uparupapapa 日記

ブログ村のでの私のタイトルが文字化けしているので、タイトル変更しました。 ブログ村に是正を申し入れても無視なので

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(31)

2021-02-27 04:59:21 | 日記
     



    第31話 征韓論


 岩倉使節団の洋行中、
西郷、板垣たちの留守部隊は
次々と新たな国造り施策を実行してきた。
 彼らの仕事は国内政策に留まらず、
列強諸国との外交諸般の他、
近隣諸国との新たな条約締結にも及んだ。
 
 そこで、まず最初に取り組まなければならない国。
それが隣国『李氏朝鮮』である。
 当時李氏朝鮮は、摂政の興宣大院君が
極端で過激な鎖国・攘夷政策を取っていた。

 
 好むと好まざるとにかかわらず、
一番厄介で縁が深い国。

 特に江戸時代の李氏朝鮮は、
日本の将軍が代替わりする度
朝鮮通信使を送ってきた。(計11回)
 一回に470人から500人と云う規模で、
随行の対馬藩の役人及び、
警護1500人ほどが加わる。

 対馬藩士が随行の任にあたった訳は、
1675年(延宝6)釜山に草梁倭館建設、
外交拠点として対馬藩士が常駐、貿易や、
通信使関連の連絡、
情報収集の任についていたためである。
 
 通信使接遇には一度に約100万両
(1両=1石換算で幕府の直轄領
約400万石の1/4に相当する)かかった。
  (Wikipediaの資料参照)

 当時通信使の行列は、異国情緒漂い、
庶民の見物の対象であり、
娯楽としての一面があった。
その一方、通信使の中には国使としては
相応しからざる者も多数存在した。



『屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、
酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、
席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、
供された食事に難癖をつける、
夜具や食器を盗む、
日本人下女を孕ませる、
魚なら大きいものを、
野菜ならば季節外れのものを要求、
予定外の行動を希望して、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかける、
といった乱暴狼藉を働くものもあった。
 警護に当たる対馬藩士が侮辱を受ける事もあり、
1764年(宝暦14)
通信使を殺害する事件も起きている。
 「今時の朝鮮人威儀なき事甚し」と、
儒学者菅茶山は朝鮮人が
伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。』

(これもWikipediaによる資料)



 更にロシアの南下政策により、
樺太・千島へ触手を伸ばし、
対馬に於いて1861年(文久元)3月14日、
ロシア軍艦対馬占領事件が起きるなど、
露骨な侵略意図を見せる。
 更にロシアは朝鮮に圧力をかけ、
スパイを送り込み、
対日戦争に加担させようとしているとの
風説が流れていた。
(情報源 オランダ商館長:クルティウス)


 日本の朝鮮通信使に対する印象は
決して良くはない。

 また朝鮮側も日本に対する印象は良くはない。

 1866年(慶応2)末、清国の新聞に、
日本人八戸順叔による
「征韓論」の記事が寄稿され、
清・朝鮮の疑念を招いた。
(八戸事件)

 それ故、摂政・興宣大院君による
鎖国・攘夷策に対し、
早急な対応が求められた。

 ロシアによる朝鮮半島への覇権は、
隣接する日本の安全が脅かされている。

 朝鮮も対日強硬姿勢を高めていた。



 勝海舟は欧米列強に対抗するため、
『我邦より船艦を出だし、
弘くアジア各国の主に説き、
横縦連合、共に海軍を盛大し、
有無を通じ、学術を研究」しなければならない』
と説いている。
 
 一致団結して列強に対抗しようと
呼びかけているのだ。

 日本の留守政府は、李氏朝鮮に対して、
新政府発足の通告と国交を望む交渉を行った。

 しかしその外交文書は
江戸時代の形式と異なることを理由に
国書受理拒否という回答を喰らう。

 その理由は従来、
日本の代表の大君(将軍)と、
朝鮮国王は対等な関係であるとしてきた。
 そこに朝鮮国王の上の位置にある
清国皇帝が使用する
「皇」「勅」などを含む国書は、
到底受理できない。
(朝鮮国王は清国の外臣との位置づけのため。)

 朝鮮は清国の外臣ではあるが、
日本に対する臣ではない。
 先の八戸事件もあいまって、
朝鮮側の非難の論調は過激さを増し、
天皇、皇族を侮辱する態度まで示す。

 佐田白茅外二人帰朝後見込建白の記録にも
『朝鮮は皇國を蔑視して、
文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、
以って耻辱を皇國に與(あた)う。』
と記されている。

 その後の交渉に於いても
頑なに拒む朝鮮であった。
 
 排日の声ますます強まり、ついに釜山にて
官憲先導のボイコット運動が起きた。

 更に大院君が
「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、
我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」
という布告を出す。


