送創立65周年記念作品第2弾、
BSフジ開局15周年記念作品として制作された。
1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件と、
1985年のイラン・イラク戦争勃発時に、
テヘランに取り残された日本人の救援のため、
トルコ政府が救援機を飛ばして救出した出来事の顛末を描く。
-ウィキペディア-
トエルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編があり、
約100年の時を超えて互いに助け合った人と人、
国と国との友情を描いた歴史映画である。
1890年と云う世相は、
共に近代化を標榜し、国の立て直しを必死に図っていた時期。
オスマントルコは、最盛期の東ローマ帝国を凌ぐ大帝国であったが、
次第にヨーロッパ諸国の分割・解体に晒され、
国の存亡の危機感に襲われていた。
アブデュル=ハミト2世のもと、青年トルコ党が活発な政治改革を行っていたが、
バルカンの動揺や露土戦争などの列強の干渉、国内反動勢力妨害などで、
せっかく開設された国会や憲法も廃止され、極端な専制政治へと
逆戻りする過渡期であった。
エルトゥールル号のトルコ出発時の様子は
そんな世相を反映した、緊張感漂う場面が描かれていた。
一方の日本もご存じの通り、明治政府により近代化を急ぎ、
政治・軍事・産業の改革を進めていた時期。
海難の1年前に『大日本帝国憲法』が発布され、
4年後の1894年には日清戦争を戦い、国際舞台に登場した。
日の出の勢いの日本と、落日のトルコ。
その好対照な両国は、国旗に象徴され、
太陽(日の丸)と三日月(トルコ国旗)の図案を偶然あしらった、
日本の戦国武将の兜の飾りに投影されていた。
まだまだ貧しい暮らしを強いられている日本。
でも、その暮らしの中には、近代化の成功を予感させる
子供たちへの教育の跡や、人々の民度の高さが描かれていた。
同じ緊張感でも、お互いの国が背負う勢いの差を実感した映画だった。
1985年のテヘラン邦人救出劇編では、
孤立した日本人を助けるため、トルコ政府が2機の救援機を飛ばし、
邦人を救出した救世主となった。
イラン・イラク戦争による戦火の危険が及ぶテヘラン。
イランに駐在する外国人たちは、それぞれの国の救出機により
次々と退去できたが、最後に残ったのが日本人とトルコ人。
トルコではトルコ人用に救出機を準備していたが、
日本政府は必死の救助要請にも関わらず、
在留邦人を見捨てた。
そして、自らの邦人救出の責任を放棄し、
トルコ政府に救出の依頼を要請した。
戦火の迫るテヘラン空港で、追い詰められたトルコ人と日本人。
空港カウンターで航空チケットを要求していたトルコ人たちが、
日本人の窮状に対し、次第に理解を示し、
救出用旅客機に搭乗する権利を自ら日本人に譲った。
危険を承知の上で、テヘランに救出に向かうパイロットやクルーたち。
そして、自分たちは自動車による陸路での脱出と云う
犠牲をを選択したトルコの避難民。
彼らに迫る身の危険をも顧みず、
日本人に対する命がけの友情。
正直、感動の涙が溢れそうになった。
そして映画のエンドタイトルが流れた後
びっくりするサプライズが用意さてれいた。
それは劇場に足を運んだ人にしか見られない権利なので
ここで明かすわけにはいかないが、
観に行って良かったと心から思った。
物語のストーリーは、歴史の事実として承知していたので、
わざわざ観に行く必要があるのか疑問だったのだ。
出演者たちの熱演もさることながら、
国と国、人と人との友情に心が熱くなる映画だった。
純粋にたくさんの人たちに観て貰いたいという感情が沸き起こったが、
偶然この日、12月25日は、
トルコ国内での公開初日だという。
公開前日の12月24日。
約2,000人以上の観客を迎えた壮大なプレミアイベントが
イスタンブール・ヨーロッパサイドにそびえ立つ
“Zorlu center”(ゾルルセンター)で行われた。
上映中は拍手や笑い声など、日本ではないような反応が各所で起こり、
テヘラン編での日本人を助けるためのトルコのパイロット全員が立候補するシーンでは
歓声がわき起こった。
エンドロールにおいても観客から拍手が起こり、
内野さんと忽那さんは観客から手を握られたり
「よかった」と感想を投げかけられたりと、会場内は絶賛の空気に包まれた。
-cinemacafe.net 12月25日(金)配信-
この映画を契機に、更なる日本・トルコの友好・発展を願うものである。
この映画を観て、改めて歴史に感動したオヤジが一句。
友達を 選ぶと良い事 あるものね
お粗末。
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して、
