uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第16話 GHQ

2024-07-28 05:07:53 | 日記

 1945年長男秀彦はこの春中学校を卒業、高校に進学するはずであったが、東京は空襲で焼け野原。

 校舎はどこも授業を再開できる状態ではない。

 この時実家の様子もどうなっているか分からない。

 止む無く疎開先の長野で、現地の高校に入学した。

 だが地元民でもない疎開者が、現地の高校に腰掛で入学して良いのか?

 いや、自分は焼け野原と化した東京に戻り、一刻も早く復興に寄与すべき?

 そうした未来を見通せない不安や焦りの中、悶々としていた。

 本当は疎開なんかしたくはなかった。

 だがお嬢様育ちの母一人に弟たちを任せる訳にはいかない。

 父に代わって自分が疎開先の一家を守らなければならないとの使命感が、長男である自分を奮い立たせていた。

 

 僕は父からの連絡をひたすら待っていた。

「もう大丈夫だから、東京の家に戻ってこい。」との手紙を。

 一年や二年、学校に行けなくても良いではないか。

 だが、いつでも戻れるように準備だけは怠らなかった。

 一家の受け入れ先である遠い親戚の農家で一生懸命農作業を手伝い、少しでも肩身の狭い思いをせぬように頑張りながら。

 

 小三の早次は活発なヤンチャ坊主で、学校の宿題そっちのけで遊び惚けていた。

 ただ、遊びといっても実利を兼ねた遊びで、近くの川で魚釣りをする事が多い。

「母さん、今日の晩御飯のおかずは僕に任せて!魚をいっぱい取って来るからね!」

 と宣言するが、まともに釣れた試しは無かった。

 都会っ子は現地の子供となかなか親しくなれない傾向にあったが、人懐っこい早次にそんな心配は要らない。

 あの手この手で遊びを編み出し、地元の子らの間で人気者になっていた。

 今日も「ただいま~!行ってきま~す!」との具合で玄関にカバンを置き、踵を返すように遊びに出かけるのだった。

 

 母百合子は母屋には住まず、納屋の片隅で遠慮がちに子育ての毎日を過ごしている。

 受け入れ先の農家では食べ物は分けてくれるが決して十分とは言えない。

 この戦争下では何処も窮乏生活を強いられているから。

 精一杯援助してはくれるが、この辺が限界なのであった。

 長男の秀彦が頑張ってくれているので何とか一家を支えられているが、持ってきた思い出の着物がその日の食べ物に変わる日が無いわけではなかった。

 まだ幼い康三と識也が毎日お腹を空かしているから。

 さすがに策士百合子でも身動き取れないこの状態では、如何いかんともし難い。

 

 今日も夕餉の食卓はお米に麦を混ぜた御飯に大根の味噌汁、ナスやキュウリの漬物だけである。

 それでもよその家庭よりずっと良い贅沢な献立であった。

「かあちゃま、御飯美味しいね。」と幸せそうに笑顔を見せる識也。

 毎日同じものばかりなのに、「もう飽きた」とは言わず、食べてくれる姿を見ていると自然に涙が溢れてくる。

 この子たちは、私が過ごした少女時代のような甘いお菓子や贅沢な食事を知らない。

 その事が不憫に思え、何としても元の暮らしを取り戻し立派に育て上げるのだ!と固く決意していた。

 

 今は耐え忍ぶ時。

 

 ひたすら夫、秀則からの呼び戻しを待っていた。

 

 

 今年の一月の年明け早々に疎開してから、どれくらい月日が経っただろう。

 8月15日を迎え、父から手紙が来た。

「戦争が終わり空襲は無くなったが、今東京は電気・水道・ガスがまだ復旧していないし、治安も良くない。

 頃合いをみてまた連絡するから、帰還はそれまで待つように。」との内容だった。

 

 実際、罹災者や孤児で溢れ、東京は盗み等の犯罪が横行する状況にあった。

 9月になると戦地から復員兵が続々と戻り、闇市や浮浪者、占領軍の兵士などが行き交う混とんとした瓦礫都市であった。

 それでも日一日と復興は進み、まず道路、そして水道、電気、ガスとインフラ整備が急ピッチで進められる。

 都市交通もバスや電車が復活し、都市機能の動脈が確保されると、復興の兆しが見えてくる。

 実はこの時、東京だけでなく全国各地の空襲でやられた都市機能が驚くべき速さで復旧していた。

 

 その証拠に広島原爆投下後の米軍定点航空写真を見てみよう。

 原爆投下一日後、三日後、一週間後、一ヵ月後、三カ月後、半年後の写真。

 そこには復旧の過程が詳細に記されていた。

 一日後の写真は瓦礫が四散し、建物と道路の境界が見られず混沌とした都市が写されている。

 それが三日後になると、かつては道だったであろう線がクッキリと映っている。

 つまり道路の瓦礫が、たった三日で綺麗に片付けられているのだ。

 そして一週間後、新たに建てたであろう建物らしきものが散見され出した。

 そして一ヵ月後、三カ月後、半年後の凄まじい復旧の様子が記録されている。

 どうしてそんな記録が残っている?

 それはアメリカの重要政策として、原爆の効果と後に続く影響を調査する事にある。

 アメリカ占領軍が上陸して、現地に調査隊をいの一番に派遣向かわせたのが広島と長崎であった。

 そして被爆した建物の状況を、爆心地からの距離別に調査し、被爆者の罹災状況・症状なども調査している。

 但し、被爆者の詳細な調査はしたが、治療は一切していない。

 あくまで調査であって救援ではない。悲惨な状況を科学的に調べ、記録するのだ。

 それが米軍の本質である。

 

 

 あぁ、話がまた横道に逸れてしまった。

 

 

 東京の復興。

 治安維持はまだまだ先だが、最低限の生活環境が整い家族を呼び寄せても大丈夫と踏んだのは、その年の10月に入ってからであった。

 半信半疑ながら喜び勇んで戻って来た百合子たちが見たのは、東京駅の眼下に広がる瓦礫と復興途上の街並みである。

 そこからやっと復活した都電で、懐かしい我が家に向かう。

 家を目の前にして、無事だった我が家が奇跡のように思えた。

 それ程空襲の被害は壮絶だったのだ。

 百合子一行が家に到着する頃、秀則も早めに仕事を切り上げ待ち受けている。

 

 およそ10か月振りの感動の再開であった。

 

 秀則は人目も憚らず百合子を抱きしめ、「おかえり。苦労をかけたな。」と労う。

「あなた、ただ今帰りました。」と伏し目がちに涙をためて百合子が応える。

「少しお痩せになりましたか?」

「あぁ、あんな貧相な食べ物ばかりじゃ、痩せもするよ。

 そのくせ、全然仕事は減らないし。」 とぼやいてみせた。

 実際秀則は胃酸過多症で、必要以上に食欲旺盛であったため、食料不足にはホトホト難儀している。

 だが、飢餓が理由で亡くなる人も大勢いるなか、贅沢は言えない。

「お前たちはどうだった?ちゃんと食べる事はできたか?」

「ウン!麦ごはん、美味しかったよ!」

「そうか、美味しかったか。それは良かった、良かった!