 ここに日本国内において、
征韓論が嵐となり沸騰。

 1873年(明治6)年、
釜山日本公館駐在外務省広津弘信が
外務少輔上野景範に宛てた報告書により
閣議にて朝鮮問題が取り上げられる。

 この閣議の出席者は、太政大臣三条実美、
参議の西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、
江藤新平、大隈重信、大木喬任であった。
 
 退助は居留民保護のため、一大隊の兵を送り、
その上で使節を派遣して交渉をすべきだと主張。
 それに対し西郷は
「まずは責任ある全権大使を派遣し交渉すべき。」
と主張する。

 退助は自説を撤回し西郷の提案に賛成、
象二郎、江藤新平ら、出席者全員が同調した。

 ただし、結論は岩倉使節団の帰国を待って
決定する事とする。


 1873年(明治6)9月13日
岩倉使節団が帰国した。
 10月14日朝鮮問題関係閣議開催。
西郷は遣使即行を主張。
 しかしそれは交渉失敗が
初めから織り込まれた主張であり、
失敗した折は、
戦をも辞さないものであった。

 それに対し、西欧列強の進んだ産業、国力を
目の当たりにし、日本の現状に危機感を覚えた
遣欧使節団組の大久保、岩倉、木戸は、
内治優先論の立場から反対、
当初西郷案に同調していた三条や大木らまで
大久保案に同調する。

 その後も賛成、反対論の間で攻防を繰り広げ、
せめぎ合いの末、西郷の即時派遣を決定した。
 しかし、これに反発した
岩倉・大久保らが一旦辞表提出するなど、
紆余曲折を経て、最終的に
10月24日、明治天皇に裁断を仰ぎ
遣使を延期する最終決定をみた。

 破れた西郷は23日辞表を提出。
即、東京を離れる。
 また、24日
退助、象二郎、江藤らが一斉に下野、
それだけにとどまらず、
近衛将士などの軍人、官僚約600人も
一斉に職を辞する大規模な政変に発展した。

 これが世に言う『明治六年の政変』であり、
翌年1874年(明治7)1月12日
退助らが愛国公党を結成、
自由民権運動の素地を作る。
 更に同年、江藤新平の佐賀の乱や、
1877年(明治10)に勃発し、
国内最後の内戦となった西南戦争など、
不平士族の乱が多発、
日本史に多大な影響を残した。




 政争に敗れた退助が千住の自宅に帰ると、
ハイハイの鉾太郎が待つ。
 鉾太郎はもうそろそろ
立ち上がりそうな時期に来ている。
 父、退助を見ると
「あ、あ、」と声を出す。
まるで「お帰りなさい。」
と云うかのように。

「あら、旦那様、お帰りでしたか。」
いつものように鈴が奥から出迎える。
「お勤め、お疲れ様でございます。」
退助の表情に気づき、
「何だか本当にお疲れの様でございますね。」
「ああ、今日は負け戦じゃ。
こんなにボロ負けしたのは
ワシがまだボンズの頃以来じゃ。
いや、殿の豊信公にも負け続けておったわい。
ハハハハハ。」
「そうでございますか?
それはお珍しい。
疲れた表情の割には、
スカッとしておられますね。」
「おぅ、そうよ!
負けた腹いせに、参議の職を辞めてきた。」
その言葉に仰天した鈴は
「い!」
と目をまるくして
言葉にならない声を発した。
 そして
「話には聞いておりましたが、
旦那様は本当に浮き沈みの激しいお方でしたのね。」
鈴は最初、顔を引きつらせていたが、
ふいにそんな状況が可笑しく感じたのか、
退助の屈託ない笑いに釣られたのか、
「ア~ハッ、ハッ、ハッ、」
と豪快に笑った。

 それをキョトンと二人を見つめる鉾太郎。
やがて自分もと云わんばかりに
「えへ、えへ、えへ!」
と言葉にできない笑い声をあげた。

 失業した直後のこんな状況に、
家族みんなで笑い合え、
何とも温かな感情につつまれた退助。

 後先考えず、下野すると息まき、
辞職した自分。
 己は失業者のくせに
こんな時幸せを実感するなんて、
ワシは何と恵まれているのだろう。

 すると退助の心に
みるみる力が湧いてきた。

 そうだ!ワシはこれから自由に動けるのだ!
政府の役人なんぞやっていては、
面倒なしがらみばかりで
思うように志(こころざし)のために
働けなんだ。
 これからはワシの理想だった
自由と平等を実現するため、
思う存分働いて見せようぞ!

