uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(45)

2021-04-11 03:47:22 | 日記














このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










 第45話 最終回


 同1891年(明治24)、
 退助は立憲改進党、大隈重信と会談、
民党連合を形成、連携した。

 その後の民党連合と政府の官吏党は、
議会運営で対立を深める。

 第二議会に於いて自由・改進両党は
多数派を形成した。
 そして政府提出議案を悉(ことごと)く否決、
対抗する政府は直ちに議会を解散する。

 そして品川内務大臣が政府系機関を動員、
民党に対する選挙干渉を行う。

 買収、暴漢を使った警察官による脅迫、
政府と関係する銀行、商社員、
取引ある商工業者への投票妨害、
選挙投票所前での暴漢奔走の威嚇行為。

 この結果、多数の有力民党議員が落選した。
 それでも妨害にめげず、
依然として多数派を形成する。

 その後も民党への干渉は続き、
自由党のみならず、立憲改進党も深手を負う。

 結果立憲改進党は求心力を得るため
立憲革新党・大手倶楽部や国権派と合同し
進歩党を結成した。

 進歩党は政府に近づき、次第に自由党は
孤立化する。


 1896年(明治29)自由党はついに
第二次伊藤内閣に協力する道を選んだ。

 退助は内務大臣として入閣する。


 そのことが世間の批判を浴びた。
内務省とは、警察など治安維持を含む
統制を職務とする部署でもあり、
自由党などの民党は
その弾圧を受ける立場だった。

 当然退助の入閣は
裏切り行為にしか見えない。

 但し、退助のその選択は
決して裏切りを企図したものではない。
むしろその逆であった。

 思い出して欲しい。
退助は土佐藩時代、
当時失脚中だったが、
弾圧を受け、逮捕された
土佐勤王党の武市瑞山を助けるため、
ワザワザ審理する役目の
大監察 (大目付)に復帰しているのだ。

 退助は決して土佐勤王党の過激な行為を
支持してはいなかった。
だが同じ尊王攘夷思想を持ち
命がけで戦った彼らを
何としても守ってやりたい。

 彼らを国の宝として考えた。

 だから自分が失脚した身であろうが
藩の方針に逆らおうが、
守るべき者たちは何としても守る。

 それが退助の生涯を通じての
姿勢であり、人柄である。


 だから今回も自由民権運動を守るため、
自ら取り締まりの本丸に飛び込み、
彼らを守る。

 それは退助にとって当然の行為。

 だが、そんな退助の本心を
見抜けない世間は、
退助を批判、攻撃した。


 『板垣退助は政府が施す
内務大臣という飴に喰らいつき、
自由を奉ずる者たちを売った。』


 曰く、
「自由死すとも、板垣死せず」と。


 当時の新聞等での退助は、
伊藤博文、大隈重信と共に
風刺界の大スターであった。

 無責任な風刺に晒された退助。



 けれども、
一切の言い訳をしていない。

 真意を自らの行動で証明する。

 余計な言い訳は見苦しい。

 内務大臣として退助は善戦した。
だがアウェーでのその努力は、
所詮「独り相撲」に過ぎない。

 第二次松方内閣でも留任したが、
その辺が限界だった。
 次第に立場を失い内務大臣を辞任、
真意を理解されないまま、
1897年(明治30)無念にも
自由党総理も辞任した。

 
 だが退助はそれだけでは終わらない。
信念を持ち、命がけで行動してきた者とは
そんな軽い存在ではない。
 彼の存在はあまりにも大きく
抜けた穴は誰も埋められないのだ。


 1898年(明治31)
今度はそれまで対立していた
進歩党と合同し、
憲政党を立ち上げた。

 この時退助は、
総理大臣就任を打診されている。
しかし、彼は
「それはワシの柄じゃない。」
と云って断っていた。


 何とも勿体ない話である。
政治家の誰もが目指す
総理大臣の地位を蹴るなんて。

 しかし退助にとって
そんな名誉の地位に興味はない。

 自分の主義を通すための立場を確保し、
道具として利用する。
 何としても彼らを守る。
 その目的を果たすために
またしても内務大臣に就任。
弾圧阻止に執念を燃やした。

 この時の内閣を有名な
『隈板内閣』(わいはんないかく)と呼ぶ。

 日本初の政党内閣であった。

 (それまでの内閣は、表向き政党を装うが
藩閥組織の域を出ていない。)
 
