uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


新型コロナウイルス ~安倍首相の要請への提言~

2020-02-28 19:25:46 | 日記
【期間限定公開】



安倍首相が唐突に小中学校の一斉休校要請を発表。
~新型コロナウイルス蔓延阻止対策として~




今日のニュース番組で報道された。

しかし各番組では、学童の保育問題などの休校した場合の阻害要因が
あげられている。

子供たちが学校に行かず、家に取り残される事態をどうするか?

「無理!」

「だから要請を受け入れられない!」

「休校にはせず、平常通り授業は続ける」

そう言う自治体がすでに出ているようだ。


私は前回の日記で政治屋の茶番国会を批判したが、

(WHOは認めないが)すでにパンデミック状態にあると思っている。

危機感のない人たち!

アンタたち馬鹿なの?

今の国内の状態も、世界的な蔓延の広がり方も、
単に病気の流行だけにとどまらず、
国家・世界経済を左右し、新たな軋轢を生み、
対立が戦争や紛争に発展する可能を孕んでいることを
理解すべきである。

中世ヨーロッパでペストが流行った時の教訓は通じないと
認識すべきじゃない?

病気が終息すれば、元に戻る?
程度によるが、蔓延が重症化したら、
家庭も地域も国家も崩壊の危機に晒され
立ち直りに年単位の努力と負担と犠牲が伴う事を理解しないとね。

私は安倍首相の支持者ではないが、
そしてこの提言があまりに唐突過ぎ
遅きに失した感もあるにせよ、
至極真っ当な仕事をしていると思う。


彼が言うように、新型コロナウイルスの封じ込めは
今が正念場であり、あらゆる手立てを尽くすべきである。

私は現在の状況を戦時体制と同様に認識している。

多分歴史年表に残る大事件であると。 


子供たちを見る人がいない?
社会制度が邪魔をする?

だったら変えたら良いでしょ!

社会の受け皿が学童保育や
幼稚園や保育園だけではカバーできないのであれば、

町内会があり、公民館があり、福祉会館があるじゃない?
老人福祉施設や親たちが勤める会社があるでしょ。

今は前例がない、ノウハウがない、法的制度が整っていない
なんてノー天気な言い訳は、
ノー足りんの言い訳にしか聞こえない。

今は社会が一体となって、危機感を共有して
この難関を乗り切るべき時だと思う。

一部の大会社が発表した
会社員のホームワーキングや有休取得もありだが、
それは社会のごく恵まれた階層しか恩恵を受けられない。

派遣やパートの労働者が取り残されたのでは
蔓延阻止を目的にする以上、ザルでしかないのだ。

今は政府が主導し、
社会が一体となった協力体制を確立し、
個人が自分に何ができるか考え
責任感と危機感を持って
行動すべき時なのではないかと思う。

勤めている会社が子供連れでの出勤を渋れば、
国や自治体が動き、善後策と支援を提供すべきでしょう。

今は国民ひとりひとりは知恵を出し合い
行動する積極性が求められると思う。

今の国会議員は馬鹿の集まりで
未だに桜だの国賓だの予算だのしか目に入らないらしいので、
「政治屋は役に立たない」現状が恨めしい限りである。

その中にあって、安倍首相の提言と要請は
僅かな光明に思えるのは私だけだろうか?

礼賛はしないが、支持はしたい。

ただ、「言いぱなしで後は知らん」じゃ駄目よ!















アッツ島・キスカ島戦記 ~兵士たちの想い~ 後編

2020-02-06 21:28:37 | 日記

前章のあらすじ

 1942年4月18日アメリカ軍による
B‐25爆撃機の日本本土空襲(ドーリットル空襲)
が敢行され、大本営は大きな衝撃を受けた。
この事件を受け、大本営は北部太平洋地域の
防衛強化が急務であると考え、
その後の日本本土空襲を阻止する事を目的に
ミッドウェー作戦が策定され
6月5日(アメリカ標準時6月4日)から7日
にミッドウェー島付近で海戦が行われた。
 同島攻略を目的に進撃した日本側海軍を
アメリカ海軍が迎え撃ち衝突した海戦である。
日本海軍機動部隊と、一方のアメリカ海軍機動部隊、
および米ミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、
日本海軍機動部隊は空母4隻と
その搭載機約290機の全てを喪失、
極めて甚大な被害を被り、
その後の戦局に大きな影響を残した。
 この時のミッドウェー作戦に於ける
陽動作戦の一環としてアッツ島攻略作戦が
実行されたのだった。
 そして日本軍はアッツ島・キスカ島を占領、
支配下においた。
しかしここに日本軍の拠点があることは
アメリカにとってアメリカの本土への脅威になった。
 しかもアッツ島とキスカ島は
奪取されるまではアメリカの領土であり、
日本軍に占領されたままでいるということは、
国民の士気にかかわり、我慢がならない事であった。
 アメリカ軍は反転攻勢を開始すると、
南方と同様、
北部太平洋方面も精力的に攻略を始めた。
 その一方日本軍は当初この地域を余り重視せず、
形ばかりの最小限の守備隊と
偵察機部隊しか配置しようとしなかった。
 しかし、アメリカ軍の空襲や
輸送船への攻撃が激しくなり、
守備力増強に迫られた日本軍は
兵力増強や飛行場の建設などに着手した。
だがアッツ島沖海戦にみられるように
国力に勝るアメリカの次第に増強された戦力と
阻止攻撃に阻まれ、
アッツ島・キスカ島とも
飛行場が完成する前に
アメリカ軍の本格的反攻に晒された。
 そして5月29日 司令官山崎保代陸軍大佐以下
残存兵約300名の決死突撃(バンザイ突撃)により
日本軍守備隊はついに玉砕した。
 アッツ島が陥落したことで、キスカ島の守備隊は
(陸海軍あわせて6000名余)
アムチトカ島米軍基地とアッツ島に挟まれ
完全に孤立してしまった。







