uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(22)

2021-01-31 03:32:51 | 日記









このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。









第22話 上野戦争


 1868年(慶応4)4月4日
江戸城無血開城が決まり、
5月3日の総攻撃は回避された。

 その前日の5月2日、
ようやく東征大総督府に追いついた退助は、
その時初めて総攻撃中止を聞く。
 「へ?」
暫く頭の中がウニになる。
 明日の作戦参加のため
死にもの狂いで駆け付けた今までの努力は
一体何だったのか?
 しかし、西郷の説得を
意外にあっさり受け入れた。

 退助の頭の中には迷いがある。
旧幕府軍などの旧勢力を
ここで徹底的に叩いておかないと、
後に禍根を残す。
 しかし、江戸市中を戦火で覆い蹂躙すると、
お菊の住む日本橋の店も被害を受ける。
 退助は常にお菊の安否が気がかりだった。

 実は無血開城の交渉が決裂した場合、
勝海舟は江戸市中に火を放つつもりでいた。
 薄皮一枚の自制による合意が
江戸壊滅を回避した。

 5月13日東征大総督 熾仁親王が江戸城入城。
正式に大総督府の管下に入り、
江戸城明け渡しが完了した。
 しかし、江戸市中は不穏な空気が充満していた。
江戸に入った新政府軍に対する敵意が
むき出しになっていたのだった。
 と云っても敵意をむき出しにしたのは
武士階級での話。

 江戸庶民は市中が争いごとに巻き込まれるのを
恐れている。
 将軍様が居なくなり、
それに仕えていた偉そうな武士がどうなろうと
どうでも良かった。



 戊辰戦争の特徴。
それは武士階級での内乱であり、
一般市民が広く参加できる性格のものではない。
 それはその後続く東北・北海道の戦いでも
同様である。
 庶民は蚊帳の外での戦争であり、
その限定された階級闘争は、
後の自由民権運動の難しさを予感させた。




 慶喜は御三卿一橋家出身。
一橋は10万石であるが、
一か所のまとまった領地を持つわけではない。
 継ぎはぎの領地を合計し、
ようやく10万石なのだ。
故にその家格に相応しい家臣団を持っていない。
 そんな中、側近の家臣渋沢誠一郎(渋沢栄一の従兄)、
天野八郎らが新政府に反発する者を集め
彰義隊を結成した。
 彰義隊は当初、勝海舟により慶喜警護を任され
不平家臣や浪人たちの懐柔に利用されていたが、
慶喜の謹慎場所を江戸から水戸へ移されると、
頭取の渋沢誠一郎は上野からの撤退を主張する。
しかし武闘派の副頭取天野八郎との対立が発生、
彰義隊を脱退した。
これにより天野の新政府への徹底抗戦派が
主権を握った。
 
 この当時、上野を拠点にした彰義隊をはじめ、
不平旧幕臣たちによる薩摩藩士殺害、
肥前藩士や尾張藩士などのテロ行為が散発した。

 更に輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)
を擁立する暴挙に出る。
 つまり天皇がふたり存在する事態となり、
外国列強勢力は広くこの事件を報道した。
 
 
 「えらいこっちゃ!!)



 この事態に及び、東征大総督府は
上野の東叡山に集結する
旧幕府軍を討伐する決定を下す。

指揮官の大村益次郎は
敗残する彰義隊の逃亡に前もって備え、
忍に芸州藩、川越に筑前藩、
古川に肥前藩を配置する周到さを見せた。

更に上野を封鎖するため各所に兵を配置、
神田川、墨田川、主要街道の遮断。
三方に兵を配備、
根岸に敵の退路を残し逃走予定路とした。

 討伐作戦計画の説明を聞いた西郷隆盛は
作戦を指揮する長州藩の大村益次郎に
「皆殺しにするつもりですか?」
と聞く。益次郎は一言、
「はい、そうです。」
平然と答えた。


 作戦を聞いた退助。
ある決心をする。

 この戦乱にお菊を巻き込むわけにはいかない。
治安の悪い江戸市中での危険を冒し、
お菊の元に駆け付けようと考えた。

 周到な変装に身をまとい、
日本橋のお菊の元へ急ぐ。
 あくまでも私用での市中移動に
供の警護をつける訳にはいかない。
二度と自分の命を守るために
部下を失わないと決めていた。
 退助は八王子での一件を
一生忘れられないであろう。
 
大隊指揮官として
どれだけ軽率無謀の誹りを受けようと、
人の生死には代えられないのだ。

 目指すお菊の店舗に辿り着くと
ひっそりと閉ざされていた。

 裏に回り戸を叩く。
何度も何度も叩いていると、
中から一人の男が出て来た。

 巧妙な変装により
すぐには訪問者が退助と分からない。
 しかし退助が
「お菊に会いたい。」と声をかけると、
状況を察した留守番の男は、
「おかみさんはここには居られません。
ひと月ほど前にお国に避難されました。」
「ほう、そうか。
ここには居らぬか。」
「はい、おかみさんは、最後までここに残ると
申しておりましたが、旦那様の説得で
引きずられるようにお立ちになりました。」

 退助はお菊の気持ちを慮(おもんばか)った。
戦乱が迫り、必ず自分が迎えに来ると信じるお菊。
逃げ出そうとする筈はないのだ。

お菊の不在を知った退助は
もうここに用はない。
「邪魔をした。」
そう言い残し、急ぎ隊に戻った。

 戻った退助は、来るべき彰義隊との戦いに
臨むつもりでいた。
 しかしその前に前哨戦が始まる。

1868年(慶応4)江戸城無血開城に従わぬ
旧幕臣の一部2000人が船橋大神宮に布陣。
 5月24日船橋にて新政府軍800人と衝突した。
数に勝る旧幕府軍を見事撃退、追撃し
5月27日の五井戦争も勝利する。