 さあ、長旅で疲れたろう?早く家に入ってお風呂でも沸かそう。」

「ワ~い!家だ、家だ!」と全員で駆けるように入っていった。

 

 

 秀則は今年の4月、東京鉄道局長補佐に昇進していたが、11月になって直ぐ名古屋鉄道局長に栄転、家族の再開もつかの間、単身赴任する事となった。

 誠にあわただしいが、ほぼひと月の同居でまた離れるのは仕事の性質上仕方ない。

 僕の使命は鉄道を立て直す事。戦争でズタズタにされた建物や組織を早急に復旧させ、しいては日本の復興を後押ししなければならないのだ。

 

 秀彦の高等学校入学については、ようやく学校機能を回復した近隣の高輪高校に編入の形で入学する事が出来た。

 早次は池上小に転入。

 お手伝いさんのおアキさんを呼び戻し、後顧の憂いを無くし名古屋に向かう準備をした。

「おアキさん、久しぶり!元気そうですね。」

「旦那様もお元気そうで。」

「疎開先のお国に戻られて、どうでした?」

「もう実家には私の居場所などありませんでした。

 漁師稼業もすっかり兄の息子たちの代になっていましたのでねぇ。戦争に出征したものもいましたが、実家の者たち総出で稼業を続けられたので何とかなりました。そう言う訳で網代では、魚だけには事欠きませんでしたよ。お陰様で私でも何とか過ごせました。

 むしろ私は旦那様の事が心配でしたよ。連日の空襲でろくな食べ物にありつけなかったでしょう?

 旦那様の事だから焼夷弾の中を無事掻い潜れても、食事には難儀しているのでは?といつも思っていました。」

「それはありがとう!僕の事を心配してくれていたのだね。

 さすがに間食はできなかったので辛かったけど、職場からの最低限の支給で三食は事欠かなかったよ。」

「奥様もお坊ちゃまたちも息災で何よりです。本当に良うございました。

 これからは私めがまた家事を務めさせていただきますので、どうぞご安心ください。」

「ウン、頼んだよ、おアキさん!」

 そう言って東京を後にした。

 

 

 名古屋の空襲も凄まじく、連日の空襲で街は東京に負けないくらい瓦礫と化していた。

 名古屋周辺には多くの軍需産業の工場が立ち並び、徹底的に破壊されていたのだ。

 ただこちらも建物の損害は甚だしいが、鉄路自体にはあまり被害は及んでいない。

 その点では非常に助かった。


 ただ、この時僕は嬉しい悲鳴を上げていた。

 朝鮮半島や満州などから続々と引揚者が戻って来たから。

 更に戦地から兵役を解除された者たちも徐々に帰還してくる。

 その中でも特に鉄道関係者を積極的に受け入れ、路頭に迷わす事態を避けなければならない。

 幸いなことに、鉄道の運営は戦後の混乱期であるこの時がピークといえる程、活況を呈している。

 人手がいくらあっても足りないのだ。

 客車はいつも乗客で溢れ、ギュウギュウ詰めの状態。

 それを捌き、円滑なダイヤの運行を保持するには、今まで培ってきた知識と経験がものを言う。

 特に名古屋は東京と大阪を結ぶ大動脈の中間地点にあたり、ここを上手く立て直しできなければ日本の復活など無いのだから。

 

 だが何でも自由闊達に仕事ができたか?と云うとそうではない。

 敗戦で政治機能に空白ができた分、GHQの進出で何でも許可制となったから。

 僕の仕事の半分は部下に対しての復興に向けた指示、もう半分はGHQとの折衝に当てられた。

 

 GHQといっても東京の本部に権限が集中しているため、何事も許可がでるのが遅い。

 止む無く僕が直接東京まで赴き、GHQ本部で直談判することが幾度もあった。

 という訳で、その時は池上の家にもちょくちょく立ち寄る事が出来る。

 これは予期していない、嬉しい役得だった。

 だがそんな事が続くとさすがに非効率と悟った鉄道局は、僕を東京に呼び戻すことにする。

 つまり半年足らずで名古屋鉄道局長から東京鉄道局長に栄転、我が家に戻ることができたのだ。

 

「あら、あなた。お早いお帰りで。」と百合子が出迎えてくれる。

「あぁ、意外と早く戻れてラッキーだったよ。

 これで百合子や子供たちとまた一緒に暮らせると思うと、帰りの汽車で胸が高鳴って仕方なかったよ。」

「まぁ、あなた、名古屋に行ってから、口がお上手になられたわね。」

「まあね、敵さんのGHQと丁々発止のやり取りをしていたら、口も上手くなるさ。」

「あらまぁ、何という事でしょう!私に面と向かって堂々とお世辞とお認めになるなんて、随分肝がお座りになりましたのね。局長サンにおなりになられたからかしら?」

「まあね。愛する切れ者の妻と渡り合うには、対GHQ並みに腰を据えなければ立ち合いできないからね。」

 そう言って優しく百合子を抱きしめた。

「イケずなお方・・・。」

 

 

 

 東京鉄道局長として元の職場に返り咲いた僕は、精力的にGHQと交渉した。

 その過程で岸信介・佐藤栄作兄弟などの官僚とも折衝の下準備として調整し合い、次第に太いパイプを形成する。

 元々岸は企画院時代、様々な形で接触していて面識がある。

 だから僕らはそれらのパイプを最大限生かし、日本側連合軍として対処しなければ、何事も上手く回らない。

 

 GHQの思惑というか、アメリカの対日政策はご存じの通りだが、こと鉄道行政に対しては特別な利用価値を認め、将来の企てを持っているようだ。

 

 と云うのも、第二次世界大戦が終了し、世界秩序に変化がみられてきたから。

 それまで対ドイツ戦、日本戦でソ連と手を携え勝利してきたが、ここにきて敵が居なくなると関係に軋みが現れ始めた。

 今度はソ連と世界の派遣争いに発展しそうなのだ。

 

 もし近い将来アメリカとソ連が激突したら、日本はどうなるか?

 

 これまでの占領政策を軌道修正し、将来を見据えたアメリカにとっての日本の利用価値を推し量るようになる。

 

 アメリカにとって御し易い日本。

 アメリカの意向に素直に従う日本。

 そのためには日本側の人選に神経質になる。

 

 度々交渉に出てくる秀則に関心を寄せるGHQであった。

 

 

 

 

 

         つづく 

 


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第15話 空襲

2024-07-21 05:36:51 | 日記

 はじめに

 

 

 第12話 『近衛文麿首相』が公開停止になっています。

 

 これはGoo blog編集当局から

『現在この記事は公開を停止させていただいております。

この記事の投稿は以下の行為に該当しまたは該当する恐れがあり(詳しくは「gooブログサービス」利用規約第11条をご確認下さい)、又はこの記事に対してプロバイダ責任制限法等の関連法令の適用がなされています。

  • 【理由1】差別表現などの不適切な表現

一部のお客様には、「ブログIDの連絡先メールアドレス」 または 「gooメールアドレス宛」にgoo事務局から お知らせをお送りしている場合がございますので、併せてご確認をお願いします。』

 

とのメッセージ(通知)が届いたからです。

 

 ですが私はこの回を改めて読み返して見ても、どの箇所が『差別表現などの不適切な表現』なのか判断できません。全くの青天の霹靂な事態と思っています。

 また私には差別表現などの不適切な表現をした覚えもありません。

 まぁ、私がこのblogにて投稿を続けるのには、『社会を扇動する』意図と動機があるからであり、その刺激的な表現及び内容がgooblog編集部の趣旨にそぐわないと云うのであれば仕方ないと思っています。

 だから、この問題回を修正して再投稿するつもりはなく(何処をどう修正したらよいのかも 分からないし)今回(第15回含め)今後、わたしのblogの複数個所が追加で公開停止処分を喰らっても私の姿勢を変えるつもりはありません。