 しかし、所詮水と油。
国権派が牛耳る旧進歩党と
旧自由党は内紛に明け暮れ、
たった4か月で崩壊、総辞職した。

 そして1900年(明治33)
立憲政友会設立を見届け、
退助は政界を引退する。

 引退後は機関紙を発行したり、
華族の世襲禁止の活動に従事するなど、
最後まで自由と平等と人権の確立のため
戦い続けた。

 
そして1919年(大正8)7月16日
肺炎のため薨去。
享年83(満82歳)であった。


 ここであるエピソードを。

 退助は一切の財産を投げ打ち、
自由民権のために供じたため
次第に追い詰められ生活苦に陥る。

 1911年(明治44)
維新の功により拝領した
備前長船盛重の名刀を
人を介して密かに売ろうとした。
「これはどこで手に入れたのか?」
とその刀を持ち込んだ人に問うと、
最初はためらったものの
その者は、
「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、
『買い取ってもらうように』
と頼まれて持参した」と打ち明けた。
  驚いた杉山茂丸は、
「この刀は伯が維新の際にその功により、
拝領したものだと聞いているが…」
と嘆息する。

 この後、
「板垣ほどの者が
これほど困窮しているのだから」
と山縣有朋に説いて、天皇や元老から
救援金が出るようはからった。

 (Wikipediaより)

何処までも頑固で決して信念を曲げない男。
 弱い者に慈愛の心をみせ、
強い者を決して恐れない。
(ただし、女性には弱かったが。)

 生涯、この国に自由と平等と人権を
確立させるため、戦い続けた。





 国会議事堂中央広間には、
議会政治の功労者である板垣退助、
大隈重信、伊藤博文の銅像が鎮座する。

 だが、台座はその3つだけではない。

(画像は参議院様より借用)

 銅像がおかれていない
台座がひとつ存在する。

 空席の台座。

 それは、退助や重信、博文の
志を継ぐ者のためにある。

 志を持ったあなたを待っているのだ。

 「こりゃ!〇〇!!」

 幼い頃、そうやって叱られまくったあなた。
 
 そして私。

 銅像を建てて貰うという
地位や名誉のためではなく、
自分の戦いに志と信念を持つ。
その生き様に誰もが共感する。

 そんなあなたの行動を待っている。

 空席の銅像には、
そうした願いが込められていると思う。




 最後に退助が受けた
『自由死すとも板垣死せず』
の風刺を、自分流にこう理解している。

 即ち、
『今、そして今後に於いて、
自由を圧殺する者が出てきても
ワシ(退助)が撒いた種により
意思を継いだ者が必ず現れる。
自由が何度死んでも、
必ず不屈の意思で復活させる。
ワシが死んでも
ワシの意思は死なん。』


 天国で先に逝った象二郎たちと、
あの世のお菊の店から見ています。


   おわり

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(44)

2021-04-08 03:02:13 | 日記













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心から感謝いたします。












   第44話 大隈重信卿


 1884年退助の自由党は解党し、
同年末、立憲改進党党首大隈らが脱党、
こちらも事実上分解した。

 これにより自由民権運動は一時衰退したが、
1887年(明治20)10月、片岡健吉
(元迅衝隊左半大隊司令、退助の右腕)
が元老院に建白書を提出。

 この建白書をきっかけに起きた政治運動を
三大事件建白運動と云いう。

 この建白は
「外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減」
を要求し、民権運動は再び激しさを増した。

 この社会のうねりを見て
象二郎が動いた。
 象二郎は自由民権運動各派が再結集、
大同団結運動を興し、来るべき帝国議会
第一回衆議院議員総選挙に臨む。
帝国議会を舞台に議会政治を打ち立て
条約改正、地租改革・財政問題
にあたるべきと唱え、
旧自由党・立憲改進党の
主だった人々に呼びかけた。


だが、この時自由党元総裁の退助は
自分が疎外された事に
へそを曲げ、いじける。

しかしその疎外の理由は、
何かと行動に不正疑惑が多く、
退助とは性格の合わない
運動のもう一人のメンバー、
星亨の存在にあった。

また私事乍(なが)ら、妻の逝去、
及び再婚問題に翻弄されていた
最中での事もあり、余裕がない。
そうした事由により、
運動からは距離を置いていた。

それとは別に、ライバルだった
立憲改進党の領袖、
大隈重信も懐疑的であった。

 それを見た政府は、12月26日、
安保条例を制定、活動家を弾圧した。

 弾圧する一方、
政府は『飴と鞭』政策も同時進行で実行する。
1887年(明治20)5月、
退助と同じく伯爵の爵位を象二郎に授け、
懐柔作戦に出た。


 象二郎は人の好い性格である。

懐柔作戦などどこ吹く風の顔で
ニコニコして受け入れた。

 後藤象二郎伯爵の誕生である。


 更に政府の分裂工作は続き、
1888年(明治21)2月
大隈重信を第一次伊藤内閣の
外務大臣として入閣させ、
 運動の盟主の象二郎も
1889年(明治22)2月
黒田内閣の逓信大臣として入閣させる。
 そして象二郎は、
運動からの撤退を表明した。