  キスカ島撤退作戦





 1943年5月12日午前中、
大本営海軍部で関係者があつまり、
太平洋方面の情況判断をおこなわれた。
大本営陸軍部では、
北方軍作戦参謀安藤尚志陸軍大佐が、
参謀次長秦彦三郎陸軍中将・作戦部長綾部橘樹陸軍少将
・作戦課長服部卓四郎陸軍大佐達と、
北部太平洋方面の情況及び今後の作戦について検討した。
同日午後、アメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、
アッツ島確保の方針を打ち出す。
 アッツ島への増援部隊は、
第七師団(師団長鯉登行一陸軍中将)から
抽出する事になっていた。
 13日 陸海軍部は
アッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していた。
しかし連合艦隊には南方戦線への戦力注入で余力がなく、
北方への新たな戦力捻出には異論があり、微妙であった。
 5月14日 海軍部はアッツ島への緊急輸送に対し
「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」
の計画策定を推し進めた。
 アッツ島守備隊は善戦しているが
至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した。
5月16日から17日の大本営陸海軍合同研究会では、
刻々伝えられる情勢から悲観的な空気に包まれていった。
 旧式戦艦(扶桑、山城)と第五艦隊各艦および落下傘部隊で
アムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、
もはや時機を逸しており成算も疑問視された。
 5月18日 大本営は「熱田(アッツ島)奪回の可能性薄し」
とアッツ島放棄を内定。
 大本営は北海守備隊を如何にして
撤退させるかの検討に入った。
その内容は、キスカ島は潜水艦を主力に
駆逐艦と巡洋艦を併用。
 アッツ島は
「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、
「ボート」一隻モナシ、
午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ。
ココハ最後ハ玉砕ヤムナシト云フ案モアル。

というものであった。
 5月28日 大本営陸海軍部は戦況交換を行う。
戦局全般の研究会が開かれた。
5月30日 大本営はアッツ島守備隊全滅を発表、
初めて「玉砕」の表現を使った。
 玉砕という表現とその事実が
実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてだった。
また山本五十六元帥戦死公表の直後だったため(5月21日)、
国民は大きな衝撃を受けた。
 大本営は
「山崎大佐は常に勇猛沈着、
難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した。
 実際は5月16日に
補給と増援の要請を打電しており、虚偽の発表であった
同年9月29日 
アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、
札幌市の中島公園で行われた。


 アッツ守備隊玉砕の報告は
5月30日 昭和天皇に伝えられた。
昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長に対し
「最後まで良くやった。
このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」
と命令した。杉山はすかさず、
「守備隊は全員玉砕したため、
打電しても受け手が居りません」
と言った。
これに対して昭和天皇は
「それでも良いから電波を出してやれ」
と返答したという。

 無念にも散って逝った守備隊へ向けた
昭和天皇の御言葉は
決して届かないであろう事を承知した上で
アッツ島へ向けて打電された。


 アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近い
キスカ島守備隊は取り残された形となったが、
5月20日キスカ島からの撤退を決定していた。
 海軍では木村昌福少将が第一水雷戦隊司令官となり、
潜水艦による第一次撤収作戦及び水雷戦隊による
第二次撤収作戦を実施、
キスカ島の将兵の脱出・撤退は成功した。
 日本軍キスカ撤収直後、
連合国軍はコテージ作戦を発動。
8月15日 キスカ島上陸作戦を敢行、
しかし当然ながら、空振りに終わった。



     撤退作戦の時系列的経過


 制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に
孤立無援となっていたキスカ島守備隊。
退くに退けず、
 待つのは死か降伏かという状態になってしまっていた。



 キスカ島守備隊 の陣容
陸軍北海守備隊司令官峰木十一郎少将以下2700名
陸軍北方軍司令官樋口季一郎中将 麾下
海軍五十一根拠地隊司令官 秋山勝三少将2800名

 アッツ島にアメリカ軍が上陸した後に
増援を送ることは、ほぼ不可能であった。
アッツ島守備隊が戦っていた5月21日、
大本営は北部太平洋アリューシャン方面の放棄を決定。
キスカ島の守備隊は撤退させることとした。
作戦名は「ケ」号作戦であった。

   

    第一期作戦

 高速艇である駆逐艦や軽艦艇などの水上艦艇で
夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率が良く
比較的安全な方法であったが、
水上艦隊による撤退作戦には消極的だった。
 最前線での輸送、撤退任務に駆逐艦を投入した場合、
海軍は南方作戦に於いて
駆逐艦のかなりの数を失っており、
これ以上駆逐艦を投入することは避けたかった。
 代案として潜水艦艦隊での撤退作戦を立案、実行した。

 5月21日 日本海軍と日本陸軍は協定を結び、
「熱田島(アッツ島)守備部隊ハ
好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」
「鳴神島(キスカ島)守備部隊ハ
成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ
逐次撤収スルニ努ム 
尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ
輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」と指示。
5月29日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、
機動部隊の北方作戦参加をとりやめ、
北方部隊と第二基地航空部隊により陸軍と協同し、
「ケ」号作戦(キスカ島撤退作戦)を下令した。
この時第19潜水隊と伊155号潜水艦が
北方部隊の指揮下に編入された。

 5月30日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は
「ケ」号作戦実施要領を発令。
参加兵力は第一潜水戦隊(司令官古宇田武郎少将)
の潜水艦15隻。
 そのうち沈没と損傷のため、
実際に参加した潜水艦は13隻であった。

 アッツ島玉砕2日前の5月27日、
伊7潜水艦がキスカ港に入港60名を収容、
帰途につく。
 6月10日 キスカ島所在人員は、陸軍2429名、
海軍3210名、合計5639名である。
 当初、潜水艦の撤退作戦は
苦労しつつ行われていた。
 次第にレーダーに捕捉され砲撃され
撃沈されるようになった。
 6月15日、伊9が撃沈。
 6月17日、古宇田司令官は
キスカ周辺で行動中の潜水艦に一時待機を命じる。
 6月18日 潜水部隊指揮官は
伊7・伊169・伊36・伊34にキスカ突入を命令。
6月21日、第7潜水隊司令玉木留次郎大佐座乗の
伊7潜は米駆逐艦捕捉されて損傷。
 司令、潜水艦長戦死、
キスカ島南水道二子岩に擱座して放棄爆破処理される。
6月22日 潜水部隊指揮官は
伊34・伊169・伊171と
伊36の幌筵帰投を命じる。
6月23日 北方部隊指揮官は
潜水艦輸送作戦の中止を発令、
第一期作戦成果
撤収人員 
海軍308名、陸軍58名、軍属506名、計872名。
 しかし潜水艦は次々に損傷し、また3隻を喪失
目的を貫徹できず、第一期「ケ」号作戦は失敗に終わった。


    第二期作戦 

 潜水艦による撤退作戦が不調に終わったため、
セオリー通り当初想定された
水雷戦隊による撤退作戦が立案された。
 しかし正面から堂々と作戦を行っていたのでは
キスカ島周辺のアメリカ艦隊に発見されるのは不可避である。
そこでこの地方特有の濃霧を利用、
霧に紛れて高速でキスカ湾に突入
素早く守備隊収容、離脱を図る
という計画を実行する事とした。
 6月24日 北方部隊指揮官は、
「ケ」号作戦第二期作戦の実施を下令、
6月28日、軍隊区分等を発令した。

