uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(14)

2020-12-29 13:04:19 | 日記
 










このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










第14話  女将お菊


 退助にとって、お菊を待つ時間は永遠に思えた。
別れてから気が遠くなるような時間を耐えたのだ。
途中、お里と暮らした時間も存在してはいたが、
どんな時も頭の隅にはお菊がいた。

 自分の手の届かないところに行ったお菊を
忘れられるはずはない。
離別したお里には悪いが、
退助の心にはお里の部屋とお菊の部屋が存在する。
男は記憶の上書きはできない。

では女は?

よく耳にするのは、
「女は恋をする度、上書きする」との言葉。

では本当に、それまで経験した本気の恋まで
新たな恋に上書きされてしまうのか?
完全に過去の記憶を消し去ってしまうのか?

そんなことはあり得ない。

男脳と女脳の違いはあるだろう。
でも大切な人の記憶を完全に消すなど、
男にも女にも絶対に無いと信じる。

 今こうして同じ建物の、
すぐそばにお菊が存在する。
もうすぐ自分に逢いに来る。
 夢にまで見た再会の喜びと緊張が
退助の座る座布団に伝わり、
お菊を引き寄せる見えない力となって
引き寄せられるお菊であった。

「失礼します。」
お菊の声と共に襖(ふすま)が静かに開く。
「お久ししゅうございます。」
「おお、お菊も息災でなにより。」
「退助坊ちゃまは大そうご出世なさり、
ご立派な殿方におなり遊ばされました。
菊は嬉しゅうございます。」
「まだ坊ちゃまと呼ぶか。
ワシももう三十ぞ(満29歳)。
それに今は失脚中で果てない江戸修行の身。
何度出世してもいつも振り出しに戻る
へぼ双六のような人生じゃ。
どうじゃ、情けなかろう?」
退助は努めて明るく笑いながら言う。

「退助様の噂は逐一菊の耳に入っております。
だから御身の浮き沈みの様もよく存じております。」
菊の言葉に、
退助は積もりに積もったお菊の情報を欲しがった。
「ソチのその後を知りたい。
順を追って申してみよ。」

菊は居住まいを正し、
「あれからお屋敷を出た私は、
御親戚であらせられる北川郷の前野様宅にて
高知のお城に上がるための修行のため
半年ばかり御厄介になり、
その後、お城へ2年ご奉公させていただきました。

宿下がりのおり、身元保証をしてくださった前野様より、
良きご縁談を紹介していただきました。

それが今の亭主の定七でございます。
定七はカツオ漁網元の次男で、
獲れた海産物の販路拡大を当主である親に訴え、
江戸にある海産物問屋と
ここ日本橋の小料理屋を買収し、
江戸進出を果たしました。
それが今から10年前の事でございます。
それから私は女将として小料理屋の采配を任され、
土佐のカツオで御店(たな)を大きくし、
今ではこの料亭に姿を変えております。
だから国許からの退助様に関わる情報は
他の情報と合わせ、
船で行き来する家人から得ていたのでございます。」
「そうであったか。
ワシはそなたのその後の消息を殆ど知らなかった。
唯一そなたが何処ぞの者と
祝言を上げるらしいと云う噂を最後に
一切聞いておらぬ。」
「私は手に取るように退助様の事は
全部承知しておりました。
退助様が道場の娘様と祝言をあげた事も。」
「あれはソチがワシを待てず
知らぬ者との祝言の話を聞いたからじゃ。
それに今は離縁してひとりぞ。」
「そうでございましたか?
それは存じませんでした。
どうして再婚なさいませぬ?」
「それは・・・、暫くは考えとうないからじゃ。
婚姻は疲れる。
和主(わぬし)と引き離され、
妻だった里と引き離され
ワシは疲れた。分かってくれるじゃろ?
離縁後いくつも縁談はあったが、
ワシが総て断っておる。」

「それでは私がいつまでも独り身を通していたら、
お迎えに来てくださったと云うのですか?」
「勿論じゃ!別れの時、そう言うたじゃろ?」
「そんな事、無理に決まっています!
私と退助様では身分が違います。
そんな事、そんな事!!・・・・。」
お菊は涙声になった。

退助はそっと抱きしめたい衝動に駆られた。

「お菊、よく聞け。
ワシが今必死で働いているのは、
ワシとお菊のような身分違いでも
祝言を上げられるような
世の中にしたいからじゃ。
今はまた失脚してしまったが、
近日中に必ず復活する。

