今からおよそ100年前、シベリアは地獄だった。
その主人公たちはポーランド人。何故そんな極寒の地にポーランド人がいたのか?
列強侵略の犠牲者となり、亡国の憂き目に会い、凄惨で数奇の運命をたどった人々。
独立を奪われ、周辺国の争いの舞台となった悲劇の祖国ポーランド。
人は迫りくる命の危機を避け、東へ東へと逃れ、行き着いた先がシベリアだった。
着の身着のままとまでは言わないが、貯えも乏しく、
最小限の衣服と荷物で気の遠くなる絶望の道行に耐えなければならない。
飢えと寒さと病気と戦い、無謀と絶望と気の遠くなるいばらの旅路だった。
ここにヨアンナという5歳になるひとりの少女がいた。父は逃避行の途中、
妻と娘を残し食料を求めどこかへ行ったきり、二度と帰ってこなかった。
残された妻と娘はそこに踏み留まり、いつまでも待っているわけにはいかない。
飢えによる死はすぐそこに迫っているのだ。
その少し前に行動を共にしていた集団の中にひとつ年下の娘がいたが、乏しい食料を娘に与え、
自らは何も口にしていない母がとうとう力尽き、娘の明日を案じながら天に召された。
残された娘は泣きながら母にすがりつき、決して離れようとしない。
そしてその娘も数日後母の下へ旅立った。
そんな悲しく壮絶な光景を目の当たりにしても、周りの大人たちは何もしてあげることはできない。
自分たちも明日は我が身だから。せめて最後は人間らしく、
心を込めてできる限り手厚く埋葬することぐらいしか。
ヨアンナは妹のように思っていたその娘の最後を瞼に焼き付けるように見ていたが、涙は流さなかった。
同様の光景を幾度となく見てきたから。ヨアンナにとって残酷すぎるこの現実は、空しいまぼろしのように
暗く心を蝕んでいた。
そして悲しい運命の順番が自分に廻ってきた。
母マリアの死期が迫ってきたのだ。
「ヨアンナ・・・、ヨアンナ・・・・、私の大事な娘、どうか生きて・・・。」
最後の言葉だった。
「神様。」
ヨアンナは心の中で呟いた。
心をそこに残しながらもヨアンナはそばにいた大人たちに引き離され、先へ先へと手を引かれ、
数日後シベリアの中心地バイカル湖のほとりイルクーツクにたどり着いた。
そこは長く弾圧の続くポーランド人の流刑地だった。
ようやく同族の多く住む安息の地にたどり着いたと思ったら、
そこもたどり着くまでの行程と同様、苦難の連続だった。
ロシア革命に続く内戦で食料の配給は滞りがち。重労働と飢えと寒さは変わらず
死にゆくものたちは後を絶たない。
実際当時の建国間もないソビエト社会主義共和国連邦は、続く戦乱と無謀で無能な農業政策、
天候不順により極端な不作が続き、
餓死者2000万人とも云われるピンチを迎えていたが、
更に追い打ちを開けるように共産勢力への警戒と敵視から列強のシベリア出兵、
食料救援拒否を決め込み、国際的に孤立し何処からも救援を望めないロシア人自身が
極めて危機的状況にあった。
そんな中、ロシア人から見て罪人であるポーランド独立運動の政治犯や
愛国者などの外国人に施しが行き届くわけがない。
とりわけヨアンナのような親と死別した孤児たちは更に悲惨で、空腹で身を寄せる場所もなく、
ただちに救済しなければならないほど切迫していた。
そんな状況をみかねてウラジオストクのポーランド人達が立ち上がった。
アンナ・ビルケヴィッチ女史が中心となって『児童救済会』が組織され、
せめて孤児たちだけでも助け出したいと行動をおこした。
と云っても当人たちも流人として流されてきた者とその家族や子孫である身。
寄付を募っても孤児たちを救える額など集まるはずもない。
思い悩んで救済会が助けを求めた列強諸国は、誰も耳を貸さず手も貸さず、知らぬふりを決め込んだ。
最後の望み、藁をも掴む想いですがったのが日本だった。
まず彼女らはウラジオストクの日本領事を訪ね、更に東京の外務省を訪れた。
アンナ・ビルケヴィッチ女史は涙ながらに必死で訴えた。
勿論ポーランド人の孤児など遠く離れた日本に何の縁もゆかりもない。助ける義理などどこにもない。
けれども人として国家としてこの窮状を知り、見殺しにしても良いものか?