そうした中、東北地方・新潟で
奥羽越列藩同盟が結ばれた2週間後、
7月4日新政府軍10000人が彰義隊4000人を攻撃、
上野戦争が始まった。

 新政府軍は土佐隊の活躍や、
佐賀藩の新装備、アームストリング砲の
強力で絶対的な威力により、
彰義隊を撃退、その日のうちに
新政府軍圧勝で上野戦争は幕を閉じた。


赤熊(しゃぐま)の被り物をして戦う迅衝隊。



いずれの戦いに於いても獅子奮迅の活躍を見せる退助。

土佐の赤熊隊は戦(いくさ)を重ねるごとに、
その勇猛果敢の戦いぶりから名声を得てきた。

 八王子での死闘を経験した退助の采配は、
それ以降別人と云える指揮を執る。

 お菊を一日も早く江戸に戻したい。
それと退助の描く自由な世を造りたい。
 迅衝隊、断金隊、護国隊等を率いながらも
わが身を守るため命を落とした部下二人を思い、
冷静沈着、緻密にして勇敢な指揮官になっていた。

 そんな退助に、思いもしなかった話が持ち上がる。 
 退助が戦の最中の江戸に戻ったわずかな間、迅衝隊総督 深尾成質から
意外な提案を告げられた。

 本国の土佐に新婚の嫁が居るのに、
江戸住まいのある女性を権妻(妾)としてどうか?
との打診であった。

 「へ?」

この回2度目の「へ?」である。

つづく


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(21)

2021-01-27 06:47:56 | 日記








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    第21話 刺客



 話を八王子まで戻す。
(度々話を戻し、なかなか前へ進めない事をお詫びします。
今後の物語の構成上、必要な回となっておりますので
平にご容赦ください。)


 甲州勝沼の戦い後、
退助率いる迅衝隊は、
地元に散らばる志願した武田遺臣の子孫たちを
兵に加え、
甲州鎮撫隊の敗残兵を追って八王子に入る。
更に4月3日八王子千人同心をも加え、
1500を超える兵力に膨れ上がったことは前述のとおり。

それに対し甲陽鎮撫隊は、その八王子にて
解散、大きく明暗を分けていた。


 先鋒総督兼鎮撫使から大総督府へ編入・改編
された新政府軍に合流すべく
退助は進軍準備に入った。
 しかし、元々ある迅衝隊の他、
武田遺臣の子孫を断金隊、護国隊として組織化、
膨れ上がった兵員の軍紀浸透の徹底、
即席ではあるが、近代戦法訓練等、
進軍前にやらなければならない事案が山積し、
予定より進軍行程が大幅に遅れる事となる。

 江戸城総攻撃に間に合わせるため、
退助は必死だった。

 暫くは八王子の地に
軍を留めおかなければならないが、
次の戦に間に絶対合わせなければならない。
時間との戦いである。
 しかし、それだけの大人数を
数日間も泊めておける宿泊施設は無い。
 また八王子城は遥か昔の家康時代に
廃城処分となっており、
城としての機能を有しない。
やむなく、兵を寺や比較的大きな旅籠、
大庄屋宅などに分散宿泊させることにした。

 それぞれの宿泊拠点に対し、
伝令網を構築、統率の重要な手段とするため、
時に最重要の伝令には、退助も自ら出向き、
それぞれの隊の様子観察を兼ね、
指揮命令の維持を図っていた。


 ただ、八王子は少し前に
甲陽鎮撫隊が解散したばかり。
解散したと云っても、
まだ残党がそこいらに潜伏している可能性がある。

市中を廻るのは危険を伴う賭けであった。

 それでも退助は怯まず
少人数の供を連れ、拠点を廻る。

 八王子に入って4日目。
夜間、護国隊への伝達へ急ぐ退助の前に、
異常なまでの殺気を帯びた人影が待ち受けていた。

 鎮撫隊の残党であろうか?
殺気の鋭さから、相当武術の心得のある者であろう。
 人影は3人、
物陰にひとり・・ふたり・・・三人・・・。
 合わせて6人か?

明らかに自分たちを襲おうとしている。

こちらは退助の他2人の供(とも)。


先頭の相手3人がはじめゆっくり、
次第に足を速め「ウォ~!」と叫び、
太刀を抜き、上段に構えながら
勢いよく駆けてくる。

すかさず退助の供(とも)ふたりが退助の前に立ち、
防戦の態勢に入る。

 最初の刺客が右、左と太刀を揮うと、
瞬く間に前の供ふたりが斬られ、
その場に倒れた。


 「ぬ!!」
退助は相手の相当な腕前に、
(こ奴らは小慣れた人斬り集団だな。
さては新選組残党?)

