uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


1945年8月15日  戦争はまだ終わっていません

2021-08-17 16:23:00 | 日記

先人の勇姿、CG画ながら泣けます 竹内まりやの返信にのせて、、、
https://share.buzzvideo.com/s/RrjYweYR

タップして反応がなければ、URLを長押ししてみてください。



8月15日の終戦記念日は過ぎました。
でも1945年8月15日が過ぎても戦闘は続いています。
その後もソ連軍の侵攻があり、戦争は終わっていなかったのです。
神風特攻隊だけが特攻ではなく、人間魚雷『回天』や、
戦闘中の兵卒たちの銃弾が尽き、銃剣を構えての突撃も特攻です。
軍犬が爆弾を背負わされて突撃した例もあります。

戦争に参加し、犠牲になった人々全てに黙祷。

時代背景(2)

2021-08-15 14:38:23 | 日記
 日本という国は、
明治維新以降、2度破滅的変化が起きている。

 1度目が1930年代の軍部の台頭。
 2度目が1990年代の小泉・竹中の台頭。

 一度目も2度目も
国際社会の大きなうねりの中で生きる以上、
一番の選択と思われた。

 しかし、その後の現状を見ると、
限りなく国力をそぎ落とし、
国運を危うくしている。


 ここでは1度目の時代背景を見ていきたい。

 前回の日記で
幕末から第二次世界大戦前夜までの
主にアメリカとの関りについての
私なりの分析を簡単に述べてきた。

 今回はその後に引き継ぎ、
何故日本は愚かな戦争に突き進んだのか
考察したい。





   驕り高ぶる日本の意識



 明治維新は外圧への極端な危機意識が働き、
政治を動かし、国力を高め、国際的地位の向上に努めてきた。

 一挙手一等足が緊張感を帯び
絶対失敗は許されぬ環境にあった。

 だから本来無謀な大博打であるはずの
日清・日露戦争も用意周到な準備と作戦を怠らず、
必死で戦ってきた。


 何度も云うが、
私は戦争を鼓舞したり、美化する考えを持たない。


 ただ歴史を客観的な面と流れで見た場合、
これらの戦争は『条約改正』と『安全保障』を勝ち取るための
避けられない大博打への挑戦だったと云えると思う。


 この時の日本は、あくまで国際社会への挑戦者だった。

 挑戦者としてわきまえ、
挑戦者として下から上を見上げる姿勢があった。

 だがたまたま奇跡的に勝利できた二度の戦争は、
この国の民の意識を狂わせた。

 つまり、「一等国の仲間入りができた」と
決して持ってはいけない勘違いをしたのだ。
そして驕りや、相手を見下す習慣を身に着けてしまった。

 そしてその時身に着けたもうひとつの悪しき習慣。

 それは本来上に立つべきではない
無能で傲慢な輩に重大な決定権を持たせてしまった事。

 国家存亡の危機に追いやった国賊的軍人が二人。

 この二人が必要のない戦争をはじめ、
沢山の日本兵と一般国民を死に追いやっている。

 その二人とは、軍神と崇められ、作戦の神様と云われた
山本五十六と辻政信である。

 何故この二人なのか、
歴史を追って見ていきたい。





   ノモンハン事件


 ノモンハン事件とは1939年(昭和14)
満州国とモンゴル人民共和国との間に起きた国境紛争である。
 戦争の主体はモンゴルと満州国であるが、
ソ連はモンゴルと1934年11月、軍事同盟を結び、
日本の関東軍は1931年に満州事変を起こし、
翌年満州国を建国、勢力下に置いている。

 そうした事情から
後ろにはソビエト連邦と日本の関東軍が控え、
実質ソ連対日本の戦いと云えた。
 ノモンハン『事件』と日本側は称しているが、
ソ連側は「ハルハ河戦争』と呼び、
その大規模な戦闘行為は
実質、戦争と呼ぶべきであった。


  事の発端


 この年の4月
作戦参謀の辻が起案、
関東軍司令官・植田謙吉大将が通達した
「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。
 
 この要綱は日本の陸軍参謀本部が
ソ連との戦闘不拡大方針を
堅持していたのを逆手にとり、
「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、
「万一侵されたら機を失せず膺懲する」
などの記述を拡大解釈し利用した。

 どういうことかと云うと
当時国境線が不明確地点が存在し、
国境紛争の小競り合いが続いていた。
 その現状を打破するため、
現地司令官が自主的に国境線を認定、
衝突が発生した際は
兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。