 退助の目は輝き、勇気凛々、
まるで「少年ジェット」や
「幻(まぼろし)探偵」みたいな
正義の味方の少年ヒーロー並みに
力が漲(みなぎ)った。

(例えが古い!古すぎる!
若い人は知らないだろうな~
因みに著者は、もう少しだけ後の世代です。)


 その退助の変化に、
訝(いぶか)し気な表情の鈴が、
「旦那様、如何なさいましたか?」
と聞く。
「おぅ、鈴よ!
ワシは今日から正義の味方だ!
空を飛ぶし、光線をも発する!
ワシの活躍を見よ!!」
「・・・・旦那様ぁ~、
やはり大そうお疲れの様でございますね。
『下町のナポレオンⅢ世』でもお飲みになって
今宵は早うお休みくだされ。」

「おう、そうするか。
ではお鈴、こっちへ。」
と云いながら鈴を奥へ誘い、
ポポポポ・・・・、
と口を窄めて迫った。


 「バカ!」


   つづく
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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(30)

2021-02-25 03:45:46 | 日記




    第30話 我が子


 1869年版籍奉還の勅許が下されると
廃藩置県の準備段階として
国民皆兵制度確立のため、人民平均の理を布告した。
 その後退助は新政府の参与として
重要案件に次々と関わる。
1871年(明治4)8月29日、廃藩置県断行。
 その始末が済まないうちに政府要人を中心とした
洋行使節団派遣の計画が持ち上がった。
即ち『岩倉使節団』である。
 彼らの目的は西洋諸国の諸制度の研究、
及び不平等条約の改正にあった。

 使節団の政府要人の主なメンバーは
正使岩倉具視、副使に大久保利通、
木戸孝允、伊藤博文などであり、
その他、各分野の専門家育成に適した人物、
女子高等教育を見据えた人物などが選定されている。

 当時のアメリカ、ヨーロッパの情勢を見ると、
1865年アメリカ南北戦争終結、
1867年プロシアを中心にした北ドイツ連邦成立。
(封建的に分断された地方分立から国家統一へ)
1870年普仏戦争、フランス第三共和政宣言、
南ドイツ諸邦プロシアへ合邦、翌年ドイツ帝国成立。
ドイツと同じ封建分断国家のイタリア統一など、
激動と混乱の時期であった。

 日本が他のアジア諸国が次々と侵略されても
無事だったのは、巨大国家である
隣国『清国』があまりに広く、
侵略にてこずり時間がかかったのと、欧米諸国が
そうした力の微妙な均衡の上に辛うじて保つ
時期だったせいもある。

 しかしそれでも不平等条約や、
神戸・堺事件に見られる列強の横暴、
金銀交換レートの違いからくる経済混乱など、
すでに目を覆うばかりの弊害を被っている。

 列強侵略の脅威阻止と、殖産興業・富国強兵の
早期達成のための
制度・技術習得は待ったなしの状態であり、
極めて緊張感の高い時期とも言えた。

 岩倉使節団の洋行前、
残留組の西郷隆盛、板垣退助、井上馨、大隈重信
江藤新平との間に、重要な人事変更、
新制度の積極的導入は控える事
など、釘を刺される。

 しかしそれでも地租改正、学制新設、太陽暦採用、
徴兵令、断髪令など、矢継ぎ早に発布された。
 退助はそういう明治維新草創期に
多くの重要案件に関わった人物なのである。

 そんな重要な時期、
東京千住の板垣家に大きな出来事があった。
 

 お鈴に待望の嫡男が誕生した。
名を鉾太郎と命名。


 後に鉾太郎は従四位となり、
教育家となっている。


 「鈴、でかした。
よく無事に産んでくれたの。
これでワシもようやく父になれた。
 心から礼を云うぞ。」

そこに生まれたてで、まだ目も見えず、
耳も聞こえぬ我が子に「ベロベロバ~!」
と何度も何度も繰り返す親パカがいた。

 「旦那様に喜んでいただけて
私もホッとしました。
嬉しいのは分かりますが、
そんなに顔を近づけ声をかけたら、
赤ちゃんを起こしてしまいます。
 せっかく眠りについたばかり故
起こさないでくだされ。」

(分かっておる。分かっておるが、
目を覚ましてこの父を見てほしいのよ。)
そんな気持ちを口に出しては言わないが、
そのかわり
「おお、そうか。
でもこんなに可愛くては
声を掛けずにいられまい。
この子はきっと、ワシに似て
良き男子(おのこ)になろうぞ。」
「よしてくだされ!
この子が旦那様に似てしまったら、
将来ろくな子になりませぬ。
 暴れん坊で、勉強嫌いで、女泣かせで、
むこうみずの男になってしまうなんて、
この子の将来が可愛そ過ぎます。」
「こりゃ!鈴!!
それはあまりに言い過ぎではないか?
失敬にも程がある。」
そう言いながら、退助の目は笑っている。
「あら、そうでございましょうか?
私の認識の何処か間違っていましたかしら?
え?え?え?」
こんなめでたいときでも、
容赦なく退助を追い込む鈴。
でもそう言いながらも心の中では、
多分人生で一番幸せなひと時だったのかもしれない。
そんな鈴の心を知ってか知らずか、
「分かった、分かった。
お鈴大権現様、大魔神様。
私めが悪うございました。」
脛に傷持つ退助は、
こんな時に地雷を踏むのは何としても避けたい。
大魔神様の顔が怒りの面相に変わる前に、
早々と平伏するのだった。

