uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


イラクに日本式小学校 掃除や給食、道徳心養う

2015-12-27 03:10:09 | 日記
【バグダッド共同】イラクの首都バグダッドに

日本式初等教育を実践する私立の小学校が設立され、

日本大使館で26日、開校式が行われた。

ホームルームや掃除、給食を取り入れ、道徳心や集団意識の育成を目指す。


日本の初等教育に感銘を受けた日本研究者のイラク人が

「日本の道徳心こそがイラクの人材育成に必要だ」と実業家らに寄付を募り、

設立した。将来的に中学校も開校する方針だ。


校名は、価値や道徳を意味するアラビア語にちなみ

「アルキヤム小学校」。

11月にすでに開校し、1年生と2年生計約230人が学んでいる。

2年生からは日本語も学習する。


-共同通信社-



イラクでの日本人に対する評価の高さは

日本人として素直にうれしい。



でもその評価は、文字通り身を削る努力によるものだ。



≪自衛隊「イラク派遣隊員」帰国後に28人が自殺してた!恐怖と緊張解けず精神不安や睡眠障害≫


「自衛隊が経験したもっとも有事に近い任務」といわれた

自衛隊のイラク派遣(2003年12月~09年2月)で、

駐屯自衛隊が5年にわたる宿営地での任務を1000本のテープに記録していた。

防衛省に保管されこれまで公にされなかったが、その映像が初めて開示された。


幸い犠牲者を一人も出さずに任務を終えたが、

隊員たちにとって『戦場』は帰国後も続いた。

緊張、不安、恐怖の連続のなかで、

精神的な不安定を抱えたまま帰国し、28人が自らの命を断っている。

現在論議されている集団的自衛権の行使が容認されれば、

自衛隊の任務の質が根本的に変わり、さらに過酷な任務が待っているというわけだ。


-J-CAST ニュース-




≪イラクサマワ市民に愛された自衛隊前代未聞の感謝デモ≫


KSM WORLD


サマーワ市民と自衛隊

イラクでは噂が伝わるのが速い。

2004年12月14日の自衛隊の派遣期間が終わりに近づき、
またロケット砲が打ち込まれるという騒ぎが起こると、
「自衛隊は帰るのか?」という懸念が瞬く間に広まった。

すると140人の老若男女からなるデモ隊が
「日本の支援に感謝する」
と自衛隊宿営地に詰めかけ、
口々に「帰らないで」と懇願した。

それと同時に
「自衛隊の滞在延長を願う署名運動」
が展開され、2日間で1500人もの署名が集まった。

実は感謝デモはこれで二度目だった。

4月に2度、自衛隊宿営地そばに迫撃砲が撃ち込まれると、
サマーワ市民による100人規模のデモ行進が行われた。

スローガンは「日本の宿営地を守ろう!!」というものだった。

前代未聞のデモだった。

米国オランダ軍も驚いて、
自衛隊に矢継ぎ早に問い合わせをしたほどだった。

どうしてこんなことが起こったのでしょう?

イラク人と自衛隊員との信頼関係はどうやって築かれたのでしょう?



 2004年1月26日

番匠幸一郎一等陸佐が率いる復興支援の本隊
・第一次イラク復興支援群がサマーワに到着した。

装甲車両には色鮮やかな日の丸が描かれていた。

また、隊服の右胸、左袖、背襟下にも遠目にも
よく目に見えるほどの日の丸をつけていた。

多国籍軍側からは
「これでは『撃ってくれ』と言わんばかり。
 お前らはどうかしている」
と忠告されたが、
イラク人に
「自分たちは日本の自衛隊」
であることをことさらアピールしたかったからだ。






サマーワにつくと、番匠一佐は現地の人々に
繰り返しこう語って理解を求めた。

「我々はあなた方の友人として日本からサマーワに来た。

 我々日本も60年前の先の大戦で敗れ、
 国土は焦土と化した。

 すべてが無に帰し食料にも困る日々が続いた。

 そんな廃墟のなかから私たちの祖父母・父母の世代は立ち上がり、
 大変な努力をして日本を復興させた。

 そして、その結果、今や経済力世界第二位という日本を
 築き上げることができた。

 メソポタミア文明という人類にとって偉大な歴史を有する
 あなたたちイラク人は偉大な国民だ。

 あなた方に同じことができないはずはない。

 我々は友人として、あなた方が立ち上がるお手伝いに来たのだ。」

イラク人にとっては、日本は同じアジアの国である。

さらに自分たちと同じようにアメリカに
やられた国だという意識があたようだ。

その日本から
「友人として助けに来た」
という番匠一佐の言葉はイラク人の心に響いたに違いない。


宿営地には建設中の段階から、
外国の軍人たちが表敬や見学のために訪ねてきたが、
彼らが一様に驚くのは、イラク人作業者たちが、
夕方になってもまだ働いていることだった。