女史の訴えに深く同情し、「アジアの盟主を目指す国家」としてこうあるべきとの
指針と野心を持った日本は、この時どうすべきか決断と行動は早かった。
1920年(大正9年)7月下旬以降第一回救済事業で375人が
陸軍輸送船「筑前丸」で東京へ、第2回1922年(大正11年)390名が
「明石丸」「台北丸」で大阪へと受け入れられた。
しかも言葉や習慣の違う孤児たちの世話と意思疎通の窓口に同じポーランド人が良いだろうと、
合計65人の大人のポーランド人を付添人として一緒に招いた。
ポーランド人孤児たち一行を迎えるにあたり、日本は国家の威信をかけ、
驚くべき短期間に総力を挙げて迎える万全の準備をした。
寄港先の敦賀港では日赤、敦賀町役場、警察署、陸軍運輸部敦賀出張所、
陸軍被服廠敦賀出張所、敦賀税関支署が全面協力、輸送は鉄道省の指示により
多大な便宜が図られ東京、大阪へと送られた。
敦賀港に到着後すぐに長旅でボロボロになった着衣は煮沸消毒され、
代わりに浴衣を着させられ、袂(たもと)いっぱいに飴や菓子を入れてもらい、
更に玩具や絵葉書などが差し入れられ子供たちを慰めた。
休憩、宿泊所に滞在したのは数時間、長くて1日という短期間だったが、
心のこもったもてなしを受け、子供たちの心に強く印象を残した。
ヨアンナは到着した敦賀港から宿泊休憩施設に向かう道すがら、
目を見張るような美しい花と浜辺ののどかな民家が見えた。
照りつく真夏の太陽、初めて聞くうるさいぐらいの蝉の鳴き声。
ヨアンナにはそれらの音が何なのか理解できず、異郷の地の異郷の音、光、様子だった。
この地に降り立った瞬間、ここが今まで過ごした自分たちの世界とは異なる場所だと感じた。
でも何だか心地よい。ここの人々の優しい眼差し、
何やら話しかけてくるが理解できない言葉の意味。
今まで口にしたことのない甘いお菓子!
「おとぎの国?」
そう、もしヨアンナが平和で幸せな家庭の中で何不自由なく暮らせていたら、
夜ベッドで優しい母が読んでくれる、グリム童話やアンデルセンの童話の絵本の中の
不思議なおとぎの国を思い出しただろう。
悲しいかなヨアンナにはそうした記憶はなく、当然「おとぎの国」なんて概念は浮かんで来ない。
しかし彼女の眼前の風景は懐かしい母のように、優しく包み込んでくれる不思議の世界だった。
「お母さん・・・、お母さん・・・、そこにいるのはお母さん?」
「お母さんは私より先にここに来て私を待っていてくれたの?」
「もうすぐお母さんに会えるの?」
「さっき知らない人がくれたお菓子少し残っているの。
会えたら一緒に食べましょ。ねえ、おかあさん。」
それまで閉ざされた心が少しずつ開かれてゆく思いがした。
そう思いながら流れる景色と咲き誇る草花を見てヨアンナは思った。
「まあ!なんてきれい!!きれい!!!きれい!!!!」
幼心に悲惨な戦火を逃れ、親と死に別れ、飢えと寒さの耐えがたい日々を潜り抜け、
すっかり凍り付いたヨアンナの心。
たどり着いた日本の地方の気候と風習が作り上げた景色が、柔らかく、温かく、
心地よくほぐしてくれているのを無意識に感じた。
ヨアンナ一行はミカンや当時日本でも珍しかったバナナなど、
一度も目にしたことのない特別な果物を食べ、
地元の子供たちと遊び、地元の尋常高等小学校を訪れ、夢のような楽しい時間を過ごした。
ただそこに母はいなかった。
一抹の寂しさを背負いながら次の目的地に向かう旅に出た。
今度は何処に向かうのだろう?
また楽しい所?
今度こそお母さんに会えるの?