 作戦を成功させるにはふたつの絶対条件があった。
 1視界ゼロに近い濃霧の発生。
2電探及び逆探を装備した艦艇の配備。
 1は濃霧が発生していれば空襲を受けずに済み、
キスカ島東側の
アムチトカ島アメリカ軍の航空基地爆撃機の
空襲を受ければ全滅もあり得た。
 このキスカ島の天候状況は
撤収部隊の死命を制する絶対条件であった。
また電探及び逆探は自軍の艦の濃霧の中での
事故防止と哨戒の重要な用途を担っていた。
 第一次作戦に参加した潜水艦の中から数隻を抽出、
撤収部隊に先行しキスカ島近海に配備、
地域の気象情報の探索周知の任務を負う事とした。


 第二の条件として
当時日本艦隊には巡洋艦・駆逐艦クラスで
電探を装備した艦はほとんどなかった。
 敵艦レーダーで発見され、撃沈されるのを避けるため
濃霧は敵の空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、
同時に日本軍肉眼による見張り能力を低下させる。
 これを補うためには絶対条件として逆探と電探が
必須アイテムとなった。
 これには実行部隊の
第一水雷戦隊司令官に着任したばかりの
木村昌福少将から強い要望が出され、
連合艦隊は就役したばかりの
新鋭高速駆逐艦島風を配備する。

 島風は就役当時から二二号電探と
三式超短波受信機(逆探)を搭載していた。
 仮に肉眼でアメリカ軍に発見されても、
アメリカ艦と誤認するよう
阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして
二本煙突に見えるよう偽装工作を施し、
駆逐艦にも偽装煙突を装着、
各艦とも用意万端、
さらに第10駆逐隊などが
掻き集められての出撃となった。


 1943年6月28日
キスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦が発動された。
敵情偵察・気象通報に
北方部隊潜水艦部隊が幌筵を出撃。
水上部隊は7月7日幌筵を出撃した。
 この部隊の目的は
味方守備隊の撤退を隠密裏に行う事であり、
成功の成否の鍵は
アメリカ軍部隊との接触を避ける事にあった。
 しかし、万が一に備えて夜戦の用意も怠らなかった。

 7月10日 
アムチトカ島500海里圏外で撤収部隊が集結。
一路キスカ島へ向かう。
 Xデーは12日。しかしキスカ島に近づくにつれ、
霧が晴れてきたため突入を断念。
 その翌日も翌々日も霧が晴れ、突入を断念。
この慎重を期した行動は
木村少将自身の経験から来ていた。
 上空援護のない状態での空襲は
水雷戦隊にとって致命的であり
木村少将は嫌というほど知っていた。
 燃料の残量も少なくなってきたことから
15日 一旦突入を諦め幌筵へ帰投命令を発した。
 木村少将の「帰れば、また来られるからな」
と言い残しての命令だった。


   再出撃

 手ぶらで根拠地に帰ってきた
木村少将への批判は凄ましかった。
第5艦隊司令部のみならず、
連合艦隊司令部、更に大本営から

 非難轟々であった。
突入しなかったからだけでなく、
8月は霧が晴れ、
アメリカ軍の上陸作戦予想されたことにもあった。
 つまり、撤収作戦が
ほぼ不可能になることを意味していた。
 更に備蓄していた重油が底をつき
焦りから来たものでもあった。
 だが木村少将はこの批判を意に介さなかった。
濃霧が発生するのをじっと待っていた。
 木村少将の判断は当然であり、
焦りは禁物、それが総てであった。
 7月22日 7月25日以降、
キスカ島周辺に確実に霧が発生するとの予報。
 同日夜、撤収部隊は幌筵を再出撃した。


 艦隊はカムチャツカ半島先端占守島から
北太平洋を南下し、アッツ島南方海上にて待機、
天候を見てキスカ湾へ進路をとり、高速で突入、
守備隊を迅速に収容、
再びアッツ島南方海域まで全速で離脱、
その後幌筵に帰投ルートが計画されていた。



  キスカの奇跡


 29日1水戦司令部気象班は
濃霧の可能性大との予報を出す。
気象観測に出した潜水艦各艦及び
キスカ島守備隊からの通報でも
それを裏付けられたため、
木村司令官は突入を決意。
 1水戦司令部から5艦隊司令部へ
「本日ノ天佑我ニアリト信ズ適宜反転サレタシ」
の信号が届いた。
 艦隊では突入の準備が急遽進められ
各駆逐艦に燃料を補給した。
 敵艦隊との遭遇を避けながら
7月29日午後0時、
艦隊がキスカ湾に突入した。
 突入時に旗艦阿武隈が敵艦隊発見と報告、
直ちに魚雷4本を発射、
島風も発射し全弾命中した。
 しかし目標は敵艦ではなく
軍艦に似た形の島であった。
 霧がどれほど濃かったかを示していた。
 13時40分 艦隊投錨。
キスカ湾内は一時的に霧が晴れる幸運があった。
ただちにキスカ島守備隊員約5200名が
大発のピストン輸送により
わずか55分という短時間で迅速に収容。
 守備隊全員を収容後、
ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱した。
 直後からまた深い霧に包まれ
空襲圏外まで無事に離脱することができた。

 各艦の収容人数
阿武隈 1202名
木曾 1189名
夕雲 479名
風雲 478名
秋雲 463名
朝雲 476名
薄雲 478名
響 418名、合計5183名であった。

 その日の夕刻、
撤収部隊は浮上航行中の
アメリカ海軍の潜水艦と近距離で遭遇した。
 だが各艦とも偽装工作をおこなっていたため
米潜水艦は撤収部隊をアメリカ艦隊と誤認、
両者とも素通りした。
 7月31日 全潜水艦の幌筵帰投。
撤収艦隊は8月1日までに
幌筵に全艦無事に帰投。
 気象通報に出した潜水艦も全艦無事帰投し、
戦史上極めて珍しい
無傷での撤退作戦は完了した。



 ここまでの完璧な撤退作戦成功には
実は日本側にとって都合が良過ぎるような
ありえない米軍の行動が複数回あった事。
それは不可解な現象が
米軍に起きていたとしか思えない行動だった。

 それらの幸運が重なり成功へと導かれていた。


  有りえない行動その1


 7月22日 アメリカの飛行艇が
アッツ島南西200海里地点にて
レーダーで7隻の艦艇を捕捉。
 その期間は第一次、第二次撤収作戦の合間であり、
その地点に日本軍艦艇は存在していなかった。

 7月26日 ミシシッピーはじめ、米軍各艦艇が
一斉にレーダーにエコーを捕捉、
直ちにレーダーによる射撃を開始、
40分後反応は消えた。

 しかしその時も日本軍はそこにはいなかった。
その日は幌筵出撃して一日目で、
濃霧のため、友軍艦同士の衝突事故を起こし
その損傷の大きさから若葉が船団を離脱、
帰投した頃だった。