 つまり戦闘を拡大するつもりはないが、
自重もしませんよ、と云っている。

 国境線画定を期すためには
積極的に戦闘作戦行動はとりますよ。
という主張が成立するのだ。

 日本陸軍は戦争不拡を、
関東軍参謀は積極的国境紛争関与を目指した。


 当時の日本を取り巻く情勢を振り返ると、
次第にアメリカとの軋轢が強まり、
そこを何とかしなくてはならなかった。

 だから満州国の国境である不毛の地
「ノモンハン」などに
関わっている場合ではないのだ。

 なのに関東軍参謀の辻は、
そんな無駄で無謀な戦争を強硬に主張。
何のした準備もせぬまま、
強引に戦争に巻き込んでしまった。


 その時関東軍は何の根拠もなく
ソ連軍は弱いと決めつけていた。

 日露戦争であれだけ近代兵器をふんだんに使用して、
日本兵を苦しめた相手だったのに。

 案の定ソ連軍は日本軍の4倍の軍事力を行使、
圧倒的兵力と火器で日本軍を死地に追いやった。



 ろくな情報収集もせず、
援軍の派遣、武器弾薬の補給も無い。

無謀で無能な作戦を立案し、
数多くの将兵を犠牲にし、
多くの部隊を全滅に追いやった辻参謀。

 彼はその責任を現場指揮官に負わせ、
激しく詰(なじ)っているが、
自分は全く何の責(せき)も負っていない。

 それでもそんな不利な状況下、
必死で戦った日本は善戦した。
 歴史では日本の惨敗と言われているが、
劣悪な武器(サイダーの瓶にガソリンを詰めた火炎瓶など)
で野戦に持ち込み、ソ連の戦車に立ち向かった日本兵。 

 その火炎瓶すら使い果たし、
全滅した部隊。

 不可抗力で捕虜になり、
せっかく捕虜交換で帰還した将兵たちに対し
自決を強要した辻参謀。

 
 しかし人には死を求め、
自分だけおめおめと生き残り
次の戦地に転身している。


 辻が次に赴任した戦地、
マレー作戦に於いては、
第5師団の作戦指導を行い、
敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。
 その時作戦参謀としての任務を放棄し、
第一線で命令系統を無視した。
 その身勝手な行動に対し、
第25軍司令官 山下奉文中将は、
「この男、矢張り我意強く、
小才に長じ、所謂こすき男にして、
国家の大をなすに足らざる小人なり。
 使用上注意すべき男也」
と評している。

 また辻参謀は
シンガポール作戦にも参加。
シンガポール占領後、
華僑20万人に対し一斉検問を挙行、
抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。
(シンガポール華僑粛清事件)


 この敵性華僑剔出処断案は、
作戦主任参謀の辻と朝枝繁春が起草している。
 この時辻は、
「人口を半分に減らすつもりで当たれ」
と命令している。

 またフィリピン作戦では
米比軍指揮官エドワード・P・キング中将が
降伏を部隊に命じて以降、
米比軍兵士が続々と投降し始めた。
 そのような中、連隊や兵団に
「米比軍投降者を一律に射殺すべし
という大本営命令を伝達する」
との命令が第65旅団司令部から電話で伝達された。

 しかしそんな命令は出されていなかった。
 そうした重大な嘘の命令を発したのは
辻参謀だったのだ。

その上辻は、 あの悪名高い
「バターン死の行進」にも関わっている。

 バターンから移動した多くの米軍人が過度に疲労し
死亡したバターン死の行進。
 これも辻の偽命令による虐殺であり、
後に連合国にその責任を問われたのは
責任者の辻ではなく、
代わりに本間雅晴司令官などが
戦犯として処刑され、その責任を負っている。


 それだけではない。
辻はガダルカナル島攻防戦でも
実情を無視した攻撃を強行している。
 

 その後辻は相次ぐ無謀で強引な作戦の失敗、
責任を取らない姿勢が東条や陸軍首脳に嫌われる。
 結果、第33軍参謀として
ビルマ戦線に赴任し、そこで終戦を迎える。

 敗戦を察知した辻は何と!
卑怯にも敵前逃亡している。
 だから驚くべきことに、
とうとう一度も責任を取らなかったのだ。

 これだけの失態を繰り返した参謀。
歴史上こんな無能で無責任な者が他に居たのか?