地位や名誉や金のためではない。
お菊に約束した思いを果たすためじゃ。

お菊と添う事は出来なくなったが、
あの時の約束は必ず守る。
身分違いから、悲しい思いをさせた菊への
せめてもの誠意と思ってくれ。

そして明日のワシの出陣を見守ってくれ。」

お菊はこのまま退助について行きたい
と心の中で強く思った。
でもそこはお菊の生まれ持った性格が
邪魔をする。

再会しても添う事の出来ない現実が
お菊の心を悪魔にする。

「退助様を見守るのは大そう骨が折れます。
だっていつも浮いたり沈んだり。
見ている方も疲れますのよ。
まるで小さい頃から喧嘩で勝ったり
負けたり、負けたり、負けたり。
あの時と全く変わっていませんもの。」
「何じゃ、その勝ったり、負けたり、負けたり
負けたりとは?
やけに負けが多いではないか!
ワシはそんなに負けておらんぞ!」
「あら、私が知る限りでも
蛇に加勢してもらい、
ようやく勝てた事がございましたが?」

退助は思い出した。
11歳の時、福岡孝弟(たかちか)との喧嘩で
負けた時の事を。
退助は顔を真っ赤にして
「あれ一回だけではないか。
その後は一度も負けておらんぞ!」
「あら、お殿様には何度も打ち据えられていると
ご城内ではもっぱらの評判でしたのよ。」
「おまんらはご奉公中に、
なんちゅうくだらん噂話に花を咲かせておるんじゃ?
情けんなかぁ~!」

しかしお菊の情け容赦ない追及は続く。
「それに退助様は妙な変態めいた剣で
お殿様に立ち向かったと。
ご城内の女子の間では、
退助様はご変態であらせれれると。」
「あんなぁ、おまん・・・。もうそのことは忘れよ!!
良いな、今すぐ忘れろ!」
「ハイハイ、忘れるよう努力いたします。
退助坊ちゃま。」
「坊ちゃまと呼ぶな!」

いつの間にやら昔に戻っているふたりであった。

その日を契機に、
江戸滞在中はもとより、
東京と地名が変わっても
日本橋にほど近いこのお菊の料亭に
足繁く通う退助であった。



お菊との再会は、戊辰戦争前夜の退助にとって
歴史的に驚異の働きを見せる原動力となった。


退助の決意が
象二郎と慎太郎、竜馬の動きを加速させる。



   つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(13)

2020-12-25 11:52:28 | 日記
   

 


     写真はWikipediaから借用








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#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
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         第13話  男 中岡慎太郎



 中岡慎太郎は1838年(天保9)年
4月13日(新暦5月6日)生まれ。
後藤象二郎年3月19日(同4月13日)とは同い年であり、
小林塾のクラスメートでもある。

別の回でも紹介したが、
その身分は中岡家は名字帯刀を許された大庄屋であり、
上士の一番下位の身分である。
上士と云っても、郷士に近く、
郷士出身の武市半平太の道場にて剣を極め、
坂本龍馬との親交も厚かった。

1861年(文久元)武市が創設した土佐勤王党に加盟、
志士としての活動を始める。



  彼の評価

尾崎旦爾 (熊吉) にして
「才略と胆力と人格を有し、
而して彼の如く刻苦し、彼の如く忍従し、克く結び、克く尽し、
回天の大業を空挙に築き、維新の元勲として功績最も多く、
稀世の英傑なり」と言わしめる。

また板垣退助 は
「中岡慎太郎という男は本当に立派で西郷、
木戸らと肩を並べて参議になるだけの智略と人格を備えていた」
と評している。

1862年(文久2)中岡慎太郎が長州の久坂玄瑞と
佐久間象山を訪ねていた頃、
退助は勤王に忠することを誓い、
豊信公に尊王攘夷を唱えている。

退助が失脚し慎太郎が退助宅を訪ねた会見で、
象二郎に次いで得た力強い親友=同士を得た退助は、
それぞれの役割分担を強く意識した。

即ち、退助が失脚したら象二郎にが復活、
藩政を各々が信じる方法(退助=尊王攘夷、倒幕。
象二郎=佐幕、雄藩による幕府との政治連合形成)で改革。
近代化と富国強兵、
日本国内での発言力強化に努めた。

対して、中岡慎太郎とは
退助が藩政を上から支え、
慎太郎が下から諸国を跨ぎ
人脈形成と薩摩・長州の同盟形成に寄与する活動を成した。

退助邸での盟約の後、慎太郎は素早く動く。

9月に脱藩、長州に身を寄せる。
その後島津久光暗殺計画に参加。
失敗に終わると、禁門の変、下関戦争に参加する。
その積極さは鬼神を思わせる奮闘ぶりであった。


その頃土佐では尊王攘夷派の粛清が始まる。
武市半平太が捕縛され
勤王党メンバーたちが一斉に捕らえられた。
昨日の権力を一瞬にして失い、
一転罪人の烙印を押される。