 故にこの物語『奇妙な果実』は残り2話で終了する予定ですが、その後の新たな投稿はどうするか未定です。

 多分私はこのアカウントを閉鎖はせず、そのまま放置でいると思います。(私の日記全部が公開停止になってもです。)

 ですが少なくとも新たな投降ペースは確実に減少するでしょう。

 

 取敢えず。この問題回(第12話 近衛文麿首相 )はこのblogと平行して投稿している『小説家になろう』と同一内容なので、もし読み返してみたいとお思いなら、そちらでご確認ください。

 

奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相 (syosetu.com)

 

奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相

奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相

123大賞5 男主人公 明治/大正 昭和 職業もの バッドエンド HJ大賞5 ESN大賞6 下山事件 R15 残酷な描写あり

小説家になろう

 

 

 今のところ『小説家になろう』のサイトではまだ公開停止にはなっていないので。

 

 

 

それでは第15回 空襲 本文です。

 

公開停止処分になる前に【お早めに】お読みください。

 

 

 

 

 

 

 1942年日米開戦を知った翌年の1月、再び百合子の妊娠を知った。

 次の子で4人目。

 今間借りしている借家が手狭になり、かねてから考えていた自宅を建てる計画を実行に移す。

 場所は今住んでいる場所から直ぐ近く、大田区池上の端正な住宅地に決めている。

 土地は数年前から抑えていたし。

 そこは白金にある僕の実家である影山家にも、百合子の実家の藤堂家にも近いから。

 

 百合子の出産に間に合わせるように大急ぎで大工を選定、ギリギリの工期で間に合った。

 二階建てで、当時は珍しい2階にお風呂がある。

 つまり薪で湯を沸かすのではなく、2階までガスを通し湯を沸かす画期的な最新式の風呂ではない『バス』なのだ。

 これは僕の自慢であり、友人・知人に大いに自慢するつもりである。

 これで出産後の向かい入れは万全。毎日赤ちゃんをお風呂に入れられるぞ!

 僕は新たな家族と新築の家を手に入れ、今こそ幸せの絶頂だと心から思う。

 愛する妻と順調な仕事。これ以上、一体何が必要だというのか?

 戦争一色の時節柄、大っぴらに幸せそうな顔はできないが。

 

 妻とは未だにラブラブであり、子供達もヤンチャでうるさい分、将来が頼もしく人一倍父としての幸せを噛み締めている。

 仕事は確かに忙しくなかなか構ってやれないが、充実した仕事をこなす様子を肩越しに見せられる分、父に誇りをもってくれそうだし。

 企画院事件の影響など、一編のやましいところの無い自分には関係ないし、むしろ技師としての力量を発揮するには、この戦時中の環境が合っているのかも知れない。

 スピードと合理性と整合性を一挙に解決・実現するのは、今が一番求められる。

 軍も公安もライバル技師も関係ない。

 自分の描くやり方を推進できる環境に出会い、水を得た魚のような気分である。

 

 

 その年の10月、百合子はまたしても男子を出産した。

 言葉には出して言わないが、今度こそ女の子であろうと期待していた自分は、男の子と聞き一瞬顔が引きつった。

 だって、今はもう既に我が家は男の子だらけの野戦場であり、けたたましい雄叫びや野獣のような奇声の嵐、家中バタバタ走り回る状態なのだから。

 ここにきてもうひとり加わる?

 先が思いやられた。

 でも直ぐに思いなおす。先に生まれた3人の男の子たちは皆可愛く、健やかに育った掛け替えのない息子たちではないか。

 僕にとって彼らは妻百合子と共に、生きるためのよすがであり希望なのだ。

 

 

 四人目の子も個性的な顔立ちで、不思議な事に兄弟それぞれ違った表情をしている。

 百合子もさすがに四人目の出産という事で、産後の表情に余裕すら伺えた。

「あなた、ほら、この子の耳は福耳なのよ。きっと立派な大人になると思うわ。

 そう思いません?」

「そうだな、こりゃ立派な耳だ!オイ、識也ひろやすくすく育ってくれよ。

 将来が楽しみだな。」

「え?父さん、もう名前を考えていたの? 

識也ひろや識也ひろやってつけたの?」

「そうだよ、博識の『識』を『ひろ』と読んで識也ひろやだ。

 な、良い名だろ?」

「どうして生まれてくる子が男の子だと分かったの?」と秀彦。

「それは・・・、いくら父さんでも分からないさ。

 ただ、男の子だったら『ひろし』か『ひろや』。

 女の子だったら『ひろこ』か『ひろみ』にしようと決めていたんだよ。

 その時の『ひろ』は博識の『識』を『ひろ』と読もうとね。」

「どうして『識』なの?

「それはね、これからの世の中、他人に流されちゃいけない。

 自分で考え、自分の判断に責任をもって生きなきゃならないんだ。

 特にこの戦争のような世の中ではね。

 だから、ただぼんやり他人に与えて貰っただけの情報や知識に惑わされず、広く自分で取り込んでいく気持ちを持って貰いたいんだ。

『あっちの水は甘いぞ』に釣られてそそのかされたり、流されてしまっては身の破滅を招くこともある。

 お前たちにはそうなって欲しくないからね。分かるかい?

自分で考え、自分の責任で正しいと思う行動を貫ける大人になるんだよ。」

「よく分からないけど、分かった!」

 いかにも秀彦らしい、頼もしい返答だった。

 

「あなたらしい命名の理由ね。」と百合子。

「そうだよ。それにね、もうひとつ命名の理由があるんだ。」

「それは何ですか?」

「百合子のように賢く優しく聡明であって欲しいと思ってさ。」

「アラ、私ってそんなじゃなくってよ。」と恥ずかしそうに伏し目になる。

「そして(百合子のように)策士になれ!ってさ!」

「アラ、本音はそっちね?あとで怖いわよ、」

 首をすくめる僕だった。

 

 

 

 それにしてもさかのぼること半年前、新しい我が家を建てる地鎮式の日。

 幸先(?)悪い出来事があった。

 1942年(昭和17)4月18日、 B-25双発爆撃機ミッチェル16機が航空母艦ホーネットから発進、東京・横須賀・横浜・名古屋・神戸等を空襲したのだ。

 

 日中戦争が勃発してからもう5年、空襲なんて一度も無かった。

 それなのに日米戦争になって僅か5カ月。もう空襲?

 僕は無意識に戦争慣れしてしまったのだろか?

 まさか東京が空襲に晒されるなんて!迂闊なことに、実は全く想定していなかった。

 いくら相手が国力に圧倒的な差のある米英だからって、さすがに動きが早い!早すぎる!!