 実はもう一人いた。


 それは参謀ではなく、司令官だった。

 連合艦隊司令長官 山本五十六

 彼は己惚れの強い野心家だった。
でも悲しいかな無能でもあった。

 彼はまだ若い頃、
武官として渡米した経験がある。
 当然その時アメリカの国力をいやという程
見てきたはずであった。
 普通なら畏怖・畏敬の念を持ち、
この国には敵わないと思う筈である。

 だがその時、不敵にも彼は
打倒アメリカの野心を持った。

 その国力差から見て、
どうやってもアメリカに勝てる筈はない。
 それなのに彼は勝利するための
材料や方法など、根拠を何も持たないまま
「アメリカを打ち負かしたい。」
 そう思うようになった。


 当時のアメリカは先の日記
『時代背景(1)』に前述したとおり、
反日、人種差別の国だった。

 これは想像だが、
米国滞在中、多分いやという程
差別的な経験をしたのだろう。

 感じ悪い国。

 彼の目にそう映っても仕方ない時代だった。
(今でも人種差別は存在しているが)

 この時から山本は
いつかこの国をこの手で打倒したい。
そう思い、誰彼なく
そう公言している。

 でも、そんな彼の愚かな野望を
日本の軍部が許す筈はない。

・・・筈だった・・・・。

 日本はルーズベルトが抱く日本人に対する憎悪から、
兵糧攻めの攻撃を受け、風前の灯の中に居た。

 日本は当時日中戦争の最中にあり、
アメリカの妨害と横槍により、
戦争継続はもはや不可能かと思われた。
それどころか、国家の存続自体が危ぶまれる。

 けれども、座して死を待つ訳にはいかない。
 日本は起死回生の策を求め
頭脳集団を集め『陸軍省戦争経済研究班』
通称『秋丸機関』というシンクタンクを作った。

 秋丸機関は世界情勢を徹底的に調べ、
日本の国力の強み、弱みと、
アメリカ、中国、ソ連、イギリスなど、
関係当事国の経済、社会情勢、
物流環境、戦争継続能力等を調査、分析した。

 その結果、
日本は絶対にアメリカと戦争をしてはいけない。
どんなに挑発されても、柳のようにいなし、
戦闘を回避しなければならない。
との結論に達した。

 ではどうするか?

 日本はアメリカとの衝突をできるだけ避け、
生きる道を南方に求め、
その後西に駒を進めるべきとの結論に達した。

 当時イギリスは思う程国力は無かった。
意外だが、イギリス本国を
連邦加盟国が支える構造で成り立つ国なのだ。

だからイギリスの命脈を握る輸送ルートが
アキレス腱だと判明した。

 イギリスの輸送船をひたすら撃沈し、
イギリスの物流補給路を断ち、
ドイツとの戦闘を継続不能に追い込む。

それが勝利を掴むための方法である。

 だから南進しマラッカを超え、
次に西方(ビルマ・インド)方面に進路を変える。
そしてインド洋の制海権を獲得し
イギリスの輸送ルートを遮断、
中国の蒋介石ルートと
ソ連に対するアメリカの支援路も断つ。
 その後中近東に侵攻し、
そこで軍事同盟国ドイツと合流。
 


 その結果ドイツは、
イギリスにもソ連にも勝利し、
インドシナ諸国や、インドは独立を勝ち取る。
 そうすればアメリカは
東南アジアの資源を手にした日本に対する
兵糧攻めの効果と意味を無くし、
その後は下手に手を出せなくなる。