退助は後悔した。
部下二人を失い、自分の身に危険が迫ったからではない。
 大切な部下を自分の油断から
殺されてしまった事態に対する激しい後悔である。
 自分が部隊間を移動するとき、
腕に覚えのある者を、多人数そろえておけば、
或いは襲われずに済んだかもしれない。
 例え襲われても、大人数なら強力な反撃ができ、
やおら若い隊員を死なせず済んだかもしれない。


 でも後悔している場合ではない。
退助は自らの太刀の柄(つか)を右手の
親指と人差し指の股で鍔(つば)いっぱいに握り、
(フ!!これぞ本当の切羽(せっぱ)詰まった状態よ!)
などと自嘲しながら、
幼い頃から喧嘩慣れした退助特有の
闘争状態に見せる
居合の達人としての余裕を感じていた。

 注:柄とは日本刀の部位のひとつ。
   刀身の手で持つ部分。
   切羽とは刃と柄を隔てる鍔(つば)を固定する部品。

 退助は鞘(さや)に剣を収めたまま、
襲い掛かる刺客の一(いち)の太刀を待ち受ける。
 急な展開に心乱さず、
明鏡止水の境地を求め一呼吸入れた。
全集中‼️
 相手は6人。
こちらは自分ひとり。
 太刀は一本。
小太刀もあるが、ここでは考えまい。
 太刀で斬れるのは
精々2~3人。
 それ以降血のりを大量に吸った刃では
上手く切れない。

 (刀に限らず包丁など刃物は、
肉を切ると切れ味が鈍くなり、
次第に刃がたたなくなるのだ。)

退助は腹を決めた。

 襲い来る一番手。
振り下げてくる刃先に尋常ならざる鋭さを見た。
(早い!!切り口に吸い込まれそうだ!!
手練れの剣は巧妙に相手を操り、
自ら剣に吸い込まれると
聞いた事がある。)

退助は刺客が放つ太刀筋の流れに沿うように
皮一枚、居合術「影抜き」でかわし、
同時に鞘から剣を抜き振り上げる。
まさに冷や汗の一撃を見せた。

相手の左二の腕から先が身から離れ、
数歩後方まで駆けた後、「ウッ!」と呻き、
ズシリと倒れた。

その声と音を背にしたが
確かめる暇はない。
二番手、三番手がすかさず
左右から駆け足で襲い掛かる。

かわす場所がない!

相手が一斉に太刀を振り下ろす一瞬、
退助は正面を向いたまま
前ではなく、右横に倒れ込むように
器用にも、回転レシーブのような動きを見せた。

 勢いあまって通り過ぎるふたりの刺客。

二の太刀を揮うためこちらに向き直るが、
 一瞬退助の方が体制を立て直すのが早かった。
刺客を追い、相手が構える前に
右、左に太刀を振り、腕を斬り落とした。

それを見た後方に控えていた3人が
同時に駆けてくる。

 退助は右に走り、通りの脇に立つ樹木に向かう。
さすがに3人同時攻撃はかわせない。
 木を盾にひとりずつ仕留める事にした。

 しかしもうこの太刀では斬れない。
小太刀を使うか?
 でも3人相手では通用しまい。

迫りくる刺客の一人目を
木陰から迎え撃つ。
 相手が予想していない角度から、
思い切り突きを見舞わせる。
 退助の太刀が相手の首元に突き刺さり
素早く抜き去る。

 怯む残り二人。

退助が再び構えると
ヤケクソのようにひとりが
上段のまま駆け迫る。
退助は瞬間太刀を捨て、
グーの構えで相手のみぞおちにヒットさせた。

男の足が止まる。
すかさず背後から男の右腕を取り、
真っ直ぐ伸ばしたままで
思い切り時計と反対廻りに捻った。
 男は「ギャー!」と悲鳴を上げ、
ボキリと音がした。

 その様子を見た残りのひとりが
後ずさりし、その場から無言で逃げ去る。

 新選組の残党は最初のひとりだけか。
残りは素人らしい。
 退助は命拾いをした。

 間もなく異変に気付いた
護国隊士らが駆け付け、
 味方ふたりを失いながらも、
退助の身は無事だったことに安堵した。


退助の大隊の体制が整い、
5月2日になって、
ようやく総攻撃を控えた大総督府の元に
駆け参じることができた。

 しかし江戸城総攻撃は中止。
その代わり、上野戦争が待っていた。
間もなく彰義隊との死闘が始まる。

 退助は拾った命を
お菊の居る江戸の地で、
再び戦に捧げる覚悟をしていた。


  つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(20)

2021-01-23 09:08:02 | 日記


 








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      第20話 五箇条の御誓文


 1868年(慶応4)3月29日
甲州勝沼の戦いにて
近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に勝利した退助は、
多くの領民に歓呼を以って迎えられた。

 それまで天領として重い年貢の取り立てや
代官の圧政に苦しめられ、
当然幕府軍(甲陽鎮撫隊)を良く思う筈は無い。
 戦いが始まって僅か一刻(2時間)で勝敗が決した。
圧倒的で鮮やかな戦いを指揮したのが、
板垣信方の子孫であると知り
「さすが武田二十四将板垣駿河守の名に恥じない
鮮やかな戦いぶり!
 武田家遺臣が帰ってきた!!」
と沸き上がった。
 更に領内の旧武田遺臣の子孫で
様々な階層に散っていた浪人や百姓たちが
板垣の官軍への協力を自ら進んで志願した。
 これらの志願者を結集させ、
その後の戦いで活躍する
『断金隊』や『護国隊』を結成させる。

 このように退助の板垣復姓は効果絶大で、
甲州勝沼の戦いの後、江戸に進軍する過程にて、
八王子を通過する際も同様の歓迎を受けた。
八王子という地は武田の遺臣たちが存在し、
『八王子千人同心』を結成、
板垣退助率いる迅衝隊に協力する事となる。
八王子はいわば、
第二の旧武田家ホームグラウンドだったのだ。
 
 脱走兵が相次ぎ、
どこからも加勢を得られないまま
敗北を招いた近藤の甲陽鎮撫隊とは対照的に、
心理戦でも大勝利を収めた退助だった。

   