勤王党が弾圧を受けると
志が近い退助が動く。

すぐさま藩政に復帰、
高知城下町奉行に就任。
大監察(大目付)を兼任、
武市半平太、勤王党関係者を擁護する姿勢を見せ、
弾圧を是とする藩庁と対立した。
しかし藩庁側の逆襲により、
2月9日大監察(大目付)・軍備御用兼帯を解任され再び失脚。
結果、武市半平太は
慶応元年閏5月11日切腹と相成った。
半平太を筆頭に次々と処刑され
土佐藩内に於ける勤王党は壊滅状態になった。
このことが後の維新後の政局に大きく影響される事となる。

土佐勤王党とは日本全国を見渡しても
有数の尊王派一大軍事組織であり、
もし戊辰戦争等で組織が健在のまま参加できていたら、
土佐は薩長と同等の立場で政局を運営できていた筈と
弾圧を主導した張本人である山内豊信公が
薩長の後塵を拝する結果を招いた事実を見て、
後に後悔し、嘆いている。

勤王党弾圧の直前に目指す路線の違いから
袂を別った中岡慎太郎と坂本龍馬は、
まるで退助と象二郎のように役割分担を徹底した。

退助と慎太郎は尊王討幕に、
象二郎と竜馬は雄藩連合に、精力的に働いた。

1866年(慶応2)、それぞれの立場と思惑から
慎太郎と竜馬が共同作業で3月7日薩長同盟を仲介成立させる。
1867(慶応3)その功績により慎太郎・竜馬の両名は
脱藩の罪を許され藩籍復帰。
その後ふたり各々別々に動く。


その頃退助は1865(慶応元)4月25日謹慎を解かれ
兵学修行(洋式騎兵術)の命が下る。
翌66年になっても藩庁より引き続き学問、騎兵修行のため
江戸滞留の許可が下りた。
要するにまだ帰って来るなとの命だった。

この修行は藩庁にとって目障りな退助を遠ざけ、
その間に藩の実権を固める意図が見えてくる。


目前に迫る倒幕の嵐の前夜、
江戸の町には退助にとって運命の出会いが待ち受けていた。

薩摩藩士の英傑との会食で
たまたま入った料亭で思わぬ人に出会ったのだ。

「・・・!!  お菊・・・。何故おまんが?」
「退助様!!! お懐かしゅうございます。」
大そう驚いた様子のお菊であったが、
「ご活躍は私の耳にも入っております。
もしかして、いつかこの日がやってくるやも?と
少し期待もしておりました。」
「和主(わぬし)はここで一体何をしておる?」
「今、私はここの女将を務めております。
ここでは何ですので、後で落ち着いたら
場所を改め、お話させていただきとうございます。」
「ふむ、分かった。では後程。」
そう言って別れたが、その後の会食での会話の内容は
退助にしては珍しく
『心ここに無し』の状態がありありだった。
そんな様子に訝しがる大久保一蔵(利通)が、
「退助どんどないした?」
他の側近の藩士たちが調子にのり、
「腹痛でごわすか?」
「何を呆けちょる?」
など散々な言われようであった。

「やかましか!!」
鼻の頭を真っ赤にして退助は狸寝入りを決め込んだ。

その日の会食は早々にお開きとなり、
面々が帰った後、ひとりになった退助は
お菊が別に設けた部屋に移動する。

接客がひと段落したお菊がやって来たのは
小半時程過ぎた頃だった。



  つづく








 


       

こりゃ!退助‼ ~自由死すとも退助死せず~(12)

2020-12-20 16:50:48 | 日記


     







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   第12話

藩主の父豊信公の側用人として
江戸藩邸総裁を命ぜられた退助は
1863年(文久3年)豊信公に付き従い
江戸へと旅立った。

江戸に到着すると退助は精力的に動く。
まず薩摩藩の重鎮大久保一蔵と接見、
豊重公との会見の橋渡しを果たす。

その結果、豊信公は薩摩藩国父である島津久光との
交渉ルートを確保、
福井藩松平春嶽、薩摩藩島津久光と共に
佐幕派代表としての活動の足掛かりを築いた。
早速豊重は京に上洛、
容堂、春嶽、久光の三者会談を行う。

 その年、京では歴史を揺るがす政変が起きた。

 8月18日の政変である。


 我が者顔で京の都を席巻してきた長州。
それを会津藩と薩摩藩が結託し
武力を背景に長州追い落としを実行した。
長州側が一触即発の事態を回避したため
長州を中心とした討幕派が後退、
佐幕派(幕府協力派)
が勢いを盛り返した。