「大魔神様?
大権現様と云うのも不遜すぎてどうかと思うけど、
大魔神様とは何ですか?
誰の事を言っているのですか?
私を何だと思っているのですか?」
「大魔神様を知らぬのか?
知らぬならもうよい。
要するにソチは偉いお方ぞ。
ワシは只々ひたすら平伏するのみ。
ワシの子を産んで下された神様仏様ということだ。」
「私を神様と思召すなら、
もう一寸(ちょっと)大事にしてくだされ。」
「大切にしとるがな。」
「何故急に関西弁?」
「あわわわ、大事にしちょるじゃき。」
「なんだか土佐弁もおかしくない?変な人!」
と指をさしながらケタケタ笑う。

 退助は思った。
(本当にこの子の母が
こんなに気の強い鈴で良かったのだろうか?
ウン、きっと良かったのじゃろ。)
と自らを納得させながらも、
未熟な父に過ぎない自分の事を棚に上げ、
疑問が頭をよぎる父であった。

 鉾太郎が将来教育家になれたのは、
実は奇跡だったのかもしれない。

 でもやっぱり自分の子は可愛い。
口を窄(すぼ)め微(かす)かに
「ポッ、ポッ、ポッ、」
と口吸いをするような声を出し、
鉾太郎の顔に近づける父。
「あら嫌だ、旦那さまったら、
私に迫るときと同じ仕草をするのですね。」
「何を言う!
ワシがソチとこの子を一緒にしていると申すか?
この子は食べてしまいたいくらい可愛いが、
ソチは神仏に差し出したいくらい可愛い。
その差は大きいぞ。」
「何を言っているのか分かりませぬ。
神仏に差し出すとはどいう言う意味でしょう?」
「あまり深く考えるな。
それほどソチは神々しいとの言葉の綾じゃ。」
「そうでございましょうか?
何だか都合よく言包(いいくる)められて
いるような気がしますが。」
「そんな事はありはせぬ。
ソチは可愛い可愛いワシの嫁ぞ。
一番の宝物じゃ。」

 眉間に皴(しわ)を寄せ、目を細めながら
疑いの目を退助に注ぐお鈴。

 ああ、こんな時お里や、展子や、
菊の事は、鈴の頭を過(よぎ)らないで欲しい。
そう心から願う退助であった。

 いつまでも、いつまでも、
この幸せが長く続いて欲しい。

 いつの世も、誰もがこんな時感じる幸せ。
大切にしたい、守りたい退助であった。



 だがこの直ぐ後、
退助を巡る政治環境に暗い
「李氏朝鮮」の影が覆い始める。

 世に言う『征韓論』の始まりであった。


   つづく



*史実では鉾太郎が生まれたのはもう少し前ですが、
物語の構成上、こうなりました。悪しからず。
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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(29)

2021-02-23 03:02:44 | 日記




第29話 四民平等

 退助はお菊の店があった日本橋に急ぐ。
店の名は土佐を連想させる「料亭むろと」
と改名されていたが、
その佇まいは以前のままだった。 

 暖簾をくぐると、以前に増して活気を感じる。
「いらっしゃいませ~!」
奥から女中の甲高い声が退助を迎える。
 「女将(おかみ)は居るか?
退助が来たと伝えよ。」
「退助様?
ああ、板垣様でございますね。
女将から聞き及んでございます。
 どうぞこちらへ。」
政府高官となった退助は、
護衛の供を5人引き連れ
奥の座敷へ案内された。