 これにより運動は
その後の方針の違いから、
河野広中の大同倶楽部と、
大井健太郎の大同協和会に分裂、
事実上崩壊した。

 だが実際に帝国議会が開催すると
民権派系の民党と政府の対立が激化する。
そうした情勢の中、大同団結運動と
距離を置く退助を擁立する声が高まった。
 これを契機に
旧自由党系の再集結論が盛り上がる。
 その結果、第二次愛国公党、
大井が結成した自由党、
大同倶楽部らが結集、
改めて退助を擁した
立憲自由党(翌年自由党に改名)
が結成された。

 その結果、第1回帝国議会では
130名を占めて第1党となる。

 そして立憲改進党と
民力休養(市民階級の育成)を掲げ、
政党内閣の確立を目指した。

 
 同1891年(明治24)、
 退助は立憲改進党、大隈重信と会談、
民党連合による連携に合意する。

 
 その日は雨だった。
梅雨の初めは肌寒い。

 退助は会談を始める前から
あまり気乗りしない。

 民党連合に反対なのではない。

 正直言って大隈とは、
そりが合わないのだ。

 大隈は饒舌で、
こちらから討論を仕掛けても、
いつの間にか相手のペースにはまり、
丸め込まれてしまう。

 それが大隈の長所でもあり、
短所でもある。

 しかも大隈の記憶力は超人レベルにある。
 あまり人の話を聞かず、
話の途中で割り込み
自説を展開する癖に、
相手が何を話したか
ちゃんと覚えている。

 しかも大隈は金持ち。
 退助と違い、
投資などで莫大な財を成している。
(某有名大学まで経営しているし)

 退助があばら家に住み、
生活にヒーヒー言っているのに、
彼は別邸を何件も持ち、
毎月1500円も浪費できるほどの
セレブな生活を謳歌している。


 日本を背負う政治家とは、
我が身の一身を賭してでも
捧げるべきものと考える武人退助に対し、
 大蔵官僚出身の大隈は
損得の理にさとい。

 退助は大隈を、大蔵大臣の職から
辞任を要求した過去がある。
 退助のみに非ず、大隈を嫌う者は多い。
 明治天皇や木戸孝允、
西郷隆盛らも嫌っていた。

 でも、その強烈な個性と能力から、
慕う者もそれ以上に多い。

 どことなく鈍臭い所がある退助は、
その愛嬌と人柄で人を引き付けてきたが、
大隈には通用しない。

 案の定、会見は大隈のペースで終始した。

 先に到着していた大隈は、
「やあ、板垣卿、久しぶり!
元気だったか?
滋賀の襲撃から
すっかり回復しようですな。」
「大隈卿(大隈は外務卿を辞職し
枢密顧問官になっていた)
もあの時は大変でしたな。
杖をついての移動は大変じゃろ?」

 (大隈は1888年(明治21)10月18日、
国粋主義者に爆弾による襲撃
を受け、(大隈重信遭難事件)
一命はとりとめたものの、
右脚大腿下三分の一を切断している。)

 「お互いテロには
気をつけんといけませんな!
ハハハハハ!」
 「そうですな。」

 退助も大隈も襲撃犯に対し、
非常に同情的で、
むしろその憎むべき犯罪行為を 
高く評価するような言動を残している。
 その豪放無比な性格は
似ているのかもしれない。


 「ところで板垣卿の自由党は
随分迷走しているようですな。
私の所(立憲改進党)も大変ですが、
お宅は大丈夫ですか?」
「それが全然大丈夫じゃないんじゃ。
どいつもこいつもあっちこっち
向いてるもんじゃけ、
纏(まと)まるものも纏まらん。
 おかげで毎日ヒーヒー云うとる。」
「お互い苦労しますな。
それに加え板垣卿の場合、
家が子だくさんと聞きます。
 そっちの方の苦労も
あるんじゃないですかな?」
「それが・・・そうなんじゃ。
細君は日に日に強くなるし、
子供らは昼夜を問わずビービー泣くし、
寝ているワシの上をでんぐり返しするし、
おちおち寝てられんぞ。
ワシに同情してくれるか」