ヨアンナは期待と不安の中、連れ出されるまま特別に手配された列車に乗り、
揺れる車内で長い長い夢を見ていた。
「お母さん!ああ、お父さんも!!」
大粒の涙が流れ、声にならない声を出し、両手を前に駆け寄った。
「おお!ヨアンナ!待っていたよ、よくここまで来ることができたね!偉かった、偉かった!」
「よく顔を見せてごらん。」
ヨアンナは父と母の間で顔を埋め、いつまでもいつまでも甘えながら泣いていた。
朝になり、相変わらずの規則的なレールを走る音と揺れ。
「・・・・夢だった・・・。」
でもひとつ、これだけは現実だった。
ヨアンナの顔に残る涙の跡と腫れた目元は。
列車の旅も終盤に差し掛かり、車窓の外は連なる家、家、家・・・。
そして大きな駅にたどり着き、「ここが目的地である、降りるように。」
と告げられた。
そして駅から歩くこと数分。着物を着た見たことのないほどのおびただしい人、人、人。
奇妙なアーチの先にぶら下がる幾列にも並んだガス灯と、時折目にする店先の日本提灯。
人力車や大八車がところ狭しと人と人の間を縫い行き交う表通り。
家の狭い庭先にささやかに植えられた草花。
船から降りたとことは全く異なる賑わいと活気と喧騒に包まれていた。
そしてとうとう東京渋谷の「福田会(ふくでんかい)育児所」の門の前まで来た。
福田会は日赤本社病院に隣接され、構内には運動場や庭園などの設備も整い、
子供たちに最適な環境の場所だった。
福田会育児所に到着すると、受け入れ関係者や役人たちが待ち受け、
門の外には大々的な報道で知った
地元民たちが大勢歓迎の言葉と笑顔で出迎えた。
すでに全国から援助物資やお菓子、義援金などが続々送り届けられている。
明治維新から数十年、日清・日露戦争での勝利以降、急速に列強の仲間入りを果たした日本ではあるが、
国民の実質的な生活レベルはまだまだ苦しく、第一次大戦の戦勝国になったといっても
国民ひとりひとりは貧しいのが現状だった。
それでもこの支援の輪。災害や悲劇に対し、深く同情し最善の施しをしようとする国民性は
幾多の災害や度重なる戦(いくさ)の歴史・悲劇を経験してきた日本人の乗り越える知恵であり、
協調性の遺伝子の成せるワザだった。
下は4歳から上は16歳まで様々な年齢層の孤児たちは、環境の整えられた部屋と食事、
優しく慈愛に満ちたいたわりの言葉と物腰、担当した保母や看護師、医師の献身的扱いから
ようやく安息の地にたどり着けた事を本能的に感じ取った。
それまで抱いていた不安や過去の苦難に基づく不信、親を失った寂しさ・孤独など入り混じった
心の氷と闇からようやく解放されようとしているのを、子供たちのその水色の笑顔が示していた。
「ここはお母さんの待っていてくれているところとは違う。」
ヨアンナは思った。
「でも、もういい。」
「だってあの夢を見た日からずっと、お母さんとお父さんは、
私のそばでずっと見ていてくれているのが分るの。」
「だからもう平気!お母さん、お父さん、これからも、
いつまでもずっとヨアンナの事見ていてね!きっとよ!!」
到着し落ち着くと、まず健康診断が行われた。
長い苦難の放浪の結果、栄養失調や凍傷、様々な症状を抱える子。
ひとりひとりが死線を潜り抜けてきたのだ。
担当した医師と看護師は、この幼い子供たちの健康状態とボロボロの着衣が示す過去の困難に、
大そう心を痛めながら診察した。
ある少女が後に証言している。
あの時栄養不足で健康状態が良くなかった自分を心配して、特別にくれた栄養剤。
毎日1錠ずつ飲むようにと与えてくれたのに、とてもおいしかったのでその日の晩に
他の子たちに瞬く間に残りを全部取られ食べられてしまい、とても悔しかったこと。
来日した孤児たちへの関心と同情は日ごとに高まり、個人で直接慰問品や義援金を持ち寄る人、
無料で歯の治療や理髪を申し出る人、学生音楽隊の慰問、婦人会や慈善協会の慰問会への招待など
善意の支援は後を絶たなかった。
中には孤児たちの着ている衣服のみすぼらしさに驚き、
思わず自分の着ている一番きれいな服を脱ぎ、
渡そうとする者、髪のリボン、櫛、ひいては指輪まで与えようとした者も
ひとりやふたりではなかった。
その中にヨアンナの記憶に強く残る少年がいた。
少年と云っても、ヨアンナにとっては兄のような年上の人。
彼の名は井上敏郎、尋常小学校6年生。孤児支援のため訪れた父についてきたのだった。
そして彼も咄嗟に服を脱いだ人のひとり。思わずとった行動もさることながら、