 間もなく女将の菊が入室すると
供は隣の別室にて待機。

 「お久しゅうございます。
上野戦争のおり、留守居の平助に
退助坊ちゃまと思われる方がお越しになったと
報告を受けております。
 お元気そうで安心いたしました。
また無事の御帰還・御戦勝、
おめでとうございます。
とても嬉しく思います。」
「ふむ。ソチも元気そうで何よりじゃ。
この店も繁盛しておるようじゃの。」
「東京に改称され、
お上の御尽力により、治安も回復しましたので、
この通り帰り、
再び商いを始めることができました。
有難い事でございます。」
「そうか、それはめでたい。
しかし、これからワシは何かと
断行しなければならない改革が目白押し故、
そう度々来られないかもしれぬ。
だが都合の許す限り通うつもりでおる。
そう心得てくれ。」
「ありがとうございます。
退助坊ちゃまは大そうご出世されましたので、
私などには到底手の届かぬお方。
 そう申して頂けるだけで、
私は嬉しゅう思います。」
「出世したとはいえ、まだまだ道半ば。
そもそもワシにとって出世は目的に非ず。
ワシの志(こころざし)は知っておろう。
志即ち、ソチとの約束じゃ。
ソチは手の届かぬと云うたが、
初めから身分の差は有ったではないか。
 ワシは必ず
ソチと添い遂げて見せると申したはず。
 身分の差を無くし、添いたいもの同士、
自由に添える世の中にしてみせると。
 その一心でワシは戦ってきた。
そして今、ようやく
この国の改革の第一線に立てた。
 これからのワシを信じよ。
必ず誓いを達成させて見せるから。」
「退助様のそのお言葉と、実直な行いは
この菊にも痛い程分かります。
心より感謝いたします。
 でも、私には夫が居ります。
退助坊ちゃまにはお二人も奥様が居られます。
お気持ちは嬉しいのですが、
それは無理と申すもの。
そのお気持ちだけ受け取らせていただきます。」
「やはり象二郎から二人目の妻の事を
聞き及んでおるか。
あ奴は本当に油断も隙も、抜け目も無い奴じゃ。」
「大切なご親友を
そう悪しざまに申してはいけませぬ。
後藤様は退助坊ちゃまを
まるで我が事のようにお話になります。
それはご存知ではありませぬか。」
「分かっておる。
ワシと象二郎の仲じゃ、捨て置け。
 それから今更ながらじゃが、
坊ちゃまは止めろ。
 ワシは幼い頃より、
ソチの事を真剣に想うておった。
ワシにとって菊は最初の女子(おなご)ぞ。
坊ちゃまとしてではなく、
一人前の男として見て欲しい。
 その気持ちは今も変わらぬ。」
「そうは申されても、奥様達は如何なさいます?
そちらは捨て置くわけにはいきませぬ。」
「それよ!ワシの頭痛の種は、
妻を二人も持ってしまった事。
 如何したらよい?」
「知りませぬ。
ご自分でお考えあそばせ。
 何という身勝手なお言葉!
奥様達に知れたら、大変でございましょう?
少しは身をお慎みなさいませ。」

 退助は暫く考えた。
そして
「最初にソチと添うて居ったら
そんな考えには及ばぬ。
 それが不可能だったから
今のワシが居るのじゃ。
 今でもワシはソチの幸せを心から願うておる。
勿論ソチの不幸など考えたくはない。
 しかし、もしソチの旦那にもしもの事があったら、
ワシはソチを全力で守る。
 そのためにも平等な世の中は必要なんじゃ。」


 菊の目がウルっときた。
「退助坊ちゃま、菊は幸せ者でございます。
でも私は退助坊ちゃまの3番目の妻にも
4番目の妻にも成りとうはございません。

 私は今の夫の一番の妻でございます。

確か最初の奥様がお里様、
2番目の奥様が展子(ひろこ)様、
そして3番目の奥様が
お鈴様でございましたね。
 全くお盛んな事。
退助坊ちゃまの馬鹿。」

 そう云うと
退助の耳元に近づき小声でささやくように、
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿バカバカバカバカパカパカパカパカ・・・」
と可愛らしく云った。
退助はゲンコツでこつんと叩く仕草をし、
「パカで悪かったな。
それからワシの事、坊ちゃまと呼ぶな。」


お菊のそばにいると、
いつも昔に帰り、心が安らぐ。


 しかし、そんな退助は、
民衆の貧困や不条理の痛みは分かるのに、
自分の妻たちの悲しみや痛みには鈍い。
 パカな男である。

 それらの報いから
退助は生涯、妻たちの地雷に怯える夫であった。



      武人退助



 1869年(明治2)6月
旧幕府のフランス人将校であったアントン、
旧伝習隊 沼間守一らを土佐に招く。
 それは御親兵(後の近衛師団)創設への布石である。

 1870年(明治3)12月16日
高知藩大参事となる。
国民皆兵制度断行のため、1月7日上京。
「人民平均の理」布告を太政官に具申、
2月13日土佐に帰り、山内豊範の名を以って布告。
四民平等にて国防の任に帰する宣言を発した。



 