 きっとこれはまぐれ?例外だよね?まさか帝都がそう何度も空襲に遭うなんて有り得ない。そう、あってはならない。

 卑しくも僕は技師として企画院の端くれにいる身。

 あまり詳しくはないが、『帝国国策遂行要領』の概要くらい聞かされている。

 南部仏印を侵攻するはずが、何故か真珠湾を攻撃してしまったとは言え、国策の作戦に遺漏や過ちがあろうはずはない。だから大丈夫。

 そう!きっともう大丈夫さ!だから、今家を建てても何の問題もない。

 そう思い込もうとしている自分がいた。

 

 その時は気づかずにいたが、不吉な暗雲は天空の半分以上を覆っていた。

 新しい子が生まれる!その明るい希望が僕の目を曇らせていたのかもしれない。

 

 

 

 真珠湾攻撃から目覚ましい進撃を続けていた連合艦隊は、そこでやめときゃいいのに調子に乗って更に太平洋西海岸にまで展開、12月20日から約10日間で航行中のタンカー及び貨物船を5隻撃沈、5隻大破させ、西海岸沿岸の住宅街のわずか数キロ沖で、貨物船を撃沈、 1942年(昭和17年)2月24日 伊17大型潜水艦にてカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所を砲撃、一連の本土へ先制攻撃をした。

 

 これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は大きな衝撃を与える。

 ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断、ロッキー山脈で阻止する作戦を指示、日系人の強制収容を断行。

 次いでアメリカ政府は日本軍の本土攻撃及び国民の動揺と厭戦気分を防ぐべく、マスコミに対する報道管制を敷く。

 にも拘らず、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次ぐ。

 更に砲撃作戦の翌日、どういう訳か日本軍がロサンゼルスを空襲したと誤報が有りそれを信じた軍がなのを誤認したか、高射砲にて見えない敵(存在しない敵)に対し応戦、その結果民間人に6人の死者を出した。

 アメリカの国内はその恐怖によるパニックから、大きな混乱をまき起こしたのだ。

 

 

  真珠湾で止めときゃアメリカの本格的参戦のペースを遅らせられたのに、ルーズベルト大統領ならずとも、アメリカ国民を完全に怒らせ本気にさせてしまった。

 

 それからは歴史が示す通り、死にもの狂いで体制を立て直したアメリカは、ミッドウェー海戦で連合艦隊をうち負かしてから、日本は連戦連敗となる。

 

 前話で紹介した通りアメリカはオレンジ計画に沿ってその後の大まかな作戦を実行した。

つまりハワイを拠点にミクロネシアの日本軍守備隊を一つ一つ潰し占領、フィリピン・グアムを奪回、日本本土に迫るというものである。

 実際日本はアメリカとどうしても直接対決したいとの野望を持った山本五十六と彼が率いる海軍・連合艦隊の一連の抜け駆け暴走により、『帝国国策遂行要領』の計画外の負担を強いられ、それらの島嶼に多数守備隊を配置。

 日本は満州への関東軍、中国戦線、南太平洋と戦線を拡大した事により、当初考えていた大東亜戦争の目的から大きく外れる事となったのが仇となり、どの戦線も十分な戦力を配置する事も、兵站供給も中途半端となった。

 それに加え次第に日米間の国力差が現れ、その後の史実が示す通りサイパン島・ペリリュー島など、マリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利したアメリカはそれらの島に大規模航空基地を建設、日本本土の大半がB-29の攻撃圏内となり、日本本土への本格的空襲が可能となる。

 

 1944年(昭和19)11月24日以降本土への空襲が本格化。

 一般市民を含む大規模な無差別爆撃が実行され、その結果東京を始め、大阪、名古屋など日本の主要都市はほぼ総て焦土と化した。

 

 連日空襲警報が発令され逃げ惑う国民。

 

 アメリカの空襲は執拗且つ残忍であった。

 

 特にアメリカが空襲に使用したのは、日本向けに新たに開発した油脂焼夷弾と、マリアナ諸島から日本全土を空襲のため往復可能にした長距離爆撃機B-29である。

 特に油脂焼夷弾はヨーロッパ戦線での炸裂弾とは違い、木造建築が多い日本で極めて強い殺傷能力を発揮した。




 1945年3月10日の東京大空襲では、この日から焼夷弾による絨毯爆撃が実行され、夜間低空飛行で正確に目標地点を捕捉、1665トンもの油脂焼夷弾を軍の施設や軍需工場が殆ど無い江東地区や神田、築地などの他、東京・上野駅などの鉄道を標的に爆撃が実行された。

 その方法はまず目標地区の外周を火の海で囲み、その後中の標的をくまなく絨毯爆撃を徹底する、明らかに一般市民を目標とした皆殺し作戦であった。

 しかもこの空襲では折からの強風に煽られ、目標地区を超え、本所、深川、城東、浅草、神田、日本橋、下谷、荒川、向島、江戸川等、下町と呼ばれる地域が消失。

 犠牲者95000人、罹災家屋27万、罹災者100万人もの被害を出した

 

 その後も東京を標的にした空襲は続けられ、4月、5月には山の手が空襲された。

 この時の爆撃規模・消失面積は3月10日の下町空襲を上回っている。

 犠牲者の数は約8000人で3月10日空襲を大幅に下回っているが、それは疎開が進み強風に煽られた罹災が少なかったためである。

 

 影山一家も秀則を残し、妻の実家である藤堂家の伝手を頼り、遠い親戚の居る長野に疎開した。

秀則はひとり新居に残り、日増しに多くなる空襲を耐えた。

 その都度上空に展開するB29を恨めしい表情で睨みつけ、自宅庭に設置した防空壕に避難する。

いつ自宅が焼失するか分からない。

 しかし、それを言っても始まらない。

 僕の家以外にも夥しい家屋が焼失し、多くの犠牲者が出ているのだから。

 僕は多くの犠牲者に手を合わせながら、仕事に向かう。

 自分には空襲で被害を受けた鉄道や駅の再建に全力を挙げて再建しなければならない使命がある。

 今ここで踏ん張らねば、いつやる?

 被害を受けた鉄道は東京以外の各都市にもたくさんある。

 それらの再建にも陣頭指揮をとらねばならない。

 

 幸か不幸か僕が所属していた企画院は1943年(昭和18)10月31日に廃止され、僕は1944(昭和19)鉄道監に任ぜられていたから。つまり鉄道業務に全力で取り組めるのだ。

 僕はこの時、そういう立場になっていた。

 

 僕は東京だけでなく、その他の罹災都市を回り陣頭指揮をとったり、手の廻らないところは部下に直接指示を出し迅速な復興に力を注いだ。

 自分で言うのも何だが、その復興させるスピードは目を見張るものがあり、国家の流通動脈を幾度も寸断されながらも何とか支え続ける事が出来た。

 

広島と長崎に原爆を投下された時も、信じられない短期間で鉄道運行を再開させている。

 

 それにしても、米軍の空襲には疑問が残る。

 軍需工場や軍関係施設の破壊は当然として、空襲の主眼が一般市民を標的にしている事。

 油脂焼夷弾では一般家屋の火災は引き起こせるが、鉄道駅舎や鉄道施設、線路への効果は限定的だから。

 ヨーロッパ戦線と比べると、あちらでは鉄道、橋梁などの破壊が極めて重要であり、真っ先に狙われていたが、日本では(何度も言うが)標的が一般市民であった事。

 一般市民を攻撃する事は戦時国際法で禁じられ、戦争犯罪に該当するハズなのに、である。

 敢えてそうした作戦を実行したところにルーズベルト大統領や、その後を引き継いだトルーマン大統領の日本人への憎悪が見て取れる。

 彼の国の黒人差別が奇妙な果実を生んだように、その差別と憎悪・嫌悪の感情がこの戦争で日本人にも向けれられていたのがよく分かる。

 白人至上主義者が、その考えと立場を打ち砕こうと挑戦した有色人種の代弁者『日本人』を徹底して潰そうとする強固な意思を実行したのだ。

 

 

 僕はこうした背景の中、こうして度重なる空襲を受け自宅の消失を覚悟していたが、何と!奇跡的に罹災を免れた。

 近所の家々がいくつも焼失していたのに拘わらず、である。

 

 戦争が終わり暫くして、ようやく家族が戻って来た。

 そして焼け野原の中、数件の焼け残った家の中に我が家を見つけた時は、一同が飛び上らんばかりに驚いた。

 何故我が家は助かったのか?