  江戸城攻撃中止始末



 
 退助の大勝利と凱旋の知らせを聞き
西郷隆盛はわざわざ手紙を送ってきている。
「先の戦、大手柄でありました由を受け賜りまして、
嬉しく思い、
官軍の勇気も余程増しまして、大慶に存じます。
 恐惶謹言。
慶応4年3月12日 西郷吉之助(隆盛)
乾退助様」
との内容で、今で云う祝電をくれた。

 しかしその後日の1868年(慶応4)4月4日、
江戸総攻撃最終通告の下準備として、
山岡鉄舟、西郷隆盛の交渉が成功、
翌5日新政府側代表西郷隆盛と
旧幕府側代表陸軍総裁勝海舟が会談し、
5月3日の江戸城無血開城を決定、
江戸総攻撃が回避された。

 知らせを聞いた退助は、
総攻撃予定だった日の前日である5月2日、
西郷の元に訪れる。
強硬論者である退助は西郷に、
「何を以て明日の攻撃を止めた乎!」
と、抗議した。
 
 実は江戸城無血開城にあたり、
西郷達官軍側は旧幕府側に対し、
7ヵ条の条件を突き付けている。
即ち、
一、 徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける事。
二、 江戸城を明け渡す事。
三、 軍艦を総て引き渡す事。
四、 武器を総て引き渡す事。
五、 城内の家臣は向島に移って謹慎する事。
六、 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、
  処罰する事。
七、 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する事

 
しかしその要求条件は呑まれず、旧幕府側代表陸軍総裁勝海舟の回答は、
一、 徳川慶喜は水戸藩(元々の出身藩)にて謹慎。
二、 慶喜を補佐した諸侯は
  寛容にして、命に関わる処分者を出さない。
三、 武器・軍艦についてはとりまとめ、
  寛典の処分が下された後に差し渡す。
四、 城内居住の家臣は、城外に移り謹慎。
五、 江戸城を明け渡しの手続き終了後、
  即刻田安家へ返却を願う。
六、 士民(強硬派旧幕府家臣)
  の暴発鎮定は可能な限り努力する。

事実上の骨抜き回答である。


 それでも譲歩し総攻撃を中止したのは、
イギリス公使、パークスの意向が
強く働いたとの説がある。

 幕府に泣きつかれたパークスは
「恭順する者を極刑に処すは、
国際法上許されぬ。
速やかに総攻撃の命令を取り下げよ。」
と執(と)り成してきたのだ。

 江戸を火の海にすると
諸外国の干渉が強まり、
独立が危ぶまれる恐れが懸念される。
そう考えた西郷はやむを得ず
自身の強硬路線を
変更する事にした。

 そのような事情から、西郷は退助を説得する。
察した退助は
「どうも之れに対しては仕方がない。
なる程仕方がない、
それなら異存をいうこともない、
それでは明日の攻撃は止めましょう。」
と言ってあっさり帰った。


 

    五箇条の御誓文

 退助にとっても重要な思惑があった。
そのきっかけは、
 

 1868年(明治元)4月6日
明治天皇が天地神明に誓約する形式にのっとり、
公卿、諸侯に新政府の基本方針を
天下に発した。
 これは同年1月福井藩出身参与 由利公正が
「議事之体大意 五箇条」を起案、
土佐藩の制度取調参与福岡孝弟が修正、
長州藩出身参与木戸孝允が加筆、
議定兼副総裁岩倉具視に提出されたものであった。


 読者の皆さんはまだ記憶しておられるだろうか?
福岡孝弟(たかちか)。
彼こそは退助がまだ子供のみぎり、
喧嘩をした宿敵であった事を。(第3話参照)

 彼はその直後から勉学に励み、
吉田東洋の私塾、小林塾に後藤象二郎、
岩崎弥太郎らと共に学んだ。

 少年時代は退助との交わりは薄く、
要職に着くころから
次第に接触する機会が増えた間柄だった。

その福岡が作った御誓文。
その後内容は変更につぐ変更となり
変遷を重ねたが、基本理念は変わらない。

 退助は昔、喧嘩仲間だったとはいえ、
同郷の知り合いが造った条文に
偉く感動を覚えた。

 あの孝弟が造ったのだ。
あの喧嘩の遺恨など、とっくに無い。
ただただ嬉しく思う退助だった。

 『五箇条の御誓文』
の発布を受けて、同年6月11日には
新政府の政治体制を定めた『政体書』を公布する。
冒頭で「大いに斯国是を定め
制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす。」
とし、その後に御誓文の五箇条全文を引用した。

 『政体書』はアメリカの法律体系の影響を受け、
三権分立、官職の互選、
藩代表議会の設置や、
地方諸藩に対し、
「御誓文を体すべし」とし、
「御誓文の趣旨に沿って
古い因習にとらわれず、
人材登用などの改革を推進すべし。」とした。


 その五箇条の御誓文の全文。

一、 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
 
   (府藩県にわたり人々の意見を広く集め、
    何処でも会議を興すべし。)

一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
 
   (身分に関わらず心をひとつにして
    経済を振興すべし。)


一、官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、
  人心をして倦まざらしめんことを要す。

 
   (官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって
    庶民の社会生活を充足させよ。)


一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
 
   (打破すべき封建性・閉鎖性を破り
    普遍的な宇宙の摂理である人の道に基づくべし。)


一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 
   (智識を世界万国に取り、
    国を治める基礎を集めて大成すべし。)

 


 退助はその条文を初めて読んだ時、
見る見るうちに希望が湧き、
思わず天を仰いだ。

 「私の目指した道は間違っていなかった。」

 世間の誰しもが、自分の意見を言える。
 世間の誰しもが、自分の出目に関わらず、
努力次第で夢を叶える事を約束される。
 世間の誰しもが、
暗く閉鎖的で理不尽だった因習を
積極的に破り、
新しい制度改革に全力で取り組める。
 世間の誰しもが、
新しい国造りに励むことができる。