彼も持参した慰問品の他、持っている物は全て与えようと考えていた。
さすがに着ていた服は受け取ってもらえなかったが、
自分のカバンの中に入っていたノートや鉛筆まで差し出した。
それから数枚の千代紙。
彼はその千代紙で折り鶴を折り、孤児ひとりひとりに渡した。
最後の1枚をヨアンナの手を取り「これは鶴という幸福を呼ぶ鳥だよ。君にあげる。
幸せになってね。」
とまっすぐな眩しい笑顔で手のひらに置いた。
「キレイ!」ヨアンナは思わずつぶやき笑顔になった。
そして美しく不思議な紙でできた鶴を、いつまでも大切に持っておこうと心に決めた。
年上の優しく素敵な少年の記憶と共に。
そんなある日、ひとりの孤児が腸チフスに罹り重体となった。
医師はもう助からないだろうとの診断を下す。その時担当の若い看護師だった
松沢フミが献身的に看病する。
いつまでも重体の子に寄り添いながら彼女は言う。
「自分の子供や弟が重い病になったら、人は自分を犠牲にしても助けようとします。
この子には看てくれる父も母もいない。死んでも泣いて悲しんでくれる親はいない。
せめて自分が母の代わりとなって死にゆく子の最後を看取り、天国の父と母のもとに送り届けたい。」
と訴え、夜も抱いて寝た。その結果自らも腸チフスに感染し命を落とした。
感染の危険も顧みず、言葉通り本当に親のように接し看病した彼女。
その甲斐あってか重体だったその子は奇跡的に回復、フミの真心の献身的看病が実り
チフスから生還することができた。
この若き看護師松沢フミの死は関係者と孤児たちに衝撃を与えた。
事情を理解できない幼子たちは目の前から姿を消した彼女、優しかった彼女の名前を呼び続け、
周りの大人たちの涙を誘ったという。
そうした努力と尊い犠牲もあってか、来所時は青白くやせこけ貧相な孤児たちも
みるみる健康と元気を取り戻した。
そして来日から早くも一年が経過し、誰ひとり欠けることなく
故国ポーランドに帰国できるまでになった。
出発の日。
孤児全員に全員に衣服が新調され、航海中の寒さも考え毛糸のチョッキも支給された。
しかし特別船の出航が大幅に遅れた。ヨアンナたちは横浜港から出港するときになって、
本当の母親のように親身にお世話をしてくれた保母たちとの別れを悲しみ、
乗船を泣きながら嫌がったから。
ヨアンナもその中のひとり。
彼女はこの不思議なおとぎの国日本に、優しく接してくれた保母さんと別れ、
大切な父と母を残してゆくような気がして、泣いて泣いて涸れるほど泣いた。
いいだけ泣いた後ふと空を見上げると、父と母の気配がした。
優しい声が聞こえた気がした。
姿が見える気がした。
「きっとお父さんもお母さんもついてきてくれる。」
「きっとそうだ!」
別れの辛さも、寂しさも、不安も少しは和らいだ気がした。
避ける事の出来ない辛い別れを悟った孤児たちだったが、
覚えたての「君が代」を斉唱し、
幼いながら精一杯の感謝の気持ちを込め「アリガトウ」と何度も繰り返した。
大勢の見送りの人たちも涙を流しながら、孤児たちの幸せな将来を祈りつつ、
見えなくなるまで手を振り続けたという。
船の中で船長は夜ごと孤児たちのベッドを見て廻り、毛布を首まで掛けなおし、
頭を撫で熱が出ていないか確かめていた。
その手の温かさを覚えていると孤児のひとりは後になって述べている。
不思議の国日本に来た時より遥かに長い日々を船上で過ごし
故郷の国ポーランドに戻ってきた。
幼いヨアンナにとってほぼ何も覚えていない未知の国だったが、
父の生まれ育った国、母の生まれ育った国、
そして自分が生まれた国。そう思ったら、何だかここも愛おしく感じる。
ヨアンナは幼い心に誓った。
もう不安な心は捨てよう、天国の父のため、母のため、一所懸命、精一杯生きて、
自分が天国に行ったとき胸を張って会えるように。
孤児一行はバルト海沿岸のヴェイヘローヴォ孤児院に引き取られ保護された。
入所後、何と驚くべきことに、首相や大統領までが駆け付け歓迎してくれたという。
更に施設では毎日朝、庭に入所孤児が集まり「君が代」を斉唱する決まりがあった。
孤児院出身者の中には医者、教師、法律家など
国の復興の最前線で活躍する人材が数多く育った。
ここにひとりの重要人物がいる。
彼の名はイエジ・ストシャウコフスキ。自ら孤児出身でありながら、
孤児院で働きワルシャワ大学を卒業。
孤児教育の道へと志した。そして17歳の時、シベリア孤児の組織を作ることを提唱。
ポーランドと日本の親睦を図ることを目的に「極東青年会」を結成し、自ら会長になった。