(笑いを必死で噛み絞める大隈卿)

「深く深く同情します。
大体、板垣卿は清貧過ぎますぞ。
もう少し我が身と家族を顧みんと。
 私が投資の方法を教授しましょうか。
板垣卿が政府に戻ったら、
私も戻って全力でサポートするので、
是非一緒にやりましょか。
 それにしても現在の政治状況は・・・・」

 そこから長々と講義が続いた。

 退助は窓の外の霧のような雨を見る。

 冷たい雨。
 まだ梅雨の入りじゃけ、
暫くつづくの。
 
 まるで解党した今の自由党みたいじゃ。

 今日も我が家は
子供らで戦争状態なんじゃろな。

 


 その時その時の情勢により、
目まぐるしく集合・離散を繰り返す政争に
疲れを感じていた退助。

 しかも家では毎年出産が繰り返され、
鉾太郎兄ちゃんには、
3人の妹と、ひとりの弟ができていた。

 母として、逞しく家を切り盛りする絹子。


 「とても伯爵夫人には見えない」


・・・とは、
口が裂けても言えない退助パパであった。



 母乳を飲ませるのは母、
おしめを替えるのは鉾太郎。
(ただし、学校から帰ってきてからの話。)
犬の散歩と猫の餌やり、
それからおしめの洗濯は
(家事担当の女中さんと)
時々退助伯爵の役目。

 

 さて、その伯爵邸であるが、
こんな証言が残されている。


  
 市島健吉(明治のジャーナリスト)の証言


「常用で板垣伯を訪ねたことがある。
当時の伯の住所は芝公園内の
第何号地という様な分り悪い所にあった。
辛うじて番号を尋ね当てたが、
さてその家が如何にもみすぼらしいので、
自由党総理の家とは思えぬ。
そこで念の為
その家に就いて問うて見ると、
矢張り伯の家であった。
下駄の三足も並ぶと一杯になる
入口に障子が二枚ある。
どうしても下等の判任官の
住居としか見えぬ。
下駄脱から御免というて取次を頼むと、
中でお上りという声がする。
戸を開けると、
直ぐそこに伯が客と対談中で、
今上れと言われたのが
主人の伯であったのに一驚を喫した。
伯は無造作に応接されて、
用は立ちどころに弁じたが、
一方改進党総理大隈伯の殿様振りと
板垣伯の生活振りが
余りに懸隔あるので案外に感じた」

とある。



 退助卿の家の近くに近づくと
いつも子供の声がする。
 貧しいが家庭的な幸せの匂い。

政治の場では波乱続きだったが、
 私生活では
一番幸せな時だったのかもしれない。



  つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(43)

2021-04-05 02:53:36 | 日記












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素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










   第43話  結婚攻防戦

 「・・・・なんで?」
予想外の答えに唖然とし、
呆けた顔の退助が聞く。

 「だって、旦那様は伯爵様ではないですか。
旦那様と結婚すると云う事は、
私は『伯爵夫人』になると云う事ですよ。
 私が伯爵夫人?
 恐れ多いでしょ?
 可笑しいでしょ?

 私を知る者は皆、
『臍で茶を沸かす』と云って笑うでしょ!
 私を笑うと云う事は、
私を妻にする旦那様も笑われると云う事。
 貴族の作法も知らぬ私が、
どうして伯爵夫人になれるでしょうか?」


 「何ぁ~んだ、そんな理由か?
それなら・・・」
退助が言い終わらない間に
絹子が口を挟む。
 「それだけではありませぬ。
旦那様は変なオジサンだし、
(象二郎たち家に来てバカ騒ぎする)
お仲間も変だし、
お金持ちなはずなのに、
いつもピーピー言ってるし、
女癖が悪そうだし、
オナラが臭いし、
時々「クソ!クソ!クソ!」って
地団駄踏んでるし・・・」
「ああ、分かった、分かった。
もういい。」
得意の気まずい顔の退助が遮る。
「でもな、絹さん、
鉾太郎の事はどう思ってる?
今のままで良いと申すか?」
「鉾太郎お坊ちゃまを引き合いに出すなんて、
旦那様は卑怯でございます。」
「卑怯?
卑怯とは何んだ!
自分の分が悪いとなったら、
相手の弱点を突くのは定石ぞ!」

 「旦那様・・・ハァ、 (*´Д`)
それって、男としてと云うより、
人間として如何なものかと思いますよ。」

 「そうか?」
 「そうです!
 確かに私は鉾太郎お坊ちゃまが大好きです。
 でもその事と私と旦那様が結婚するのは
別の問題でしょう?
 え?違いますか?」
 「いや、違わぬ。
 お絹さんがワシの息子が好きと云うなら、
その父であるワシも
好きと云う事じゃないか?」
 「その論理の飛躍は、
何処からきたのです?
 鉾太郎お坊ちゃまと旦那様は
別人格でございましょう?」

 頑として退助の誘いを断る絹子であった。

 どうやら退助は絹子の想いを
勘違いしていたようだ。

 ワシャ、自意識過剰だったか?