 自分たちは蚊帳の外ではない、
主役となって活躍できる存在なのだ。


 五箇条の御誓文という国の方針は
国民に対し、「励め!」と言っている。


 もちろんこのご誓文の文面を詳しく読み取ると、
民主憲法下の現在の内容と比べ、
まだまだ不完全と云わざるを得ない。
 しかし徳川260年の間に培ってきた
厳しい身分制度と因習から、
全く新しい発想での民主的成文法作成には限界がある。

 しかも明治維新とは先のフランス市民革命や
後のロシア革命と決定的とは違う性質のものである。
維新とは革命というより、下層武士階級主体の
政権を担っていた幕府に対する
クーデターとしての性格を帯びている。
 単なる一般的なクーデターと違うのは、
その後の政策が大規模な
革命的政治刷新にあったから。

 明治維新の限界は、
武力維新を決行した主体が
下層階級とは云え、武士という支配階層を形成した
一員であった事。
 そこに市民階級や平民層は参加していないのだ。
だから彼ら多くの民間層の
意思を反映した政権とは言えず、
 その意思決定の過程と実行には自ずと限界が生じる。
 それ故、
退助の自由と平等と人権に対する戦いは、
戊辰戦争が終結した後、
維新が実現しても、まだ途上にあると云えた。
 それでもしかし、目指すゴールが見えた。
 今まで漠然としていた目標が
確信へと変わった。

 「あくまで江戸総攻撃を!!」との主張を
あっさり取り下げたのは、
 無益な破壊を避け、
一刻も早く、見えてきた理想の
国造りに取りかかりたいとの
強い思いが湧いてきたからであった。

 「お菊・・・。
ソチとの約束を果たせる日は近い。
 ソチが他人の嫁となった
今となってはもう遅いが、
身分の差に泣かされない、
好いたもの同士が自由に結ばれる世を
もうすぐ造れる。
 そんな新しい社会制度を
ワシは必ず造って見せる。
お菊、見ておれ!」

 お菊の住む江戸はもう目前に迫っている。


   つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(19)

2021-01-19 03:40:02 | 日記


  







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 第19話 板垣退助 参上


 1868年(慶応4)1月27日(旧暦1月3日)
鳥羽伏見の戦いが始まり、
3日後の30日新政府軍側に
錦の御旗が掲げられると、
あくまでこの戦は徳川と薩摩の私闘であるとの認識で
朝廷や諸外国に説明していた
徳川慶喜の考えるスタンスが崩れた。
ここにきて総大将の慶喜は戦意を失い、
多数の兵を残しながら大阪城から逃亡、
江戸にもどってしまう。

 やがて江戸を目指し
進軍してくるであろう新政府軍を、
どこかで食い止めなければならない。
 朝廷に恭順したい慶喜の意を汲み、
勝海舟が急進的徹底抗戦派の
新選組組長近藤勇に対し、
出撃命令を下す。
 近藤が江戸にいては、
何かと邪魔と考えた勝は、
近藤に幕府直轄領である甲府を
新政府に先んじて掌握し
甲府城を拠点に迎え撃てとの沙汰を出す。
 近藤を遠ざける目的と、
時間稼ぎのためでもあった。
 
 
自分もやっと城持ち大名になれると
喜び勇んだ近藤。
新選組70と浅草弾左衛門率いる
被差別民200にて混成部隊を結成、
途中日野にて春日隊40を加え、
甲陽鎮撫隊と名を改めた。

大砲6門、ミニエー銃など洋式装備で身を固め
3月24日江戸を出陣、
甲府街道を進軍する。


 一方退助率いる迅衝隊は
京都で先の鳥羽伏見の戦いに参加した土佐藩士と合流、
部隊を再編成した。
 江戸留学時代まで軍事知識を学んだ退助は
軍事の第一人者として大隊司令兼総督となり、
更に朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられる。
 そして3月9日(旧暦2月14日)
東山道を進軍する。
 この日は乾退助の12代前の先祖
板垣信方の320回忌にあたる。
 板垣信方は武田信玄家臣・二十四将のひとりであり、
四天王のひとりでもある、
甲斐の国でひと際人気の高い武将であった。

 退助は命日を進軍中の美濃で
武運長久を祈念する。

 その際、岩倉具視から
「甲斐源氏武田氏の家臣板垣氏の末裔である事を
アピールし、甲斐民衆の支持を得よ。」
との助言から、板垣氏に姓を復した事を
高らかに宣言した。

乾退助改め、『板垣退助』の誕生である。



近藤勇の甲陽鎮撫隊が出陣した3月24日同日、
板垣の東山道先鋒総督府軍は、
下諏訪で二手に分かれる。
 本隊を伊地知正治が率い中山道を進み、
板垣の迅衝隊は別動隊として、
鳥取藩兵と共に
高島藩一個小隊を案内役に甲州街道を進撃、
幕府天領の甲府を目指した。


この時点で近藤率いる旧幕府軍と
退助率いる迅衝隊は大きく明暗を分けた。

 退助は自軍の隊規を厳しくし、
飲酒は厳禁、隠れ飲む者は斬首された。

 酒豪の多い土佐藩兵。
元々郷士・下士とは言え
武士階級出身者が多数を占める部隊であり、
酒豪と云っても
そこは武士としての躾が身に沁みている集団。
規律を忠実に守り、悪天候の中、
足を取られながら駆け足で必死の行軍を貫徹した。
 彼らは来るべき戦闘に備え、
軍事教練を重ねた精鋭部隊だった。
 


 近藤の一方甲陽鎮撫隊。

代々被差別民として虐げられてきた者たちを
「武士にしてやる」と甘い言葉で募り、
俄か仕立てで結成した集団である。

 近代兵器に不慣れで士気も高くない。
元々志(こころざし)など無く、
社会に対する不満の塊りだった。
 鬼の戒律を誇った新選組組長近藤でも
ご機嫌取りをしなければついてこぬほどの
体たらくぶりである。
幕府から支給された軍資金5000両で
大名行列さながらに夜ごと豪遊宴会を開き
不満を宥めるしかない。
 

 でもちょっと待って欲しい。
被差別民とは何か?

