次は自分たちの番まで来た時、危機一髪、
「打ち方止めぃ!」
との号令が発せられた。
急遽新たな方針転換の命令が下ったのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※ それにしても、いくら武力で占領したからといって、無意味に無抵抗な市民まで虐殺しようとする?
実行為には、伝統的なロシア人兵士の意識と習慣による行動パターンが読み取れる。
彼らは戦闘で攻勢を誇る間は、相手に対し攻撃の手を緩めることは無い。
例え相手が降参しても、無抵抗の意思を示しても、殺戮を続ける。
軍の上層部や上官から「止め!」との命令が下りない限り、無駄に命を奪い続けるのだ。
だから今回の戦闘に於いても、上層部が捕虜に利用価値を見出さない限り、戦闘の継続は中断されないのだった。
幸か不幸か、ミカシェビッヂの住人達には、生かしておくだけの価値があった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
助かったのか?
我が身の無事と、その直前に犠牲となり横たわる近所の知人たちの悲劇の対比が虚ろな時間と感情を支配した。
まだ5歳に過ぎないヨアンナ。
大人でも耐えがたい恐怖体験なのに、まともに受けてしまった。
だが過日、ヨアンナの記憶には何故か残っていなかった。
あまりに恐怖が大き過ぎ、幼い心と記憶に残せる程の容量は無かった?
それとも恐怖 故の自己保身の本能が封印した?
でもだからと云って、あんなショッキングな体験を完全に忘れ去れる筈もない。
いずれにしても記憶には残っていないが、深層心理での傷まで消せはしない。
その後絶えず何かに怯えるその陰は生涯消える事が無かった。
彼女の精神の奥底に横たわるその日の情景は、一生消える事の無い潜在恐怖と無常感として抱え続けていた。
でもその一方、常に襲い来る不安と恐怖 故、立ち向かおうとする勇気と覚悟を培ったキッカケともなったのも事実である。
ヨアンナ一家は助かった安堵感と同時に、今後の不吉で困難な運命が待ち受けている人生に、絶望に近い展望しか浮かばなかった。
生き残った町人たちとヨアンナ一家は、焦土と化した故郷を恨めしさの眼差しで後にした。
乱暴な大声で追い立てるロシア兵。
ロシア軍は生け捕りした町の残留ポーランド人を、いわば捕虜同然の扱いでシベリア地方開拓や鉄道建設のため強制的に移動させようと考えていた。
虐殺するより、安価な労働力として強制労働させる方が自分たちにとって得だとの上層部の判断だった。そこにヨアンナ一家も含まれ過酷な運命へと引き込まれた。
幸せだった思い出の詰まる店舗兼住居を眼前で焼かれ目に涙を流し、その地を立ち去る父と母。
両親の無念と絶望を胸にヨアンナは両手を引かれ、東へ向かう列車に追い立てられながら乗るのか?
未だ銃を前にした恐怖と身の竦む思いから抜け出せないまま、未知の強制移動に従う人々。
ここで新たな選別が行われる。
過酷な労働に耐え得るか?否か?
いくつかの一家はその選別の後、二度と出会う事は無かった。
別の集団たちは一体何処に行くのだろう?
良くない想像しか浮かんで来なかった。
幸か不幸か、ヨアンナ一家は列車に乗る列に選別される。
他に顔見知った人は、アガタおばさんちの家族の若い顔が何人かと、教会の髭の神父さん、同じく教会のいつも隣の席の若夫婦くらいしか見当たらない。
アガタおばちゃんはどこ?ウォルフおじさんは?
アッ!手を引かれた悪戯ヤンが遠くに見える。
選別されて列車に乗る組、乗らないで残留する組。
至る所で泣き叫ぶ声や名前を呼ぶ声が聞こえる。
基準が解らない理不尽な選別の末、ヨアンナの一団は列車に乗った。
だが異動手段の列車は客車ではない。
牛や豚や鶏なども運ぶ、家畜輸送用でもある異臭を放つ5列目の貨物車だ。
木製のそれは、隙間だらけで合間から外の景色が見えるほどだった。
一日一度僅かな食料と水を与えられるだけで、ひとりひとりがギリギリ座れる程度のスペースしかない。
極めて不衛生で脱走は不可能なほど要所々々で監視の目が光る。
列車の旅は混乱と不足と不安の渦巻く混沌の世界だった。
長い(永い)移動距離。
一体何処まで連れて行かれるのだろう?