 でも粘り腰部門では百戦錬磨の退助。
 決して諦めず、日々の生活の中、
波状攻撃に打って出る。

 「なあ、絹さん、
鉾太郎もあなたに
母親代わりになって欲しいと
云うとるぞ。」
 「なあ、お絹さん、
伯爵夫人になると
ソフィアローレンのようになれるぞ。」

(『伯爵夫人』1967年
チャップリン最後の映画。
女優ソフィアローレンが主人公。
伯爵夫人を演じた)

「なあ、お絹さん、
今度文明堂のカステラを買ぉてやるか?」

「旦那様は私をお菓子で釣るのですか?
情けない。」
「じゃぁ、ルイヴィトンのバッグも
付けてやるぞ。」
「ルイヴィトン?
・・・・・。」
少し心が動いた絹子。
ブルブルブルと冠(かむり)を振り、
「だから・・・、物で釣るのですか?
バカにしないでくだされ!」
と険悪な顔になり睨む。

(ルイヴィトン=退助洋行時、
当人が買ったカバン。現存する製品で、
日本人が所有する最古の現物。)

 絹子の剣幕に怯み
項垂(うなだ)れる退助。
 流石に背中にオヤジの哀愁を漂わせ、
自分の部屋に引きこもる。

(『よろしく哀愁』郷ひろみの歌が流れる。
 ・・・知らない人は要検索)

 そんなある日のこと、
絹子はさりげない日常に
弱者に対する退助のやさしさと、
『徳』を見た。

 会津戦争で罹災した
農民の代表と称する者たちが
数十年ぶりに退助邸を訪れる。

 彼らはあの時退助が示した温情に感謝し、
今の力強く生きている姿を見て欲しいと
陳情のため上京した折に
ワザワザ訪ねたのだ。
 その中には、幼い子を連れた者もいる。

 彼らは民権運動では
大した活躍はできなかったが、
皆応援していると云う。

 退助は絹子の前では
一度も見せた事がない優しい笑顔で
ひとりひとりの手を取り何度も頷く。
「あの時は、いくさに巻き込み
誠に済まぬ事をした。
 それなのに、こうして来てくれた事、
とても嬉しく思うぞ。
 だから感謝したいのはこっちの方じゃ。
 ワシはいつも皆の幸せを願っちょるぞ。
そのために今後も頑張るけん、
待っちょってくれ。」
 そう云って幼子の手をとり
頬ずりした。

 でも退助の髭が痛痒いと
その子は親の後ろに隠れた。

 その時見せた、
いつもの気まずい退助の顔。

 絹子は何故か、その姿と表情に、
親近感と愛おしさを覚えた。
 そしてとうとう
退助の波状攻撃の前に屈する。


「仕方ありませんねえ。」

 小躍りする退助。

 内輪だけの婚礼の日、
福岡孝弟はまた皮肉を言う。


 「随分待たされましたな。
あの時の口ぶりでは
すぐに式を挙げるのかと思いましたぞ。
絹子の承諾の確信も根拠もなく、
よくワシから先に申し出ましたな。
その自信は何処にあった?」
 
 「済まなかったな。
ちと同意を得るのに手こずっての。
 子爵の養子を引き受けてくれ、
数々の手配り、痛み要る。
 おかげで子爵令嬢として嫁すことに
絹子も喜んでおる。」


 ところで『お手伝い券』の事だけど・・・」
退助は恐る恐る聞いた。
「ああ、その件なら無事クリアじゃ。
 退助殿がグズグズしちょる間に
妻との喧嘩は治まっちまった。
 次の機会に使うけん、
大事に仕舞っとく。
 だから券は有難くいただくが、
使うのは後の話じゃ。
 その時まで待っちょってくれ。」
「何じゃ!夫婦喧嘩の仲裁か?
そんな事にワシを
巻き込もうとしておったのか?
 ワシャまた、
政争の裏工作の手伝いにでも
使うつもりかと思ったぞ。」
「ワシを見くびるでない。
ソチの手を借りんでも
道は自分で切り開くつもりぞ。
ワシを誰だと思っちょるか!」
「・・って、夫婦喧嘩の仲裁の方が
情けないと思うが?」
 「まあ、まあ、ここは祝いの席。
細かい事は気にせず、
絹子の事を祝おうぞ、
なあ、婿殿。」