これにより、有力な佐幕派の豊信公は
安政の大獄以降続いた謹慎が解かれ、
藩政の実権を再び握る。



早速藩に戻り、体制を立て直す豊信公。
自ら藩主の父として
実質的権力を掌握。

まず吉田東洋暗殺の報復に
再び攘夷派の弾圧を始めた。
土佐勤王党大粛清である。

直前に急進的な勤王党と袂(たもと)を別った
坂本龍馬と中岡慎太郎は幸か不幸か難を逃れる。


豊信公と逆に尊王攘夷・討幕派として失脚し
帰藩した退助。

そこで家の変化に遭遇する。

妻のお里の実家である林家の跡継ぎ問題が発生。
兄の政護(益之丞)が病により早世したのだった。

嫡男を失い、家と道場を継ぐ者がいない。

林家は遠回しに、唯一の実子である里を
実家に戻して欲しいとの要望を
遠慮がちに乾家に伝えてきた。

一度他家に嫁した娘を返せとは
いくら何でも厚かましい。

しかし、家と道場を守るには、
娘お里を林家に戻し、
養子をとって存続させる以外ない。

乾家の退助の母賢貞(幸子)は
どう思っていたのか?

彼女は未だ子を成さぬお里を
あまり快く思っていない。

退助に対する、
ズケズケと遠慮ない物言いや、
乾家の家風に合わない切り盛りに
不満を持っていた。

藩の要職を渡り歩く退助は
不在がちであり、
当然子などできる筈もない。

しかも、お里に頭が上がらない退助が、
お家の家風に合わせるよう説得したり
従わせるなど論外であった。

かくして林家と母賢貞(幸子)の利害は一致。
まだ若く、子を成さぬうちにお里を離縁させ、
林家に婿養子を迎える算段はついた。


退助が家に戻ると、
顔面蒼白で精気を失ったお里が
今にも倒れそうに退助を迎えた。

退助を見るなり、自然に涙を流すお里。
その只ならぬ様子に退助が
「如何した?」声をかけると
お里はついにその場に泣き崩れた。

事の次第を聴き退助は
怒りに震えた。

しかし泣き続けるお里をあやすうち、
冷静になって考える。

一体誰を責めようぞ?
誰が悪いというのか?
母を責めれらるか?
それとも「それはお里の実家の問題であって
夫である私は知らん!」
と突っぱねる事ができようか?

林家の道場は退助にとっても大切な場所。
青春時代の全てを道場で過ごし、
大変なご恩のある林家に報いる時ではないのか?


退助にとって大切な女性を失うのは
これでふたり目。

初恋のお菊を失い、
次はお里。
退助の意思とは関わりなく
去ってゆくのを、成す術もなく見過ごすのは
あまりに辛い。


離縁し、実家に帰るお里には、
もう婿養子の相手が決まっているという。

何と云う残酷!
無常・無情とはこのことであろう。

お里につられ、退助も人知れず涙を流した。

そうしてお里が家を出る日、
今度は退助がお里を見送る。

去り際、最後に見せたお里の笑顔は、
やはり美しかった。

両手の拳(こぶし)から血が滲む程握りしめ、
唇を小刻みに震わす退助。

お里の姿が見えなくなっても、
暫くはその場を離れられなかった。

もしその場から一歩でも動き
家の中に帰ろうとしたら、
その瞬間から
お里との別れの時間が終わってしまい、
永久にふたりの縁を葬り去る事になる。
心の中に孤独と空洞の世界が始まり、
悲しい戦いが待っている事を知っていたから。


別れは人を成長させる。

別れは人に痛みを教え、
優しくさせる。

お里を失い、氷のように心を閉ざし、
その逆に哀れなる人に施しを贈る。

退助は氷の心で思想に立ち向かい、
尊王攘夷の志を先鋭化させる。

その一方で領内の民や
不遇の郷士により一層近づき、
温かみの増した接し方で向かい合った。
傷心の退助のそばにはいつも象二郎がいた。

象二郎は退助とは逆の立場(佐幕派)として
殿を支えるべく謹慎から復活、復帰した。

即ち大監察、参政として藩政に返り咲いたのだった。

退助の帰還と離縁を耳にした象二郎は
まるで何事もなかったかのように、
獲れたてのカツオを持参して
「よぉ!退ちゃん!!久しぶり!!」
と屈託のない笑顔で勝手知ったる玄関の敷居を跨いだ。