 結果その日米軍は幻の敵に対し、
盛大に無駄弾を浪費してしまった。

 現在の解釈では、
この時の事を米艦隊の
一斉レーダー誤認とされているが、
何故かサンフランシスコのレーダーにだけは
一切反応がなかった。

 この時日本側は
アメリカの緊急平文通信を傍受していた。
 そして米軍はどうやら
同士討ちしているようだとの認識を持っていた。
 しかしその実は、米軍の同志討ちではなく、
レーダーにだけ捕捉された
「幻の艦隊」と戦っていたのだった。
 そしてレーダーから反応が消えたのを
日本の艦隊を全て撃沈したと
思い込んでしまっていた。

 そしてその思い込みが
とんでもない油断に繋がってしまった。

 これで(全艦撃沈したのだから、)
1日や2日包囲を解いて留守にしても
影響はないであろうとの判断に至った。

 そして幻の艦隊への攻撃で消費した弾薬を
補給するため、
7月28日哨戒用を含め、
全艦後方の補給基地へと移動させてしまった。
 そして偶然にも同日そのチャンスに
濃霧をついて
日本の水上部隊がキスカ島に突入した。
 7月30日 補給を終えた米軍艦船は
元の通りの配置を完了した。
 しかしその時はすでにキスカ島から
日本軍守備隊は総て撤収済みであり、
島は無人島と化していた。

 そんな事になっているとは露知らず、
アメリカ軍は8月に入っても砲撃を繰返し、
雨あられと砲弾を浪費していた。

 そして驚くことに、2週間も島が無人である事に
気づかずにいた。


  有りえない行動その2
 
 撤収を終えキスカ島を急ぎ離脱した日本軍艦隊は
前述の通り、米軍潜水艦と近距離で遭遇していた。

 しかし、各日本艦船の偽装が功を奏し、
また濃霧だったこともあり、
敵に気づかれることなく、双方がすれ違っている。  
 だが、いくら偽装していたとは言え、
濃霧に包まれていたとは言え、
果たして疑う事無く、
無警戒にやり過ごしてしまうものなのか?
傍から見ると、何とも間抜けな話に思えてしまう。



  有りえない行動その3

 コテージ作戦。
米軍のキスカ島上陸作戦。
上陸部隊の兵力34426名。
 アメリカ陸軍の
チャールズ・コーレット少将の指揮のもと、
参加艦艇はペンシルベニア、アイダホ、
ミシシッピの戦艦3隻と重巡洋艦ポートランド、
軽巡洋艦サンタ・フェなど艦艇100隻あまりを動員、
事前にキスカ島に対して激しい砲爆撃が行われた。
 1943年8月13日 
攻略部隊がアダック島から出撃した。
 15日 攻略部隊はキスカ島に到着した。
すでに日本軍は脱出し無人であった。
 それを知らないアメリカ軍は
圧倒的な兵力での万全を期した上陸だった。
 しかし周囲を警戒しても「いるはずの日本軍」が
一向に攻撃を仕掛けてこないので
兵士たちは疑心暗鬼に陥ってしまった。
 極度に緊張していたからか各所で同士討ちが多発、
最終的に死者100名、負傷者数十名を出す結果となった。
「いるはずの日本軍」が
「いつ不意を付かれて襲われるか分からない」と
更に兵士達の緊張状態が高まった結果、
動く物を無差別に日本軍兵士と勘違いし
同士討ちが起きたのである。
 アメリカ軍は前述の通り日本軍の撤退を知らなかったため、
同士討ちが起きても仕方ない状況だった。
 後にアメリカの戦史家サミュエル・エリオットは、
作戦史の中で
「史上最大の、最も実践的な上陸演習であった」
と皮肉るほどの惨憺たる結果と云える。

 しかしそんなことが果たして
実際に起きても良いものなのか?


 キスカ島での撤退作戦の中で起きた
数々の日本にとって都合の良い偶然は
窮地にあった日本軍守備隊と
救出に向かった艦隊をも守った事になる。

 この不可思議な現象は単なる偶然と
米軍という組織集団にあった中での
勘違いの積み重ねだったのだろうか?

 それともあの幻は
寡兵をもって米軍と対峙した
アッツ島の日本軍の英霊だったのだろうか?
英霊たちが一緒に戦ったというのか?

 オカルト染みた話になってしまったが、
私には何かしらの意思を感じる。

 ここで改めて彼らの気持ちを知りたくなる。
今になって英霊に問う事はできないので
アッツ島の玉砕で
奇しくも生き残ることができた人の
インタビューに注目してみる。

 アッツ島の奇跡の生還者は27名。
彼らの証言を聞くと
彼らは一様にごく普通の人生を過ごす、
普通の青年だったと云う事。
 戦争が無ければ
普通の人生を全うしたであろう戦友に
思いを馳せる普通の人だった。
 決して逆らう事の出来ない命令に従い、
バンザイ突撃をした若者たち。
 国を守る正義感と義務感が
彼らを突き動かしたのか?
 勿論それが無ければ突撃などできないだろう。
 しかしそれだけが総てではないように思える。

 死して尚、国を、家族を、仲間を守り抜こうとする
その意思は、想像を超えた凄まじさを感じる。

 彼らの生き様、死にざまを、
私は決して忘れてはならない、そんな気がする。

 アッツ島・キスカ島戦記 ~兵士たちの想い~ 前編

2020-02-06 21:13:13 | 日記
貴方は昨今の世の中、何故か映画やテレビ、
はたまたゲームの世界に於いて
『ゾンビ』が登場するのを見たことがあるか?
大抵の人はご存知だろう。
あの『ゾンビ』とはいったい何者?
私はその由来を知って吐き気を催すほど嫌悪した。

 ゾンビたちは死人が蘇り人を襲う化け物として
描かれる薄気味悪く、危険で醜悪な存在だ。

 何とその発想の元となったのは、
一説によると旧日本軍の兵士たちであるというのだ。


 祖国のために命を賭した英霊に対し、
あまりに不遜・無礼な発想である。

 心ある日本人であるならば、
そんな話題は決然と遮り、その後の会話を拒否するだろう。
 しかし日本の敵だった対戦相手の立場になれば、
話は大きく変わってくる。
 敵である以上、日本の兵士に対する敬意や遠慮は無用であり、
無神経に揶揄し、不当に蔑む態度をとるのも
お構いなしなのだ。
 更に言えば相手を見くびり、不用意に対戦したがために
小便をちびるほどの恐怖をあじあわされたとなると、
その忌々しさと口惜しさから、
一生忘れられない記憶となるのも仕方ない。