(ゲッ!そうであった。
絹子を福岡家に養子に出したと云う事は、
孝弟は親になり、舅殿になると云う事。
それを失念しておった。)



 そんな基本的な立場の変化にも
思いが及ばない
信じられないほど何処か抜けた退助である。


 多分これ以降、
退助は孝弟に頭が上がらないかもしれない。
 
「父上、旦那様、
何をゴチャゴチャと話しているのです?
早うお席におつきください。
 鉾太郎(坊ちゃま)が
待ちくたびれていますよ。」

「そうだぞ、父上。」
と、鉾太郎。

 どうやら我が家には
新連合が形成されているようだ。





 板垣家の波乱とは別に、
世間でも大きな波乱があった。

 自由民権運動が政府の弾圧と
過激化による自滅から
組織がバラバラになった状況を立て直すため、
帝国議会開設を控え民権派が再び結集、
大同団結運動が始動した。
 しかしその運動も
路線と思惑の違いから再び分裂、
やむを得ず退助は初心に帰ることにし、
出発点であり強固な活動の拠点、
土佐に戻る。
 そして再び愛国公党を組織し直し
第一回衆議院議員選挙を迎えた。


 1890年(明治23)帝国議会開設。

後に退助は河野広中らと旧自由党各派
(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)
を統合し、立憲自由党を興す。
 翌91年、自由党に改称、
党総理(党首)に就任した。

注:退助は伯爵になったため、
華族の立場では衆議院議員にはなれない。
 それ故、意外なことに
生涯一度も衆議院議員の経験はない。
 また、貴族院議員にもなっていない。
 それは爵位を辞し、
明治天皇の詔勅を受け入れた手前、
華族の特権である貴族院議員にも
立候補する事は無かった。


 議員にならず、(なれず?)
常に党首として君臨する退助。



 この後、私生活で絹子との間に
出産ラッシュが続き、鉾太郎を含み、
合計10人の子だくさん家族を形成する。


 政党も子供も、
産むのが大好きな退助であった。



   つづく



こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(42)

2021-04-02 03:31:10 | 日記












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 第42話 叙爵の恩命と三顧の礼

 退助の自由民権運動は
運動の過激化と政府の弾圧により
閉塞感を強め、次第に萎(しぼ)んできた。

 過激派自由党員が起こした主な事件。
 
1881年(明治14)秋田事件
1882年(明治15)福島事件
1883年(明治16)高田事件
1884年(明治17)群馬事件、加波山事件、
        秩父事件、飯田事件、
        名古屋事件
1885年(明治18)大阪事件
1886年(明治19)静岡事件

 事件は次第に過激化し、
暗殺や爆発物によるテロ、
活動資金集めに銀行強盗を計画するなど、
思想犯としてより、
凶悪な犯罪者の様相を呈してきた。

 

 退助はそんな状況を
企図した訳ではなかったが、
自分が提唱した自由民権運動の広がりが、
こんな結果になってしまった事に
強い責任を感じる。


 有る日退助は伊藤博文と
会見する機会があった。

(その会見は後述します)

冒頭、伊藤は退助に謝罪している。
「私が後藤殿(象二郎)に
洋行を勧めた結果、
疑惑を招き、
自由党解党を招いた事を謝罪したい。」

「いいや、謝罪は結構。
 貴殿のせいで解党したのではないきに。
自由党を解党したのは、
全くの自滅が理由じゃき。
 逆にワシの方こそ謝罪したい。
ワシは多くの若者たちをあおり過ぎ、
過激行動に走らせてしまった。
 焚きつけておきながら、
暴発を制する事ができなかった事を、
貴殿と政府に謝罪する。」


 退助は伊藤の分裂工作には気づいていた。

 然し、伊藤は国家の屋台骨を背負い、
国民が持つ様々な不満を、
限られた財政条件と
未整備な仕組みの中で、
懸命に治めてゆかなければならなかった。

 伊藤は民権運動を
完全否定しているのではなく、
あくまで時期尚早とし、
国をまとめながら
緩やかに移行せよといっているのだ。

 自由も人権も、その真意を
廣く国民に浸透させなければならない。
 自由や民権の主張を『徳政令』と同一視し、
過激化した行動に
明け暮れている現状では、
簡単に(不用意に)
権利の付与はできない。