象二郎の退助に見せる人懐っこさは、
おおよそ大監察様、参政様の威厳はない。

退助は象二郎の来訪を心から喜んだ。

有難かった。
離婚した後の弱り切った女々しさは
他人には見せられない。
幼馴染で普段通りの象二郎が
退助に僅かながら笑いをもたらせた。

「退ちゃん、覚えちょるか?
ふたりで昔通った居酒屋「平助」の看板娘を。」
「おう、よく覚えちょる。
あのひと際ベッピンなお千代坊の事であろう?」
「この前、忍びで久しぶりにひとりで行ってのう。
驚いたことに、お千代坊は嫁にも行かず
まだ居ったんじゃ。」
「何と!まだ居ったんか!!
しっかしおまんも好きよのう。
酒も飲まんと何しに行ったんじゃ?
まさかお千代坊に逢うためでもあるまい?
その頃はまだ蟄居中じゃったんじゃろ?」
「蟄居も糞もあるかい!!
わしゃ飲みたいときに番茶も飲むし、
喰いたいときに串焼きイワシも喰うわい。
納得せん仕置きに従う程、やわじゃないきに。
たまたま気晴らしにいったんじゃ。」
「ほお、そうかい?
気晴らしのぅ・・・。」
「何じゃその疑いの目は?」
「わしゃいつも感じておったんじゃ、
おはんがお千代坊に気があるんじゃないか?
と云う事を。
・・・で?」
「で?って何じゃ?」
「おはんが持ち出した話題じゃろ?
当然お千代坊との事じゃろが?」
「・・・・実はそうなんじゃ。」
少々恥ずかし気に、気まずそうに象二郎は話しだす。

「お千代坊がまだ嫁に行ってないのに驚いて、
思わず「まだ嫁に行ってないんか!」
と大声で聞いてしまっての。」
「そりゃまずいわ、象二郎!
おまんにはデリカシィと云うものは無いんか?」
「やかましいわ!おまんにデリカシィの事で
指摘されとうないわい!
所でデリカシィって何じゃ?」



*時代考証上ありえない会話だがお許しを。
この後の会話は現代風に意訳したと思ってください。



「そんでもって、お千代坊に聞いたんじゃ。
『お千代、おまんの好いた男はどんなタイプか?』っての。
そしたらお千代坊、
『そりゃ勿論顔のいい男に決まってます。』
それじゃ、三浦春馬のような顔したいい男だが
足がダックスフント並みの短足で貧しい男と、
赤塚不二夫の人気キャラ(?)
『ドブスの牛次郎』みたいな顔だが、
石原裕次郎みたいな足長でスラッとして
カッコよく、大金持ちの男とどっちが良い?」
「・・・・そりゃぁ、そりゃぁ・・・
いい男でカッコよく、お金持ちが良いに決まってます。」
「ブッブー!!反則の答えは一点減点!!」


「おまんらは何ちゅう会話しとんねん?
大体、男の好みの選択肢の中に
志(こころざし)とか、優しさとか、趣味とか、
相性とかは無いんか?
情け無か~!!
おまん達、ほんまに土佐人か?」
「良くいうわ!
それと同じ会話を
退ちゃんは江戸の店でしておったじゃろ?
チャンと同行した同僚からの報告は
耳に入っておるんじゃゾ!」

退助は目をあっちゃに逸らし、
「何の事やら、知らぬ、存ぜぬ!
クワバラ、クワバラ!」
「このシラきり退チャンが!!」

ふたりは笑い合い、夜が更けていく。




数日後、少し元気を取り戻した退助は
自宅を訪ねて来た中岡慎太郎と会った。

中岡は象二郎とは小林塾仲間で
深い関りがあったが、
入塾を固辞した退助には良い印象は無い。
同じ上士でも、象二郎は仲間意識があったが、
退助は敵対する存在にしか見てはいなかったのだ。
そんな中岡がやってきた。
当然退助は構える。
中岡に問う。
「君がここに来たのは失脚した私を見に来たのか?
私が何を考えているのか見極めるためであろう?
だがその前に・・・。
以前京都で君は私の暗殺を企てたであろう?」
直球で質した。中岡は、
「滅相もありません!」
大声でシラを切った。
鋭い眼差しで退助はすかさず、
「いや、天下の事を考えればこそ、
あるいは斬ろうとする。
あるいは共に協力しようとする。
その肚(はら)があるのが真の男だ。
中岡慎太郎は男であろう?」
退助は迫る。

逃げ場のない中岡は開き直り
「いかにも!
・・・あなたを斬ろうとした」
と堂々と正直に打ち明けた。
退助はその度胸を気に入り
「それでこそ、天下国家の話が出来る!!」
と互いに忌憚ない話ができる仲となった。