 ましてや戦争を知らないその後の世代ともなると、
戦ったもの同士の畏敬の念も価値観も共有できる筈もない。

 だから、平気でゾンビのような不敬な発想を生み
自分の商売の材料として利用する。

 しかし見方を変えれば、相手にとって
旧日本軍はそれだけ強烈な恐怖の存在だったと云える。

 倒しても、倒しても蘇り起き上がり、
襲いかかってくる化け物『ゾンビ』。
 それはまるで、戦闘中打ち倒しても、打ち倒しても
起き上がり突撃を仕掛けて来ようとする
旧日本軍守備隊に重ね合わされるそうである。

 普通、どこの国の兵士も、
一度弾丸を喰らったらその場で倒れ
決して起き上がろうとはしない。
 何故なら自分が負傷した時点で
戦闘意欲が削がれ、再び起き上がって再度
飛び交う銃弾の餌食になろうとは思わないから。
 誰だって命は惜しい。
だから退避行動をとるか、戦闘が収まるまで
その場に止まるかして、やり過ごそうとする。
 そもそも機関銃などを雨あられと
銃弾を乱射してくる敵を前にして
無謀な突撃行為をしようとはしない。

ところが信じられない事に、
日本の兵士たちは死の危険と恐怖があるにも関わらず
再び立ち上がり、突撃を敢行しようとするのだ。
眼前に自分の身を守る物は何もない。
 それでも振りかかる銃弾に向かって
駆け抜けようとする日本人兵士たち。


 過去の対外戦争に於いてみてみると、
日露戦争での203高地での攻防戦で
突撃戦法はその威力を発揮し、
多大な犠牲を払いながらも制圧に成功している。
 その時から始まり
(※歴史上、国内の戦では突撃戦法は常識だった。)
太平洋戦争でも
各戦地で同様の決死の突撃玉砕戦法や
信じられないほどの粘り強いゲリラ戦法による
抵抗が繰り広げられ決行されている。

 ガダルカナル然り、インパール然り、
サイパン然り、硫黄島然り、沖縄然り・・・。

 迫りくる敵、そのあまりの恐怖から
火炎放射器という防御と強力な殺傷効果をもたらす
殺人兵器が誕生し使用された程である。
私は戦争を賛美する気も、
戦死を美化する気もない。

この物語を発表するにあたり
勿論あまり良く知りもしないのに
訳知り顔でその勇敢さを称賛しようとか、
興味をそそる客寄せパンダに
このエピソードを利用する気はない。

ただ、それぞれの時代の戦いに関与した
名も知らぬ兵士たちが
何を思い誰のために
弾丸の降り注ぐ中、
敵陣に向かって駆け抜けたのか?
わが身に弾丸を受けても
それでも尚且つ再び立ち上がり
敵陣に向かうのか?

 そしてそんな史実が存在したのに
月日の流れに風化し、
埋もれてしまったままで良いのか?

 私の父は海軍の一兵卒でした。
戦争体験を幾度となく聞かされていました。

 父は戦地から生還できたが、
無念の戦死を遂げた仲間も数多くいた。
父から聞かされた戦地の話は
とても他人事に思えなかった。
 だからこそ生きて故国への帰還を果たせなかった、
無念の思いを戦地に置いたまま埋もれさせても良いのか?
そんな強い思いが、時の流れに埋没された記録を
再度掘り起こし、
戦後の繁栄を謳歌する世の人々に、
改めて広く認知してもらいたい。
そう思ったのが発表の動機である。

冒頭のゾンビの事も
「もし自分の父が当事者だったら
どうだろう?」
そう考え、発表するか非常に悩んだ。
しかしながら、
歴史に埋もれた名も無き兵士の
青春を奪われ、愛する人を残し
家族と離れ、遠い異国の地に立ち、
まだまだ生きていたいのに
命令ひとつで死地に立ち向かった英霊たち。
わが身に課された責任を、
命を賭してまで果たした
その壮絶な最後の姿を、
私たち後世の日本国民は
知る義務があると思う。


 敵が恐れを成すまでの覚悟の様を
後世の私たちは真摯に受け止めるべきであろう。




 ここからが創作を含めた史実の物語である。
しかし創作は登場人物の一部に限り、
その他はできるだけ史実及び資料に添い、
誇張はしない。





 ここである壮絶な攻防戦を紹介しよう。
舞台は太平洋北部、アリューシャン列島の中心部に位置する
アッツ島・キスカ島の物語である。

 特に私がその時のことを紹介しようと思ったのは
その壮絶さだけでなく、
その戦闘の様子や顛末に関わる
不可思議な、説明のつかないエピソードも
語り継がれているからでもある。







アッツ島攻防戦

 1942年2月、木村 稔一等兵は
札幌に拠点を置く北の守りの要
『第7師団』(だいしちしだん)の
支隊長穂積松年陸軍少佐率いる
独立工兵一中隊に配属された。

 彼は北海道小樽市出身で、
父は小樽港に拠点を構える石炭会社の搬送部門の
支店経理を担当する事務員である。
だがその父は無類の酒好きで、
貰った月給を総て酒に使っていた。
 給料日の当日から酒場に入り浸り
3~4日金が尽きるまで家に帰らない
「ろくでなし」だった。
 仕方なく彼の母ミツは港の荷役で生計を立て、
7人の子供を育てあげていた。

 家計は非常に貧しく、
次男の稔は尋常高等小学校を卒業すると
家計収入の足しに国鉄に就職した。
 しかし彼は生来の正義感と喧嘩っ早さから
職場の先輩と殴り合いの不始末をしでかし、
 僅か2年ほどで国鉄を辞めてしまった。


 兄である長男滋は病弱で、
昭和19年に肺病で亡くなっている。

 そんな家庭環境であるから、
次男である稔は自分が失業したからと云って
遊んでばかりもいられない。
後には腹を空かした幼い弟や妹が控えている。
そこで彼が思いついた次の就職先が軍隊への志願だった。

 そういう訳で彼が17歳の時入隊。

 彼には心を寄せる異性は居なかったが、
かけがえのない家族、
3人の弟とふたりの妹、
 そして何よりいつも愛情をもって
自分を支えてくれた母がいた。
「ろくでなし」の父は相変わらず
「ろくでなし」だったが。

 稔の学校での成績は常に中の下だったが、
割と人懐っこく、友は多かった。
 イガクリ頭で先頭に立って
いたずらや些細な悪さをするような
典型的な腕白坊主だった。
北国小樽にも夏は来る。
彼は少年期、いつも自宅近くの
オタモイ海岸にて海水浴に供していた。
ただ泳ぎに夢中だったわけではない。
海の中は幸で溢れる宝庫でもある。
今では高級品であるアサリやウニやアワビが
そこいらに散らばり、
とりたい放題、食べたい放題だった。
浜辺で焚火をしながら焼く海に幸は
現代の私たちがうらやむほどのごちそうだった。