徳川幕府により形成された身分差別、
士農工商の『士』以下の身分の農工商以下。
要するに『平民』より更に下の身分である。

能力や人格、性格や性別、嗜好、思想に関わらず、
生まれながらに全ての階層から
いわれのない差別を受けるよう定められているのだ。

職業選択の自由も、婚姻の自由も、転出の自由も無い。
どんな夢を持っていようと、
どれだけ実力を持っていようと、
どれだけ強い意志を持っていようと、
どれだけ強い愛を持っていようと、
どれだけ涙を流そうと、
どれだけ大地に向かって叫ぼうと、
総て砕かれ、抹殺される階層なのだ。

もしあなたが被差別民だったなら・・・。
想像してみて欲しい。


 もし、あなたの好きな人が平民だったら
結婚できない。

 もし、あなたが医者や弁護士や
人気声優やアイドルになりたくても、
 その入り口は初めから閉ざされているのだ。

 もしあなたが北海道や沖縄や
シアトルに棲みたいと思っても
 生まれた被差別から逃れられない。

 いつも侮蔑され、貧しく、惨めで
 悲しく、悲惨な生活を強いられるのだ。

あなたならそれでも朗らかに、明るく、楽しく
幸せに生きられますか?

近藤勇はそういう人たちをスカウトしたのです。

 彼らは果たして江戸幕府を
命がけで守ろうとするかしら?

 自分を差別地獄に落とした元凶の徳川幕府。
それなのに何故近藤勇の誘いに乗ったのか?

 その答えは、誘ったのが近藤勇だったから。
有無を言わさず、人を引き付け、
ついて行かざるを得ないと思わせる
『新選組局長 近藤勇』だったから。

彼は一対一の剣術には秀でていたが、
悲しい事に、生まれは武士の身分に非ず。
それに近代的様式戦術の知識に暗かった。
それが彼のこの戦に於ける悲劇である。
 
 多分、剣術の実力は、
退助より上であったろう。

 しかし退助は
土佐藩に於ける近代兵法の第一人者で、
全ての士分を束ねる身分的立場にいた。

 それに対し、近藤勇は、
武士の生まれではないため、
数多くの辛酸を舐めている。

今回も士分出身者は
誰も加勢しようとしなかった。

 武士は非士分出身の近藤に
協力しようとは思わない。
今まさに自分の身分を保証する
江戸幕府が倒されようとしているのにだ!

 近藤は新選組に於いて
鉄壁の規律で隊員を縛ることができた。
だから破竹の活躍が可能だった。
でも、今回はスカウトした相手が悪い。
そんな事は百も承知の近藤でも、
他についてくる者を募ることができなかったのだ。

その時点で勝敗は決まっていたはずだが、
近藤は諦めていない。
不撓不屈の人である。

「俺は必ず勝てる。」と信じていた。

退助も近藤も「甲府城を先に制した方が
勝敗を決するから急げ!」
と言われていた。
  

 退助は移動距離で圧倒的不利である。
しかも目的地が近づくにつれ、悪天候に悩まされる。

 兵力差退助の迅衝隊400に対し、近藤の鎮撫隊310。
鎮撫隊の方が兵力差で不利に思えるが、
鎮撫隊は甲府城兵力360と、
土方歳三が援軍要請に向かった神奈川の旗本部隊
『菜葉隊』の500を加えれば、
圧倒的に迅衝隊を上回ることができるとの算段があった。

 

結果、不眠不休で駆け抜けた迅衝隊が
一日早く到着。甲府城を掌握した。

 それに対し、鎮撫隊は悪天候の中
やむなく大砲6門のうち、
4門を進軍途上打ち捨て、
何とか駒を進めるが、
それででも迅衝隊の後塵を拝してしまった。

しかも一日遅れたことで、
目論んでいた甲府城兵の加入も、
勿論初めから旗本の部隊である
菜葉隊の援軍など得られる筈はない。
甲陽鎮撫隊は止む無く
甲州街道と青梅街道の分岐点に布陣。
その時点で310名の兵が次々脱走、逃亡し
121名まで兵力が減少した。


