1945年8月広島と長崎に原子爆弾投下。次いでソ連が日本に宣戦布告。
この事態を受け、ついに日本はポツダム宣言を受託。連合国に降伏した。
その頃秀則東京鉄道局長の立場であり、日本の鉄道は膨張し続けていた。
戦後の利用客の増加もさることながら、旧陸軍・海軍の施設や病院などを鉄道施設として編入、大陸や半島からの引揚者や復員兵を大量に受け入れ、戦前の職員数約20万人から60万人にまで膨れあがっていた。
駅舎・関連施設の戦災による補修などの経費がかさみ、経営は赤字状態であった。
つまり国策である鉄道局は戦後処理の一翼を担わされ、好むと好まざるとに関わらず、無駄に肥大化せざるを得なかったのである。
戦後の困ったことは何でも生き受ける鉄道局、『何でも屋』としての性格を帯びていた。
そのせいで赤字財政も肥大化。1948年秀則が運輸次官に昇進した最初の仕事が国家財政(一般会計)から300億円の繰り入れでその場しのぎ、赤字収支の帳尻を合わせる事だった。
戦後の復興期。
仕方ないとはいえ、300億円とは国家財政から見ても天文学的な巨額である。
国家自体が厳しい財政事情にあって、『仕方ない』では済まされない。
秀則に課せられた使命は、借金体質からの早期脱却であった。
「僕のせいじゃないょ。」では済まされない。
一旦引き受けた無駄な資産を整理するという難題を負わされたのだ。
運輸次官の息子となった秀彦も、今では高校3年生。
一流大学を目指す受験生であった。
「オイ早次、今受験勉強中なんだから邪魔しないでくれるか!」
「だってこの宿題が分らないんだもの。教えてくれたっていいじゃないか!」
「お前なぁ、小6の問題なんて目を瞑ってもできるくらいじゃないと、中学・高校ではついて行けないぞ。
これから厳しい受験戦争が待っているんだからな。
お前、授業中に昼寝でもしてんじゃないか?」
「昼寝なんかしてないやい!
だってこんな理不尽な問題あるか?
『ある小さな池に鶴と亀が居ました。さて、鶴は何羽で亀は何匹でしょう?』なんて知る訳ないじゃないか!」
「なんだ、ツルカメ算か。そんなの授業で習ったろ?」
「僕は昨日、風邪で学校を休んだだろ、その時の授業で教えていたらしいんだ。
だから、計算の仕方なんて知らないし。
ねぇ~、頭脳明晰な秀才兄貴!頼むから教えてくれよ~!」
「仕方ないなぁ~。でもな、チョットくらいの熱で学校を休んでいるから、そんな困ったことになるんだよ。男だろ?それくらい気合と根性で乗り切れないでどうする?
どれ、教えてやるからノートを見せろ。」
ムッとした早次。
「僕だって休みたくて休んだんじゃないやい!おアキさんと母さんが『熱が出た時は休まないと他の人にうつして迷惑をかけるでしょ!』と言って強制的に休まされたんだもの、仕方ないじゃないか!
僕はちっとも悪くないし、根性無しでもないよ。
そんな思いやりの欠片もない兄貴でも一応宿題教えて貰ってやるから、ちゃんと教えてくれよ。」
「何だ!その生意気で感じ悪い言いぐさは!
『教えてくださいませ。優しく偉大なお兄様』だろ?
ちゃんと頼まないと教えてあげないぞ!」
「・・・・ヤッパリお母様に教えてもらおうかな?優しくもない、偉大でもない兄貴に聞く位なら。」
「好きにしろ!」
何と兄弟愛に満ちたふたりだろう。
(なんてね。普段からこんな掛け合いをしているが、ホントはちゃんとお互いを思いやっているんだよ。)
そんなふたりを含め、康三も識也も母百合子のもと、順調に、健全に育っていた。
百合子には何の心配もないのか?