その時から下からの活動を中岡が、
上からの活動を退助が行う役割分担が成立。

その後中岡は脱藩し長州に渡る。
64年(元治元年)、薩摩の島津久光暗殺に失敗、
禁門の変、下関戦争に参加する。
そして坂本龍馬と共に
土佐と薩摩、長州の大同盟を仲介した。

退助は上からの活動を行うため、
11月14日、要職の深尾丹波組・御馬廻組頭に復帰。
64年(元治元年)、高地城下町奉行、
大監察に就任した。



   つづく

こりゃ!退助‼ ~自由死すとも退助死せず~(11)

2020-12-16 12:04:07 | 日記


      







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        怒涛編



     第11話

 朝、別れの時は来た。
生まれたばかりの日の光を浴び、
お里の顔が輝いて見える。

昨晩の涙は尾を引かず、
今まで見た事の無い笑顔。
退助は今まで見た中で一番美しいと思った。

 「どうかご無事で。」
「里も達者で暮らせ。
・・・母を頼む。」

年老いた母が気がかりだが
江戸と藩と日本の将来に通じる
明日のため、歩むしかない。

家を守るお里を残し
退助は再び江戸を目指し旅立った。





船旅と徒歩で10日の旅。

江戸の土佐藩邸に辿り着く。

退助の役職は江戸留守居役兼軍備御用。

彼の役目を具体的に言うと、
失脚、蟄居し、隠居中の豊信公に代わって
江戸の動静探査と、
軍事増強のための渡りをつけるため
人脈強化にあった。

この時退助は幕府側重鎮、
咸臨丸の渡米から帰国したばかりの
勝麟太郎や小栗上野介と会見、
軍艦の操練技術の習得方法や
土佐藩の発言力強化の下地作りに着手している。

また彼らが主張する公儀政体論
(諸侯の政治参加を呼びかけ、
幕府と共同で政治を行う主張)
に触れ、自ら傾倒する尊王攘夷論との議論を交わした。


一方土佐に残った後藤象二郎は、
万延元年(1860年9月)大阪にて土佐藩邸建築のため
普請奉行に任命され、翌文久元年(1861年8月)
御近習目付となっていた。
退助より出世は早く、
退助の祝言の頃は藩政の中枢にいたことになる。

実はその頃の退助と象二郎、
ふたりの運命の歯車を狂わす大事件と対峙していた。

それは土佐藩内に蠢(うごめ)く
尊王攘夷派の存在であった。
以前の回で前述したとおり、
土佐藩は上士と下士(郷士)の身分差別などにより、
武士階級の間に深い溝が存在した。

上士と郷士の中間の身分である白札郷士(上士の末席身分)、
武市半平太(瑞山)が『土佐勤皇党』を結成。
その数200名とも500名とも云われる
多くの郷士を取りまとめた。

彼は1861年まで江戸に滞在。
それまでの間、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らと交流。
この交流を通じ、彼自身、
尊王攘夷土佐藩代表として名乗りを上げる。

そして武市が江戸滞在中
彼の命により土佐藩領内に於いて
彼が組織した
『土佐勤皇党』が結成されたのであった。

退助はその武市半平太の動向を探るのも
任務のひとつであったが、
どうやら一足先に土佐に帰国した半平太とは
行き違いになったようである。

藩内の不満分子と勤皇の志をもった
志士の集まりである勤皇党は、
盟主武市半平太の帰国に伴い、
ついに本格的活動を始めた。

後藤象二郎も彼らの動向からは目を離さずにいたが、
勤皇党一派は土佐、京都などで天誅と称し
反対勢力を次々と粛清、
ついに文久2年4月8日(5月6日)吉田東洋が
彼らによって暗殺された。
もう勢いは止まらない。
東洋の暗殺を契機に、
一気に藩政を掌握するに至った。

後ろ盾を失った象二郎は失脚。
その分退助が豊信公を補佐する重責が増した。

退助は同じ尊王攘夷派としての立場から
国許で動揺する役人たちを叱り、
鼓舞する内容の書簡を送っている。

曰く、
「国体(天下)を改めるとき
変事が生じることぐらい覚悟すべきである。
賊徒の首を切って人々へ示す事により、
かえって国が安定する事もある。」

藩の役人たちに「オタオタするな!」
と言っているのだ。

そして文久2年6月(1862年7月、
小笠原唯八、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに
勤王に盡忠することを誓う。

その時交わした江戸の誓いは
その後の退助の行動指針となった。
このころ退助はすでに土佐勤皇党の重鎮である
間埼哲馬と好誼を結んでいた。

間埼とは土佐藩・田野学館で教鞭をとり、
のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士である。
彼と交わした書簡で
勤王派の重要人物から
何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られた。