 そんな起死回生の必勝の一手を策定した。

 これは夢物語ではなく、
日本の残存国力と軍事力を持ってすれば
十分に実現が可能で、
成功率が高いと思われる作戦だった。

 そのためにはひたすらアメリカとの戦闘を避ける。

 もしフィリピン侵攻で衝突しても、
最小限にとどめ、
アメリカの反撃体制が整うまでの間に
 サウジアラビア(この時はまだ独立していない)
までの侵攻を完了させる。

 この作戦は『対米英蘭戦争指導要綱』として
1941年(昭和16)8月正式討議され、
11月5日御前会議で承認された。



「 さあ、これで準備は整った。」


 ・・・筈だった。




 開戦直前の1941年(昭和16)12月1日


 大本営政府連絡会議(御前会議)開催。

 この日突如「ハワイ真珠湾攻撃」が議題に上る。
 
 これは政府、陸軍の知らないところで
海軍並びに海軍軍令部の決定事項になっていた。
 
 しかも帝国連合艦隊は一週間以上前、
既にハワイに向け出港しているというのだ。

 東条秀樹首相は唖然とし
「そんな話は聞いていない」と叫ぶ。
 陸軍も、陸軍参謀本部も大反対した。
 昭和天皇も知らなかった。

 しかし時すでに遅し。
 誰も海軍の暴走を止められない。




 これは海軍トップである
永野修身海軍軍令部総長が、
海軍統帥権を悪用した結果だった。


 彼はハワイ真珠湾攻撃構想を
それまで続けられてきた正式な会議を一切通さず、
裏ルートを使い極秘裏に準備していた。

 開戦一ヵ月前の11月、
ドタバタの中、
密かに昭和天皇に真珠湾攻撃を上奏していた。
 但し、その詳細は伝えていない。
 あくまで形だけ上奏したものであり、
天皇はちゃんと理解していなかった。

 だがこれにより、「真珠湾攻撃」は
海軍の正式な作戦として急遽ねじ込まれた。

 この時、日本の命運は決した。

滅亡の危機に瀕する
絶望の戦争に引き込まれるのは必定となる。

 これには永野修身に知らされた
彼以外の上層部は勿論反対した。

 その時永野は
「山本が真珠湾攻撃ができないなら、
連合艦隊司令長官を辞めると云っている。
 それは困るし、山本がそこまで言い、
自信があるならやらせてやろうじゃないか。」
と、説き伏せた。



 一方山本の部下たち第一航空艦隊など
多数の部下たちも反対している。

「ハワイではなく、フィリピンに行くべき」と。

だが山本は一切聞く耳を持たない。
「気にくわない奴はここから出て行け」
と一喝した。

 かくして真珠湾攻撃は実行された。


 この流れは山本五十六一人では実現できない。

 むしろ山本は利用されたと云って良いだろう。
 永野修身と云う男に。

 連合艦隊司令長官とは
本来在任期間は長くて2年限りの官職であり、
定年退官目前の高官が就任するだけの
飾りに過ぎない名誉職であった。
山本五十六はその時節、偶然就任しただけだった。

 昭和14年8月、山本は連合艦隊司令長官就任。

 だから普通なら16年8月には退官している筈である。

 だがその時も永野が
「今は有事だから」と云って
周囲を説得し、在任期間の引き延ばし工作をしている。


 これにより海軍で唯一、
ハワイを攻撃すべきと公言し、
主張する山本の続投が決まった。

 だからこの愚行は総て
永野修身海軍軍令部総長の陰謀と思われる。

 東条英機首相は真珠湾作戦決行前夜、
「これで日本は負けた。陛下に申し訳ない。」
と皇居に向け座し、号泣したと云う。

 ルーズベルトは
「まさか日本がやってくれるとは思わなかった」
と喜び、イギリスのチャーチル首相は、
「これで英国は救われた」と
神に感謝した。

 ヒトラーは
「日本がそんなことをするなんて聞いてないぞ」
と驚く。
 「なんて馬鹿なことをしたんだ!!」
ヒトラー自身、アメリカとは一戦交える事が無いよう、
細心の注意を払っていたのに。

 アメリカは日独伊同盟国に対し戦線布告。

ドイツは敗れた。



 ただこの真珠湾作戦も、
徹底的に叩きハワイを占領後、
艦隊を西に向ければまだ日本にも勝機は残っていた。

 山本の愚行は
真珠湾攻撃という大規模な作戦を決行したのに
中途半端な攻撃で終わらせ、
アメリカ太平洋艦隊の空母を一隻も仕留めず帰還した事。
 早期の反撃の余地をわざと残し、
その後、ミッドウェー作戦を実行するなど、
西に向かわず、太平洋を主戦場にした事。

 わざと負けるような作戦に終始し、
陸軍が策定した『対米英蘭戦争指導要綱』を潰し
日本を敗戦に追い込んだのだった。


 ここで見えてくる歴史的事実。

 海軍には
敗戦に導く永野修身という黒幕がいた事。

 陸軍は辻が権謀述を巧みに使い
皇道派と統制派の対立を産み
226事件を引き起こしている。
 その後石橋莞爾や東条英機に取り入り
順調に昇進、参謀長として上り詰め
立場を最大限利用している。