 それは自宅一帯が人口過密地帯ではなかったのが幸いしたから。

 家が密集していたら、油脂焼夷弾の威力が最大限発揮できたが、山の手地区の比較的広い庭のある家が一般的な地域では、類焼効果が低いのが大きな原因であった。

 

 

 自分の家が無事に残ったからといって、多くの被災者・犠牲者たちを前にして手放しで喜ぶ訳にはいかない。

 一家の無事を感謝しながら、ただひっそりと慎ましく暮らす影山家であった。

 

 

 

 

 

   つづく

 

 


自殺を考えている全ての日本人へ〜カメルーンからのメッセージ〜

2024-07-19 08:28:00 | 日記

「日本人、死なないで欲しい」アフリカから全身全霊で訴える理由 「世界はとても広い。アフリカに来い」(withnews)




 奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜第15話の前にどうしても紹介したい記事を見つけたので共有し、紹介させていただきます。
(第15話は明後日、今度の日曜日の早朝にアップできそうです。現在半分以上書けました)



 私たちが普通に暮らす日本という国は、外国人の目から見ると決して普通じゃないようです。

 自動車や先進的なインフラを生み出す凄い人々が人生に悩み、仕事に悩み、人間関係に悩み、自らの生命を絶つ現実を知り、温かく呼びかけてくれている。

 とても有難い事です。


 同時に私たちは、私たちの社会は、私たちの国は、どこかで道を誤っているのではないでしょうか?

 日本を応援してくれる外国の人の存在は有難い。
 でもこんな事、日本人同士で解決できなきゃダメだとも思う。
 悩む人に寄り添い、困った人に手を差し伸べる人であるべきだとも。


 ただ、それには問題もある。
 この国の役人や為政者たちは自国の民を弱らせ、精神的にも経済的にも追い詰めるくせに、反日外国人を積極的に受け入れ優遇する。
 そんなお人好しの日本の心を悪用し、容赦なく悪さをする反日外国人がドンドン増え、国民が迷惑を被るような本末転倒の事態が多発しているから。
 彼らに良い顔をし、国民に鞭打つ姿勢を続ける国は真に優しい国とは言えない。
 日本人に自殺が多いなんて、絶対どうかしている!
 そんな状態を放置するのは異常だと思う。

 外に対する表面的な偽りの優しさと打算と私欲で、国の舵取りをしてもらいたくない。

 この国で
 真摯に正直に頑張る人。
 生きることに懸命な人
 ズルをしない人

 これらの人には、日本人も外国人もなく応援して、手を差し伸べる社会であって欲しい。

奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第14話 太平洋戦争

2024-07-14 04:17:18 | 日記

 秀則が企画院専任になるのと同時期、第二次企画院事件と言われた『高等官グループ事件』が起きる。

 1938年の判任官グループ事件での『判任官』とは、秀則の『技師』の上位の官職等級であり、『高等官』は更に上位の官職である。

 調査官及び元調査官である高等官が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名を出したのだ。

 『高等官』の任免には天皇の裁可を要し、その高等官を逮捕するという事は、天皇の裁可に異を唱えるのと同様の恐れ多い処断であったと云える。

 それ程財閥・商工省と内閣直属の企画院の権力争いは熾烈しれつを極め、食うか食われるかの権力闘争であった。

 企画院は軍部(主に陸軍)の(実務上の必要性から)全面的なバックアップを受け、この時点では何とか生き延びる事が出来た。

 但しこの事件以降、企画院の主導権は軍部が握る。

 その後、戦争激化のため限られた予算の争奪をめぐり、陸軍と海軍が対立。

 戦争遂行のためには更に強力な権限を必要とし、事件の発端となった商工省と企画院を喧嘩両成敗として両者を軍需省に再編、統一した。

 つまり最終的に軍部による独裁体制の最終的完成を果たし、国家財政をほしいままにする事が出来るようになった。とは言え、まぁ最終的には敗戦を迎え軍は解体、戦後は官僚の天下となったのは前話でも語った通り。

 

 

 秀則の職務は、ひとえに戦争遂行目的に限定されている。

 仏印・タイ視察も朝鮮・中国視察も結局は戦争継続が目的であり、その後の作戦遂行の下準備であった。

 

 嵐のような職場環境の中、秀則は淡々と職務をこなす。

 そしてその翌年の1941年12月、日中戦争が対英米戦争に発展拡大する。

 

 

 

 

 

    太平洋戦争

 

 

 

 この戦争を多くの人が『大東亜戦争』と呼ぶ。

 確かに当初の目的はアジア解放を求める大東亜共栄圏建設構想に基づく戦いである。

 しかし開戦当初から、意図せず戦争の性質が捻じ曲げられてしまった。

 米国を攻撃してしまった事で主戦場が南部仏印から太平洋全域に拡大、本来の作戦とは大きく変質してしまったから。

 だからこの戦争の(目的ではなく)全容を現わすなら『大東亜戦争』ではなく、正確には『太平洋戦争』なのだ。

 

 

 

 

 国や軍の調査機関は大東亜戦争を想定し、開戦へ至るずっと前から戦争への調査・準備をしていた。

 

 それらは仏印・タイに於ける鉄道敷設は可能か?等の調査が主目的であった。

 

 

 

 当時の日本の喫緊の課題は、日本に対する欧米の締め付け『ABCD包囲陣』に対処するため、及び同時にアジア諸地域を欧米の植民地支配から解放するための方策『帝国国策遂行要領』を断行する事。

 

 特に米の強硬な要求に対処するための策であった。

 

 当時のアメリカの国内事情は、まだ国民の多くに第一次世界大戦のトラウマが色濃く残り、ヨーロッパで起きているナチスドイツと戦争に自分達が参戦するのは嫌だという厭戦感が国の雰囲気を支配していた。

 ただルーズベルト大統領とその一派を除いて。

 ルーズベルトは日本にとって到底受け入てられない条件、『ハルノート』を突きつけ脅し、屈伏する事を迫った。

 

 その好戦的なルーズベルト大統領の動きを封じ込めるため、日本はアメリカに対し、戦争回避を目的とした最低限の要求を伝え、交渉の余地を残す。

 

 その主な要求とは?

 

一、米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること

一、米英は極東に於いて帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること

一、米英は帝国の所要物資獲得に協力すること

 

 その回答最終期限を12月初旬に定め、その期限を迎える。

 

 

 

 『帝国国策遂行要領』を実行するにあたり、その内容とは如何なるものか?

 

 

 実際の歴史では山本五十六連合艦隊司令長官率いる連合艦隊が真珠湾を攻撃して日米戦争が勃発したことは誰もが知る事実であるが、実はその陰であまり注目されていないが、日本軍は当日仏印にも侵攻している。

 本当ならそちらが作戦計画の主たる目的であった。

 

 山本五十六の行動は個人的野心による抜け駆けであり、余計な戦闘であった。

 結果その際の奇襲攻撃が『卑怯なり!』との怒りを買い、最悪の結果となる。

 アメリカ国民を大いに怒らせ、日米戦争に参戦させる口実を作ってしまったのだから。

 おかげで兵力を予定していなかった対米対処に割かねばならなくなり、計画は大きく狂ってしまう。

 

 

 ではその大元の『帝国国策遂行要領』とは?