日増しに重要な立場に押し流される退助。
とうとう彼は藩主の父であり
実質的家督の実権を握る
豊信公に1862年9月側用人として呼び戻される。

家を離れ9カ月以上経過。
お里は長期出張から帰還した退助を
人目も憚らず、満面の笑みと
歓迎の涙で迎えた。

その晩は不在だった退助のその後の家の出来事を、
弾丸トークでまくし立てる。

退助の母が、
老いから同じ事を呪文のように繰り返す様子や、
最近、鯵や鯖が不漁で手に入りにくくなってきた事。
お里の実家の兄が病に伏せた事など、
お里の世界の一大事を
まるでこの世の終わりのように聞かせる妻。

退助は自分が今背負う国の重責を思い、
自分の妻が心より愛おしく、
家に帰った実感が沸々と湧いた。

妻は聞く。
「旦那様、またお痩せになりました?」
「いや、特にそんな事はない。」
「江戸では『江戸患(わずら)いという病
(脚気(かっけ))が
はびこっていると聞きました。

*注 当時江戸では精米技術の発達に伴い、
玄米から白米が主食となる。
白米は玄米に含まれるビタミンB群をそぎ落とすため
栄養不足から脚気が流行った)

旦那様は私がいないと切れた凧の様に
フラフラと悪行三枚に溺れて、
身体に悪い物ばかり食していたのではないかと
里は毎日心配しておりました。」
少しムッとした退助は返す。
「・・・悪行?私がそんな男に見えるか?」

すかさずお里。「見えます!!」

めげずに退助は冗談で、
「江戸でした事と云えば、
褌(ふんどし)も絞めず、夜道で行き交う人の中、
着物の両裾を開き
「な?」って言った事が三回あっただけだぞ。」
な?大したことはないだろう?」
「旦那様、それは立派な犯罪でございます。」
お里は軽蔑の眼差しでキッパリ言った。

妻に犯罪者の烙印を押され、翌日登城した退助は
事もあろうに、豊信公の側用人として抜擢された。

そして翌年の1863年江戸藩邸総裁に任命され、
豊重公に従い上京する事となる。


 またも家を離れる退助。
お里もついて行くと駄々をこねるが、
当然退助に一喝される。
「江戸中で私が所かまわず、夜な夜な
『な?」』と言っているところを見たいか?」

全力で冠(かむり)を振るお里であった。

 
  つづく

こりゃ!退助‼ ~自由死すとも退助死せず~(10)

2020-12-11 22:10:14 | 日記








このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…

皆さま、お疲れ様ですつい最近まで30℃近い日々だったのが一気に10℃下がってま、今は20℃前後寒い地方では10℃以下になってるところもありま...

#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…

 

 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。








第10話 免奉行

 吉田東洋の強い勧めもあり、退助は免奉行
(今で云う土佐藩内の国税庁長官のような役職)
に就任する。

 今日は藩主豊信公に
就任の挨拶のため謁見する日。

 稽古仲間として勝手知ったる仲。
しかし、公ではお互いしかつめらしい顔をする。

 「本日、免奉行拝命の段、
不肖この乾退助、謹んでお請け致します。」

実は全く出世に対する欲を持たない退助は
当初渋っていた。

東洋の説得と半強制の脅しがあって
ようやく渋々受ける気になった。

でもそのうち、考えを変える。

自分は曲がりなりにも志(こころざし)を持つ身。
万人のために尽くす努力と実践を渋って何とする。
自分は自由な世の中を実現させるために
学びと鍛錬に打ち込んできたのではなかったのか?
なまけ癖と責任の重さに、
つい保身に走り尻込みをする自分が
許せない退助であった。


先ほど前日の祝言の場に贈った
祝いの品に対し、
退助から感謝の言葉を受けたばかりの豊信公は、
上機嫌な笑顔で
「まっことおはん(お前)は不肖者よのぉ。
しかしこの『荒くれ退助』でもいっちょ前に
嫁を貰ったからには、
少しくらいは一人前の男として働く位(くらい)、
できるようになったであろう?
 象二郎に色々聞いておるぞ。」

( えっ!象二郎? この、おしゃべり野郎!!)

平伏しながら苦虫を潰した顔の退助は思った。

「何をお耳になされたか存じ上げかねますが、
この退助、粉骨砕身の覚悟であたる事を
殿の御前でお誓い申し上げたて奉ります。」
平然を装い、取り繕うように退助は応えた。

普段から喧嘩悪行三昧の退助。
叩けば埃(ほこり)の出る身。
身からでた錆のくせに
(象二郎のやつ、何を告げ口したか)
戦々恐々の冷や汗をかく退助であった。

見透かすように豊信公は言う。
「新しいソチの奥は新婚にして
女子(おなご)ながら
大そう骨のある賢女(けんじょ)と聞く。
ソチの通う道場の娘とな?
さぞ心身共に剛健の細君となろう。
 これで乾(いぬい)家も安泰であるな。
ハッ、ハッ、ハッ!」

(チッ!象二郎め、やはり里の事チクったな?)