 人民平均の理

 夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにして、
特に霊妙の天性を具備し、智識技能を兼有し、
所謂萬物の霊と稱するは、
固(もと)より士農工商の隔(へだて)もなく、
貴賤上下の階級に由るにあらざる也。
然(しか)るに文武の業は自ら士の常職となりて、
平生は廟堂に坐して政權を持し、
一旦緩急あれば兵を執り亂を撥する等、
獨(ひと)り士族の責(せめ)のみに委(まか)し、
国家の興亡安危に至りては
平民曾(かつ)て與(あづ)かり知らず、
坐視傍觀の勢となり行きしは、
全く中古封建制度の弊にして、
貴重靈物の責(せめ)を私(わたくし)し、
賤民をして愈賤劣ならしむる所以也。

  (中略)

封建の舊を變し、
郡縣の政體を正さんとする際に當りて、
當藩(土佐藩)今や大改革の令を發するは、
固(もと)より朝旨を遵奉し、
王政(朝廷=新政府)の一端を掲起せんと欲すれば也。
唯今日(こんにち)宇内の形勢を審(つまびらか)にし、
朝廷大變革、開明日新の事情に通し、
人間貴重の責をして士族に私(わたくし)し、
平民をして賤陋(せんろう)に歸せしむるの大弊を一洗し、
人民自己の貴重なるを自知し、
各互に協心戮力、
富強の道を助けしむるの大改革にして、
畢竟(つまるところ)民の富強は卽ち政府の富強、
民の貧弱は即ち政府の貧弱、
所謂(いはゆる)民ありて然(しか)る後ち政府立ち、
政府立ちて然(しか)る後ち民其生を遂ぐるを要するのみ。

明治三年庚午十一月— 



    (訳)

 戊辰戦争の反省にて
領民(庶民)の協力を得られず
武士のみの戦いにあっては、
列強の脅威を撥ね退けられず。
封建制度の弊害は国家と庶民の貧困を生み、
侵略の脅威から脱せられない。
 四民(全国民)が等しく力を合わせ、
国を富ませ、民を富ませ、
外国の干渉と不平等条約を跳ね返す
強い国家を造るため、
ここに「人民平均の理」を布告する。



 退助の意を色濃く反映させた宣言であった。


 これを皮切りに、
退助の怒涛の改革が始まった。



   つづく
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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(28)

2021-02-20 09:33:59 | 日記



 後藤象二郎 <Wikipediaより>


第28話 版籍奉還 



 1869年(明治2)1月14日
退助は京都円山端寮(現:円山公園)で
薩摩藩吉井友実の草稿の版籍奉還案を検討すべく
会合に出席した。
会合には退助の他、薩摩藩大久保利通、
長州藩廣澤真臣というメンバーであった。

 版籍奉還とは、幕藩体制下の根本制度、
諸藩の所領安堵と領民支配を
朝廷即ち、明治新政府に返納させる政策である。

 江戸幕府消滅と共に、
幕藩体制の安堵の約束の根拠が
失われた状態にあった。

 そのため、新たな秩序の構築が必要となり、
退助たちが集まり、
仕組みづくりをしようと云うのである。

 しかし、版籍奉還と一口で言うが
一旦手にした利権・特権を、
諸藩が簡単に手放すとは考えにくい。


 明治維新の基本政策のひとつである
版籍奉還と廃藩置県はセットであり、
その断行は絶対条件であった。

 諸大名を従わせるにはどうしたら良いか?

 最悪武力の行使も念頭に置かねばならない。

 そういう事情から、戦(いくさ)の功労者で
軍事専門家、退助の意見が重要になる。
明治新政府にとって、
退助はそれだけ重要な立場にあった。
単なる戊辰戦争のヒーローと云うだけではないのだ。


大久保利通と廣澤真臣は
退助の顔を見るなり開口一番、
「おめでとう」と云う。
「へ?何が?」
「新たに妻を迎えたのであろう?」
「どうしてそれを?」
「後藤殿があちらこちらに触れ回っておるぞ。
知らんのか?」
(象二郎の奴!!
この小便(しょんべん)野郎ォォォ!!)
「象二郎は何を考えている!
何でいつもワシの噂を触れ回っておるん?
信じられんヤッチャ。」
退助は照れ隠しでそう言った。
「余程退助どんがお好きなのであろう。
とても嬉しそうに喋っておったぞ。」
「嬉しそうに?
『楽しそうに』の間違いでござろう?
あいつときたら、
ワシを茶化すのが
生きがいだと考えている節がある。」
「何故でごわすか?」
「あいつは小さい頃、
いつもワシとの喧嘩で負けていたのでの。
その腹いせじゃろう。」
「そうであろうか?
後藤どんは、広か人物たい。
腹いせだの復讐だの、
そんなせせこましい事にこだわる吾人じゃなかろう?
いつも退助どんを思い、
話題に出す。
それが後藤象二郎という人物たい。」
退助は心の中では納得し、
友がそういう評価をしてもらえるのを
素直にうれしいと思った。