最盛期には640名にも上ったという。
その後成長した孤児たちは日本との絆絶ち難く、日本公使館との交流を大切にした。
そして日本国政府もこの絆を大事にした。
勿論人道的な結びつきによる、当然の好意の延長もあるが、実はそれだけに非ず。
日本は伝統的にロシアを仮想敵国とし、常に彼の国の動向と予測の分析・対策の構築が国是だった。
日露戦争当時ロシア支配下のポーランドには、二人の指導者がいた。
対ロシア武装蜂起派のユゼフ・ピウスツキと、武装蜂起反対派のロマン・ドモフスキ。
ふたりは日本の当時参謀本部長 児玉源太郎、福島安正第二部長に面会し提案した。
極東地域のロシア軍の三割はポーランド人。
戦闘の重大局面でのポーランド兵の離反、シベリア鉄道の破壊。
その対価として、ポーランド兵捕虜に対する特別な待遇を申し入れた。
その申し入れを受け入れた証拠のように、四国松山に収容されたポーランド捕虜は、
ロシア捕虜と別の場所にて特別待遇を受け、
とても捕虜とは思えない厚遇と心温まるもてなしを受けた。
更に対ポーランドの実質窓口となった明石元二郎大佐が中心となり、
ポーランド武装蜂起支援、武器購入資金提供を実行、
日露戦争勝利後はポーランド独立を助けている。
そうした歴史的結びつきを背景にしながらも国際連盟脱退、
日中戦争勃発と孤立化した日本。
その延長線上に日独伊三国軍事同盟がある。
日本にとってこの同盟はただ単に国際的孤立を避けるためだけではなく、
対ソ政策でもあったのだ。
当時日本は前述したとおり、泥沼の日中戦争の真っ最中。
関東軍が作戦展開中、満州国境沿いに対ソ守備隊を多数配置していた。
その後中国大陸に覇権を広げる日本に警戒し圧力を強めるアメリカ。
今後予想される対米戦のためにも、満州の守備隊の活用準備は絶対必要だった。
そのため、ドイツには対ソ戦略で頑張ってほしい。
ソ連軍の極東守備隊をヨーロッパ戦線に差し向けさせるためにも同盟は必要だった。
ただそのためにドイツとソ連の中間に位置するポーランドは結果的に犠牲になる。
それは日本の望むところではないが、大国間の領土争いに口出しできるほどの
国力も影響力も日本にはない。
ポーランドが武力で蹂躙されるのを阻止することはできないのだ。
それならせめてポーランドに対しできる限りの支援をすること。
日本はその道を選んだ。そう、日本はドイツと軍事同盟を結んでおきながら、
水面下でポーランド支援も行うという、二重政策を遂行していた。
そしてポーランドに対し支援をする理由はもうひとつ。
ポーランド人を味方につけ、ドイツの動向、
ソ連の動向の情報収集の諜報活動家として活用する事も目的のひとつだった。
そうした事情から、日本の大使館・領事館などの在外交機関は、
現地法人の保護・管理の他、日本の国策遂行・実行部隊としての側面も帯びていた。
大使館員は文官、武官が存在するが、多かれ少なかれ、
いずれも諜報・特務を使命のひとつとして活動していた。
しかもそれは官僚にみに留まらず、民間にも特務機関からの要請を帯び、その対価として
事業の支援を受け現地でビジネスを展開する者、邦人・外国人を問わず
ビジネスの実態を伴わない実質諜報員的な民間人も存在した。
そんな情勢の中、孤児たちの主催する行事は公使館の館員も大切にし、
できるだけ全員参加を原則にして応援した。
しかし世相は暗く厳しく悲しい時代。
大きな戦(いくさ)が孤児たちの前に立ちはだかっていた。
1939年ナチスドイツが突然電撃作戦で、ポーランド国境を越え侵攻してきた。
イエジ青年は極東青年会を臨時招集し、レジスタンス運動に参加することを決定した。
部隊の名を青年の名をとり、『イエジキ部隊』と呼ばれるようになった。
さてヨアンナだが、彼女も成長し可憐な乙女時代を過ごし、
当然の流れの中「極東青年会」の一員として
自分の居場所を見つけていた。
彼女はその聡明さと明るさ、そして人を引き付けるような美しい娘になっていた。
彼女自身は福祉事業家を目指す仲間の孤児に共鳴し、行動を共にしながら、
青年会の活動にも積極的に参加した。
彼女が青年会に顔を出すようになったのは17~8歳の頃から。
20歳を過ぎた頃にはすっかり青年会の花となり、いつも彼女は人々の中心にいた。
そして青年会の催しでも本来サポートの立場にいながらも、
いつの間にか重要な存在になっていた。
ちょうどその時、日本の公使館に出入りするようになったひとりの青年がいた。
井上敏郎。覚えているだろうか?