 彼は無用な作戦ばかりを策定し
無駄に兵力を消耗させ続け、
敵捕虜や占領した地での虐殺を行うなど、
全く狂気の男だった。


 日本はこの時、
決してその地位に据えてはいけない国賊を
国の行く末を決定する立場に据えた事が
国家の命運を決めてしまった。





 もちろん悪の権化ナチスと手を組み
虐殺に手を貸す勢力が勝利するのは
人類の悲劇である。

 そういった意味では、
日本とドイツが手を組んだことが総ての間違いであり、
負けて良かったのかもしれない。

 たくさんの人を死なせた責任は重い。

 ただノモンハン事件やハワイ真珠湾攻撃など、
無意味な作戦を実行させ、
真面目で純真な国民を
死に追いやった者たちが存在したのは
どう考えても残念でならない。


 無念である。

 






 敗戦により焦土と化した日本。
 その後必死に働き、再び蘇った国。

 誰もがひた向きだった。

 そしてジャパンアズナンバーワンと褒め添さえられ、
自信を取り戻した日本。

 その頃からまた驕りが頭をもたげる。

 そして再び決して据えてはいけない国賊を
その地位に上(のぼ)らせた。


 そして日本の財産をアメリカに売り渡し、
地方の疲弊を招き、労働者の地位と権利を奪い取り
日本に貧困を蔓延させた男たち。

 小泉と竹中。

 今日本はその悪夢に続く
蟻地獄から抜け出せないでいる。

 無能な人材が政府の要衝を占め、
オリンピックやコロナ禍で
失態を繰り返している無能な国賊たち。

 歴史は繰り返している。

 私はその状態に我慢がならない。






だがこんな時こそ希望を持ちたい。




友よ - 高石友也・岡林信康










 

時代背景(1)

2021-08-03 12:57:23 | 日記





私の書いた小説
(小説?おこがましい!!ただの作文であり日記です)は、
時代背景が幕末から
第二次世界大戦を舞台にしたものが多い。
(シベリアの異邦人、アッツ島・キスカ島戦記、
こりゃ!退助!!)

こんな私の拙作ですが、
歴史が不得意と仰(おっしゃ)る読者様からも
コメントやリアクションを多数いただき、
心から感謝しております。

私は少しでも多くの皆様に
伝えたい事を解っていただきたい。

 だから可能な限り難解な表現を避け、
分かり易くしてきたつもりです。

 でも、それでも難しい?

 歴史ってひとつひとつの事件だけに注目していると、
結局何も分からないままで終わってしまう。
そう思います。

 だから今回は、
今までの作文の時代背景を
私なりにひとつの『流れ』としてまとめてみました。

 私の歴史観は私独自のものであり、
「その見方には賛成できない。」
と感じる方も多くいらっしゃるでしょう。

でも、「こういう見方もあるのか」
と参考になさっていただけると幸いです。

           
 あらかじめ言っておきますが、
私は反米主義者ではありません。
 特に恨みもないし、
今の日本にとって最大且つ
有力な同盟国であると認識しています。
日本人の多くは対米感情も良好であり、
過去は過去。
未来志向をこれからも維持すべきと考えています。

それを踏まえてお読みください。




      国家の出会い




 日本とアメリカの出会いは最悪だった。

 日本の歴史上、
一番害を成した国はアメリカである。

 アジアの東の端っこにある、
まだ他国に植民地化されていない国、
『日本』を脅し、鎖国の扉を
武力でのこじ開け、一番乗りを果たした
アメリカ・ペリー艦隊。

 それは彼にとって名誉を勝ち取る行為であり、
名声を挙げ、歴史にその名を残す偉業である。

 彼らアメリカ人には、
「日本は未開で貧しく、遅れた文化しかない
劣等な黄色人種の国」
だと云う認識しかない。
 彼らは侮り、嘲りに満ちた姿勢で
理不尽な要求をしてきた。
 日本を含むアジアの民は、
アフリカ同様搾取の対象。
 自分たちの奴隷にしてもかまわない存在でしかない。

 ただ自分たちアメリカ人は『紳士』だから
今はそこまではしない。
今はお前たちを侵略しない代わりに
港と航海に必要な物資を差し出せ。
 それで許してやる。


「有難く思え。」

そしてアメリカに有利な条約を結べ。

そう要求してきた。





 その当時のアメリカの実情



 アヘン戦争(清国)(1840~42)
セポイの乱(インド)(1857~59)で
ヨーロッパの強国『大英帝国』に負けたインド・清国は
労働力という名の奴隷を差し出さなければならなかった。