外国の宿営地で雇っている作業者たちは
3時、4時になると仕事が途中でも帰ってしまう。

夏場には60度にも達するのだ。

それも無理はない。

外国の場合は、イラク人作業者に作業を命ずると、
彼らだけを働かせるのだが、日本では幹部自衛官でも、
彼らと一緒になって、ともに汗を流した。

宿営地の鉄条網整備の際には、
日本人2、3人とイラク人7、8人がチームを作り、
有刺鉄線に服はボロボロ、
体中、血だらけ汗まみれになって作業を続けた。

昼食は分け合い、休み時間には会話本を指差しながら、
仕事の段取りについて話し合う。

いったん意気に感ずると、とことん尽くすのがアラブの流儀だ。

終業時間の5時を過ぎても、
まだ隊員と一緒にブルドーザーに乗って
働いているイラク人の作業者もいた。

イラクの人たちの信頼は厚くなり、
「そこは日本にやってもらいたい」
という要望がどんどん増えていきました。

こうして、現地人を見下すのではなく、
現地人と同じ視線にたって、
共通の目標のために汗みどろになって働く姿を通じて
イラクの人々の共感と友情を育んだのです。

少し長くなりましたが、自衛隊がどうやって
サマーワ市民との信頼関係を築きえたのか
だいぶんご理解いただけたのではないかと思います。

最後に2004年1月16日、現地のサマワ新聞の記事を紹介して
終わらせていただきたいと思います。

ご視聴ありがとうございました。


我々は話が県に日本隊が到着するまで、
この道徳と倫理を保持した立派な人々について何も知らず
感情のかけらもない技術革命により、
全世界の心を支配するつもりだろうと思っていた。
しかし、日本国陸上自衛隊が県内に到着して数週間の内に
サマワの人々は彼らが『古きニッポン』の子孫として
愛所と倫理に溢れた人々であることを見出した。
彼らは偉大なる文化を保持するとともに他の国を尊重し、
他国民の家庭や職業に敬意を払う立派な伝統を持っていたのだ。


-http://youtubenippnjin001.seesaa.net/article/403394217.html-






引用が長くなりすぎたが、

イラク人の気持ちの一端と所以を理解できたと思う。



日本式初等教育を実践する私立の小学校をこの国に増やしたい。

イラクの荒廃した国土を復興させるのは、

物質的な支援だけではない事を学んだ現地の人たち。


メソポタミア文明を有する誇り高き民族を打ちのめした

過去の歴史と現在の状況。


その誇りを取り戻すヒントを

日本人の、支援に駆け付けた自衛隊の行動に見つけたのだろう。



自衛隊の皆さん、あなた方の身を挺した命がけの努力は

このような形で身を結ぼうとしています。

そして、イラクに支援に行く邦人の姿が輝いて見えたとしたら、

過去のそうした努力の継承があったから。

日本人は彼の国からそれだけ注目されているということに

同じ日本人として自覚し、身を律する思いで生きていきたいと思う。


昨日の『海難 1890』で学んだトルコとの友情もそう。

こうした人と人との交流が、時を超えた友情を作り出すことを歴史が証明した。


アフリカのジンバブエで借金を棒引きにし、その弱みに付け込み

どこかの国の通貨『人民元』を公式通貨にさせるのとは、

全く対照的な敬意のされ方だと思うのは私だけだろうか?



しかもその国も、太古の時代の4大文明のひとつを築いていたなんて・・・。




ああ、また載せなくても良い話題に触れてしまった。

自己嫌悪。




いつかきっと、イラクとその周辺が

安全な旅ができる平和な国に立ち戻ることを祈るオヤジが三句。



学校に 行くのが夢の その学校 

給食に フルーツポンチ 出すのかな?

日直や 当番楽しい ホントかな?

(イラクの小学生)




お粗末。