福田会に孤児支援に来た当時尋常小学校6年生だった少年だ。
彼はどこで覚えたかポーランド語、ドイツ語、ロシア語を駆使し、
複数の公使館館員と深い交流のある民間人だった。
彼は少年時代の面影を残しながら、長身の好青年になっていた。
彼は他の公使館員と共によく青年会の催しに参加していた。
機知に富み、ユーモアで人を笑顔にし、それでいて隙の無い所作。
公使館に出入りしていても全く不自然さがなく、館員の誰よりも洗練されていた。
時々会話する青年会のメンバーも彼には一目置いていた。
彼は一体何者?
日本人には珍しくポーランド語を話し
日本の商社の社員と云っていたけど、他の社員など見た事無い。
公使館員と深いつながりがありそうで、
訳ありで謎めいているが、何故だか分からないが好感が持てて憎めない男。
青年会のメンバーの彼に対する評価だった。
そんな彼がヨアンナと接する機会は少なくなかった。
彼女を最初に見たのは彼女が初めて顔を出した頃。
多分17~8だったのだろう。
可憐な彼女を一目見た時、青年敏郎は
「なんて素敵な人だろう!」
感嘆符付き(!)で見とれてしまった。
そう、彼は自分が少女だった彼女に昔折り鶴を贈った事など、覚えていなかった。
そして彼女も自分に折り鶴をくれた年上の少年が今、
そばにいる彼だとは気づく筈もなかった。
月日は流れ、すっかり大人になったヨアンナは変わらず極東青年会の太陽だった。
ある日の催しは暗く厳しい世相にもかかわらず、
慈善事業の寄付金を募る恒例のパーティーを決行、
つつましくも華やかな晩餐会とダンスが展開された。
しかし、さすがに日本公使館がバックアップしているだけある。
この日もいつものように内外の有力者、著名人などが集まり、盛況だった。
この日も敏郎の姿があった。
グラスを持ちながら、見かけないある人物と何やら熱心に立ち話をしていた。
難しい日本語だったので、いったい何を話しているのか分からない。
ヨアンナはひときわ目立つ敏郎が気になったが、時々チラッと見るだけで、
近づいて話しかける勇気など持っていなかった。
でもあの方の事は勿論そうだが、あの方が話されているのが
誰なのかも気になって仕方ない。
ヨアンナは心の中のチリのような小さな勇気を総てかき集め、
馴染みの公使館員に聞いてみた。
「今日はあの方もお見えなのですね。楽しんでいただけているかしら?
あの熱心にお話しされていらっしゃるのはどなたですか?」
視線を敏郎に向けながら、公使館員に自然な調子で声をかけてみた。
まるで賓客を気遣うマダムのように。
彼女の心の中を知ってか知らずか、館員は、
「いつも貴女(あなた)は心遣いが細かいのですね。
ああ、敏郎が話している相手は、杉原さんです。
リトアニアに赴任した領事。きっとこれからもあなたたちと関りがあるかもしれないから、
覚えておいてもいいと思いますよ。」
「杉原さん?」
「そう、杉原千畝領事。」
彼女はじっとふたりを見つめているのだった。
翌日会場の片付けと後始末の残りを終えたヨアンナは、
昨夜の宴の場から家路への帰途の歩みを早めていた。
短い夏も終わり、秋を飛び越え一気に冬の風を感じ始める頃、
こちらに向かう見覚えのある
いや、このような偶然を心のどこかでいつも待ちわびていたある姿に焦点が合った。
「あの方だ!」
歩きながら全身がワナワナ小刻みに震えるのを感じながら歩き続けた。
数秒後、向こうも私に気がついたようだ。
歩調が心なしか早まりながらも、「落ち着け!落ち着け!!」と念じ距離を縮めていった。
ふたりの間に石でできた古い橋が一脚。向こうとこちらまで近づいた時、
彼の方から声をかけてきた。
「やあ、昨晩はどうも!」
「こちらこそ、いらしていただき、感謝しております。」
普通の会話だった。
本来そこで終わる筈だった。でもここで何か話さなければ!