これを苦力(クーリー、coolie)と云う。

一方アメリカでは1861~65のアメリカ南北戦争により
黒人の奴隷制度が廃止されると、
急激に労働力が不足した。
それはアメリカのみならず、ヨーロッパまで波及。

そうした時代背景の中、(アフリカ系奴隷制度の頓挫)
アジアに目をつけ、土地や資源、
労働力獲得競争が加速した。

そのような背景から、不足した労働力を補うため、
苦力(クーリー)は世界各地の白人社会に送られる。

しかしその実態はやはり奴隷である。

アメリカのラッセル商会、オリファント商会、
オーガスチン商会など実質の奴隷商人たちは、
普通の労働者の斡旋を装った。

 誘拐・姦計などの手段により集めた労働者を
表向き合法そうに見せかけ、
中南米諸国に供給するために。

 彼らは苦力の数を
例えば『500頭』などと表現、
一人二人ではなく、
1頭、2頭と呼び、契約書などに記した。
 まるで牛や豚、鶏などの家畜同様、
全く人間扱いをしていないのだ。

 アメリカ本土に供給する苦力(くーりー)は、
表向き雇用主に対し期限付きで奉公、
前借りを完済したら自由になれる
『契約移民』であったり、
アメリカまでの船賃を工面し、
金採掘を目的とした自由移民という形式をとり、
建前上、自由意思による移民という
形式を装っていた。

 そして彼らアメリカに送られた苦力たちは、
大陸横断鉄道建設の労働者などとして使われ、
主にカルフォルニア地方に、
10万人以上が送られた。



 そうした背景の中、
勢力拡大主義に走るアメリカは、
『ペリー率いる黒船艦隊』を派遣する。
 彼らは日本に対する
鎖国破り一番乗りの功績を得ようと、
1854年3月、武力による恫喝の末、
強引に日本に日米和親条約を結ばせた。

 こうして日本の鎖国体制に風穴を開け
1858年6月、跡を継いだハリスが
日米修好通商条約を強引に締結する。
それを見たヨーロッパの白人国家(蘭露英仏)は
血に飢えたハイエナのように押し寄せ、
同様の不平等な最恵国待遇の条約を結ばせた。


世に云う『安政の五ヵ国条約』である。


 永らく鎖国していた外交に疎い日本。

 幕府の交渉担当者は
対外条約締結など未経験に等しかった。
 それ故列強の言われるままに結んでしまった条約。

 だが次第にその不平等な内容と、
文言の真の意味を理解した。
 それはどれだけ屈辱に満ち、
不都合なものだったか。
 トラブルが多発するにつれ
身をもって理解し、後悔した。

 しかし総て後の祭りである。



 不平等の具体的な内容

1.片務的最恵国待遇
(通常、最恵国待遇を付与する場合、
条約を締結する双方が
一番の好条件を与え合う。
 しかし、この場合の片務的とは、
日本はアメリカに最上級の好条件を与えたが、
アメリカは日本に与えていない。)

2.関税自主権の欠如
 (通常、独立した国家は交易の際、
  国内産業保護を目的に、
物資等の過度な流入に対し、
自己防衛のため関税をかける。
 関税自主権を持たないと
国内の産業構造は破壊され、
国力低下を招く。
 また、自国資源流出に対しても
自主権を持たないため
国際レートとの相違から、金の流出を招いた。
結果莫大な損失を生んだ。
≪日本と国際相場での
金と銀の交換レートの相違≫
その他、国宝級の仏像や美術品なども
数多く流出している。)

3.治外法権
 (日本の警察、裁判所は、
外国人による犯罪行為に対し
逮捕・拘束の権利を持たない。
裁く権利を持たない。
 また、外国人が起こした事故などの
損害賠償の請求権も持たない。
故に泣き寝入り事案が多発した。)


 そんな時代、
移民として渡っていた中国人により
日本人女性が人身売買されアメリカに連行、
売春宿で働かされていたという事実まで発覚する。

 当時の列強は非情で、貪欲で、
自分勝手な民族差別主義が蔓延していた。
その筆頭がヨーロッパの列強の後から
進出しだした当のアメリカである。

 アメリカ人の認識は、
日本とはただの未開の国ではなく、
首狩り族や人喰い人種に等しい、
物騒な民が生息する野蛮な国であった。

 実際イギリスやフランスの何人もの異人たちが
尊王攘夷という大義によるテロの
犠牲になっている。

 だから彼らは尊大に構えながらも、
心の中では常に警戒を怠らなかった。

 しかしどれだけ警戒し、
懐に拳銃を忍ばせていても、
一旦武士に命を狙われたら
防ぐ手立てはない。

 危険を察知し
銃を抜く前のほんの一瞬に剣を振り下ろされ、
切り殺される。

彼らは武士を限りなく警戒し、
「拳銃は護身の役にはたたない。
武士の標的にされたら身を守る術はないのだ。
だから決して怒らせてはならない。」と
申し送りの記録が残っている。