「・・・ところで、
退助どんの新妻はどんなお人か?
後藤どんは大そう美人だが、
典型的な江戸っ子だと申しておったが。
何と云って口説いた?
退助どんは美形故、
女子(おなご)にモテて
困っておると申しておったぞ。
二人目の妻を持った感想はどうじゃ?」

 羨ましくて、羨ましくて仕方ない
という表情を丸出しにし、
身を乗り出して聴こうとするふたりに、
「やっぱり面白おかしく
ワシを茶化しておるではないか!!
もう、誰も信じられん。
大体、今日は
天下国家の話をしに来たのとちゃうのか?
版籍奉還の話はどうした?」

 そこに配膳女中が入ってきた。
「きゃ~!板垣様よ!!
退助様、私たち熱烈なファンですのよ!」
「はぁ~?ファン??
嘘を申せ!ワシがそんなにモテる筈が無かろう?」
と、退助が顔を真っ赤にして狼狽(うろたえ)えた。
「江戸の瓦版では
市川團十郎に似ていらっしゃると
もっぱらの噂だったと聞きました。
噂通り良い男でございますわ。」

「ん?象二郎の奴、(大久保どんに)
そこまで触れ回っておったのか?
でも、そこもとの女中たちよ、
さてはそなたたち、大久保殿に頼まれたな?
大久保殿もお人が悪い。
 今日はワシを徹底的に弄るおつもりか?
よぉ~し、それではワシにも考えがある。
 ワシも大久保殿の恥ずかしい話は
(象二郎から)沢山耳にしておる。
 今日は暴露合戦じゃな。」
「分かった、分かった、もうよい。
そろそろ真剣な話に移ろう。」

 横で廣澤真臣が無言でニヤニヤしていた。

 日本の将来を決定する大切な会合は
こうした雰囲気の中で進められた。
(・・・か、どうかは歴史の闇の中にある)

 1869年(明治2)7月25日
版籍奉還の勅許が下された。

 新政府の参与となった退助と象二郎。
会合以降、東京で最初に再会した日、
いきなり象二郎にヘッドロックをかまし、
 gooの中指でグリグリしたのは言うまでもない。


 「分かった、分かった!
退ちゃん降参、降参!
お詫びに耳寄りな情報を教えるから
許してくれ!」
「情報?何じゃそれは?」
「お菊殿がな・・・。」
「お菊が如何(いかが)した?!」
「お菊殿が江戸に帰って来た。」
「何?帰ってきた?
何故お主がそのことを?」
「私を誰だと思ぉちょるか?
天下の後藤象二郎ぞ!」
「天下の・・・のう…。
で、何故お主がお菊の動静に注目する?
お菊は単なるワシの昔の姉替わりぞ?」
「退ちゃんは秘密にしていたつもりかもしれんが、
いつも無意識にお菊殿の事を口走っていたぞ。
誰だって退ちゃんにとって
お菊殿が大切な存在だと
気づくに決まっておる。
只ならぬお人だと云う事を。」
「只ならぬは余計であろう。
あの女子(おなご)は人妻ぞ。
 妙な噂は立てんでくれ。
でも、そうであったか。
それは知らなんだ。
ワシだけが気づいていないなんて、
ピエロだな、ワシは。」
「そう、ピエロじゃ。
だから退ちゃんは
万人から愛されておるのじゃき。」
「褒められたのか?ワシは。」
「そうに決まっておろう!」


 その日の夜、早速お菊の店に
足早で急ぐ退助の姿があった。


    つづく
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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(27)

2021-02-17 05:09:22 | 日記
   


 (第27話)退助の凱旋〜土佐編〜

  

 12月12日東京凱旋後、
新政府議政官の上局、議定に就任し、
議事体裁取調方総裁となった
旧藩主山内豊信公に謁見、
凱旋の挨拶を済ませると、僅か6日の
12月18日板垣退助と大軍監 谷干城ら
442名が土佐藩船夕顔丸に乗り土佐に凱旋した。

 その間、東京の妻 鈴との新居を決めたが、
多忙な短期滞在のため、
戦の疲れを癒す時間的余裕は無かった。
 
 それにしても退助の帰りの荷は多い。
凱旋の帰郷にしては人目に付くほど。
 まるで一時期の中国人観光客で話題になった
日本製土産を持ち帰る『爆買い』
の風景の様である。