いや、今ではもう一人の子供のように手のかかる夫、秀則が居た。
秀則が昇進するごとに、重責から体調管理に気を遣わなければならない。
特に最近は胃酸過多が悪化、食べ物の管理には特段の注意が必要であった。
普段の夫の様子を見ると、心配するほどではないが、時々沈んだ表情をする事がある。
「あなた、お疲れのご様子ね。」
こういう時はビタミン剤の注射を打ってもらうのが常である。
「あぁ、大丈夫、心配ないさ。」と言って風呂に入る秀則。
唸るようないつもの鼻歌を聞くと、心なしか少しは安心する百合子であった。
1949年6月1日日本国有鉄道(国鉄)が発足、秀則は初代総裁に就任する。
本当は他にも総裁有力候補がいたが、結局生え抜きの秀則の就任で決着したのだった。
なったばかりの総裁秀則にGHQは重い重大使命を課す。
それは国鉄職員10万人の首切りである。
成立したばかりの法律『行政機関職員定員法』に従い、国鉄は9月30日までに職員を約50万人にまで減らさなければならない。
秀則は幾度もGHQと交渉した。
しかしGHQ側は具体的な交渉には一切応じず、「早く首切り合理化を実行せよ」の一点張りであった。
しかし秀則も簡単には譲れない。
新たに生まれ変わって成立した日本国有鉄道は、国の財産として、職員の生活を守る場として一本の太い幹であらねばならない。
職員が安心して暮らせる場。誰もが国鉄一家の一員として誇りと責任を持つ職場であらねばならない。
それなのに国鉄成立間もないのに大幅人員整理?
GHQの命令なら受け入れざるを得ないが、せめてその人選などはこちらに任せて欲しい。
当時国鉄はストライキが横行していた。
戦後の混乱期から抜け出す過渡期にあり、まだまだ生活水準に満足できるほど充実させることが出来ていない。
それに加え、シベリア抑留から解放されて帰国した復員兵を大量に国鉄職員として受け入れていたが、彼ら復員兵に対しシベリア抑留中、ソ連は左翼思想を繰返し刷り込み洗脳させていた。
戦前・戦中と日本政府が弾圧を繰り返してきた左翼活動勢力が復活し、世相が大きく変化してきている。
このまま放置していれば、日本が赤化してしまう。
GHQには危機感があった。
日本に左翼政権ができ、ソ連側につくようになっては大変困る。
この頃のGHQの占領政策は、本国アメリカの緊張高まる対ソ戦略に大きく影響され、日本をどのように処すべきか?に変化が現れてきた。
つまり戦前から戦中まで続く日本の全体主義から、二度と戦争を起こさないよう民主化への移行政策を進めてきたが、大きく方針を変え反共の防波堤として位置付ける方向へ方針転換する。
もしアメリカとソ連にイザコザが起きるとしたら、何処でどのように?
今極東で一番緊張が高まってきているのが、政治的空白のできた朝鮮半島である。
そこは共産主義を標榜する金日成が統率する北朝鮮共産軍を支援するソ連と、民主主義を標榜する勢力である(GHQ主導で建国された)韓国を軍事支援するアメリカが対峙する緊張地帯であった。
そこでもしソ連との軍事衝突が起きるとしたら、どのように行動すべきか?
まず考えられるのが、占領中の日本を反共の防波堤として位置付け、軍需物資輸送の拠点とする事。
そのためには日本国内の統制を強める必要があった。
日本政府に対し強権を以て命令を発するも、口では従うが場合によってはのらりくらり躱す役人たち。
この最たるケースが秀則率いる国鉄の人員整理問題だった。
次第に苛立ちを覚えるGHQ。
頻繫に繰り返されるストライキは、総て左翼活動家が扇動した結果である。
だから彼ら敵である『赤』は、排除されなければならない。
人員整理の命令を必ず従わせなければならない。それもストライキを扇動・実行する左翼活動家たちに対して。
そうして『赤』の首切りを迫るGHQに対し、秀則総裁は(人員整理の実行基準や方法を)「僕に任せてくれ」の一点張りであった。
このままでは埒が明かない。
ではどうするか?