 

 

 計画中の情勢分析では、日米の国力差は如何ともし難く、直接相まみえるのは無謀であり、現時点では自殺行為である。

 したがって、出来るだけ米との戦闘は避け、主たる敵をイギリスに定める。

 イギリスは大英帝国として栄華を誇ったが、その国力は植民地からの補給が生命線であった。

 その補給路を断ち、本来脆弱な体力しか持たないイギリス本国を屈伏させる。

 そんな事、果たして可能なのか?

 それを実現させるためには十分な情報分析と情勢分析が必要。

 

 そのため陸軍上層部は1939年秋丸次郎中佐を中心に、新たな特務機関『陸軍省戦争経済研究所』(秋丸機関)を立ち上げ、総力を挙げ分析した。

 

 

 その分析内容がイギリス主戦論である。

 仏印方面に侵攻するにあたり、通り道であるフィリピンに拠点を持つマッカーサー率いるアメリカ海軍との戦闘は極力控え、どうしても戦わざるを得ない場合でも出来るだけ小競り合い程度に留め、対日参戦にエスカレートさせない。

 そしてイギリスに対しては、英海軍との直接衝突は避け、英輸送船のみを狙い撃ちする。

 ひたすら輸送船を攻撃し本国への補給を断絶させ戦争継続を困難に。

 最終的には英の主たる敵、対ドイツ戦で敗北させる。

 同時に陸地に於いてはタイ・ビルマを攻略、インドに燻る独立運動を支援し、イギリスのアジアの一大拠点を喪失させる。

 そしてインド北東部アッサブ地方からヒマラヤ山脈を空から抜け、中国を支援するアメリカの空路拠点『援蒋ルート』を遮断、蒋介石国民党支援の補給を経ち日中戦争に勝利する。

 更に英を追い出した後の空白に乗じてインド独立を達成させ、日本軍は更に西へ進軍。

 中東サウジアラビアに到達、ソ連の補給路も絶つ。そして中東石油利権を獲得、対米依存を完全に断ち切る。

 

 資源獲得により資源小国としての日本のアキレス腱を強化し日本の国力を高め、米の脅しに屈することなく対峙する状況を作り上げる。

 

 これが『帝国国策遂行要領』計画内容の大筋であった。

 

 

 

 

 ここで何故『帝国国策遂行要領』について解説したのか。

 私(作者)は、自作の他の物語でも度々『帝国国策遂行要領』の概要に触れている。

 どうして同じ事を何度も言うのか?

 それは太平洋戦争へのくだりに突入するにあたり、どうしても伝えておきたい事があるから。

 

 この戦争でボロ負けした事が悔しくて、負け犬の遠吠え宜しく口癖のように言いたいからではない。

 確かにこの戦争では完膚なきまでに叩きのめされた。

 そして多くの人々を亡くしてしまった。

 この戦争は人命軽視が甚だしかった。

 

 でもこの戦争が後世の人の言う、無計画で無謀で残念だった訳ではない。

 充分に勝算があり、定石通り攻めれば勝てた戦争だったのだ。

 たった一人の司令官の暴走が勝敗を分けたが、この戦いで死んでいった者たちは皆、勝利を確信していた。

 各々の意に添う、添わぬに関わらず、たった一つの大切な命を捧げる結果となったが、それは無謀・無駄な死などでは決してない。

 例え戦闘ではなく、マラリアや飢餓による戦死であったとしてもだ。

 現地の悪条件は敵も同じ。

 そんな苦しい中で共に戦った。

 そう信じて死んでいった人たち。

 

 私は彼らの辿った運命とその命に敬意を表したい。

 そして戦後レジームが、日本人から誇りと自信を奪った現状に訴えたい。

 

 私たちがいじける必要など、どこにもない!

 

 彼らが築いた累々と重なる屍から目を背け軽視することなく、自分の考えに信念と誇りを持った日本人として、先祖から受け継がれてきた強靭な特質を胸に、日本国内及び国際社会の逆風にたじろぐことなく、雄々しく立ち向かう現代の戦士であれ!との思いを込めて訴えておきたいのだ。

 アメリカに潰された産業や自信や誇りを取り戻し、再び立ち上がれ!と。

 

 

 ただし、この戦争中もそれ以前からも過ちはあった。

 日本人が持つ特有の性格からくる歪な精神状態も。

 現在に続き繰り返される悪しき習わしはその都度反省し正さなければならない。

 

 

 

 

 秀彦は11歳になり国民学校初等科5年の年、太平洋戦争が勃発した事で学校教育も戦時体制一色となった。

 

 そんな頃、秀彦はテストの答案用紙を家に持ちかえった。

 それを見た百合子は仰天した。

 何と0点だったから。それは白紙の答案用紙だったのだ。

「秀彦、これは何ですか?」

「この前のテストの結果です。」

「・・・・・。」

 秀彦は学業優秀な子。授業について行けないなんて有り得ない。

 母として頭ごなしに叱ったり、ヒステリックになって詰め寄るのではなく、冷静になにがあったのか聞く事にした。

 でも秀彦は応えようとしない。

 いくら尋ねても頑として話さない。

 

 思い余った母百合子は秀則に相談する事にした。

 秀則が帰宅草々、百合子から聞いた0点事件に驚く様子もなく秀彦に話しかける。

「秀彦、何が聞きたいか分かるな?

 お前にも男としてのプライドがある。

 だから父さんも同じ男として聞く。何があった?」

 長い沈黙の後、秀彦は重い口を開いた。

 その内容とは、

 

 秀彦の同級生たち男の子の遊びといえば、戦争ごっこ一択。

 銃に見立てた棒を抱え突撃するなど、誠に勇ましい。

 

 ある時、級友たちと「どんな武器が一番か」談笑というか、雑談を始めていた。

「それは勿論戦闘機だろ!空を飛びながら『ダダダダ!』だぜ!」

「いや、戦車の大砲の『ズドーン』だろ!」

「戦車?違うだろ!戦艦に決まってるじゃないか!戦艦の主砲からぶっ放される砲弾なんか『ズッド~ン』だぜ!」

「いやいや、僕はどれも違うと思うな。

 戦争は兵隊さんがやるものだ。兵隊さんが戦地に行くのも、武器や食べ物を運ぶのも鉄道が無ければ立ち行かないだろ?

 だから、それらを運ぶ機関車が一番さ!」

「機関車じゃ、直接敵を倒すことはできないよ!大体機関車は武器じゃないじゃないか!

 お前のオヤジが鉄道に勤めているからといって、余計なものをねじ込んでくるんじゃないよ!」

 秀彦以外はウンウン、と頷き同意した。

「余計なもの?君らは本気でそう思っているのか?」

「思っているさ!だって機関車は武器じゃないジャン!」

「人を殺すだけが武器じゃないぞ!兵隊さんたちを一度に早くたくさん運べる機動力が勝敗を決するって知らないのか?」

「機動力って何だ?勝敗を決する?敵をやっつける武器の話をしてんのに、関係ない道具を持ち込むなよ!」

「人を殺す事が偉いんじゃない!皆が力を合わせて勝利する事が大事だって言ってるんだ!国民ひとりひとりが自分に出来ることを精一杯やり抜かなければ、この戦争には勝てない!相手は鬼畜米英だぞ!死にもの狂いで戦わなければ負けちゃうんだぞ!目の前の武器の事だけしか考えない者は負けるんだ!」

 

 そのやり取りを偶然担任の先生が聞いていた。

 そして秀彦の言動には問題があると感じた。

 そして秀彦を職員室に呼び出し、問題発言を叱る。

「秀彦!今は戦時中だぞ。兵隊さんがたくさん戦っている。なのに、人を殺す事が偉いんじゃない?死にもの狂いで戦わなければ負けちゃう?『負ける』を連発していたな。   

 お前のような小国民がそんな軟弱な心構えでどうする!『敵は幾万有りとても』だ!