未だ目的地は知らされぬまま。
飢えと不安が入り混じる移動は、それだけで耐えがたいものだった。
疲れ果てた人びとはただ項垂れ、運命を受け入れているようにも見える。
諦め。
先に対する見通しはそれしか許されていない。
途中幾度となく異国の地ロシアの奥深くで降ろされ、休む間もなく父アルベルトは強制労働に従事させられた。
その強制労働とは、主に鉄道敷設。
他の作業に回されるグループもあったようだが、ヨアンナの父ミカシェビッヂ徴用組は、くる日も来る日も線路建設に回されていた。
だが建設作業に必要なろくな装備もなく、労働に適した作業着も無い。
食事は粗末で休憩も最小限しか許されない。
更に徴用された彼らの多くは、肉体労働未経験者で全く仕事にならなかった。
いくつかの地をまわり試すが効率の悪さだけが際立った。
朝早く駆り出される父。
夜遅くに帰ってきても、疲労困憊故のゆがんだ表情で、妻の用意した具の無いスープに口をつけ、直ぐに横になるのが日課になった。
いつもの朗らかな笑顔は消え去り、全くの別人へと変容する。
ヨアンナも妻も、唯一の頼るべき大黒柱の次第に窶れ、追い詰められる父アルベルトの身の心配と不安が日増しに強くなってくる。
こんなことでは作業工期の目途も立たず、鉄道敷設の開墾場所からの撤退続きで、上層部からの命令は遂行できない。
目論みが外れたロシア人担当たちは呆れ果て、自らに課せられた使命を放棄した。
そして無責任にも徴用したポーランド人達を見知らぬ地に何の手当もなく放逐したのだ。
その地は当然未開のツンドラが広がる荒野。
木さえ生えない湿地帯が果てしなく続く草原の地。
残されたポートランド人たちは、口々に不安を口にする。
今日これからどうすれば良いというのか?
自分は?家族は?食料は?今夜の、明日の寝どころは?
議論を重ねるうち、いくつかの方針と、それに従うグループに分かれてきた。
この地に留まろうと主張する者、戦乱続く西の祖国に帰ろうとする者、いっそ、もっと東に向かおうとする者。
ヨアンナ一家も途方に暮れる中、父アルベルトの決断で安息の地を求めるグループに従い、同胞ポートランド人の住む東へ向かう決意をした。
しかし不足する食料。
宿泊に適さない環境。
先が見通せない不安。
次第に仲間内で不信とエゴが先に立ち、苛立ちから荒れようになり、粗暴な態度を取り始める者も出てくる。
不穏な空気。
しかしその結果、ヨアンナを不安にさせてはならない。
父も母も務めてヨアンナを前に明るく振る舞おうとする。
一日一回、パン一切れの食事でもひもじさからヨアンナを泣かせてはならない。
食事の前の神様への祈りのその前に、必ず元気づけに親子で歌を歌うようにしていた。
ヨアンナを楽しい気分にさせて少しでも幸せを与えたい。
悲しい親心だった。
しかしとうとう脱出時咄嗟に持ち出した商品用の金の懐中時計5個のうち、最後の一個を生活費に充てるため手放さなければならなくなった。
父はマリアに「これをお金に換え、食料の調達に行ってくる。夕方までに帰る。」と云ったきり、その日の夕方を過ぎ夜が明け、次の日が過ぎても帰ってこない。
翌日も帰らない。
その翌日も・・・・。
帰らぬ父アルベルトを待ち侘び、不安と治安の悪さへの用心から眠れぬ夜が続いた。
「お母さん、お父さん帰ってこないね。
いつ帰るんだろうね。
ヨアンナ、このパンをお父さんのためにとっておくね。
きっとお腹を空かしているから。今頃何処にいるのかな?