 日本人のみならず、彼ら異人たちも同じく恐れ、
警戒していたのだった。

 身の危険を感じながらも貪欲と云える程、
日本に対する利権拡大を目指す列強。

 このままでは支配される。

 強い危機感から徳川幕府は倒され
明治新政府が成立した。

 明治新政府とは、
そうした国際社会に於ける極度な緊張感をもって
船出した政権である。

 また明治維新とは、
決して旧弊に対する不満が原因の
下層民の民主革命ではない。
 だが結果として近代的変革を成し遂げ、
封建時代から続いた身分制度を弱め、
国際競争に打ち勝つ構造を作り上げたと云える。


 ―明治新政府の至上命題―
それは条約改正、その一点にあった。

そのために
地租改正、版籍奉還、教育制度整備、
郵便・通信、鉄道・道路・橋梁整備、
富国強兵、殖産興業、
帝国議会創設、
明治憲法発布などと、
急激な近代国家建設を推進した。

 しかし、そこまで努力し、
何度条約改正の交渉を列強に打診しても、
不平等条約の既得権を手放さない。

 次第に焦り、追い詰められた明治政府は
とうとう大博打に打って出た。


 日清・日露戦争である。


 清国、ロシアは当時いづれも
日本との国力比
何と!10倍以上の差があった。


 どう考えても小国日本が立ち向かえる相手ではない。
 しかし無謀にも、それに挑戦した。

 それ程この国は侵略の危機に対する
緊張感が大きかったのだ。

 相当の時間をかけ準備し、計画し
日本は戦争に打ち勝った。

 だからと云って戦争を正当化する気はない。

 そうした悲しい時代だったとしか言えないだろう。
『のほほん』としていては、
侵略され、征服されるのだ。


 

だが驚いたことに、
そんな獣(けだもの)の国に
富みを求めて移民するという勇気ある(?)
日本人が相次いだ。
 貧しいが故に故国日本では生計が立たず、
新天地で富を得たいとの
切実な思いからの
やむを得ない選択であった。





 しかし日本人が移民として渡米しだすと、
次第にアメリカ人の日本人に対する
見る目と空気が変わってきた。





先に苦力(クーリー)として渡ったインド人や中国人は、
あくまで実質の奴隷であり、
自ら希望して渡米してきたわけではない。
従って労働意欲や未来に対する向上心は低く、
屈折した卑しさやモラルの低さが常につき纏う。
 しかも教育水準は極めて低い。
 文字も書けず、計算もできない。

 そうした苦力たちは
アメリカの支配層である白人の蔑みを呼び、
黄色人種はやっぱり能力が低く、
良心や意欲を持たない
低級人種なのだとの認識が定着する。

 奴らは奴隷の身分が相当なのだ。

 だから似たような顔をした
日本人も同様である。
アメリカの白人たちはそう信じていた。


しかし最初にハワイに渡った日本人は
全く様子が違った。

 低賃金なのに、寝る間を惜しんで一心不乱に働く。
サトウキビ畑や、綿花のプランテーションでの作業は
殺人的な重労働である。
 それなのに彼らの労働意欲は信じられないほど高い。
 手際が良く、丁寧な仕事ぶり。
 驚くほど低コスト高性能作業マシンなのだ。