 貧しい家の生まれではあったが
そうした環境にある少年たちが
日がな一日どのように過ごしていたか、
想像に難くない。
そしてそんな彼も、
その当時男の子なら誰もが兵隊さんに憧れる
軍国少年でもあった。


 そんなわけで入隊の前日、
家族から心づくしのお祝いを受け、
生まれて初めて故郷を去った。

 彼は札幌の第七師団(だいしちしだん)に入隊、
スタートは二等兵だったが、
一年後には一等兵に昇進していた。

 


 1942年4月18日
アメリカ軍B25爆撃機による
日本本土空襲作戦(ドーリットル空襲)敢行
東京への空襲に日本軍は大きな衝撃を受けた。
 その事件を受け、
連合艦隊司令長官山本五十六の強い進言があり、
本土空襲阻止の大義名分と、
北東アメリカ軍襲撃阻止、
ミッドウェー作戦の陽動、
米ソ連絡遮断を目的に、
1942年5月下旬、
日本軍はアリューシャン作戦を発動した。

 第五艦隊、第四航空戦隊基幹の
機動部隊及び攻略部隊で進撃。

 木村稔が所属する北海部隊独立工兵一中隊は
攻略部隊としてアッツ島攻略のため
独立歩兵三〇一大隊、高射砲中隊、
補助部隊約1150名が
輸送船(衣笠丸)に乗船、
第一水雷戦隊(阿武隈、若葉、初霜、初春)と共に、
アッツ島上陸、
6月8日同島を占領し「熱田島」と改称した。

 その時アメリカ軍守備隊は駐屯しておらず、
少数の現地島民アリュート族とアメリカ人夫婦が
居住するのみだったので
結果無血占領となった。

 同時期、キスカ島では日本海軍の陸上部隊である
舞鶴鎮守府特別陸戦隊が占領「鳴神島」と改称、
守備を担当した。

 6月23日大本営は
西部アリューシャン群島の長期確保を指示した。

 一方アメリカの動きは、
7月5日ウムナック島の大型爆撃機で空襲を敢行、
潜水艦にて日本軍に損害を与えた。

 また8月8日アメリカ艦隊は
キスカ島に艦砲射撃を敢行、
木村の所属する北海支隊は大本営陸海軍部から
キスカ島への戦力増強を目的にアッツ島放棄、
キスカ島転進を命じられた。
 その際、携帯移設不能の軍需物品、
施設を破壊、
アッツ島先住民アリュート族住民40名を同行させ
第五艦隊の協力のもと、
キスカ島への転進を完了させた。
そして転進遂行にあたり、
10月20日北海守備隊が新編成され、
第五艦隊の指揮下に入った

 その頃木村稔一等兵はというと、
持ち前のヤンチャさと正義感、義侠心が災いし、
部隊の戦友のひとり三戸部勇吉と
第五艦隊乗組員とのイザコザに
巻き込まれていた。

 アッツ島での一方的な空襲や艦砲射撃での被害を受け、
イライラとやり場のない怒りから、
木村も戦友も精神的に腐っていた。
 そこにもってきて友軍艦船の乗組員から
理不尽な言動を投げつけられ、
双方の怒りが爆発した。
(喧嘩の詳細は軍の規約と名誉のため不公表とする)
因みに陸軍と海軍は同じ友軍でありながら
昔から犬猿の仲だった。

 取っ組み合い、殴り合いの騒動を起こし、
事件に関わった者2名(木村と三戸部)、
及びアッツ島の地理などに詳しい者3名が
後に一年の時限付き転属の命令が発令された。

 転属先は占守島守備隊
北千島第89要塞歩兵隊である。

 10月18日日本軍はアメリカのラジオ放送を傍受、
アムチトカ島(アリューシャン列島中央部)占領との
誤報(事実ではなかった)
を受け急遽アッツ島再占領を決定した。

 誠にチグハグでもったいない話であるが、
作戦決行当初、
大本営は一貫した統一防衛方針を持っておらず、
攻略計画立案時から場当たり的側面は否めなかった。
 つまり司令部である遠く離れた大本営海軍部、
連合艦隊の考えと
現場の第五艦隊と守備隊の当事者である
陸軍の考えに乖離があり、
準備すべき必要とする
守備の装備・規模、及び計画などに
大きな、そして致命的な隔たりがあった。


 大本営を弁護するために少し言及すると、
平たく言えば、
ガダルカナルを中心としたソロモン諸島など
南方攻略、防衛にその勢力を注入するため、
北方への総合的戦力増援には
その余力がなかったのである。

 そのことが遠因となり、
アッツ島玉砕への道に繋がっていく事となる。



 そしてアッツ島への新たな守備隊は
占守島守備隊である米川浩陸軍中佐が率いる
北千島第89要塞歩兵隊(2650名)が配備された。
あの木村稔一等兵たち5名の転属先である。

 彼らはアッツ島守備の経験があり、
地理や物資の調達法などに詳しく、
先遣隊の案内係として、
特に木村達2名は部隊の新しい編入先である
第五艦隊乗組員との喧嘩騒動の懲罰的意図もあり
転属が決定されたのだった。



 米川部隊は第五艦隊所属の軽巡洋艦、駆逐艦にて
10月29日アッツ島に上陸した。

木村と三戸部は再びアッツ島の地に立つ事となった。

 一年の大半を霧が負おうこの地は
北緯52度に位置し、ロンドンより若干北にあたる。
その気候は西岸海洋性のツンドラ気候で非常に寒く、
最高気温は夏でも10℃台前半にしかならない。

 その気候的過酷さは先ほど登場した
アッツ島から約500km離れた
アリューシャン列島中央部
アムチトカ島の環境から知ることができる。
 アムチトカ島は大黒屋光太夫という
江戸時代の豪商にして
嵐に寄る漂流の末、ロシアに渡り帰国を果たした
歴史上の人物が漂着した島として知られる。
 1783年の漂着から
6年にわたる滞在と脱出の試みの間、
17名の乗組員のうち半数以上が寒さのため死去、
貴国できたのは大黒屋光太夫ともうひとりの
2名だけだったことからもその過酷さが伺える。

 アッツ島の部隊の話に戻る。
11月1日から大本営から
当該部署に陸海軍中央協定の指示あり。
以下第五艦隊による北海守備隊指揮、
キスカ島及びセミチ島に陸上航空基地を、
キスカ島、アッツ島に水上航空基地を建設
などが定められ実行された。
 その結果各島に飛行場建設、陣地の強化が遂行された。
しかし地形の問題、補給の問題から
建設は当初の計画どおりにいかず
アッツ、キスカとも完成前に米軍の攻撃に晒された。