GHQはアメリカお得意の冷酷な強硬策に打って出るようになる。
つまり意のままにならない人物を次々に暗殺するのだ。
「邪魔者は消せ!」
丁度この時日本の世相は暗く陰湿な事件が頻発していた。
1947年(昭和22)10月14日安田銀行荏原事件
1948年(昭和23)1月19日三菱銀行中井事件
1948年(昭和23)1月26日帝銀事件
等、一連の毒殺事件が社会不安を巻き起こす。
この世相を活かし遅々として進まぬ左翼活動家の人員整理を実行させようと、GHQ の参謀部下部組織で諜報、保安、検閲を任務とする『参謀2部 G2 キャノン機関』が鉄道破壊工作に動く。
要するにテロによる恫喝である。
1949年5月4日東京 地下鉄虎ノ門 脱線
1949年5月9日愛媛 予讃線 列車転覆
1949年5月25日静岡 東海道線 追突
1949年6月10日神奈川 東海道線 列車転覆
1949年6月11日愛知 東海道線 列車転覆
1949年6月12日東京 玉電 列車脱線衝突
1949年6月25日神奈川 大船駅 列車転覆
7月1日、GHQの再三の要求に抗しきれず、ついに国鉄当局は組合側に整理基準を通告。翌2日、組合との話し合い打ち切りを宣言。4日、第1次通告で3万700人の解雇を組合に伝えた。
だがこれではまだまだ不足である。
GHQはある決断をした。
そして運命の1949年7月5日火曜日。
秀則は上池上の自宅で、ご飯を茶わん2杯、みそ汁、半熟卵、お新香で朝食を済ませる。
午前8時20分、国鉄職員の運転で公用車(米国製41年式ビュイック)に乗り出発。この朝、東京の天気は曇り。気温は24度。午前9時前には職場到着予定のいつも通りの出勤時刻であった。
車は東京駅前の国鉄本社に向かう。右折すればもう東京駅だ。
だが秀則が「買い物がしたい。三越へ行ってくれ。10時までに役所へ行けば良いから」。
そう言って迷走が始まった。
運転手が秀則の指示通り、行き先を次々に変える。
「右に曲がってくれ」
「三菱本店(千代田銀行)に行ってくれ」
「もう少し早く行ってくれ」等。
後をつけてくる怪しい車を巻こうとするかのように。
(前日、自宅前に怪しい人影の姿が目撃されている。さすがに秀則は身に迫る危険を察知し、警戒していたのかも知れない。)
銀行に到着すると愛用の手提げカバンを車内に置き、手ぶらで銀行に入る。
金庫係の窓口で鍵を受け取り地下の貸金庫に向かう。
貸金庫の中身は分らないが、何かを確認するために立ち寄ったのだろう。
20分ほどして手ぶらで戻り鍵を返却、乗ってきた社用車に乗り込んだ。
「今から行けば丁度良いだろう。大友さん(運転手)出してくれ。」と呟いた。
今度の行先は三越南口。
午前9時35分目的地に到着すると、千代田銀行の時と同じようにカバンを車内に置いたまま「5分ぐらいで戻るから待っていてくれ。」と言い残し店内に姿を消した。
因みに車内に残したカバンの中身は弁当とはし箱、国鉄関係書類だった。
自宅を出てから1時間15分後、三越南口を最後に消息を絶つ。
その翌日(6日)未明、常磐線北千住~ 綾瀬駅間の線路上にて、雨の中轢死体として発見された。
その後の捜査は難航を期し、自殺か他殺かの判断も出来かねていた。
しかし数年後、検察はついにGHQキャノン機関の指示による暗殺であったと突き止める。
ではその実行犯は誰か?
捜査により追い詰めるが、いつも直前に姿を消す。
捜査状況が参謀2部 G2 キャノン機関に筒抜けであったためである。
「大の鉄道好きの秀則が鉄道を使った自殺などするはずはない。」と百合子は他殺であると信じていた。
悲しみに暮れる家族たち。
どうして夫が、父が殺されなければならなかったのか?
ごく普通の夫であり父であったのに。
この事件は世間に大きな反響を呼び起こし、その後20年が経過しても話題が尽きなかった。
ここで言えるのは、秀則がアメリカの思惑の犠牲者のひとりであった事。
アメリカ国内で蔓延していた人種差別。
「奇妙な果実」は黒人のみならず、異様な憎悪を抱いていた日本人に対しても容赦なく実行された。
大空襲も、原爆も、戦後の占領政策も。
そしてバブル崩壊以降の現在でも、理不尽な日本支配は続いている。
同じくアメリカに現在まで続く黒人差別の軋轢同様に。
奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~
完
これにて奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~を終了します。
今までの長い間、お付き合いいただきありがとうございました。