ヨアンナ、神様にお父さんが早く帰ってくるよう、お祈りするね。」
それらを黙って聞いていた母マリア。
不安の限界を過ぎた母は、涙声を隠すように小さく震えた声で、
「そうね、一緒に祈りましょう。」
とだけ言った。
しかし残された妻と娘はそこに踏み留まり、いつまでも待っているわけにはいかない。
ヨアンナと母マリアだけではなく、一緒にいた此処に居る全員、飢えによる死はすぐそこに迫っているのだ。
彼女らがたどり着いたシベリア南部の原野は短い夏になると意外にも気温30℃近くなることもあり、恐ろしいほどの蚊の大群が発生し、人がちょっとの間もいられない程の湿地帯が広がる。
だが、ほんの少しだけ南に降った所は砂漠地帯。
自然の脅威の縮図みたいな場所だった。
そしてこの過酷な地も短い夏は終わり、いきなり冬が来る。
そこは人を寄せ付けない極寒の地。気温マイナス40℃を下回るような究極の土地。
人が暮らしていくには厳しすぎる生活環境であった。
ただ、そんな過酷な場所にも人は住む。
流浪の民はその中に僅かに存在する生活可能な場所を求め、東行きを諦めた人々が集団を抜け、バラバラに極限の地に吸収されていく。
ヨアンナと母も父の帰還を諦める時が来た。
「おかあさん、お父さんはいつ帰ってくるの?」
母は悲しい表情でヨアンナを見つめる。
「お父さんはきっと早くヨアンナに会いたいと思ってお仕事を頑張っているのよ。
お母さんも早くお父さんに会いたいわ。
ヨアンナと一緒ね。」
そう言って力なく笑った。
それを聞いていた故国の仲間たち。
いたたまれない気持ちと差し迫った状況に促され、明日の食料と居住できる場所を探し求め父の遺志を尊重し、直ちにポーランド同胞が多く住む東のイルクーツクへ向かう決意をした。
その理由はこの過酷な地に残っても、母とヨアンナとふたりでは、どう考えても定住は不可能と思えた。
後ろ髪をひかれながら、やむなくその地を後にする。
父は帰らない。
待っても、待っても帰らない。
ヨアンナは立ち去るとき父の名を呼び、母に泣いてすがった。
ここを立ち去る事は、即ち愛する父との今生の別れになることを本能的に悟ったヨアンナは、到底その現実を受け入れられないのだった。
しかしヨアンナの心の中では、いくら泣いても無駄なことも分かっている。
自分に降りかかった悲劇が、自分にだけではない事実を目撃してきたから。
少し前の冬のある日、それまで行動を共にしていた集団の中にひとつ年下の娘がいた。
ヨアンナとはとても仲が良く一緒に遊んでいた子だ。
いつもコトコトと明るく笑い、一緒にいるだけで辺りが明るくなる娘。
そんな幼い天使にも残酷な現実は襲いかかる。
あてどない旅の中、乏しい食料を娘に与え、自らは何も口にしていない母がとうとう力尽き、娘の明日を案じながら天に召された。
残された娘は母にすがりつき、決して離れようとしない。
そして次第に弱りその娘も数日後母の待つ天へと旅立った。
すっかり冷たくなった母の亡骸。
その遺体に重なり旅立つ娘の傷ましい姿。
そんな悲しく壮絶な光景を目の当たりにしても、周りの大人たちは何もしてあげることはできない。
自分たちも明日は我が身だから。
せめて最後は人間らしく、心を込めてできる限り手厚く埋葬した。
ヨアンナは妹のように思っていたその娘の最後を瞼に焼き付けるように見ていたが、涙は流さない。
ヨアンナにとって辛すぎるこの現実は、暗黒の体験として心を蝕んでいた。
やがて悲しい運命の順番が自分に廻ってきた。
母マリアの死期が迫ってきたのだ。
最後の食事を口にしてから幾日立っただろう?
もう思い出すこともできないほど、昔に思えてくる。
次第に意識が遠のく母
「ヨアンナ・・・、ヨアンナ・・・・、私の大事な娘、子猫ちゃん・・・どうか生きて・・・。」
最後の言葉だった。
「神様・・・・・・。」ヨアンナは心の中で呟いた。
「神様は本当にいらっしゃるの?
お母さん・・・・・、お父さん・・・・・。
神様のところに召されたの?
私をひとり置いて。」
心をそこに残しながらもヨアンナはそばにいた大人たちに引き離され、先へ先へと手を引かれた。
どこまでも続く荒涼とした大地の中で。
つづく