お互いがそう思ったが、押し黙る沈黙が無限の長さに感じた。
「そうそう、昨晩の、」
「あの時のあの方、」
不意に同時に発した互いの不自然な雰囲気と少々浮ついた語調に可笑しさを感じ、
目が合ったふたりは笑いを押し殺していたが、こらえきれず思わず吹き出し、
声を出して笑い合った。
同時にその時お互いが他の人達に対してとは違う、
特別な感情を抱いてくれているのを感じた。
「今なんて言おうとなさったの?」
ヨアンナは少し時間をおいて改めて聞いた。
「えぇ、昨晩のパーティーはとても楽しかったです。そう言おうとしました。貴女は?」
「・・・昨夜は楽しそうにお話されていましたね。
いつもとはちょっと違う貴方を見たような気がしましたわ。」
「そうですか?私は貴女に見られていたのですね。」とはにかむような笑顔で応えた。
「昨夜は私にとって、もとても有意義な時間を過ごせました。
私の話していた相手は、人生の目標のような人で、
私の価値観に大きな影響を与えてくれた方なのです。」
「そうだったのですか。そんな大切な機会に関われて、とても嬉しく思います。」
「ところで私、いつも感心しているのですが、
井上さんはとてもポーランド語がお上手ですが、
どちらで学ばれたのですか?」
「上手だなんて、お恥ずかしい。私は父の仕事の関係でポーランドに居る期間が長く
その間に覚えたのです。」
「そうですか、日本の方がこちらでお仕事なさっているのは珍しいですね。
御父上様は外交とかのお役人様なのですか?」
「いえ、今の私と同じ、民間の商社の社員です。
父は仕事の関係で、様々な国を渡り歩く放浪者のような人でした。
私も今は拠点をこちらに於いていますが、実質的な特派員なので、
現地社員は私だけ、気軽なもんです。」
そう言ってまたハハハと笑った。
「ところでヨアンナさんは極東青年会の活動をされていますが、
日本に来られた事があるのですか?」
「はい、東京で一年お世話になっています。」
「そうでしたか、私も一度福田会の施設を訪れたことがあるのですよ。」
ヨアンナは驚き、改めて目を見張った。
「皆様にとても良くして頂いて、私にとって夢のような日々でした。
たくさんの方が色々な物をくださったのよ。
ほら、こうして今でもあの時から大切にしている物があるの。」
そう言って手にした小物バッグから何やら取り出した。
それは長い年月の間にすっかりくたびれてしまった鶴の折り紙だった。
それを目にしたとき、敏郎はすっかり忘れ去っていた昔の記憶を呼び覚ました。
「その折り鶴、見覚えがある!そう、もしかして私が作った物?」
「ええ?私は年上の日本のお兄様からいただいたの!
もしかして貴方はあの時の日本の親切で優しかったお兄様?」
「そう言われると顔から火が出るほど恥ずかしいけど、
ああ、あの時のお人形さんのように可愛かった
幼い女の子のひとりだったのですね?」
「そうおっしゃられると、私こそ顔から火が出そうです!
こんな奇跡のような偶然って本当にあるのですね!とても嬉しいです。」
「私もそう思います!まさかあの時作った折り鶴を今でも
こんなに大切に持っていてくれた方がいたなんて!
しかもそれが貴女だったなんて!!何という、何という・・・」
驚きと喜びで敏郎は言葉に詰まった。
しばし無言で橋の真ん中から川の流れに目をやりながら、
彼女の悲劇のドラマのような人生に思いをはせ、
「貴女は生まれてからずっと、茨のような苦難の道を歩まれてきたのですね。
貴女にとって日本に滞在した時間はほんの短いものだったと思うけど、
他に何か覚えていますか?」
「短いい時間?とんでもない!私にとってとてもとても大切な思い出です。
日本の記憶?
そう、日本の記憶は私の宝。
私が今生きているのも、希望を捨てないのも、日本で過ごせた記憶があるから。
確かにポーランドと日本じゃ環境が全然違います。
帰国して辺りを見渡しても、日本を思いだせるものなんて何もない。
でも私にとってどんなに距離が離れていても、
変わらない大切なものがこの鶴の他ふたつあるの。」
「へえ、それは何ですか?」
「それはね、お月さまとお星さま。」
「『お』と『様』をつけて呼ぶのはお月さまとお星さまだけ。
それにお月さまを見ては想い、
お星さまを見ては願うようになったのは日本でお世話になってから。」
「日本では太陽のことをお日さまと呼びますけど、
こちらの太陽は低くて暗いの。
あまりお日さまと呼べるような実感が湧かない。
私、日本でお世話になっているとき、
窓の外に映るお月さまを見ては父と母を思い出し、
お星さましか見えない夜は願うの。
『どうか父と母が夢に出てきてくれますように』って。