 官軍の行進の笛の音を聴き、
眩いばかりにさっそうとした
凱旋を目の当たりにした領民たちは、
武田の遺臣、板垣の姓を拝した退助を
歓呼を以って歓迎した。
 
対して幕府天領の重税に喘(あえ)ぎ、
恨み深い旧幕府軍たる甲陽鎮撫隊。
一目で寄せ集めと分かる統率の無い集団。
ここでも大きな差ができていた。

 そして1868年(慶応4)3月29日
山梨郡一町田中村・歌田にて
戦闘が開始される。

 寄せ集めの鎮撫隊は大砲を全く扱えず、
砲弾を逆さに込めて砲撃。
飛距離が伸びず、狙う正確な方角へ
砲弾が飛ばなかった。
 
 対して迅衝隊は十分な訓練の成果を如何なく発揮、
戦況を圧倒、正確な砲撃で敵の大砲も破壊、壊滅させた。

 更に退助の敷いた布陣。
一糸乱れぬ命令に忠実な戦闘。
 戦の天才、板垣退助の実力を
面白い程見せつける戦となった。

 味方の犠牲を最小限に、
敵の犠牲を最大限に。

 天才板垣退助の名を轟かす最初の戦いとなった。
 
 無念の思いを抱え近藤は勝沼へ後退、
抗戦を続けるが、兵の逃亡は続く。
 とうとう鎮撫隊は八王子に退却後解散、
江戸に敗走した。


 町人の家に生まれ、
誰よりも武士の身分に憧れ、
誰よりも努力した男。
もう少しで願いに手が届いたのに、
掴み損ねた男、

近藤勇。

 上級武士の家に生まれながら、
誰よりも自由と平等の実現を願い、
自ら不平等を嫌い、理不尽を嫌い、
その元凶、
武士階級を無くするために戦う男、

板垣退助。


 その勝敗は
将の能力というより、時代が決めた。

時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者。
時の流れの中に変わらない夢を求める者。

中島みゆきの『世情』の世界が見えた。

 明日は目指す権力の権化、
もはや死体の江戸のお城が目前にある。

 江戸城無血開城か、決戦か?



  つづく
 



 

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(18)

2021-01-15 08:57:02 | 日記










このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。








※ 今回の物語には、一部切腹の描写があります。
 残酷・グロテスクと感じる場合がありますので、
 苦手な方は読まれるのを控えていたくか、閲覧注意の上ご覧ください。

   第18話  堺事件

 1868年(慶応4)2月6日深尾成質総督、
乾退助大隊司令率いる迅衝隊が土佐を出陣した。
 そこに丸亀藩、多度津藩が参集、
讃岐の国高松藩(旧幕府方)に進軍した。
鳥羽伏見での幕府方の敗退に衝撃を受け、
丸亀藩、多度津藩の寝がえりに、
もはやこれまでと家老二名が切腹、降伏した。
 残る伊予松山藩も2月27日も無血開城。
 四国全土の無血統一を果たした。


 退助らが率いる迅衝隊が
美濃大垣に到着したのは3月11日。
 しかしその3日前の1868年(慶応4)3月8日、
和泉の国、堺の港でフランス水兵と土佐藩士による
殺傷事件が起きた。
 それは迅衝隊の進軍経路上でもあり、
ひとつ間違えば迅衝隊が事件の当事者になる筈の
極めて危険なニアミスだった。

 事件の概要はこうである。

 鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争。
幕府方の敗走により一時無政府状態となった堺を
土佐藩兵が臨時警備を担当する事となる。
 戦乱と共に、攘夷の機運も未だ衰えぬ中
(この年、畿内だけで三度の外国人殺傷事件が起きている。
即ち、神戸事件(2月4日)、堺事件(3月8日)、
パークス英国公使襲撃事件(3月23日)である。)
 午後3時頃、フランス海軍コルベット艦
デュプレクスが、
フランスの神戸事件の後処理に出向いた
領事と艦隊司令官らを迎えるため、
日本国内を当然のように無許可で入港した。

 堺入港と同時に港内の測量と、
水兵の上陸を勝手に行う。

 その上、上陸した下士官以下数十名の水兵が
市街にて、したい放題の乱暴狼藉を働いた。
 神社仏閣に無遠慮に立ち入る。
 勝手に人家に上がり込む。
 婦女子を執拗にからかう。
などである。
 当時列強の圧力によって開港された港の中に
堺港は入っておらず、
町人たちは外国人に慣れていない。
 結果、傍若無人なフランス水兵たちに恐れおののき、
逃げ惑い、戸を閉め籠る者たちが続出し、
警護に当たった土佐藩兵に助けを求めた。


 フランスを含め、
当時の白人たちは偏見と優越感の塊りであった。
(今でもさほど変わらないが)
彼らにとって日本人も他のアジア人同様、
サルに等しい劣等種族に過ぎない。
 何をしようと自分たち優秀な白色民族の勝手であり、
お前たちサルの指図を受ける筋合いなど無い。

 それ故、丁寧に注意の『お声かけ』をする
土佐藩兵に対し、口笛を吹いて挑発、
からかい、罵倒した。
 云う事を聞かない彼らを藩兵隊はやむなく逮捕、
連行しようとした。
 しかし突然、水兵のひとりが藩兵の隊旗を奪い取り、
逃亡する暴挙に出た。

 隊士たちにとって旗を奪われると云う事は、
死を以って償わなければならぬほどの大失態である。
当然、『えらいこっちゃ!!』である。

 当時土佐藩兵の中には、鳶(とび)職人も存在した。
(注:退助が町人袴着用免許以上の者に
砲術修行允可の令を布告している。第17話参照)
隊旗を取り戻すため、
 梅吉というひと際足の速い鳶頭が必死で駆け、
隊旗を奪い逃亡するフランス兵に追いついた。
隊旗の取り合いが始まり、
悪ふざけの極みから、
返す意思を見せない犯人に対し、
やむなく手に持った鳶口で応戦、
はずみで水兵の脳天に打ち降ろしてしまった。
 水兵は断末魔の叫びをあげ倒れ即死。
梅吉は隊旗を取り戻す。
これを見た水兵が、
いきり立ち、復讐に燃え上がる。