合作及び朝日放送創立65周年記念作品第2弾、
BSフジ開局15周年記念作品として制作された。
1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件と、
1985年のイラン・イラク戦争勃発時に、
テヘランに取り残された日本人の救援のため、
トルコ政府が救援機を飛ばして救出した出来事の顛末を描く。
-ウィキペディア-
トエルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編があり、
約100年の時を超えて互いに助け合った人と人、
国と国との友情を描いた歴史映画である。
1890年と云う世相は、
共に近代化を標榜し、国の立て直しを必死に図っていた時期。
オスマントルコは、最盛期の東ローマ帝国を凌ぐ大帝国であったが、
次第にヨーロッパ諸国の分割・解体に晒され、
国の存亡の危機感に襲われていた。
アブデュル=ハミト2世のもと、青年トルコ党が活発な政治改革を行っていたが、
バルカンの動揺や露土戦争などの列強の干渉、国内反動勢力妨害などで、
せっかく開設された国会や憲法も廃止され、極端な専制政治へと
逆戻りする過渡期であった。
エルトゥールル号のトルコ出発時の様子は
そんな世相を反映した、緊張感漂う場面が描かれていた。
一方の日本もご存じの通り、明治政府により近代化を急ぎ、
政治・軍事・産業の改革を進めていた時期。
海難の1年前に『大日本帝国憲法』が発布され、
4年後の1894年には日清戦争を戦い、国際舞台に登場した。
日の出の勢いの日本と、落日のトルコ。
その好対照な両国は、国旗に象徴され、
太陽(日の丸)と三日月(トルコ国旗)の図案を偶然あしらった、
日本の戦国武将の兜の飾りに投影されていた。
まだまだ貧しい暮らしを強いられている日本。
でも、その暮らしの中には、近代化の成功を予感させる
子供たちへの教育の跡や、人々の民度の高さが描かれていた。
同じ緊張感でも、お互いの国が背負う勢いの差を実感した映画だった。
1985年のテヘラン邦人救出劇編では、
孤立した日本人を助けるため、トルコ政府が2機の救援機を飛ばし、
邦人を救出した救世主となった。
イラン・イラク戦争による戦火の危険が及ぶテヘラン。
イランに駐在する外国人たちは、それぞれの国の救出機により
次々と退去できたが、最後に残ったのが日本人とトルコ人。
トルコではトルコ人用に救出機を準備していたが、
日本政府は必死の救助要請にも関わらず、
在留邦人を見捨てた。
そして、自らの邦人救出の責任を放棄し、
トルコ政府に救出の依頼を要請した。
戦火の迫るテヘラン空港で、追い詰められたトルコ人と日本人。
空港カウンターで航空チケットを要求していたトルコ人たちが、
日本人の窮状に対し、次第に理解を示し、
救出用旅客機に搭乗する権利を自ら日本人に譲った。
危険を承知の上で、テヘランに救出に向かうパイロットやクルーたち。
そして、自分たちは自動車による陸路での脱出と云う
犠牲をを選択したトルコの避難民。
彼らに迫る身の危険をも顧みず、
日本人に対する命がけの友情。
正直、感動の涙が溢れそうになった。
そして映画のエンドタイトルが流れた後
びっくりするサプライズが用意さてれいた。
それは劇場に足を運んだ人にしか見られない権利なので
ここで明かすわけにはいかないが、
観に行って良かったと心から思った。
物語のストーリーは、歴史の事実として承知していたので、
わざわざ観に行く必要があるのか疑問だったのだ。
出演者たちの熱演もさることながら、
国と国、人と人との友情に心が熱くなる映画だった。
純粋にたくさんの人たちに観て貰いたいという感情が沸き起こったが、
偶然この日、12月25日は、
トルコ国内での公開初日だという。
公開前日の12月24日。
約2,000人以上の観客を迎えた壮大なプレミアイベントが
イスタンブール・ヨーロッパサイドにそびえ立つ
“Zorlu center”(ゾルルセンター)で行われた。
上映中は拍手や笑い声など、日本ではないような反応が各所で起こり、
テヘラン編での日本人を助けるためのトルコのパイロット全員が立候補するシーンでは
歓声がわき起こった。
エンドロールにおいても観客から拍手が起こり、
内野さんと忽那さんは観客から手を握られたり
「よかった」と感想を投げかけられたりと、会場内は絶賛の空気に包まれた。
-cinemacafe.net 12月25日(金)配信-
この映画を契機に、更なる日本・トルコの友好・発展を願うものである。
この映画を観て、改めて歴史に感動したオヤジが一句。
友達を 選ぶと良い事 あるものね
お粗末。