祝言の晩、
象二郎は退助の少年時代の逸話を
いくつもお里に語った。

曰く
「ガマの油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」
と聞いた事があるじゃろう?
本当かどうか実践してみようと云いだしての。
ワザワザ蛙を捕獲して釜で煮てみたんじゃ。
そうやってガマの油を作ってみたが、
それを体中に塗ったり、飲んだりして、
いつもの鏡川にて潜ってみたが
全く呼吸ができない。
そうやってガマの油の効力なんて
迷信であるのをつきとめたんじゃ。」
「まぁ!本当ですの」
お里は目を丸くする。

 お里の反応に気を良くし、調子に乗った象二郎は、
「翌日今度は、なんと罰当たりな事に、
神社のお守りを厨(くりや)に捨ててみたんじゃ。
本当に神罰が起こるのか、試してみようと思っての。
ほんでもってその結果、何ぁ~にも起こらんじゃった。」
実践による実証主義者ぶる象二郎。
得意げに話したが、里の反応は意外だった。

「何と罰当たりな!
何にも起こらなかったとおっしゃいますが、
チャンと起こったじゃありませんか?」
「何と!!何が起きたと云うんじゃ?」
「大人になっても尚、退助様は悪童のまま。
全然成長と云うものを感じませぬ。
このままでは永久に手の付けられぬ悪童のまま
生涯を通す羽目になるのかと。
それこそ神仏の罰と思し召し、
改心と精進を尽くすべきでございましょう?」

「これは手厳しい!痛たたたっ!」
象二郎は自らの額をペシッ!と叩き
退助に向かって
ひょうきんに笑った。

しかし本当は次に、
「「うなぎと梅干」や「てんぷらと西瓜」
などの食べ合わせは、
食べると死ぬという言い伝えを、
わざわざ人を集めて
食べて無害なことを実証したこともあったなぁ。」
と思い出話を続けるつもりでいたが
墓穴を掘るだけと気づき、止めた。

しかし、まだ何か言いたげの象二郎を見た退助が、
「なんじゃい!象二郎!!
まるでワシだけの所業のように言うとるが、
全部お主も居(お)ったではないか!
共犯のくせに狡いぞ!!」
象二郎の首を捕まえ、
強烈なヘッドロックをかました。

「やはり似た者同士のおふたりですのね。
はぁぁぁ・・・。」
先が思いやられるというリアクションのお里であった。


    
   免奉行


 免奉行とは土免定(どめんさだめ)を発給する役職。
土免とは、藩が年貢を賦課する際の税率。
年貢は藩が決定し各村々に書面にて通知する。
その文書の事を土免定という。

退助の担当する吾川郡や土佐郡は、
前年、騒動があった。
藩政に抗議する農民たちがいた地域であったのだ。
それ故、藩庁は気の荒い退助を送り込む。
しかし新任早々の退助は、
平伏し遠慮がちに話をする農民たちを見て、
「万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、
議論したりするぐらいがちょうど良い。
私にも遠慮なく文句があれば申し出てください。」
と優しく語り掛けた。
喧嘩悪童・・・、実は下の者、弱い者に対し
全力で守ろうとする正義の味方だった。

たちまち領民の心を掴み、
慕われる様(さま)は、地域を超えて評判となり、
やがて藩主豊信や
取り立てた本人の東洋の耳にも伝わる。

免奉行の在任期間はおよそ1年あまり。
高く評価された退助は、
文久元年10月25日(1861年11月27日)、
早々に江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、
11月21日(12月22日)、
高知を出て江戸へ向かう事となる。



家を守り残るお里。

旅立ちの前日の晩。


去り行く退助を前に

私は泣かない。
私は泣かない。
私は泣かない。

・・・不覚にも涙を流す。

夫の立身出世は妻の喜びの筈。
しかし、辛口のお里でも
心から退助を愛していた。

明日から夫はいない。

何を頼りにし、楽しみに生きれば良いのか?
がらんとした家の中にいては耐えられない。
新婚の楽しかった思い出が沁み込む
この家にいては
寂しさで気が狂いそうになるだろう。
日常の他愛ない会話や
笑顔とふれあいが
実は何物にも替え難い宝物であった事に
今更ながら気づく。

(いかないで)

そう心で叫ぶお里であった。

涙に暮れるお里を
そっと抱き寄せる退助。

夜は更け行く。



  つづく