 木村も三戸部も基地と飛行場の建設に駆り出され
毎日土木作業に明け暮れていたが、
濃霧や途絶えがちの補給により栄養失調者が増加、
更に魔弾なく続く空襲、艦砲射撃にストレスから
精神疾患に悩まされる者が続出する中、
割と元気に過ごせていた。

 彼らは幼少期からの生活習慣から、
自給自足が得意で、
主に海苔や他の海藻を積極的に口にしていた。
ほぼ毎日時化(しけ)で波打ち際が荒れる中、
命がけで獲ってきた海藻は
部隊の仲間の貴重な食料となり
栄養源になっていた。

 そんな立ち位置にいたため、
木村たちは、食料調達係に任命?され
やがて土木建設作業も途中で切り上げ
食料調達に明け暮れるようになった。

 そんなある日も
いつものように時化の中海藻を採ってきて
焚火を囲みながら濡れた衣服を乾かして
つかの間の他愛ない会話をしていた。

「なあ、俺たち、いつまでこんなことやってんだろうな?」
「知らねえよ!アメ公に聞きな!!」
「寒くてやってらんねえよ。」
「ああ、餅が食いてぇ!」
「あああ、おふくろが作ってくれた
けんちん蕎麦が食いてぇ!」
「けんちん蕎麦ぁ?」
「けんちん汁に蕎麦を入れたおふくろ特製さ、美味ぇぞ!」
「ああ、そうかい、そうかい。」
「ああああ、暁食堂の美代ちゃんに会いてぇ!」
「誰だそれ?」
「故郷の小樽の坂の下にある店の娘よ!
可愛かったなぁ、あの娘。」
「何だ、お前の彼女かよ。」
「違う!遠くから眺めるだけの高嶺の花よ。」
「へ、そうか、そんなんだったら
俺だっていっぱいいるよ。
 佳代ちゃんだろ、久美ちゃんだろ、
ユリちゃんだろ・・・。」
「はいはい、そうかい、そうかい。
そいつは良ぉござんした。
この寒空にお盛んなこった!」
「お互いしけたはなしだねぇ。」
「この戦(いくさ)が終わったら内地に帰って
嫁さんでも貰わんとな。」
「生きて帰れたらな。」
「もし俺が死んだら、お前、骨を拾ってくれよ。」
「分かった!お前もな。」
「骨だけでも家に帰りてぇなぁ。」
「そうだなぁ。」
「・・・・。」
「・・・・。」
「腹が減ったし、そろそろ部隊に帰るか?」
「そうだな、皆も飯を待ってるだろうし。
今夜も海藻汁かぁ、飽きたなぁ。」
「贅沢言ってんじゃねぇ!
諦めるか、我慢するかどっちかにせい!」
「って、どっちも同じじゃないかよ!」
「まあ、そう言うこった!」

 こんな会話と空襲で一日が過ぎていった。

 次第に輸送船への攻撃が増し、
水上戦闘機の準備が遅れたため、
11月25日を最後に輸送作戦は
セミチ島攻略は中止、部隊配備も遅れ、
仕舞には日本軍艦船の撤退に追い込まれ
アッツ島、キスカ島への補給路が絶たれてしまった。

 1943年アメリカ軍の攻勢が増し、
航空機、潜水艦、水上艦艇による攻撃が激しくなった。

 1月6日アッツ島目前に「琴平丸」撃沈、
キスカ島でも増援部隊乗船の「もんとりーる丸」撃沈。

 1月24日アメリカ軍アムチトカ島進出、
2月同島飛行場の使用開始。
制空権を奪われる。

 2月5日北部軍司令部を改変、北方軍司令部を編成、
北海守備隊は第五艦隊指揮から北方軍に編入された。
これにより西部アリューシャンは北方軍、第五艦隊、
千島方面は北方軍、大湊警備府が負う事となった。

 2月11日の守備隊改変を経て、
3月10日アッツ島最後の増援輸送の成功をみた。

 3月27日第二次増援輸送がアッツ島沖海戦にて
旗艦「那智」小破、撤退。増援作戦中止となる。

 4月18日潜水艦「伊31」にて山崎大佐アッツ島到着。
4月下旬アッツ島飛行場完成。
戦闘機一個大隊配備が計画されたが実現せず。


 アメリカ軍アッツ島攻略部隊最高指揮官
トーマス・C・キンケード海軍少将のもと
ロックウェル海軍少将とブラウン陸軍少将が
上陸部隊を指揮する事となった。

 当初はキスカ島が目標だったが、
攻略部隊の兵力不足、
アッツ、キスカの守備力を勘案し、
上陸の標的をアッツ島に変更した。

 アッツ島上陸作戦は5月7日に決定。
アメリカ海軍省が西部アリューシャン奪回を公表した。





アッツ島上陸作戦

4月27日アッツ島砲撃。

ランドクラブ作戦

 5月4日 戦艦3隻、護衛艦6隻、護衛空母1隻、
駆逐艦19隻、輸送船5隻が
アラスカコールド湾出発。
海軍機動部隊指揮官 フランシス・W・ロックウェル海軍少将
陸軍上陸部隊指揮官 A・E・ブラウン陸軍少将

 5月12日 天候回復を待って上陸開始。
主力は北海湾、別動隊は北部海岸に上陸。
海岸に橋頭保確保。


日本軍の動き

 5月10日 
伊31潜水艦にて第五艦隊参謀江本弘少佐到着、海軍部隊指揮。

 アッツ島守備隊からのアメリカ軍上陸の報を受けて
守備隊司令部からの電文


「全力を揮つて撃摧すへし
 隊長以下の検討を切に祈念す
 海軍に対しては直ちに出動
 敵艦隊を撃滅する如く要求中」

 12日の上陸初日はアメリカ軍艦隊からの
艦砲射撃にて上陸軍を援護したが
霧に遮られ効果を得られず。
散発的応酬に終わる。
 13日 北海湾に上陸していたアメリカ軍北部隊が移動。
周囲を一望できる芝台にある日本軍陣地に接近。
濃霧のため包囲に成功。一個中隊が陣地を急襲。
日本軍は機関銃と小銃射撃にて撃退。
 しかし陣地の正確な位置が露見し、
野砲、艦砲射撃、航空機による銃爆撃などの集中砲火を浴び
日本軍芝台守備隊から約100名の戦死者が出る。
よって芝台陣地を放棄、西浦南の舌形台に転進、
芝台を奪われる。
 高地争奪で激しく争い、15日まで死闘は続いた。

 旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進。
平地に霧は晴れるが、
高地の日本軍陣地の霧は未だ晴れず。

 この時の戦闘でのアメリカ軍兵士の証言。
「戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、
日本兵の死骸、砲の破片、
手や足が山の霧の中から転がってきた」

 米南部隊は虎山と臥牛山などの
三方を山地に囲まれ日本軍と遭遇、
十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐戦死、
部隊が混乱状態となる。

 後にこの谷は『殺戮の谷』と称される事となる。

 その後北部隊と合流すべく、臥牛山日本軍陣地に
一個大隊で攻撃、日本軍は迫撃砲、機銃などで防御、
アメリカ軍を海岸際まで撃退する。

 15日 アメリカ軍砲撃。
日本軍陣地が多大な損害を受ける。
この機にアメリカ軍北部隊前進。
日本軍は舌形台陣地蜂放棄、前線を熱田に定め後退。

 山崎部隊長はこの時、武器弾薬の補給と
一個大隊の増援を要請。
この要請は20日、大本営から増援計画の中止を通告、
北方軍司令部は衝撃を受ける。

 一方18日アメリカ軍は戦果の勢いに乗じて
後方陣地に転進した日本軍を追撃した。

 次第に追い詰められてきた日本軍は、
将軍山、獅子山に拠り必死に抵抗、
寡兵をもってアメリカ軍を撃退した。

 特筆すべきは荒井山の林中隊は一個小隊で
アメリカ軍二個中隊を撃退した。
三日で攻略する予定だった制圧作戦の
16日 思わぬ苦戦からブラウン少将解任、
ユージーン・ランドラム少将が後任に就く。


 21日 北方軍司令官は
「中央統帥部の決定にて、
本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり。
との結論に達せり。
本官の力のおよばざること、
まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電。
山崎隊長は
「戦闘方針を持久より決戦に転換し、
なし得る限りの損害を与える」

 ここで注目すべきはこの言葉。

 『成し得る限りの損害を与える』
との意思は、その後思わぬ形で大いに発揮した。

「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」
「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、
霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した。
23日 札幌の北方軍司令官は
アッツ島守備隊へ次のような電文を打った
「軍は海軍と協同し、
万策を尽くして人員の救出に務むるも、
地区隊長以下凡百の手段を講じて敵兵員の燼滅を図り
最後に至らは潔く玉砕し、
皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」
命令電中、はじめて玉砕の言葉を使用、
事実上の玉砕命令であった。


 21日 アメリカ軍の砲爆撃により南部の戦線も突破される。
主力は北東のかた熱田に追い詰められる。
日本軍は大半の砲を失い食料はつきかける。
兵力は1000名前後までに減り、
日本軍は各地でアメリカ軍の攻撃に対し激しく抵抗、
白兵戦となり奮闘したがとうとう力尽き
28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。
29日 戦闘に耐えられない重傷者が自決し、
山崎部隊長の命令で生存者が熱田の本部前に集まった。
山崎部隊長各将兵の労をねぎらった。
 そして最後に東京にある大本営へ宛て
最後の打電をした。
「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け
第一線両大隊は殆んと壊滅(残存兵力約150名)の為
要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり
二 地区隊は海正面防備兵力を撤し
之を以て本二十九日攻撃の重点を
大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け
敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 
皇軍の真価を発揮せんとす
三 野戦病院に収容中の傷病者は
其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ
重傷者は軍医をして処理せしむ 
非戦闘員たる軍属は
各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 
攻撃隊の後方を前進せしむ 
共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり
四 攻撃前進後無線電信機を破壊暗号書を焼却す
五 状況の細部は
江本参謀及び沼田陸軍大尉をして
報告せしむる為残存せしむ
「五月二十九日決行する
当地区隊夜襲の効果を成るへく
速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」



辰口信夫曹長の日記

「夜二〇時本部前に集合あり。
野戦病院隊も参加す。
最後の突撃を行ふこととなり、
入院患者全員は自決せしめらる。
僅かに三十三年の命にして、
私は将に死せんとす。
但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
聖旨を承りて、
精神の平常なるは我が喜びとすることなり。
十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、
注意を与へる。
 私の愛し、
そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、
さようなら。
 どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。
ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、
すくすくと育って呉れ。
 ムツコ様、
貴女は今年二月生れたばかりで
父の顔も知らないで気の毒です。
 ○○様、お大事に。
○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、
さようなら。
 敵砲台占領の為、
最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。
敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」
 同じ突撃前夜、木村と三戸部は野営地で
寒さと空腹と無数の傷に耐えながら
最後の休息をとっていた。
「なあ三戸部、俺たち死んだら、
魂は何処に行くんだろうなぁ?」
「そんな事知るか!坊さんじゃないからな。」
「お前は恐くないんか?」
「何も考えんようにしとる。」
「少し震えとらんか?」
「寒いからだよ!」
「俺も魂がぬけそうなくらい寒いよ。」
「お前の魂は何処にあるん?」
「ここさ!」
そう言って股間を指した。
「プッ!(笑)ちんちんか?
そうか、お前ならそうかもしれんな。」

彼らが笑い合ったのはこれが最後だった。








 熱田島守備隊は無線機を破壊。
日本軍残存部隊は
夜陰に乗じ米軍の拠点を討つべく台地に移動、
山崎部隊長を陣頭にして最後の突撃を行った。
弾薬は尽き、銃剣による突撃であった。
意表を突かれた突撃によりアメリカ軍は混乱に陥る。
日本軍は大沼谷地より、アメリカ軍陣地を次々突破、
この時の様子をアメリカ軍は
「生物はもちろん無生物までも破壊した」
と伝えた。
 まさに鬼神の様相であった。
日本軍の進撃は止まらず、
遂には第7師団本部付近にまで肉薄したが、
雀ヶ丘でアメリカ軍の猛反撃を受け全滅。
最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。


 米軍のある中尉は
「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」
という証言を残している。

「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。
霧がたれこめ100m以上は見えない。
ふと異様な物音がひびく。
すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると
300~400名が一団となって近づいてくる。
先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。
右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。
 どの兵隊もどの兵隊も、
ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。
 手に銃のないものは短剣を握っている。
最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。
 足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。
我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。
 わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。
しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。
 また起きあがり一尺、一寸と、
はうように米軍に迫ってくる。
 また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、
左腕はだらりとぶら下がり
右手に刀と国旗とをともに握りしめた。
 こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが
日本兵は耳をかそうともしない。
遂にわが砲火が集中された…」


 日本軍の損害は戦死2638名、捕虜29名、
アメリカ軍損害は戦死約600名、
負傷約1200名であった。




     キスカ島編に続く