 凱旋の船の中、谷干城が言う。
「さすが御大将!
凱旋土産も錦の御旗のような華々しさ!
恐れ入ってござるな。
ハハハ!」

 もちろん江戸住まいの経験がある
退助がお上りさんの筈はない。
 この大量の土産は、
土佐の本妻 展子への気遣いと
ご機嫌取りの作戦であった。

 だから谷の皮肉に憮然とする退助であったが、
取り合っている余裕はない。

 これから今まで戦ってきた戊辰戦争以上、
最大の戦の天王山
『本妻展子からのご赦免をいただく戦(いくさ)』
が待っているのだ。

 
 土佐の邸宅に辿り着くと、
本妻 展子(ひろこ)が笑顔で待ち受けていた。

 展子が笑っている・・・。
東京にて新たな妻を得た退助は後ろめたい。

 展子の薄笑いが何より怖い。

「おかえりなさいませ。ご無事の御帰還、
一日千秋の思いでお待ち申しておりました。」
「ふむ、今帰った。」
退助の目は落ち着きなく宙を泳ぐ。
「奥へ。」
玄関先から座敷奥へ誘う展子であった。
あくまで感情を表に出さない。
その無表情さが嵐の前の静けさに思える。

 旅の疲れを癒し、くつろぐ心境にはなれない。
なにしろ、そこいらに地雷が埋め込まれているのだ。

 「それにしても大層なお荷物です事。」
「ソチへの土産である。喜んでくれると良いが。」
「まあ、それは嬉しや。
何だか東京の匂いがするようですわ。」
言葉と裏腹に、全然嬉しそうには見えない。
「東京で今流行りの洋服ぞ。
似合うと良いが。」
「あら、私のような田舎者に
似合う洋服などあるかしら?」

 早速、第一の地雷を踏んだ退助であった。

「ところで、ソチも母も息災であったか?」
と、話題を変えるが、
「生憎(あいにく)こちらは至って平穏。
江戸から東京に激変するような
地殻変動は起きませぬ。
 私も母上も、
退助様がお出になった時のままでございます。
 退助様のお変わり様とは
比べるべくもありません。」
とそっけない皮肉が飛ぶ。

 夜、床に就いてもなかなか寝付けない。
薄暗さに紛れて展子に口を窄めて近づくが、
 あと10センチの所で展子が目を開ける。

 「何でございましょう?」

 展子の言葉に遠い昔、
似たようなシュチエーションがあったような・・・。
記憶を手繰ろうとする退助であった。

「和主が寂しかろうと思っての。」

「私、これからは、ひとりでも
強く生きてゆこうと決心いたしましたの。
あなた様は東京で、
お子をたくさんお設けくだされ。」
「子は欲しくないと申すか?」
「お鈴様との間にお子ができるのなら、
私との子など必要ないでしょう?
子作りなど100万年早ようございます。」
「100万年!?そんなに待っていたら
干からびてアンモナイトの化石の如き
置物になってしまうではないか。」
「どうぞアンモナイトでも
首長竜でもお成りあそばせ。」

 

 翌日、第二の嵐が待ち受けていた。

土産物の中に、鈴から展子への
挨拶状と写真が忍ばされていたのだ。

「結構なご挨拶状です事。」
「え?そんなものは知らぬぞ!」
「大方、お鈴様が忍ばせておいたのでしょう。
大そう、おきれいなお方。」

 このタイミングで後藤象二郎が
訪ねて来た。

 「退助殿、居るか?」
「よう、象二郎、こっちだ!」
「お互い多忙で、東京ではなかなか会えませぬな。」
「一足先に象二郎が帰っていると聞いていたので
今日あたり顔を出すかと思って居ったぞ。」
「奥様もご機嫌よろしゅう。」

 憮然としている展子。
只ならぬその様子に、

「何かございましたか?」と象二郎。
「何もかにも、鈴が余計な事をしよっての。」
「余計な事?何をしたのですか?」
「展子に宛てた挨拶状を
土産の中に紛れ込ませておった。」
「ああ、展子様にご挨拶ですか。
それは私が退ちゃんからお鈴様を紹介された折に、
土佐の本妻であられる展子様にも
ご挨拶されては?
とのアドバイスをしたからかもしれません。」
「何?象二郎の仕業か!
ソチはワシの家庭を壊すつもりか!」

(このウンコ💩野郎ォォォォ!!)
と心の中で叫んだ。

「ご丁寧に写真まで同封しておったぞ」
「それは写真(インスタ)映えしているでしょう?
どれ、私にも見せてくだされ。」

 象二郎との会話中、黙っていた展子が口を開く。
「私も写真を撮りたくなりました。」
「何?ソチも?」
「はい、『私も』でございます。
お鈴様に返礼をしなければなりませぬ故。」

 また地雷を踏む退助。

 春間近の土佐の本宅。
温暖の地なのに、そこだけ寒々としていた。



 板垣家は凍てついているが
明治維新を推し進める高揚の波は熱い。

1869年(明治2)1月14日、
土佐の退助、薩摩の大久保利通、長州の廣澤真臣が、
京都で版籍奉還についての会合を行った。

 退助が目指す維新が始動する。



   つづく
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