 国民が真に自由、平等、人権に目覚め、
その権利を正当に
行使できるようになるためには、
まだまだ教育による理解と、
権利を持った者の責任と自覚が必要である。

 また、成熟した民主主義を
確立するためには、
国民の大半を占める中間層を
主流として育てなければならない。

 貧困層ばかりでは、
どうしても生活の安定と
自分たちへの税負担軽減しか関心を持たない。

 生活にある程度のゆとりを持たせ、
過激な思想や行動に走りにくく
穏健な考えを持った
市民階級の育成が急務である。

 伊藤の考えと目指す立憲政治とは、
そうした仕組みを持つ国家体制。

 だから彼は殖産興業に、
とりわけ民業の育成と強化に
一番力を入れているのだ。
 伊藤と退助の考え方の違いが
そこにある。
 伊藤の富民を増やし、
国民全体を底上げするやり方に対し、
退助は弱者を救済し、
国家と社会に等しく
自由、平等、人権を浸透させる
理想社会を目指す姿勢を貫くのだ。

 そんな考え方の違いと
国家経営の責任ある立場を、

(同じ政府部内にいた退助は)
痛い程理解していた。
 
 
故に伊藤を責める気にはなれない。

 但し、だからと云って、
お互いが慣れあいに染まり、
異なる主義主張に対し、
決して忖度はしない。

 退助は何処まで行っても
頑固に主張を曲げない
明治の元勲であった。



 そんなスーパー頑固オヤジ
退助のエピソード。


 1887年(明治20)5月9日
戊辰戦争と明治維新の功労者に対し、
叙勲の恩命が下される。

 退助は伯爵に叙せられた。
(※ 爵位には五段階あり、
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵
となっている。)

 だが退助は、勿体なくも叙勲を辞した。
その理由は、退助の主義、主張にある。

 彼は常に一君万民、四民平等を唱えている。
 
 しかし爵位を受けると云う事は、
自ら特権を受け入れ、
平等主義に矛盾した行為になると
考えたのだった。

 


 辭爵表(じしゃくひょう)       

 臣退助、
伏して五月九日の勅を奉ず。
陛下特に 臣を伯爵に叙し華族に列せしむ。
 天恩の優渥なる 
臣誠に感愧激切の至りに任(た)へず、
直ちに闕下に趨(はしり)て寵命を拝すべき也。
 而(しか)して 臣退(しりぞき)て
窃(ひそ)かに平生を回顧するに 
臣、素(も)と南海一介の士。

(中略)

 而して、
陛下 臣を賞するに厚禄を以てし、
並に物を賜ふ事若干、
次て参議に任じ正四位に叙せらる。
 陛下に咫尺(しせき)し以て 
臣が説を進むるを得ば、
臣の願既に足れり。
 尚(な)ほ何ぞ伯爵に叙し、
華族に列するの特典を拝するを須(もち)ひんや。
 且(かつ) 臣、平生衷に感ずる所あり、
高爵を拝し貴族に班するは、
臣に於て自(みづ)から
安(やす)んずる能(あた)はず
縦令(たとえ)、
陛下の仁愛なる、
臣が舊功を録し重ねて
特典の寵命を下さるるも、
臣にして敢(あえ)て天恩に狃(な)れ
一身の顯榮を
叨(みだ)りにする事あらば則ち 
臣復(ま)た何の面目を以て
天下後世の清議に對せんや。
 因(よっ)て 臣茲(ここ)に
表を上(たてまつ)り
謹(つつしん)で伯爵並に華族に
叙列するの特典を辭す。
 伏して願くば、
陛下 臣が區區(おりおり)の衷情を憫み、
其狂愚を咎めず、
以て 臣が乞ふ所を聽(ゆる)されん事を。
 慚懼懇款の至りに任(た)へず、
臣退助誠惶誠恐頓首頓首。

 明治二十年六月四日     
   
  正四位  板垣退助



 想定外の退助の反応に
政府は慌(あわ)てふためいた。

 6月11日宮内次官が天命を奉じ
退助に「陛下(明治天皇)は
貴下の『辞爵表』を奏聞されるや、
御嘉納あらせられず、
深く叡慮を煩わせれておられる。
 よって速やかに前志を翻して
受爵されるように」と諭す。

 一方内閣は秘密会議を開催、
「板垣辞爵問題」を討議し、
あくまで退助を受爵させると再確認する。

(わざわざ国家の閣僚たちが
頑固な退助の問題を討議したんだ!

 驚き!!)