 明日の朝礼でみんなの前で謝れ!いいな!」

「イヤです!ボクは間違っていない!だから謝りません!」

「貴様!」そう言ってビンタした。

「謝ると言うまでまで他の者たちとの会話を禁ずる!」

 そう言って秀則は先生の厳命により、クラス内で村八分にされた。

 戸惑うクラスメイトたち。

 だが先生の命令とあらば仕方ない。命令を破って話しかけたら、自分も村八分にされる。

 自分たちに選択の余地は無いのが悲しい。

 

 そうしてひと月が経過。問題の小試験の日がやってくる。

 納得のいかない秀彦は抗議の意味を込め、白紙答案を出した。

 ひと月もの間、クラスの誰も秀彦に話しかけてくれない。

 誰も助けようとしない。(内緒で声をかける子はいたが)

 

 

 秀彦はそうした集団同調を強制される理不尽な処分を担任から受け、さぞかし孤独と口惜しさの中、暮らしていたのだろう?父として気づいてやれなかった自分が悔やまれる。

 しかし、だからと言って学校に怒鳴り込むのも親としてどうかと思う。

 

 秀彦が0点の答案を親に見せたら、親がどう思うか?自分が担任として生徒に何をしたか?家族にバレてしまう。

 多分その時点で担任としての指示・命令を後悔し、戦々恐々としているだろう。

 

 秀彦には励ましと、自分が正しいと思う事は顔をあげ正々堂々としていろ!と諭した。

 そして担任の先生宛に、「愛国教育もいいが、教師は聖職である。聖職としてのやり方に深慮と配慮を示す教育を進言する。」との書簡を秀彦に託した。

 さすがに担任も自分がやり過ぎだと感じていたのだろう、それ以降秀彦への村八分は解除された。

 クラスの皆が喜んだ。

 そして机の下で両手を握り、「ヨシ!」とガッツポーズをした。

 皆、鉄道ヲタク二世の秀彦が嫌いじゃないから。

 

 秀彦の0点は0点のままだったが。

 

 

 

 

 

          つづく


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第13話 企画院事件

2024-07-07 04:42:38 | 日記

 1938年(昭和13)5月、戦時統制を目的とした『国家総動員法』が施行される。

 この法律により、日中戦争総力戦のため、政府が国家に於ける全ての人的・物的資源を統制運用する旨が規定された。

 これは日中戦争早期講和失敗により、泥沼化・長期化する事となった事態に対応する施策である。

 

 近衛首相は「この戦争、俺のせいか?」との思いも強く、自身の持つ社会主義思想を実践に活かす、いわばやけくそ的推進の部分も見られる。

 後に(戦後)この法律が治安維持法と並ぶ天下の悪法としての代名詞を冠される事となったが、これは戦争遂行を何としても維持しなければならない(おっ始めたからには絶対に負ける訳にはいかない使命と責任を負った)軍部と、企画院首脳の思惑が一致した施策であった。

 

 企画院首脳の思惑?

 

 実は企画院、東京帝大卒業後、京都帝大に進学して以降、左翼思想に傾倒していた近衛首相の意向に沿った人事が色濃い。

 企画院メンバーの中には、左翼思想の他、進歩的発想を持った者たちが多く登用され、後の共産党活動家やリーダーとして活躍したものも多く含まれている。

 故に左翼的政策を国家統制の名の下、大っぴらに実行できる下地を利用したとも言えるのだ。

 もちろん秀則のように思想的背景とは無縁の者たちが大多数を占めていたが、それでも革新的発想を実行できる人材の牙城であったのは間違いない。

 

 

 企画院ができる少し前、2.26事件が起きているが、この事件とも深い関りがあった。

 と云うのもこの事件、軍部内の主導権争いであり、皇道派が統制派に対して勢力巻き返しのために起こした右翼クーデターである。

 この結果は東条などを中心とした統制派が勝利を収めたが、実はどちらが勝っても軍部が政権(実権)を握るよう、仕組みが整っていた。

 クーデターに負け、多くの将兵が処断されたが、それに同情的な近衛が大赦を画策するほど、当時の右翼と左翼には垣根が薄かったとも言える。

 思想は180度違うが、国家統制による平等な分配を目指すという点に於いて、両者は一致しているからである。

 (実際2.26皇道派の掲げた主張は、戦後GHQの施策が進めた革新的政策である『財閥解体』や『不在地主制度の廃止』など、当時の革新的政策と驚くほどよく似ている。GHQは後にレットパージ(共産主義者公職追放)を実行するだけあって、決して左翼などではないが。)

 国をどうするか?その方法論は右翼も左翼も革新もなく、国家の発展を進める際の障壁となる旧態依然とした格差や、社会矛盾を正さなければ発展が望めない時の改革の施策は大差ないのかもしれない。

 

 以上のことから意外なことに日中戦争の最中の政府内は、同床異夢の異なる勢力がしのぎを削って主導権を握ろうとする不安定な集合体であった。

 

 

 

 

 

 こんなどんどん暗くなる統制的社会情勢の中、百合子が第3子を産む。

 

 またも男子であり数日後、『康三』と命名する。

 三男で健やかに育てとの願いから健康の『康』の字と三男の『三』から康三。

 三番目の息子ともなれば、命名も多少安直になっても仕方ない。

 

 僕は勿論喜んでいるが、心の中のどこかに(次は女の子でも良かったな)との思いがよぎった。

 満面の笑みを浮かべて喜びを表現しているのに、勘の鋭い百合子は、

「ホントは女の子が良かったですか?」と大胆にも聞いてくる。

 家の中、やんちゃな男の子が二人で縦横無尽に駆け回る環境に居たら、気が休まる暇はない。

 だからつい、そういう想いが湧いてくるのも確か。

「イヤイヤ、決してそんな事はない!こんなに玉のようにかわいい男子を産んでくれて、心から感謝しているよ!ありがとう。

 そして百合子、でかした!」

 そう言ってねぎらう僕。

 その心に嘘がないのもホントの気持ちである。

 それを聞いて百合子は水色の笑みを浮かべた。

 

 新生児の康三を飽きもせず、ずーっと眺める秀彦と早次。

「康三、いつも寝ているね。つまんない!」

「早く起きて僕の顔を見てくれないかなぁ~」

「ダメですよ、起こしちゃ!赤ちゃんは寝るのと泣くのがお仕事なんですからね。

 それに今はまだ生まれたてだから、起きていても目は見えていないのよ。

 だから見ているようで、秀彦も早次も見てはいないのです。

 だからね、そっとしておきましょうね。」

 

 ウン!と頷くふたり。

 でも無言のままいつまでも可愛い弟を眺め続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 そんな平和で幸せな影山家とは裏腹に、秀則の職場には突然の災害級の嵐が吹き荒れた。

 

 企画院事件である。

 

 企画院と軍部と公安のパワーバランスが崩れ瞬間、企画院から次々と逮捕者が出たのだ。

 それも、その波は二度に渡って。

 