 短銃で一斉に反撃の報復射撃を始めた。

 それに反応し藩兵隊の箕浦、西村両隊長が
咄嗟に「撃て」の号令を発する。
隊員たちは70丁の銃口から
一斉射撃を開始、11名の水兵が死亡、
その中には下士官もいた。

 この事件はまかり間違えば
戦争に発展するほどの
大事件である。
どれくらい深刻な事態だったか。

 事件を知った現地の幕府側敗残兵が
「どうぞ私たちが設置した砲台を使ってください。
この後報復攻撃のため、攻めてくるであろう
フランス艦隊に応戦するときの
お役に立ててください。」
昨日まで敵側だった幕府方藩士に
そう言わしめさせたほどの
極めて危険な状況に陥っていたのであった。

 この事件はどう見ても
非はフランス側にある。
 しかし、彼らは自分の非を棚に上げ、
日本人をサルと見下し、
土佐藩士が自軍の兵士を殺害した罪のみを
厳しく追及してきた。
 しかしさすがに戦争まで事を荒立てるつもりはない。
当時のヨーロッパ情勢は
微妙なパワーバランスの上の
薄氷を踏むような平和の中にあった。
 フランスもその例外になく、
いつ本国が隣国から攻め込まれるか知れないのに、
こんな極東の地で兵力の迂闊な浪費はしたくない。

 結局フランス側駐日公使レオン・ロッシュは
解決条件として武力ではなく、
交渉による妥協の道を選んだ。
その要求は
・下手人たる土佐藩隊長以下隊員を
 暴行の場所に於いて、日仏両国検使立会の上、
 斬刑に処する事。
・賠償として、土佐藩主は15万ドルを支払う事。
・外国事務に対応可能な親王がフランス軍艦に出向き
 謝罪の意を表す事。
・土佐藩主もフランス側に出向き謝罪する事。
・土佐藩士が兵器を携えて
開港場に出入りする事を厳禁する事。

の五ヵ条の抗議書を日本側に提示した。

 当時列強各国公使、及び艦隊は、
神戸事件の絡みから大阪湾に集結、
一方、明治政府側の主力兵力は
戊辰戦争の真っ最中と云う事もあり、
関東に集結していた。
 この状況で戦端が開かれれば、
日本の敗北は間違いない。
 2月22日、やむなく賠償金15万ドルの支払い、
発砲した者の処刑など、すべての主張を呑んだ。
武力の差は歴然としており、
無念極まりない要求だが
受け入れざるを得ない。

 土佐藩は警備隊長箕浦、
西村以下全員を吟味したところ、
隊士29名が発砲を認めた。
3月16日大阪裁判所の宣告により
摂津国堺材木寺町の妙国寺で
土佐藩士隊長以下20人の刑の執行が
行われる事となった。

 「非はフランスにあり。
しかし今、日本は建国の大事な時期であり、
外国と争っている時ではない。
申しわけないが日本のために死んでくれ。」
生みの苦しみにあえぐ日本政府は、
土佐藩士20名に申し渡した。

 藩士たちは皆、快く承諾する。

 そしてフランス公使ロッシュ立会のもと
刑の執行が執り行われる時が来た。
即ち切腹である。

 この時点でロッシュは
刑の執行=銃殺くらいに軽く考えていた。
しかし切腹が始まるとたちまち青ざめた。

 まず箕浦猪之吉元章隊長(25歳)。
箕浦隊長はロッシュを睨みこう言い放つ。
「よいか!よく聞け!!自分は死ぬが
それはお前たちのためではない!
お国の為だ!われら武士の最後をよく御覧じろ!」
彼は迷うことなく、見事な割腹を果たした。
 割腹とはただ腹を切り裂くだけではない。
作法により、十字に切り裂く方法、
二字に切り裂く方法等があるが、
切り裂いた後でもまだ死なない。
 その後の痛みに消えゆく意識を乗り越え、
内臓を自ら取り出し、切り刻むのだ。
そこまでして初めて介錯人が太刀を振り下ろす。

 検分役を自ら買って出たはずのロッシュは
恐れおののいた。おろおろと慌てふためき、
吐き気を催した。
 次に西村佐平次隊長(24歳)。
西村隊長は余裕の表情を見せ
ロッシュから視線を離さず、
薄笑いを浮かべながら割腹した。

 こうして淡々と切腹は続き、
3人、4人、5人・・・。
10人まで執り行われた時、
ロッシュは気分の悪さが限界を超え
とうとうその場から逃げ出そうとした。

 しかし日本側立会人が言う。
「卑怯なり!お主たちの要求であろうが!
この場を逃げ去るとは何事ぞ!
最後まで見届けんかい!!
立会人が居らぬと刑の執行は成り立たんじゃろ!」
やむなくロッシュは席に戻る。

 しかし次の執行が終わると
もう我慢できない。
ロッシュは
「もういい、残りの者たちは助けてやってくれ。
我が方の被害は11人、そちらも11人。
これで痛み分けと云う事で手を打とう。」
何とも身勝手な主張をしながら
船に逃げ帰ってしまった。

こうして残り9人の命は助けられた。




 この知らせを後日戦場で受けた退助。
目に涙を溜め、夕日をいつまでも眺めていたという。

 明治新政府の使命は
幕府が結んだ不平等条約の改正など、
国際社会に於ける対等な立場の確立にあったが、
常に強い危機感と緊張感に晒されていた。

その決意を一番強く持ったのが
退助であったと私は思う。

 「この世は強き者が正義で、
弱きものは、常に従属か死しかない。
 正義を貫きたいなら、力を持つことだ。
ワシは正義の人でありたい。」

その強い意志を戦場で如実に表す機会が
すぐそこにあった。

甲州勝沼の戦いである


  つづく