 それを受け退助は
主な旧自由党党員140名を集め、
その場で説明を行う。


 「『再辞爵表』を上書し
「自分が今、叙爵の寵命を固辞する理由は、
封建門閥の弊習を取り除き、
四民平等を宣した
維新の精神を守ろうとするものである」
と訴え、辞爵を再請願した。

 しかしその請願も宮内省書記官に
「陛下の叡慮は前日と変わらない」
旨を告げられ
またしても差し戻される。

 頑固で困ったチャンの退助を
説得することに周囲が混迷の度を深め、
思い余って伊藤博文が
「三度の拝辞は不敬にあたる」
という三顧の礼の故事をひいて諭し、
ようやく退助の心を動かすことが出来た。
 7月15日、退助は参内し『叙爵拝受書』
を奉呈する。


 その三顧の礼の説諭の会談が、
あの前述した伊藤と退助の
謝罪と和解の場でもあったのだ。





 頑固オヤジ退助は、
公私共に波乱を巻き起こす。

 絹子の事で話があると云い、
絹子を斡旋した福岡孝弟を呼び出した。

「やあ、伯爵閣下、
暫く会わないうちに、
一層精悍で脂ぎった土佐男になったのぉ!」
「何を言うか!会って草々、皮肉はよか!
別にワシャ脂ぎっておらんし。
ほら、このウルサラのきれいなお肌をみよ!」
と云って自らの顔を突き出して見せた。


「・・・・・・・・。」

思わずふたりは目を合わせ、
暫く気まずい空気が流れる。



 そんな雰囲気に後悔した退助が
耐えきれず、
「ウォッホン!・・・。
今日はうちの絹子の事で話がある。」
「うちの?
もうそこまでの関係になったとか?
やはり退助閣下の
女子(おなご)に対する手の速さは
早打ちマックや、
ビリー・ザ・キッドなみじゃのぉ。」
「何でワシが彼女に
手を出したと決めつける?
ワシャまだ出しておらんぞ!
大体、ビリーとか、マックとかは何じゃ?

ハンバーガーか?」

 孝弟はその質問を無視し、
「まだ出していない?
じゃぁ、これから出すつもりね?」

「だから!ちゃんと聞かんか!
妻の鈴が亡うなって早一年になるが、
我が息子の鉾太郎が心配なんじゃ。
 でも息子は健気に
カラ元気を装って居るきに。
 そんな鉾太郎を
絹子が懸命に支えておる姿が
ワシの胸に堪(こた)えるんじゃ。

 そこでワシは考えた。
絹子が我が板垣家に馴染み、
鉾太郎の母代わりに
なろうとしているのなら、
 いっそのこと、
本当の母になってはどうかとの。 
 だから、絹子にその考えを伝える前に、
斡旋業者のおまんに
一言云っておこうと思っての。」
「誰が斡旋業者じゃ!
ワシャ悪徳人身売買の『人買い』か!
 じゃが、退助閣下が本気でそう思うなら
ワシも考えてやっても良いきに。」
「それは有難い!
では早速話を進めよう。
神様仏様、
(福岡)孝弟子爵閣下殿。」

「まつり上げんでよか。
でも、このまま祝言をあげるとなると、
世間体が悪いの・・・。
爵位あるお方が女中に手を出して
我が物にしたとの噂が経つと
閣下にとっても都合が悪かろ。」
「もう閣下は止(やめ)んかい。
おまんとワシの仲じゃろが。」
そんな退助の言葉をまたも無視し、
「そうだ!絹子殿を養子として、
ワシの家から嫁がせると云うのはどうかな?
それならきっと
絹子殿の父親の荒木殿も納得するじゃろ?」

「そうかな?
・・・そうじゃな。

 そうしてくれると
ワシとしても有難い。
孝弟殿、引き受けてくれるか?
 お礼にワシが発行する
『何でもお手伝い券』をあげるきに。」
「『何でもお手伝い券』?
何じゃ?そりゃ?
子供か?ワシは?

(何か企みを思いたように、気を取り直し)

 でも本当じゃな?
本当にくれるんじゃな?」

 孝弟がワザと含みのある
悪そうな顔をして念を押す。

「その反応、何だか恐ろしいな。
 何か恐ろしい頼み事をぶつけてきそうじゃ。
やっぱりやめようかな?」
「土佐の男に二言は無しじゃ!
お手伝い券を貰うのを
楽しみにしておるぞ!」


何だか悪魔に
魂を売ってしまったかのような不安を胸に、
孝弟との話をつけた。

 そしてついに、満を持して
退助は絹子にプロポーズした。



絹子の答えは一言。

「嫌だ。」



    つづく