 一度目は1938年10月、京浜工業地帯労働者研究会の一斉検挙(世に言う「京浜グループ」事件)これを第一次企画院「判任官グループ事件」という。

 二度目は1940年10月、企画院発表の「経済新体制確立要綱」が赤化思想として攻撃され、原案作成にあたった中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名の第二次企画院「高等官グループ」事件。

 一度目に検挙された判任官と二度目の高等官の力が削がれ、近衛内閣のブレーンである政策実行部隊の企画院解体(1943年)のキッカケとなった。

 そもそも企画院は国の重要な政策の企画・実行策定を担う人材の集まりであり、特に予算や法のエキスパートである官僚の発言力が強く、その分野においては素人である軍部は主導権を握れないでいた。

 だが、それでは官僚のひとり舞台だったかと云うとそうではない。

 官僚に対抗できるもうひとつの勢力が存在したから。

 その勢力とは財界。

 当時の日本は財閥が資本を独占しており、三井・三菱・住友・安田・五代の資本力、工業力等が実際の産業や国策の実行を支えていた。

 そしてその財界と結託していたのが内務省。

 

 軍部は官僚に実質的に追従する立場にいて、企画院の政策遂行には協力的だったが、そこに待ったをかけたのが財界と治安維持を司る内務省(公安)勢力という図式だった。

 

 

 1940(昭和15)第2次近衛内閣が提出した「経済新体制確立要綱に関する企画院案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人らが「赤化思想の産物」であると非難、企画院はアカの巣窟と断じ対立の挙句、商工次官として実質的官僚の代表だった岸信介が更迭される。

 そして原案は骨ぬきとなり、更に平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が共産主義者として検挙されることとなった。

 

 

 ただこの事件により共産主義者が排除されるという組織変容はあったが、官僚の持つ主導権はまだ健在であり、後の動きとして太平洋戦争後半の敗色が見え始めた1943年(昭和13)、「軍需会社法」によって企業の利益追求を事実上否定、企業目的を利潤から生産目的に政策を転換させるという財界に対する画期的勝利を得た。

 その直ぐ後(1943年)の企画院廃止、一年後に敗戦を迎える。

 そして省庁改変を経て形を変えながら経済官僚はGHQの公職追放でもほぼ生き残り、戦前の強力な統制政策を転換する。

 そして行政指導・許認可制度、優遇税制・政策減税、予算手当てや補助金などを駆使、大蔵省・通産省・経済企画庁に渡って戦後の国家を牛耳る事となるしぶとさを見せた。

 

 

 それら企画院の大騒動を尻目に、秀則は着々と自分の足場を固めていた。

 

 1939年(昭和14)仏印へ約二週間、1940年(昭和15)3月タイへ二、三週間、更に朝鮮・中国まで足を延ばし企画院技師兼鉄道調査員の資格で視察した。その時は軍部から参謀本部の小森田中尉が同伴している。

 何故参謀本部が?

 それは秀則に思想的背景が見当たらないとはいえ、企画院技師としてマークされていたから。

 それともう一つ。

 今後の戦争の行方によっては、鉄道輸送が成否を決する可能性が高く、作戦の策定に大きく作用するかもしれないため。

 実際この後も企画院事件の余波を受けて、高等官グループの元職員である満鉄調査部員が検挙されている。

 このことから影響は同調査部にも波及。これを満鉄調査部事件という。

 国家統制と治安維持の名の下、企画院メンバーは徹底的に監視の対象とされたのだった。

 だが秀則はこの機会をチャンスと受け取り、各国、各地域の実情を意欲的に見学した。

 それは後の鉄道行政に生かすべく、俯瞰的視点を養う必要があったから。

 決してこの視察は物見遊山ではないのだ。

 

 ここからは余談になる。

 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後の世界では、南部仏印地域での日本軍の侵攻は目覚ましく、予想を超えた勢いで進軍した。

 そこで問題になったのは、映画でも有名になった『泰緬鉄道』建設に軍部がどう関わるか?等の課題を想定し、秀則がせっかく戦時下での鉄道建設計画の立案を任されたのに、その計画の下準備等が生かされなかった事。

 物資輸送の動脈確保が、如何に戦争の作戦遂行の死命を制するかが重要なのだから。

 なのに実際の歴史を見ると、インパール作戦等、物資補給(兵站)の失敗は明らかである。

 というか、この作戦に於いては、参謀本部ははなから兵站輸送を想定していない。

『兵站は現地調達を旨とする』とし、パラシュート部隊に対し、補給路が設けられてはいないのだ。

 その結果は歴史が示す通り。

 作戦に参加した兵の中から夥しい程の餓死者を出し、作戦は失敗している。

 秀則がいくら輸送路の充実確保に奔走しようとしても、作戦参謀に無謀な作戦を策定する無責任な者が居れば、傷ましい結果を産む。

 

 秀則の不幸は軍部の中の有能な人物と出会えなかった事。

 せっかくの鉄道利用の治験を活かせず、多くの犠牲者を出してしまった。

 

 これらは1940年当時の秀則から見た『後の世』の話。

 

 

 話を秀則が無事視察を終え、帰宅した時に戻す。

 

 

 

「ただいま。」

「あなた、お帰りなさいませ。」と百合子。

「お父さん、お帰り!」

「秀彦、早次、元気にしてたか?」

「うん!ボクたち、ケンカしないでちゃんと康三のお世話をしてたよ!」

「そうか?偉いな!」と云いつつ、(本当か?)と確かめるように百合子に目をやる。

 残念ながら百合子は視線を逸らす。その様子から子供達の留守中を察した。

 だがそれには触れず、

「父さんは満州で、ド偉い機関車開発の計画を聞いてきたぞ!

 夢のような超特急が数年後にできるそうだ。」

 今年10歳になる秀彦は目を輝かし、

「夢の超特急?それって凄いの?どんな感じ?」

「それはな、物凄くカッコよくてな、そして物凄く早く走るんだ。

 アメリカにもヨーロッパにもない、超華麗な機関車なんだぞ。

 満州は遠いけど、その汽車が出来たら家族みんなで乗りに行こう。」

「ワ~イ!楽しみだな!」

 飛び上って喜ぶ秀彦たち。

「あなた、そんな開発計画、口外しても良いの?」と百合子が不安げに聞いてくる。

「多分、大丈夫だろう。具体的な詳細まで明かした訳ではないし。

 夢のような計画があるくらいなら、知っていても問題ないレベルだしな。」

 

 だが、秀則一家がその新開発の列車に乗る機会はついぞ無かった。

 戦争が激化し、満州まで渡航するには幼子を連れた一家には難しい情勢だったから。

 

 その新開発計画の超特急が完成し、運用されるのは1943年。

 その機関車の名は『アジア号』といい、当時の世界最高レベルの傑作だった。

 この最新鋭機は何と!島村と彼の父が開発に参加している。

 完成した時の彼の鼻高々の自慢話を、後に嫌という程聞かされたのは言うまでもない。

 

 

 

 当の秀則はと云うと、仏印・タイの視察から帰還後すぐに鉄道調査部技師から外れ、企画院専任となる。

 

 第二次企画院「高等官グループ」事件が1940年10月に起きたが、そのタイミングの人事だった。

 嵐が吹き荒れる職場に敢えて身を投じざるを得ない秀則。

 

 正直、逃げ出したい想いを胸に、理想と信念と大切な家族を支えに踏ん張り続けようと思った。

 

 政治的思想とは無縁な自分は、軍部や公安に臆する必要は何もない。

 そう気持ちを奮い立たせるのであった。

 

 

 

 

 

     つづく