その習慣は、この地に帰ってきてからも変わらず続けているの。
可笑しい?いい歳した娘が、月や星にそんな事思うの。
日本とポーランドじゃ何もかも違うけど、変わらないのはこのふたつだけ。
だから私にとって、とても大切な思い出であり、習慣なの。」
橋の欄干から遠くを見据えるように彼女は言った。
敏郎には、すぐ隣にいる筈のヨアンナが愛おしく、愛おしく、
しかし、潜り抜けてきた苦難を理解も実感も想像もできない分、
もどかしい距離を感じた。
暫く無言のまま時間が過ぎ、橋の向こうを見つめながら敏郎は言った。
「大切にしてくれてありがとう。うん、ありがとう・・・。
僕は今日、ここで、この橋の上で過ごした時間をいつまでも忘れない。
一生忘れない。
目の前の美しい風景を忘れない、
今感じているこの気持ちを決して忘れない。
いつまでも。」
ヨアンナも敏郎にまっすぐ向き合い、
「私も。」
万感を込めた挑むような眼でそう一言そう言った。
戦乱は激化し、イエジキ部隊も命がけの活動に日々を費やした。
また日本の外交官たちもその身に危険が迫ってきた。
まず、リトアニア領事がロシアから退去の最終勧告を受け
帰国の憂き目を見ることに。
リトアニアとバルト海沿岸に位置するヴェイヘローヴォ孤児院は
地理的に比較的近いとの好条件もあり、
敏郎との親交から、度々領事と情報交換をしていたが、
最終勧告を受けた日の晩偶然にも訪れていた敏郎と
二人だけのささやかな送別会が行われた。
そして翌日から彼の退去の列車に乗り込むまで続いた
命のビザとの戦いが始まった。
一方イエジキ部隊はシベリア孤児を中心に彼らが面倒をみてきた孤児たち、
今回の戦災で家族を失った新たな孤児たちも加わり、
一万数千人まで膨れ上がり一大組織に成長した。
戦争による悪化に伴い地下レジスタンスも活動が激化し、
イエジキ部隊に対するナチス当局の監視と警戒の目が光り始めた。
イエジキ部隊は隠れ蓑に孤児院を使っていたが、突然ナチスからの強制捜査があった。
急報を受けて駆け付けた日本大使館の書記官は、
「この孤児院は日本帝国が保護する施設である。
その庇護下の施設が日本と同盟する貴国を害するはずはない。
疑いを解き速やかに退去されたし!」
そう威厳をもって言い放ち、抗議した。
しかしそう簡単に納得できないドイツ兵は
「しかし我々も確かな情報に基づき行動している。子供の遣いでもあるまいし、
はいそうですかとそう簡単に撤収するわけにはいかない。
とにかく納得するまで捜索させてもらう!」
と突っぱねる。
そこで書記官の後ろに控えていた敏郎が不安におびえる孤児院に向かい、
「大丈夫!君たちが怯えることは何もない!」
そして孤児院院長を兼ねたイエジキ部隊長に向かい、
「君たち!このドイツ人たちに日本の歌を聴かせてやってくれないか!」
と呼びかけた。
イエジたちは意を決し、立ち上がると日本語で「君が代」や
「愛国行進曲」などを大合唱した。
その様子にあっけにとられ、圧倒されたドイツ人たちは立ち去った。
その頃のドイツは先に述べたように日本との軍事同盟下にある。
日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない状況にあった。
そして日本大使館はその同盟を最大限活用し、
イエジキ部隊を幾度となく庇護した。
しかし兵力で圧倒的に勝るナチスドイツ軍への抵抗は長くは続かず、
部隊の関係者は徹底的に弾圧された。
そしてその日は来た。
ドイツ軍部隊がイエジキ部隊の拠点に踏み込み多数の死者と逮捕者が出た。
報に接し、急いで拠点に駆け付けようとするヨアンナ。
ほぼ同時に報を耳にしてヨアンナの安否に危機感を持ち、ヨアンナのもとに向かう敏郎。
ふたりはアジトの手前で遭遇した。
眼前の銃声と叫び声、破壊の轟音にヨアンナは取り乱し、
敏郎の静止を振り切り止めさせようと駆けだした。
その様子に気づいたドイツ兵が振り向きヨアンナに銃口を向けた。
救出の仲間が現れたと勘違いし、相手が女性であろうと
お構いなしの冷静を欠いた行動だった。
咄嗟にヨアンナを庇い、前に出る敏郎。
そして向けられた銃口が火を噴いた。
しかし銃弾に晒されても彼は倒れなかった。
思わず悲鳴を上げるヨアンナに正気を取り戻したドイツ兵は、
引き金を戻したがもはや全ては遅かった。
誤って東洋人を撃ってしまった。その場に立ち尽くし、
ヨアンナとようやく立ち崩れる敏郎を見ていた。
ヨアンナは半狂乱で敏郎にすがり、その名を呼び続けた。
ヨアンナの腕の中、敏郎は宙に目をやり、
最後に空の青さとヨアンナの顔を焼き付け静かに目を閉じた。
おわり