 それも一人二人ではない。
集団渡航した日本人移民の全員がそうであった。

彼らには夢がある。
いずれは自分の農場を持ち、
豊かな生活をこの地で獲得したい。
 

 ―だから負けて日本に帰るー

そんな選択肢はない。
必死で働き、一日も早く自分の土地を持つ。
 そのためには今を、そして今日、明日に、
全力を尽す。 

それは日本人入植者全員の
共通認識であり、当然の決意であった。


年月の経過を重ねるにつれ、
日本人移民の数は増えてゆく。

 はじめはハワイ。
次にカリフォルニア。
段々西から東の内陸に範囲を広げる日系入植者たち。

 はじめ日本人を同じアジア人である中国人たちと
同じにみていたアメリカ支配層の白人たちは、
蟻のように際限なく働く日本人に
脅威を感じ始めた。

 しかも彼らは馬鹿ではない。
 文字を解し、計算もできる。

 まだ文盲(もんもう)が多数存在する
支配層のはずの白人社会。
  彼らは明らかに負けていた。
 そして劣等感に近い恐怖を日本人に感じ始めた。

 『忌々しい』
『仕事を日本人に奪われる。』
『奴らは自分たちのコミュニティーの中で
生活の全てを完結し、
私たちの社会に経済的貢献を果たさない。』

『憎たらしい』

 彼ら白人社会は日本人に対し
中国人たちへとは違った感情を持った。

 中国人たちに対しては蔑み、
日本人には憎悪の感情を持ったのだ。


 1907年、
カナダで日本人を対象にした排斥暴動が起きる。
次第に燻る不安と不満は各地で爆発し、
1913年、
カリフォルニア州排日土地法、
1924年、
アメリカ排日移民法が成立した。

 アメリカ人の日本人に対する感情は最悪だった。

 そんな日本人憎悪世代に
フランクリン・デラノ・ルーズベルトがいた。
 第32代アメリカ大統領。
 彼は筋金入りの人種差別主義者であり、
アフリカ系アメリカ人公民権運動への妨害を行い、
特に日本人に対しては異様なほどの憎悪を示した。

 戦時下、日系アメリカ人を強制収容所に送り、
財産権、公民権をはく奪、財産を没収したのも彼である。

  

    

 ルーズベルトは日本と戦争がしたい。

 でもアメリカ国民は先の第一次世界大戦に参戦し、
多大な犠牲を払い、
その割に得たものが何もなかった事実に
酷く後悔していた。


 アメリカ国民はドイツとの壮絶な戦いを今でも覚えている。
 誰も再びドイツと戦いたいとは思っていない。

 しかもヒトラー率いるナチスは強力だ。
 決して楽には勝てない。

 更にアメリカ国内にはナチス信奉者が多数いる。
 アメリカ人にとってナチスドイツは同じ白人国家であり
恨みの対象ではないのだ。

 そこに持ってきて、ルーズベルトは不戦を公約に掲げ
再選していた。
 だから憎き日本に対しても、自ら宣戦布告などできない。
 忸怩(じくじ)たる思いに居た。

多くのアメリカ人も日本人は忌々しい。
でも戦争は嫌だ。
 そう思っている。

ルーズベルトは
「国民がどう思おうと
日本はやっぱり目障りだ。」
そう思っていた。

憎(にっく)き日本は
日清・日露戦争で勝利し、
あれよあれよという間に中国大陸進出を進め、
満州国を造ってしまう。
その後も着々と足固めをし、
足場を構築し続けている。

それに対し植民地獲得競争に遅れたアメリカは
何とか中国大陸に利権を確立したい。

そうした理由から(本来侮蔑の対象ではあるが)
箸にも棒にもかからない存在の
中国人には比較的寛大であった。
中国人排斥法を廃止し、
日中戦争では蔣介石軍に対し、
多大な軍事援助を施した。


 こっちから戦争を仕掛けることはできないが、
経済を締め上げ、根を上げさせることはできる。

様々な圧力を日本にかけてきた。

 在米日本資産凍結。
 対日禁輸措置発動。

 兵糧を絶つ作戦に持ち込んだ。


 日本とアメリカの国力差は
色々な見方があるが、
およそ10対1以上である。
(ある分野に於いては数十倍以上)
石油などの工業資源に至っては、
アメリカに9割方依存していた。

 日本はこのまま何もしないでいると、
僅か1~2年で
蓄えていた国力は枯渇。
 日中戦争の継続もかなわず
滅び去るしかない。



 日本は国家存亡の危機の崖っ淵にいた。


 ルーズベルトは舌舐めずりをして
日本が拳を振り上げてくるのを待っている。
 戦争の口実さえくれれば
大手を振って日本を叩きのめせるから。

彼は大統領在任中の間に日本と戦争し、
決着をつけたいと思っていた。

 何故なら彼は不治の病に罹り、
余命幾許(いくばく)もなかったのだ。

だから
「さあ、早くやってこい!」
そう構えていた。


しかしそんな誘いに簡単に乗っかるほど、
日本は馬鹿ではない。


 日本がアメリカと戦争した場合、
勝てる見込みはあるのか?

 何度も何度もシミュレーションをした。



   つづく